枕詞「はしたての」は「倉椅山」のクラ、また、「嶮し」、地名「熊来」にもかかるとされている。高倉式倉庫には梯子を立て掛けて登るからかかるのであると考えられつつ、クマキにかかる意味は不明ながら同じく枕詞であるとされている。
万葉集巻七の旋頭歌に「右廿三首柿本朝臣人麿之謌集出」(万1294番歌の左注)のうちの三首に「はしたての倉椅……」の歌が三首載る。
はしたての 倉椅山に 立てる白雲 見まく欲り 我がするなへに 立てる白雲〔橋立倉椅山立白雲見欲我為苗立白雲〕(万1282)
はしたての 倉椅川の 石の橋はも 男盛りに 我が渡りてし 石の橋はも〔橋立倉椅川石走者裳壮子時我度為石走者裳〕(万1283)
はしたての 倉椅川の 川の静菅 我が刈りて 笠にも編まぬ 川の静菅〔橋立倉椅川河静菅余苅笠裳不編川静菅〕(万1284)
これらの歌は恋の歌であると見られている。
巻七の雑歌の部立に上の旋頭歌も含まれている。雑歌の歌は恋の歌とは決めつけられない(注1)。これら「はしたての倉椅……」の歌も、そこで歌われている歌い手とされているワ(「我」・「余」)に関して、性別としては二首目から男性と見られるが、どのような対象と見るのがふさわしいか俄かには判断できない。三首とも、一句目にある「はしたての」は枕詞で、往時の倉は高床式で梯子をかけて上り下りしたからクラにかかるとされているが、弥生式集落を復元してみると倉庫ばかりでなく首長の館か集会場のような施設も高床式であったことが知られている。「はしたての」と言えば次にはクラが必ず導かれるとは、言葉からだけでは想定され得ない。この枕詞解釈には再考の余地がある。
筆者は、その語が「はしたての」であり、「はしかけの」ではない点に注目する。梯子段はどこかに掛けているのではなく、梯子段は立てられている。梯子段が自立するためには、それは梯子が互いに向き合った状態、すなわち、脚立のことを指しているのだろう(注2)。そんな脚立の立っているのがクラ(ハシ)へと義が収斂する形で続くとすると、クラは倉庫のことではなく、馬の背に載せる鞍、それも荷鞍のことであろうと推測される(注3)。荷鞍は乗馬用の鞍とは異なり、中央が高く横から見ると三角形に突起しており、脚立を背に載せているように見える(注4)。
荷鞍(高岡市立博物館蔵、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/282520)
すなわち、これらの歌の歌い手であるワ(「我」・「余」)は、馬を主人公に擬人化して詠まれた歌ではないか。クラハシという語も、馬に秣を食ラハシていることと結びついていて正しいと知れる。三首目(万1294番歌)で、「我が刈りて 笠にも編まぬ 川の静菅」とあるのは、馬が川辺に生えているスゲを刈る、すなわち、食んで噛み砕いてしまったら菅笠に編もうにも編むことなどできない。二首目(万1283番歌)には訓みの誤りがある。「我度為」は「我が渡してし」と訓むのであろう。壮年期の力がみなぎっていた頃、馬力を使って石橋を架けることに使役された。牽引に労されたことを思い出すなあと、老馬を擬人化し、語らせている。
一首目(万1282番歌)の「我がするなへに〔我為苗〕」の「する」とは何をしているのであろうか。馬が使役されているのだから、農耕ないし運搬の可能性が最も高い。「我がする」と言って言い当てていると考えられることとしては、田の代掻きがあげられる。田植え前の田に水を充たし、土塊を砕いて土を平らに均す作業である。荒代、中代、植代の三回ほど行うことで水田は整えられた。馬の背に据えた農耕用の鞍に綱をつけて馬鍬を引かせたのである(注5)。マグワ、マンガなどと通称されている。
農耕鞍に馬鍬(大和耕作絵抄、黒川真道編『日本風俗図絵』第五輯、日本風俗図絵刊行会、大正3年。国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1266538をトリミング)
だから、「我がするなへに」と言ったときの「する」という動詞は、馬なのだから馬鍬を使ったあの代掻き作業のことだと理解される(注6)。ここで使われている「なへに」という助詞は、とともに、と同時に、につれて、という意味ばかりでなく、苗を植えるための準備作業であることを示唆する洒落にもなっていて、代掻きのことに違いないと確かめられるのである。
はしたての 倉椅山に 立てる白雲 見まく欲り 我がするなへに 立てる白雲(万1282)
馬の荷鞍のように脚立が立っている様子をしている峻嶮な山に立ちのぼっている白い雲、その白い雲を見たいと思い、馬である私は代掻きをすると、それとともに、水を張った田の土は均されて田の面に白い雲の姿が映り立ちのぼる。
「はしたての」が「倉椅山」にかかる例は古事記にも見える。
はしたての 倉椅山を 嶮しみと 岩懸きかねて 我が手取らすも〔波斯多弖能久良波斯夜麻袁佐賀志美登伊波迦伎加泥弖和賀弖登良須母〕(記71)
はしたての 倉椅山は 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず〔波斯多弖能久良波斯夜麻波佐賀斯祁杼伊毛登能爐禮波佐賀斯玖母阿良受〕(記72)
仁徳記の女鳥王と速総別王の逃避行において交わされた歌である。倉椅山は現在の桜井市倉橋の地にある山のこととされているが、駄馬の背に荷鞍が置かれ、それに乗って行こうとしていたことを物語っていると考えられる。片側に一人乗るとバランスが取れないが、両側に乗れば荷鞍でも人は運ぶことができる。
左から、荷鞍(高岡市立博物館蔵、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/282520)、米俵を運ぶ(石山寺縁起絵巻模本、狩野晏川・山名義海模、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0019204をトリミング)、駄付けモッコで草を運ぶ(葛飾北斎「武州千住」『富嶽三十六景』、江戸時代(1830~32年頃)、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/富嶽三十六景)、人を運ぶ(二宝荒神、十返舎一九『続膝栗毛 九編上』江島伊兵衛、明治14年。 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/878868/1/20をトリミング)、荷鞍につけた木製籠で人を運ぶ(二宝荒神、葛飾北斎(1760~1849)「四日市」『東海道五十三次』、江戸時代(1804年頃)、小判横絵(11.6×16.7㎝)、フィラデルフィア美術館蔵、アン・アーチボールド氏寄贈、受入番号1946-66-81o、https://philamuseum.org/collection/object/203263)、押機(蔀関月著・法橋関月画図「捕洞中熊」、日本山海名産図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2575827/40をトリミング)
そうやって二人乗りすれば、乗馬のように速く翔ることはできなくなる。大きな力を持つ馬が身の自由を奪われている。それをよく表すのが、馬に荷鞍を着けたときである。荷鞍を馬に着ける際、馬の背が擦れて傷にならないように間に敷物を入れる。敷物のことは和名抄に、「茵〈褥付〉 野王に曰く、茵〈音は因、之土禰〉は茵褥、又、虎、豹の皮を以て之を為るといふ。唐韻に云はく、褥〈而蜀反、辱と同じ、俗に音は邇久、今案ふるに毛の席の名なり〉は氊褥なりといふ。」とある(注7)。つまり、ニクラ(荷鞍)はニク(褥)+ラ(等)あってのことだとわかる。重い荷物を載せて運ぶ馬の鞍は、荷物の尻のためではなく、馬の背と鞍との間に十分なクッションが必要である。藁を芯に入れて畳表や布などでくるんだものを左右の鞍床に結いつけて馬の背当てとし、痛くないようにしている。
同じ仁徳天皇代のこととして、紀にも「はしたての」歌が載り、そこでは「嶮し」と続いている。
はしたての 嶮しき山も 我妹子と 二人越ゆれば 安筵かも〔破始多弖能佐餓始枳揶摩茂和芸毛古等赴駄利古喩例麼揶須武志呂箇茂〕(紀61)
この歌も、「はしたての嶮しき山」は逃げ延びて行く山のことと荷鞍のこととを掛けて表現したものである。駄馬に荷鞍を載せて左右に人が居られるように囲いをつければ、座るのに安定して難しいことではないから「安筵」であるかもしれないではないか、と言っている(注8)。
二人乗り同様米俵を複数載せられれば、馬としても重くて暴れることもできず、黙々と運搬に従事するしかなくなる。梯子桟のような形の上に重いものが載っていてその場から逃げ出せなくなる状況は、力の強い猛獣の罠檻の仕掛けと通じるところがある。それをオシ、また、オソとも言った(注9)。「押機」(神武記)と見える。もっぱら熊狩りに用いられている。
「捕洞中熊」(蔀関月著・法橋関月画図・日本山海名産図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2575827/40をトリミング)
ということは、梯子桟の形状の上に重いものを載せることは、力の強い動物の動きを抑制するものであると納得される。オシ、また、オソという罠に熊が来て身動きが取れなくなるから、梯子桟のことを指す枕詞「はしたての」は地名クマキ(熊来)にもかかると捻られたと考えられる。
能登国の歌三首〔能登國歌三首〕
はしたての 熊来のやらに 新羅斧 落し入れ わし かけてかけて な泣かしそね 浮き出づるやと見む わし〔堦楯熊来乃夜良尓新羅斧堕入和之河毛𫢏河毛𫢏勿鳴為曽祢浮出流夜登將見和之〕(万3878)
右の歌一首は、伝へて云はく、或は愚人有り。斧を海底に堕して、鉄の沈みて水に浮ぶ理無きを解らず。聊かに此の歌を作りて口吟みて喩しと為り。〔右一首傳云或有愚人斧堕海底而不解鐵沈無理浮水聊作此歌口吟為喩也〕
はしたての 熊来酒屋に 真罵らる奴 わし 誘ひ立て 率て来なましを 真罵らる奴 わし〔堦楯熊来酒屋尓真奴良留奴和之佐須比立率而来奈麻之乎真奴良留奴和之〕(万3879)
右は一首〔右一首〕
枕詞「はしたての」について上代の人たちが一語に込めた観念を洞察することで、当時の生活技術をビビッドに理解することができ、歌の解釈ともども上代の人たちがどのように思惟していたのかに近づくことができた(注10)。
(注)
(注1)旋頭歌は五七七─五七七の形式を持つため、問答や唱和を思わせるが、相聞の部立に分類されているわけではない。
(注2)梯子段の自立する姿は鞍掛、木馬にも見られる。梯子を立てる様子は今日、園芸三脚にも見られるが、それがいつ頃からあるものなのか不明であり、また、支柱に掛けられているという印象をぬぐえないため考察から除外する。
(注3)狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に、「結鞍今俗荷鞍也。凡駄二物於馬一以レ縄結束、故名二結鞍一也。」とある。
(注4)馬具としての鞍は乗馬鞍、荷鞍、牽引鞍に分けられる。牽引鞍は主として農耕用に発展したものである。伝統的な荷鞍や牽引鞍は、乗馬用の鞍と違い、鞍橋の前輪、後輪が美しくアーチ状にカーブした一枚板(時に飾縁を付けたもの)を備えているわけではない。前脚・後脚と呼ばれ、山形に屈曲した棒や二本の棒を組んで作られている。農耕鞍を含め、枠木の形状から山枠、千木枠と称されている。乗馬用の鞍のように幅のある居木を使って前後を連結させることはなく、棒を数段使って横桟とし、山形の頂部にわたすものは鞍棟とも呼ばれる。踏段とも呼ばれる小型の脚立のような形となっている。
荷鞍は幅70㎝、奥行き40㎝、高さ50㎝ほどの枠木で構成されている。田鞍、小鞍とも称される農耕用の牽引鞍には、スタイルは荷鞍のままに小型化したものがある。牽引に際しては荷物を載せる時のように鉛直方向の力が働くわけではないからである。引綱渡し首木を鞍に似せて用いようとしたことから別の形のものも生まれている。「はしたての」という枕詞を用いた時、双橋鞍タイプのものを前提に歌っていると考える。荷鞍を馬から外した時、乗馬鞍のように鞍掛に掛けて仕舞うようなことはしない。そのままでも自立していて、まるで鞍掛のミニチュアのように見える。「はしたての」という言葉ならではのことである。
なお、乗馬鞍は有職故実の、牽引鞍は河野通明氏の研究に詳しいが、荷鞍の研究はほとんど行われておらず、信州における近世運送業者の研究しか管見に入らない。
(注5)農具の牽引法については、河野2016.に、「中国でも朝鮮半島でも農具を引かせるのは牛か水牛であり、馬は農耕には使わなかった。ところが日本では大型家畜は馬しかいなかったので、馬に水田用の耙を引かせることになり、その耙はウマグワ(馬鍬・マグワ・マンガ)と呼ばれるようになった……。……背中の鞍に引綱を付けて胴体で引くので「胴引き法」と呼ばれる。これが日本初の牽引法で、馬の胴引き法は東アジア初の特異な牽引法であった。」(183頁)とあるように、古代の馬鍬牽引は鞍に負っていた。和名抄に、「馬杷 唐韻に云はく、杷〈白賀反、一音に琶、弁色立成に云はく、馬杷は宇麻久波、一に馬歯と云ふ〉は田を作る具なりといふ。𨫒楱〈漏奏の二音、漢語抄に和名は上に同じと云ふ〉は鉄歯の杷の名なりといふ。」とある。
(注6)河野2000.は、津守国基(1023‐1102)と源俊頼(1055~1129)による連歌、「田笠きて はたけ(畠)に通ふ 翁かな」、「牛にむまくは(馬鍬) 掛けたるもあやし」から、平安時代に馬の代わりに牛を使い出していたと考えている。
(注7)乗馬用の場合、人の尻を保護するために敷物を敷く。和名抄に「鞍褥 楊氏漢語抄に鞍褥〈久良之岐、俗に宇波之岐と云ふ〉と云ふ。」とあるのがそれで、虎や豹の毛皮も用いられた。一方、木の鞍と馬の背との間に入れるのは、和名抄に「韉〈䪌付〉 唐韻に云はく、韉〈則前反、之太久良〉は鞍韉なり、䪌〈仕陥反、今案ふるに俗に駒韉と云ふか〉は韉の短きものなりといふ。」とあるものである。人は荷物に比べてはるかに軽い。
(注8)新編全集本日本書紀に、「梯子はしごを立てたような、の意で、嶮さがシキ(険しい)山の修飾語。本文の文脈からすると、この山は素珥山である。記には「梯立の倉椅山は嶮しけど妹と登れば嶮しくもあらず」。この場合の「梯立の」は「倉」にかかる枕詞。元来、梯立はY字形の叉木またぎで、それを立てて神の宿る神座かみくらとしたことに基づく。ここでの山は奈良県桜井市倉橋の山で、これを東へ越えると宇陀郡へ出る。」(58頁)とある。梯子は立て掛けるもので、地面を掘って一部を埋め、立てるものではない。
(注9)民俗語では地域にもよるが、熊の罠猟で餌を使う猟をオシ、使わない猟をオソと呼ぶというという。池谷1988.参照。梯子状の道具をもって暴れものの動きを封じるオシ(押機)のことをオソとも呼ぶことがある点は、記紀の女鳥王の説話を読み解くうえでも貴重なヒントを与えてくれる。拙稿「女鳥王の物語─機と機屋をめぐって─」●参照。
(注10)「はしたての」という言葉は、ほかに名勝、天橋立に残る。風土記逸文に見え、上代に遡る命名と推測される。地形学的な見方からすれば、砂嘴が両岸から延びていってつながったのを、二本の梯子の組み合わせとして見て取った言い方なのではないか。すなわち、脚立が立って天まで届くかと思われたら、頂点を保たずにへたり延びて平板な砂州を形成するに至ったとする逸話なのではないか。股覗きという風習も、あるいは股を脚立と思って始まった仕儀なのかもしれない。
丹後国の風土記に曰はく、与謝郡。郡家の東北の隅方に速石里有り。此の里の海に長大き前有り。長さは一千二百廿九丈、広さは或る所は九丈以下、或る所は十丈以上、廿丈以下なり。先を天椅立と名づけ、後を久志浜と名づく。然云ふは、国生みましし大神、伊射奈芸命、天に通行ひまさむとして、椅を作り立てたまひき。故、天椅立と云ふ。神の御寝ませる間に仆れ伏しき。仍ちくしびますこと怪びたまふ。故、久志備浜と云ふ。此より中間を久志と云ひ、此より東の海を与謝海と云ひ、西の海を阿蘇海と云ふ。是の二面の海に、雑の魚貝等住めり。但、蛤は乏少し。(丹後風土記逸文)
(引用・参考文献)
池谷1988. 池谷和信「朝日連峰の山村・三面におけるクマの罠猟の変遷」『東北地理』第40巻第1号、1988年1月。みんぱくリポジトリhttp://hdl.handle.net/10502/00005923
井手2004. 井手至「垂仁紀「はしたて」の諺と石上神庫説話─枕詞「はしたての」と「はしたて」の習俗をめぐって─」『遊文録 説話民俗篇』和泉書院、2004年。
河野1994. 河野通明『日本農耕具史の基礎的研究』和泉書院、1994年。
河野2000. 河野通明「農具から聞いた古代の人たちの話」宮田登編『ものがたり日本列島に生きた人たち8 民具と民俗 上』岩波書店、2000年。
河野2014. 河野通明「農耕・畜産・山樵用具─民具から歴史を探る─」『国際常民文化研究叢書 第6巻─民具の名称に関する基礎的研究─[民具名一覧編]』神奈川大学国際常民文化研究機構、2014年。神奈川大学学術機関リポジトリ
http://hdl.handle.net/10487/12817
河野2016. 河野通明「在来犂と牽引法から見た古代瀬戸内海地域の政治・社会動向」『論集「瀬戸内海の歴史民俗」』神奈川大学日本常民文化研究所、2016年11月。神奈川大学学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/10487/15207
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
野地2023. 野地優太「信州中馬の荷鞍」『民具マンスリー』第56巻第1号、2023年4月。
文化庁1977. 文化庁文化財保護部編『中馬の習俗』財団法人国土地理協会、昭和52年。
※本稿は、2023年12月稿を、2024年3月にわずかに補ったものである。
万葉集巻七の旋頭歌に「右廿三首柿本朝臣人麿之謌集出」(万1294番歌の左注)のうちの三首に「はしたての倉椅……」の歌が三首載る。
はしたての 倉椅山に 立てる白雲 見まく欲り 我がするなへに 立てる白雲〔橋立倉椅山立白雲見欲我為苗立白雲〕(万1282)
はしたての 倉椅川の 石の橋はも 男盛りに 我が渡りてし 石の橋はも〔橋立倉椅川石走者裳壮子時我度為石走者裳〕(万1283)
はしたての 倉椅川の 川の静菅 我が刈りて 笠にも編まぬ 川の静菅〔橋立倉椅川河静菅余苅笠裳不編川静菅〕(万1284)
これらの歌は恋の歌であると見られている。
巻七の雑歌の部立に上の旋頭歌も含まれている。雑歌の歌は恋の歌とは決めつけられない(注1)。これら「はしたての倉椅……」の歌も、そこで歌われている歌い手とされているワ(「我」・「余」)に関して、性別としては二首目から男性と見られるが、どのような対象と見るのがふさわしいか俄かには判断できない。三首とも、一句目にある「はしたての」は枕詞で、往時の倉は高床式で梯子をかけて上り下りしたからクラにかかるとされているが、弥生式集落を復元してみると倉庫ばかりでなく首長の館か集会場のような施設も高床式であったことが知られている。「はしたての」と言えば次にはクラが必ず導かれるとは、言葉からだけでは想定され得ない。この枕詞解釈には再考の余地がある。
筆者は、その語が「はしたての」であり、「はしかけの」ではない点に注目する。梯子段はどこかに掛けているのではなく、梯子段は立てられている。梯子段が自立するためには、それは梯子が互いに向き合った状態、すなわち、脚立のことを指しているのだろう(注2)。そんな脚立の立っているのがクラ(ハシ)へと義が収斂する形で続くとすると、クラは倉庫のことではなく、馬の背に載せる鞍、それも荷鞍のことであろうと推測される(注3)。荷鞍は乗馬用の鞍とは異なり、中央が高く横から見ると三角形に突起しており、脚立を背に載せているように見える(注4)。
荷鞍(高岡市立博物館蔵、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/282520)
すなわち、これらの歌の歌い手であるワ(「我」・「余」)は、馬を主人公に擬人化して詠まれた歌ではないか。クラハシという語も、馬に秣を食ラハシていることと結びついていて正しいと知れる。三首目(万1294番歌)で、「我が刈りて 笠にも編まぬ 川の静菅」とあるのは、馬が川辺に生えているスゲを刈る、すなわち、食んで噛み砕いてしまったら菅笠に編もうにも編むことなどできない。二首目(万1283番歌)には訓みの誤りがある。「我度為」は「我が渡してし」と訓むのであろう。壮年期の力がみなぎっていた頃、馬力を使って石橋を架けることに使役された。牽引に労されたことを思い出すなあと、老馬を擬人化し、語らせている。
一首目(万1282番歌)の「我がするなへに〔我為苗〕」の「する」とは何をしているのであろうか。馬が使役されているのだから、農耕ないし運搬の可能性が最も高い。「我がする」と言って言い当てていると考えられることとしては、田の代掻きがあげられる。田植え前の田に水を充たし、土塊を砕いて土を平らに均す作業である。荒代、中代、植代の三回ほど行うことで水田は整えられた。馬の背に据えた農耕用の鞍に綱をつけて馬鍬を引かせたのである(注5)。マグワ、マンガなどと通称されている。
農耕鞍に馬鍬(大和耕作絵抄、黒川真道編『日本風俗図絵』第五輯、日本風俗図絵刊行会、大正3年。国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1266538をトリミング)
だから、「我がするなへに」と言ったときの「する」という動詞は、馬なのだから馬鍬を使ったあの代掻き作業のことだと理解される(注6)。ここで使われている「なへに」という助詞は、とともに、と同時に、につれて、という意味ばかりでなく、苗を植えるための準備作業であることを示唆する洒落にもなっていて、代掻きのことに違いないと確かめられるのである。
はしたての 倉椅山に 立てる白雲 見まく欲り 我がするなへに 立てる白雲(万1282)
馬の荷鞍のように脚立が立っている様子をしている峻嶮な山に立ちのぼっている白い雲、その白い雲を見たいと思い、馬である私は代掻きをすると、それとともに、水を張った田の土は均されて田の面に白い雲の姿が映り立ちのぼる。
「はしたての」が「倉椅山」にかかる例は古事記にも見える。
はしたての 倉椅山を 嶮しみと 岩懸きかねて 我が手取らすも〔波斯多弖能久良波斯夜麻袁佐賀志美登伊波迦伎加泥弖和賀弖登良須母〕(記71)
はしたての 倉椅山は 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず〔波斯多弖能久良波斯夜麻波佐賀斯祁杼伊毛登能爐禮波佐賀斯玖母阿良受〕(記72)
仁徳記の女鳥王と速総別王の逃避行において交わされた歌である。倉椅山は現在の桜井市倉橋の地にある山のこととされているが、駄馬の背に荷鞍が置かれ、それに乗って行こうとしていたことを物語っていると考えられる。片側に一人乗るとバランスが取れないが、両側に乗れば荷鞍でも人は運ぶことができる。
左から、荷鞍(高岡市立博物館蔵、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/282520)、米俵を運ぶ(石山寺縁起絵巻模本、狩野晏川・山名義海模、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0019204をトリミング)、駄付けモッコで草を運ぶ(葛飾北斎「武州千住」『富嶽三十六景』、江戸時代(1830~32年頃)、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/富嶽三十六景)、人を運ぶ(二宝荒神、十返舎一九『続膝栗毛 九編上』江島伊兵衛、明治14年。 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/878868/1/20をトリミング)、荷鞍につけた木製籠で人を運ぶ(二宝荒神、葛飾北斎(1760~1849)「四日市」『東海道五十三次』、江戸時代(1804年頃)、小判横絵(11.6×16.7㎝)、フィラデルフィア美術館蔵、アン・アーチボールド氏寄贈、受入番号1946-66-81o、https://philamuseum.org/collection/object/203263)、押機(蔀関月著・法橋関月画図「捕洞中熊」、日本山海名産図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2575827/40をトリミング)
そうやって二人乗りすれば、乗馬のように速く翔ることはできなくなる。大きな力を持つ馬が身の自由を奪われている。それをよく表すのが、馬に荷鞍を着けたときである。荷鞍を馬に着ける際、馬の背が擦れて傷にならないように間に敷物を入れる。敷物のことは和名抄に、「茵〈褥付〉 野王に曰く、茵〈音は因、之土禰〉は茵褥、又、虎、豹の皮を以て之を為るといふ。唐韻に云はく、褥〈而蜀反、辱と同じ、俗に音は邇久、今案ふるに毛の席の名なり〉は氊褥なりといふ。」とある(注7)。つまり、ニクラ(荷鞍)はニク(褥)+ラ(等)あってのことだとわかる。重い荷物を載せて運ぶ馬の鞍は、荷物の尻のためではなく、馬の背と鞍との間に十分なクッションが必要である。藁を芯に入れて畳表や布などでくるんだものを左右の鞍床に結いつけて馬の背当てとし、痛くないようにしている。
同じ仁徳天皇代のこととして、紀にも「はしたての」歌が載り、そこでは「嶮し」と続いている。
はしたての 嶮しき山も 我妹子と 二人越ゆれば 安筵かも〔破始多弖能佐餓始枳揶摩茂和芸毛古等赴駄利古喩例麼揶須武志呂箇茂〕(紀61)
この歌も、「はしたての嶮しき山」は逃げ延びて行く山のことと荷鞍のこととを掛けて表現したものである。駄馬に荷鞍を載せて左右に人が居られるように囲いをつければ、座るのに安定して難しいことではないから「安筵」であるかもしれないではないか、と言っている(注8)。
二人乗り同様米俵を複数載せられれば、馬としても重くて暴れることもできず、黙々と運搬に従事するしかなくなる。梯子桟のような形の上に重いものが載っていてその場から逃げ出せなくなる状況は、力の強い猛獣の罠檻の仕掛けと通じるところがある。それをオシ、また、オソとも言った(注9)。「押機」(神武記)と見える。もっぱら熊狩りに用いられている。
「捕洞中熊」(蔀関月著・法橋関月画図・日本山海名産図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2575827/40をトリミング)
ということは、梯子桟の形状の上に重いものを載せることは、力の強い動物の動きを抑制するものであると納得される。オシ、また、オソという罠に熊が来て身動きが取れなくなるから、梯子桟のことを指す枕詞「はしたての」は地名クマキ(熊来)にもかかると捻られたと考えられる。
能登国の歌三首〔能登國歌三首〕
はしたての 熊来のやらに 新羅斧 落し入れ わし かけてかけて な泣かしそね 浮き出づるやと見む わし〔堦楯熊来乃夜良尓新羅斧堕入和之河毛𫢏河毛𫢏勿鳴為曽祢浮出流夜登將見和之〕(万3878)
右の歌一首は、伝へて云はく、或は愚人有り。斧を海底に堕して、鉄の沈みて水に浮ぶ理無きを解らず。聊かに此の歌を作りて口吟みて喩しと為り。〔右一首傳云或有愚人斧堕海底而不解鐵沈無理浮水聊作此歌口吟為喩也〕
はしたての 熊来酒屋に 真罵らる奴 わし 誘ひ立て 率て来なましを 真罵らる奴 わし〔堦楯熊来酒屋尓真奴良留奴和之佐須比立率而来奈麻之乎真奴良留奴和之〕(万3879)
右は一首〔右一首〕
枕詞「はしたての」について上代の人たちが一語に込めた観念を洞察することで、当時の生活技術をビビッドに理解することができ、歌の解釈ともども上代の人たちがどのように思惟していたのかに近づくことができた(注10)。
(注)
(注1)旋頭歌は五七七─五七七の形式を持つため、問答や唱和を思わせるが、相聞の部立に分類されているわけではない。
(注2)梯子段の自立する姿は鞍掛、木馬にも見られる。梯子を立てる様子は今日、園芸三脚にも見られるが、それがいつ頃からあるものなのか不明であり、また、支柱に掛けられているという印象をぬぐえないため考察から除外する。
(注3)狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に、「結鞍今俗荷鞍也。凡駄二物於馬一以レ縄結束、故名二結鞍一也。」とある。
(注4)馬具としての鞍は乗馬鞍、荷鞍、牽引鞍に分けられる。牽引鞍は主として農耕用に発展したものである。伝統的な荷鞍や牽引鞍は、乗馬用の鞍と違い、鞍橋の前輪、後輪が美しくアーチ状にカーブした一枚板(時に飾縁を付けたもの)を備えているわけではない。前脚・後脚と呼ばれ、山形に屈曲した棒や二本の棒を組んで作られている。農耕鞍を含め、枠木の形状から山枠、千木枠と称されている。乗馬用の鞍のように幅のある居木を使って前後を連結させることはなく、棒を数段使って横桟とし、山形の頂部にわたすものは鞍棟とも呼ばれる。踏段とも呼ばれる小型の脚立のような形となっている。
荷鞍は幅70㎝、奥行き40㎝、高さ50㎝ほどの枠木で構成されている。田鞍、小鞍とも称される農耕用の牽引鞍には、スタイルは荷鞍のままに小型化したものがある。牽引に際しては荷物を載せる時のように鉛直方向の力が働くわけではないからである。引綱渡し首木を鞍に似せて用いようとしたことから別の形のものも生まれている。「はしたての」という枕詞を用いた時、双橋鞍タイプのものを前提に歌っていると考える。荷鞍を馬から外した時、乗馬鞍のように鞍掛に掛けて仕舞うようなことはしない。そのままでも自立していて、まるで鞍掛のミニチュアのように見える。「はしたての」という言葉ならではのことである。
なお、乗馬鞍は有職故実の、牽引鞍は河野通明氏の研究に詳しいが、荷鞍の研究はほとんど行われておらず、信州における近世運送業者の研究しか管見に入らない。
(注5)農具の牽引法については、河野2016.に、「中国でも朝鮮半島でも農具を引かせるのは牛か水牛であり、馬は農耕には使わなかった。ところが日本では大型家畜は馬しかいなかったので、馬に水田用の耙を引かせることになり、その耙はウマグワ(馬鍬・マグワ・マンガ)と呼ばれるようになった……。……背中の鞍に引綱を付けて胴体で引くので「胴引き法」と呼ばれる。これが日本初の牽引法で、馬の胴引き法は東アジア初の特異な牽引法であった。」(183頁)とあるように、古代の馬鍬牽引は鞍に負っていた。和名抄に、「馬杷 唐韻に云はく、杷〈白賀反、一音に琶、弁色立成に云はく、馬杷は宇麻久波、一に馬歯と云ふ〉は田を作る具なりといふ。𨫒楱〈漏奏の二音、漢語抄に和名は上に同じと云ふ〉は鉄歯の杷の名なりといふ。」とある。
(注6)河野2000.は、津守国基(1023‐1102)と源俊頼(1055~1129)による連歌、「田笠きて はたけ(畠)に通ふ 翁かな」、「牛にむまくは(馬鍬) 掛けたるもあやし」から、平安時代に馬の代わりに牛を使い出していたと考えている。
(注7)乗馬用の場合、人の尻を保護するために敷物を敷く。和名抄に「鞍褥 楊氏漢語抄に鞍褥〈久良之岐、俗に宇波之岐と云ふ〉と云ふ。」とあるのがそれで、虎や豹の毛皮も用いられた。一方、木の鞍と馬の背との間に入れるのは、和名抄に「韉〈䪌付〉 唐韻に云はく、韉〈則前反、之太久良〉は鞍韉なり、䪌〈仕陥反、今案ふるに俗に駒韉と云ふか〉は韉の短きものなりといふ。」とあるものである。人は荷物に比べてはるかに軽い。
(注8)新編全集本日本書紀に、「梯子はしごを立てたような、の意で、嶮さがシキ(険しい)山の修飾語。本文の文脈からすると、この山は素珥山である。記には「梯立の倉椅山は嶮しけど妹と登れば嶮しくもあらず」。この場合の「梯立の」は「倉」にかかる枕詞。元来、梯立はY字形の叉木またぎで、それを立てて神の宿る神座かみくらとしたことに基づく。ここでの山は奈良県桜井市倉橋の山で、これを東へ越えると宇陀郡へ出る。」(58頁)とある。梯子は立て掛けるもので、地面を掘って一部を埋め、立てるものではない。
(注9)民俗語では地域にもよるが、熊の罠猟で餌を使う猟をオシ、使わない猟をオソと呼ぶというという。池谷1988.参照。梯子状の道具をもって暴れものの動きを封じるオシ(押機)のことをオソとも呼ぶことがある点は、記紀の女鳥王の説話を読み解くうえでも貴重なヒントを与えてくれる。拙稿「女鳥王の物語─機と機屋をめぐって─」●参照。
(注10)「はしたての」という言葉は、ほかに名勝、天橋立に残る。風土記逸文に見え、上代に遡る命名と推測される。地形学的な見方からすれば、砂嘴が両岸から延びていってつながったのを、二本の梯子の組み合わせとして見て取った言い方なのではないか。すなわち、脚立が立って天まで届くかと思われたら、頂点を保たずにへたり延びて平板な砂州を形成するに至ったとする逸話なのではないか。股覗きという風習も、あるいは股を脚立と思って始まった仕儀なのかもしれない。
丹後国の風土記に曰はく、与謝郡。郡家の東北の隅方に速石里有り。此の里の海に長大き前有り。長さは一千二百廿九丈、広さは或る所は九丈以下、或る所は十丈以上、廿丈以下なり。先を天椅立と名づけ、後を久志浜と名づく。然云ふは、国生みましし大神、伊射奈芸命、天に通行ひまさむとして、椅を作り立てたまひき。故、天椅立と云ふ。神の御寝ませる間に仆れ伏しき。仍ちくしびますこと怪びたまふ。故、久志備浜と云ふ。此より中間を久志と云ひ、此より東の海を与謝海と云ひ、西の海を阿蘇海と云ふ。是の二面の海に、雑の魚貝等住めり。但、蛤は乏少し。(丹後風土記逸文)
(引用・参考文献)
池谷1988. 池谷和信「朝日連峰の山村・三面におけるクマの罠猟の変遷」『東北地理』第40巻第1号、1988年1月。みんぱくリポジトリhttp://hdl.handle.net/10502/00005923
井手2004. 井手至「垂仁紀「はしたて」の諺と石上神庫説話─枕詞「はしたての」と「はしたて」の習俗をめぐって─」『遊文録 説話民俗篇』和泉書院、2004年。
河野1994. 河野通明『日本農耕具史の基礎的研究』和泉書院、1994年。
河野2000. 河野通明「農具から聞いた古代の人たちの話」宮田登編『ものがたり日本列島に生きた人たち8 民具と民俗 上』岩波書店、2000年。
河野2014. 河野通明「農耕・畜産・山樵用具─民具から歴史を探る─」『国際常民文化研究叢書 第6巻─民具の名称に関する基礎的研究─[民具名一覧編]』神奈川大学国際常民文化研究機構、2014年。神奈川大学学術機関リポジトリ
http://hdl.handle.net/10487/12817
河野2016. 河野通明「在来犂と牽引法から見た古代瀬戸内海地域の政治・社会動向」『論集「瀬戸内海の歴史民俗」』神奈川大学日本常民文化研究所、2016年11月。神奈川大学学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/10487/15207
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
野地2023. 野地優太「信州中馬の荷鞍」『民具マンスリー』第56巻第1号、2023年4月。
文化庁1977. 文化庁文化財保護部編『中馬の習俗』財団法人国土地理協会、昭和52年。
※本稿は、2023年12月稿を、2024年3月にわずかに補ったものである。