大伴旅人の「讃酒歌」は、契沖・万葉集代匠記(注1)に考察されて以来、研究が積み重ねられ、中国の古典を典故として歌われた歌であると捉えられるに至っている。本稿では、その考え方が悉く誤っていることを明らかにし、正しい解釈を示す。 まず、題詞に次のようにある。
大宰帥大伴卿の、酒を讃むる歌十三首」〔大宰帥大伴卿讃酒歌十三首〕
酒を褒めているのだからそのままだろうと思われているが、「讃」字はホムだけでなくタタフとも訓まれる。タタフとは「湛」字で表すことがあるように、たくさんの水で満たされることを指す言葉である。この十三首も、酒のことをたくさんの言葉で満たして讃嘆しているのだから、タタフと訓まれなければならない。
誰が酒を讃えているかといえば、作者の大伴旅人である。歌の言葉はヤマトコトバで、それを集めてきたのは旅人である。仮にゴーストライターがいたとしても漢籍に従うものではない。なぜなら、ヤマトコトバで歌のダムを満タンにしているからである。漢詩文典故説は歌それ自体を理解せず、する気もない研究者による作り話である(注2)。
大宰帥大伴卿の、酒を讃ふる歌十三首」〔大宰帥大伴卿讃酒歌十三首〕
中国の古典を典故としているとする考え方を示して批判しながら解釈を述べるために、新大系文庫本の訓み、訳、注釈を掲示してから逐次私見を述べることにする(注3)。
験なき ものを思はずは 一坏の 濁れる酒を 飲むべくあるらし〔驗無物乎不念者一坏乃濁酒乎可飲有良師〕(万338)
ズハの用法についていろいろと議論されている(注4)。現代語にどう反映させるか訳出の問題として捉えられ、無用の混乱を来しているように見受けられる。~ズハ~という形は、~ハ~という形の一類型であることに違いあるまい。ハは係助詞である(注5)。助詞ハの作用にはおもしろいところがあり、「長男はジョンです。」とも「ジョンは長男です。」とも言える。使われている実態に対して、そのハの用法は何か、と文法学では後付けの解説をする。そんなことはお構いなしに、実社会では「ジョンはジョンです。」とも使っている。
主語、述語が異なるセンテンスどうしをハでつなぐときもある。ハの前に打消のズがあるときにも上代人は使った。今ではそうは使わないからわからなくなっている。どういう意味を表しているか、どのように訳したらいいか、へ関心が向く。三十一文字で何ごとかを言いたくて歌を歌っているのだから、ズハの前と後とが絡んでいるはずで、その関係を条件や因果ではないかと勘ぐってしまうのである。意味内容の吟味、訳出上の問題からいったん離れれば、構造上は助詞のハによって前と後とが結ばれたものであることが確認される。
P:験なき ものを思はず
Q:一坏の 濁れる酒を 飲むべくある
PはQ:「験なきものを思はず」ハ「一坏の濁れる酒を飲むべくある」ラシ
考えるといいことがある見込みなどないことを考えずにいること ≒ カップのどぶろくを買って飲むのがよいだろうということ
「≒」記号に、ハとラシを含めて表している。
現代語でも似たようなハの使い方は行われている。「クリープを入れないコーヒーは、日焼けした写真プリントのようだ。」を上代流に直すなら、「コーヒーにクリープを入れずは、写真プリントの日焼けするらし。」ということになるだろう(注6)。
いま構造しか見ていないが、万338番歌の前半部の否定に否定を重ねた表現を噛みくだいていけばさほど難しいものではない。考えても仕方がないことを考えずにいることとは、カップのどぶろくを飲むことを推奨するということらしい。甲斐のないことを考えないためには、濁り酒を一杯飲むべきであるようだ。下手の考え休むに似たりだ、安酒飲んでくよくよするな。
これらの訳はみな当たらずといえども遠からずで、おおむねそれで妥当な訳である(注7)。安酒であっても飲めば自ずと酔っぱらって考えごとができなくなる。頭が回らないという点でハの前と後とが絡んでいる。そのことを完全に見失い、~よりは~すべきであるらしい、~しないで~すべきであるらしい、とパターン化してしまうのはいただけない。なぜなら、ズハと言っているからである。~よりは、の意味を表したいなら上代から常用されているヨリハという。~しないで、の意味を表したいならセズテという。何のためにその言葉が存在し、使われているのか忘れてはならない。
俗っぽい内容であった。文選を理解している必要などまったくない。酒を讃える詞章は酒を知っている民族ならおそらくどこにでもあり、この歌と似た考えも必ずと言っていいほどあるに違いない。大伴旅人は大宰帥の地位にあり、漢詩文に見られるような隠者ではない。酒造りは濁り酒を作ることから始まり、今でも市販されていて、隠者のための限定商品でもない。
酒の名を 聖と負ほせし 古の 大き聖の 言の宣しさ〔酒名乎聖跡負師古昔大聖之言乃宜左〕(万339)
漢土でさえ「魏略」にあるような考え方が普及していたのかよくわからない(注8)。不確かなことを大伴旅人が公言していたとはなかなかに想定しにくい。百歩譲って旅人が勉強して知っていたとしても、地方行政機関で働く役人たちが周りにいて旅人が歌うのを聞いたとき、誰も理解できないであろう。
ヤマトにおいて酒の銘柄として「聖」という名で呼んでいたことは知られていない。銘柄として呼ばれたかもしれない例としては「吉備の酒」(注9)というのがあるが、こことは無関係である。銘柄名ではなく、酒のこと自体をヒジリという言葉と関係することとして呼んだとしか考えられない。酒のことはミワ(ミは甲類)と呼んだことがある。神に供える酒のことという。ミワはまた、三輪山のミワ(ミは甲類)である。酒の神として通っている。古事記の三輪山伝説では、赤土を撒いておいて紡麻を裾につけておいたところ、鍵穴から抜き出ていって三勾残っていた。辿っていくと三輪山に着いたというのである。
哭沢の 神社に神酒据ゑ 祷祈れども わご大君は 高日知らしぬ〔哭澤之神社尓三輪須恵雖祷祈我王者高日所知奴〕(万202)
神酒 日本紀私記に神酒〈美和〉と云ふ。(和名抄)
故、其の麻の三勾遺りしに因りて其地を名づけて美和と謂ふ。(崇神記)
ミワは御輪のこと、御所車などに使う牛車の車輪のことをも指していたと考えられる。輻で構造体を支える巧妙な仕組みでできており、車の直径を2mほどにまで大型化でき、軽量化に伴い動かしやすく壊れにくい。和名抄に、「輪〈輞附〉 野王案に云はく、輪〈音は倫、和〉は車脚の転進する所以なりといふ。四声字苑に云はく、輞〈文両反、楊氏漢語抄に於保和と云ふ。一に輪牙と云ふ〉は車輪の郭曲木なりといふ。」、「輻 老子経に云はく、古車に三十輻〈音は福、夜〉有り、月に象るを以ての数なりといふ。」とある。車輪(輞)を輻が支える構造で、ひとつの車にスポークが30本あるのはひと月が30日であるからとしている。周礼・冬官・輈人に、「軫之方也、以象レ地也。蓋之圜也、以象レ天也。輪輻三十、以象二日月一也。蓋弓二十有八、以象レ星也。」とあるのがもともとの拠りどころとされる(注10)。
つまり、酒のことをいうミワという言葉は、古く、ひと月が30日であると知っていたから成り立っているといえる。日のことをよく知っていてできているのがミワであり、ミワという言葉は酒の別名でもある。ゆえに、大伴旅人は酒のことをヒ(日)+シリ(知)=ヒジリ(聖)であると歌っている。太古の昔、三輪山伝説のことを考えた人は、酒や車のこともよくよく弁えていた人で、日月のことを心得た「大き聖」であったと想定されることを歌っている。昔の人はうまいこと言ったねえ、というのが歌意である。
歌はヤマトコトバで歌われ、ヤマトコトバで聞かれ、ヤマトコトバで理解され、ヤマトコトバで伝えられている。裏を返せば、ヤマトコトバでしか理解されず、それ以外のことは理解されておらず、行われていなかった。
古の 七の賢しき 人たちも 欲りせしものは 酒にしあるらし〔古之七賢人等毛欲為物者酒西有良師〕(万340)
この歌は、中国の魏晋南北朝時代の竹林の七賢人のことを歌っているとされている。そのとおりであろう。海を隔てたヤマトにおいて、田舎の役人たちが聞いてわかるかと言えば、なんとなく聞いたようなことだからわかると言えよう。この歌では、「古の」で始まり「らし」で終っている。例えば、万13番歌では、「神代」「古」「うつせみ」の3つの時制が詠まれて「らし」で結んでいる。そうらしいと歌うことは、聞き手も、へえ、そうなんだってさ、と軽い気持ちで受けとることができる。聞き手にとって、それまでぼんやりとしか知らなかったことであっても差し支えがない。もちろん、誰一人として知らないというのでは過去のことを勝手に創作していることになり、出鱈目や嘘の作り話に当たるから歌にされることはない。
…… 神代より かくにあるらし 古も 然にあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき(万13)
注意しておきたいのは、話としてそれらしいと知っているということと、中国の詩文を典故としているということは別物であるという点である。前者はあくまで話の世界、後者は文字を介して勉強した結果である。後者は万葉集の歌にほとんど登場しないと筆者は考える。歌が歌われて周りで聞いている人がその時にわからなければ、歌として成立していないからである。万葉の宴は教室の講義でもなければ、研究者たちが集まる学会後の打ち上げでもない。
この歌も、酒を讃える歌であって一般論を歌にしており、七賢人はその目的のために引っ張り出されている。「七の賢しき人たちも」の「も」は、自分を含めた「賢し」くはない有象無象だけでなく「七の賢しき人たち」でも、の意である。どうして「七の賢しき人たち」が酒を欲したのかについては、詠まれていないからわからないし、わかる必要もない。そういう話として聞いていて、そうであるらしいと言っているからそのままに受けとるのが解し方として正しい。
賢しみと 物言ふよりは 酒飲みて 酔ひ泣きするし 優りたるらし〔賢跡物言従者酒飲而酔哭為師益有良之〕(万341)
この歌には漢詩文との関係は指摘されていない(注11)。逆に、「賢しみと物言ふ」ことを否定していて、これまで歌ってきたことの教養語りを否定することにもなるとする指摘もある(注12)。筆者はすでに、それらが教養語りではないことを示している。また、泣き上戸のことをいう「酔ひ泣き」について、好まれないことと考えられていたとする説もある(注13)。
この歌では、~ヨリハ~と比較していて、どちらが優っているかといえば後者であるとしている。この表現の巧みなところは、マサル(優・勝)という語を使うところにある。マサルはマス(益・増)という語から派生した語と考えられているが、音としては、マサ(正)とつながりが認められる。マサシ(正)、マサニ(正・将・当)といった語の語幹であり、形状言である。正しいさま、条理にかなったさま、確かなさまをいう。木材を切って材として扱うとき、その切り方で年輪の筋が直線的に平行に入っているのが柾目である。マサニという副詞は、二つの事柄や物が合致していることを意味している。
つまり、ここでマサルという語を使っているのは、「賢しみと物言ふ」ことと、「酒飲みて酔ひ泣きする」こととでは、明らかに「酒飲みて酔ひ泣きする」ことのほうがマサなる点においてマサっていると自己言及的に語ろうとしているためである(注14)。
「賢しみと物言ふ」とき、格好をつけて喋るから、尾鰭をつけて話そうとすることになる。一方、「酒飲みて酔ひ泣きする」とき、思考は停滞して外面をよく見せようとする意識も薄らぎ、憚ることなく本音を吐露している。心と言葉がマサ(正)なる関係、揃っている状態にあるのは、泣き上戸になっている時であると言っている。頓智の利いた名歌である。
言はむすべ せむすべ知らず 極まりて 貴きものは 酒にしあるらし〔将言為便将為便不知極貴物者酒西有良之〕(万342)
評価しづらい注が付いている。ヤマトコトバに、キハム、キハマルという動詞があり、助詞のテを付けてキハメテ、キハマリテの形をとっている。この例では副詞的に使われているものの、自然な語展開、語構成であり、「極」字を学ぶことから得られた言葉とは定められそうにない。平安時代以降、漢文訓読に用いられたともされている(注15)。
「極貴」の字面は、山上憶良・沈痾自哀文に載ってはいる。「故、知る、生の極めて貴く、命の至りて重きを。〔故知生之極貴命之至重〕」。そこではキハメテと訓んでいて、キハマリテではない。
この歌では酒のことを一等すばらしいと言っているだけで、特段に何かを語ろうとしているわけではなく、「無内容」(注16)であると評されることもある。
ノム(祈)(粉河寺縁起、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/粉河寺縁起絵巻)
「極貴」なる筆記について、それが仏書によるものであるかどうかはあまり問題ではないが、キハマリテタフトキモノなる言い方は、信仰心と関わりがありそうな言い回しである。信仰心があれば、ましてそれが最高潮に達するときには、人は言葉を発したり、特定の所作をもって奉仕するようなことにならない。祝詞をあげたり二礼二拍手一礼したりと儀式ばることはない。ただ額づいて祈るばかりである。古語では動詞でノム、連用形名詞でノミ(ノ・ミは甲類)といい、「叩頭、此には廼務と云ふ。」(崇神紀十年九月)と見える。このノム・ノミ(叩頭)は、ノム・ノミ(飲、ノ・ミは甲類)」と同音である。言うことでもすることでも方法を知らずに感極まっている様子は、ノム・ノミ(叩頭)ことであるから、ノム・ノミする対象である酒こそが最高に貴重なものなのだと洒落を飛ばしている。頓智の利いた名歌で、漢詩文とは一切かかわりなく、歌詞の言葉は肥沃なヤマトコトバのなかにある。
なかなかに 人とあらずは 酒壺に なりにてしかも 酒に染みなむ〔中々尓人跡不有者酒壺二成而師鴨酒二染甞〕(万343)
この歌でも、中国詩文に典故があるとされている。聞いた人が誰一人わからないような難しいことを言っているとは思われない。
「なかなかに 人とあらず」とは、中途半端な暮らしぶりしかできていないことを指している。リッチではない、富んでいない、上層階級ではない、ということである。リッチな家は律令制で「上戸」という。貧しい家は「下戸」である。体質的に酒の飲めない人のことを「下戸」というのは、酒を買うお金がないから酒が飲めないことを指したのに由来するとする説がある(注17)。つまり、「なかなかに人とあらず」とは、貧乏で酒が買えないのだけれど、だからといって酒を飲まずにいるなんてとてもじゃないが我慢できるものではない、そんな境遇に置かれるのはまっぴらご免で、せめて酒壺にでもなってしまいたいものだ、じわじわっと酒が体にしみ込んでくる。「下戸」の二つの意味をうまくとり入れている。
その証拠に、サカツボは、傾斜地の一区画の土地、「坂坪」のことにも当たる。平らなところではあるが貧乏暮らしを強いられるぐらいなら、人間が住むにはふさわしくないかもしれない山奥にポツンと一軒家を構え、酒を密造して楽しみたいではないか(注18)。頓智の効いた名歌である。
あな醜 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似る〔痛醜賢良乎為跡酒不飲人乎𤍨見者猿二鴨似〕(万344)
浅知恵の人のことを猿知恵とも言う。その呼び方は漢籍に依らなければ起こらなかったものなのだろうか。
「醜」という言葉は、ミ(見)+ニク(憎)の意、見るのが難しい、見たくない、というのが本義である。なのに歌の後半では、「人をよく見ば」と一生懸命に見ることをしている。周到に仕組まれた修辞表現であると考えるべきである。
「よく見ば」は、よくよく見れば、の意である。古語に「つらつら見れば」のことである。つらつら見て猿にも似ているということは、猿の横顔、ツラ(面)の特徴を見たということである。ツラは左右にあるからつらつらに見ている。人にはなくて猿にあるツラの特徴と言えば、猿頬である。頬袋があって食べ物を貯えておくことができる。食べ物を見つけたら一気に口に入れて頬張り、安全なところへ移動してから噛み直しては飲み込んでお腹に入れている。大伴旅人が酒を讃える歌で歌おうとしているのは酒を飲むことである。
これまでの解釈では、「賢しらをすと酒飲まぬ人」というのは、賢ぶって酒を飲まない人、賢しらである状態を保とうとして酒を飲まない人という意味に捉えられている。「賢しらをす」の意味が、酔わないでおいて後で賢しらごとをすること、酒を飲まずにしらふでいて賢明さを発揮しようとすることと思われていた。そうではあるまい。
「「賢しらをす」と」は後続の「酒飲まぬ」に直接かかる。「と」は指示、資格を表す。つまり、「賢しらをす」ることとは「酒飲まぬ」ことそのものである。酒を飲んでいるかと聞かれれば、ああ、飲んでいると言いながら実際には酒を飲んでいないというのが、酒の席でもっとも「賢しら」なことであろう。どういうことか。
せっかくの宴の席で酒を飲まない人は何をしているか。ご飯を食べている。昔、醸造技術の初期段階では、酒を造るために、蒸し米を口に含んで噛んでから甕などに戻し入れて貯蔵し、醗酵するのを待った。口噛み酒である。酒を醸むというのはその名残りである。酒を飲んでいると言いながら飲んでいない輩は、蒸し米を噛んで貯えているから酒を飲んでいるのと同じことだと醜い言い訳をしている。賢しらな理屈である。蒸し米はどこへ行ったのか。食べてはいないと言っている。ということは、さては猿にある頬袋でも持っているということだな。発想自体が猿知恵で、やってることも猿にそっくりだ、と言っている。頓智の利いた名歌である(注19)。
価なき 宝といふとも 一坏の 濁れる酒に あにまさめやも〔價無寳跡言十方一坏乃濁酒尓豈益目八方〕(万345)
「価なき宝」という言葉は漢訳仏典(法華経)からとられた語であるとされている。しかし、その言葉が背景とする思想までそのまま享受して歌で表しているとは言えない。例えば次のような歌がある。
銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも〔銀母金母玉母奈尓世武尓麻佐礼留多可良古尓斯迦米夜母〕(万803)
この歌は、山上憶良の「子等を思ふ歌一首 并せて序/釈迦如来の、金口に正に説きたまはく、「等しく衆生を思ふこと、羅睺羅の如し」と。又説きたまはく、「愛は子に過ぎたるは無し」と。至極の大聖すら、尚ほ子を愛ぶる心有す。況むや世間の蒼生の、誰か子を愛びざらめや。〔思子等歌一首并序/釋迦如来金口正説等思衆生如羅睺羅又説愛無過子至極大聖尚有愛子之心況乎世間蒼生誰不愛子乎〕」の反歌である。「価なき宝」という言い方は比喩に使われ、「子」のことを指している。今日でも常識的にそう思われいる(注20)。
そんな子どもよりも一杯の濁り酒のほうがまさっていると歌っている。どういうことか。
子(コは甲類)と濃(コは甲類)は同音である。つまり、濃酒(醴)よりも濁り酒のほうがいいと言っている。「醴 四声字苑に云はく、醴〈音は礼、古佐計〉は一日一宿の酒なりといふ。」(和名抄)、「醪 力兆反、平、汁滓雑酒也。古云、一夜酒、謂有滓酒也。古佐介」(新撰字鏡)、「醴酒者、米四升、蘖二升、酒三升、和合醸造、得二醴九升一。」(延喜式・造酒司)、「醴 音礼、コザケ」(名義抄)、「醅 音盃、カスゴメ、俗用糟交二字、コサケ、アマサケ、サケ」(名義抄)とある。日本書紀には、「因りて醴酒を以て天皇に献りて歌して曰さく、」(応神紀十九年十月)と見え、嵩増しした甘酒のようなものかとされている。醴と濁り酒は見た目はあまり変わらないが、吞兵衛としては濁り酒のほうがいいに決まっている。酔いたくて飲むのであって、欲しいのはアルコールである。吞兵衛が飽きずに洒落を言っているよと、内容ともどもおもしろがられたことであろう。
夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心を遣るに あにしかめやも〔夜光玉跡言十方酒飲而情乎遣尓豈若目八方〕(万346)
「夜光珠」なるものが記された漢籍を典故としているという主張らしい。千字文が当時の地方自治体の役人の間でどれほど勉強されていたのかわからない。千字文というものがあって、ワニという人が我が国にもたらした、という大枠の知識としてなら通っていただろうが、そのなかの一節、「剣号二巨闕一、珠称二夜光一」について、あるいは他の関連記事、史記・鄒陽列伝や捜神記に所載の知識が常識化していたとは考えられない。もし仮に常識化していたのなら、同時代の上代の文献のなかで、酒を讃える歌一か所にしか見られないという状況は起らないだろう(注21)。
左:ヒオウギの花、中:ヒオウギの実、右:檜扇(平城宮内膳司推定地東隣接地区SK820出土、奈良文化財研究所蔵、平城宮いざない館「のこった奇跡 のこした軌跡─未来につなぐ平城宮跡─」展展示品)
夜光る玉として万葉人に知られていたものと言えば、「ぬばたま」「うばたま」の類である。枕詞になっている。「ぬばたま」はヒオウギの実のことかともされている。古語にヒアフギ、同音の言葉に「檜扇」がある。「檜扇」は恋の相手と交換することが行われた。自分の恋心を示すために贈るもの、遣るものである。恋の駆け引きに使われるプレゼントと、飲んでしまって開放的な気分になる飲み物とで、どちらが「心を遣る」点ですぐれているかといえば、絶対に酔いが回る酒の方である。「檜扇」を渡したからといって、その効果のほどは定かではない。恋の相手の心変わりもあるし、最初から素振りだけの場合もある。恋の証として相手に求めるものは、檜扇やダイヤモンドやブランド品やお金でもなくて、肉体関係であることもある。「心を遣る」(注22)という意味においては、心がとろけるほうがふさわしいということである。人間の性をよく心得ながら、頓智的に巧みな比喩を凝らした酒讃歌である。
世の中の 遊びの道に たのしきは 酔ひ泣きするに あるべかるらし〔世間之遊道尓冷者酔泣為尓可有良師〕(万347)
三句目の「冷」字を「怜」の誤写ととる解釈が行われている。しかし、諸本とも「冷」字に揺るがない(注23)。
考えるべきは、「遊びの道」とは何かである。上代において「道」は、往来するところのほか、仏道・学問・芸術などの正しい修行の過程のことを表したり、世間のならい、慣習のことを表したりする。また、「遊び」(名詞)は、神前での舞や音楽のこと、宴会のこと、狩猟のこと、ほかに、「遊行女婦」のように集団で遊芸を行う女性のことも指した。この「遊び」と「道」の組み合わせとして考えられるのは、後の時代に考えられたような伝統芸能を継承するための修行の類ではなく、道路上で行われる音楽のことを言っていると推測される。そのような「遊び」の例は天若日子の殯の様子に描かれている。
故、天若日子が妻、下照比売が哭く声、風と響きて天に到りき。是に、天に在る天若日子が父、天津国玉神と其の妻子と、聞きて降り来て哭き悲しび、乃ち其処に喪屋を作りて、河鴈をきさり持と為、鷺を掃持と為、翠鳥を御食人と為、雀を碓女と為、雉を哭女と為、 如此行ひ定めて、日八日夜八夜以て遊びき。(記上)
殯の際に専門業者を雇っている。それぞれ決められた所作が行われ、それを「遊ぶ」と言っている。「哭女」がいて、声をあげて泣いている。儀礼上の舞や音楽のことだから、これは「遊び」に違いない。どこでするかというと往来であるし、所作は一途に決まっている。つまり、「世の中の遊びの道」というのは、殯のときに専門業者が哭き声をあげることが世の中では一般に執り行われていることを言っている(注24)。歌の後半の「酔ひ泣きする」ことと関わりが出てきて正しい解釈であると確かめられる。
そして、「冷」字はサム(寤、醒、覚、冷)と訓むとわかる。眠りからさめること、迷いからさめること、酔いからさめること、熱気からさめることをすべてサムといい、サムシ(寒)と同根の言葉である。名義抄では「覚」「冷」「涼」「寤」「蘇」「醒」などにサムの訓みがある。
葬儀業者のすることはお決まりだから、葬式でどんなに大きな声で泣かれても心が籠っていない気がして興ざめする。泣き方として下手だということである。真心から泣いているように聞こえるのは「酔ひ泣き」である。万341番歌同様、「酔ひ泣き」を肯定的に捉えて歌を歌っている。酒を讃える歌なのだから、酒を飲んだ結果の「酔ひ泣き」を否定的に捉えたら讃える歌とならない。
世の中の 遊びの道に 冷めたれば 酔ひ泣きするに あるべくあるらし(万347)
世の中で礼法上行われている殯のときの「遊びの道」の泣き声に皆興ざめしてしまっているので、酔っぱらって泣き上戸になって声をあげて泣くことが世の中にあってしかるべきこととなっているようだ。
この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 我はなりなむ〔今代尓之樂有者来生者蟲尓鳥尓毛吾羽成奈武〕(万348)
この歌には酒の文言が入っていない。酒との関連を探ると、酒を飲むことが楽しいことであろうことは確かである。そして、「酔ひ泣きする」ことを盛んに述べているので、酒を飲むと泣き上戸で酔って泣くのが常のようである。ということは、この世でそうやっているように、来るべき新たなる生においても同じようにナクことがしたいから、鳴く生き物、虫や鳥になりたいな、ととぼけたことを歌っている。きっと虫や鳥が鳴いているのも、酒を飲んで「酔ひ鳴き」しているに違いないからというのである。この洒落た表現について、因果応報の考えの表れととることは無粋であろう。
生まるれば 遂にも死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな〔生者遂毛死物尓有者今生在間者樂乎有名〕(万349)
この歌にも酒の文言が入っていない。万348番歌同様、「楽し」いこととは酒を飲んで酔って泣くこととすれば、この世に生きているうちは酔っぱらって泣いていたいものだ、と言っていることになる。上三句で人生について大きなことを語っているように見えながら、酔っぱらって泣き上戸になっていることをお茶目に肯定するために構えている。生まれたら必ず死ぬわけであるが、だからといって、死んだら酔うことも泣くこともできないということを言うために大仰に述べているのだとは考えにくい(注25)。なぜといって、これは酒の讃歌である。前世、今生、来世を並べて、今生は「酔ひ泣き」して楽しくありたい、酒があるのは今生だけだ、来世では香を嗅ぐしかできないのだ、などと言っているとは考えられないからである。
人は泣きながら生まれてくる。死ぬともう泣くことはないが、万347番歌で見たような雇われた哭女の儀礼的仕儀であれ、周りの者は泣く。その二者の泣きに挟まれているのが「今生」なるこの世である。「今生在間者」は「この世にある間は」(注26)と訓むものと思われる。生まれる時のことと死ぬ時のことの二者をあげているから「遂にも」と言っていて、「遂には」ではないのだろう。生まれた時と死ぬ時に訳もわからず泣くのと違い、その間だけは楽しく泣きたい、「酔ひ泣き」したいと言っている。その間のことを「今生」と戯れに呼んでいる。人生の最初、最後と、その間とでは、泣く心が違うようにしたいと主張し、うまい具合に泣き上戸を正当化している。巧みなレトリックを漢籍由来の観念と解くことはできない。
もだ居りて 賢しらするは 酒飲みて 酔ひ泣きするに なほしかずけり〔黙然居而賢良為者飲酒而酔泣為尓尚不如来〕(万350)
これまでも出てきた「賢しら」と「酔ひ泣き」にまつわる歌である。「賢しらす」とは黙っていて賢明なふりをすること、おしゃべりは銀、沈黙は金、のようなことと思われている。しかし、「賢しらに」と副詞に使う場合、自分の判断で積極的に、の意に用いられる。「賢しら」は、自分の判断は何にもまして正しいのだと我勝ちに自信を持った言動のことを指している。万344番歌において「賢しらをすと酒飲まぬ」こととは、「賢しらをす」ることがすなわち「酒飲まぬ」ことであった。この歌でも、同様に考えればよいのであろう。
「賢しらす」には何か言動が伴っている。「黙然居りて」とは、黙っていること、また、何もしないでいることを表す。両者の結びつきは一見矛盾するトリッキーなものである。「黙然居りて賢しらする」とは、「賢しらする」ことが「黙然居りて」いることなのである。酒を飲むか飲まないかといったやりとりにさえ加わらずに黙っていて、局外中立的に何もなかったかのようにやり過ごそうとすることである。でも、そんなことは、酒を飲んで酔っぱらって泣き上戸に陥って止まらないことにはやはり及ばないものだと気がついた、と言っている。「なほ」とあるのは、万344番歌と同じように、の意と、とり上げてはみたがやはり何といっても、の意を兼ねたものと解される。酒宴において、やってますか? と聞かれて、はい頂いていますと答えながら飲んでいないのもだが、会話の輪に入らずに隅っこで飲まずに黙っていてただ時間が過ぎるのを待っている人も、酔っぱらって泣き上戸になって心が溶けているのには比較にならないものだと了解するに至ったと言っている。何を「けり」と悟ったのか。
万349番歌では、生まれた時と死ぬ時に泣くのは気持ちが張り詰めて泣いていることと見られていた。楽しくて泣いているのではないのである。気持ちをゆるゆるにすることが楽しいことのはずだから、酔っぱらって泣き上戸に泣くことこそ楽しいことである。酒はなんてすばらしいのだろう。せっかく酒が用意された宴席で、黙ってやり過ごして酒を飲まないなんて、生れて死ぬまでの間の人生を楽しもうとさえしないこと、最初から放棄していることで、ただ命を長らえているだけの何もない人生を送っているということではないか。酒というありがたいものがあって、気持ちを弛緩させることができるのに、知らぬ存ぜぬを通すなど、話にならないことだとよくわかったと述べている。
以上、大伴旅人の讃酒歌を検討してきた。すべては酒のすばらしさをヤマトコトバで讃える歌であった。
歌はヤマトコトバでできている。ヤマトコトバは母語であり、ものを考えるのにヤマトコトバで考え、ヤマトコトバで言葉に表してコミュニケーションをとっている。
至極当たり前のことである。声をあげて歌を歌ったとき、周りの人が聞いて理解できなければそれは歌として存立しない。中国ではこれこれこういうことを言っている、と言われても、そんなこと知らないよ、だってここは中国じゃなくてヤマトの国だから。誰に向かって歌っているの? そんなに中国かぶれのことを言いたいのなら、漢詩にして発表したらいいじゃないの、字もろくすっぽ読めないし書けない私たちを詩会に呼んだりしないでね、ということである。
言葉は使われて言葉である。もともと漢語であり、翻訳語として成った言葉であれ、ヤマトコトバとして使われている。使われているということは、すでにあるということである。そのことと中国の詩文から目で見て得られる「知識」とは異なる。漢籍にある「夜光珠」という知識は、上代のヤマトにおいて言葉として使われておらず、広く知られてはいない。それが実情である。もちろん、中国から伝来して普及した技術は数知れない。「馬」、「甕」、「機」、「仏」、「文」……。これらは皆、ヤマトコトバの顔をしてヤマトコトバとして使われている(注27)。すでに自家薬籠中におさめた技術は既知のことであり、つまりはヤマトコトバに造られていて日常言語として使われている。他方、唐突に知らないことを声を張り上げて歌うことは、選挙でもないのに一人街頭に立って演説を始めるようなもの、「狂言」や「逆言(妖言)」に受けとられかねない。そのようなことは完全になかったとは言わないが、あったとしても周りが理解できない。歌が歌われる空間において音声言語として成り立っていなければ、歌として認められることはあり得ない。万葉歌の内容を理解するには、歌われている言葉(音)のヤマトコトバとしての性格を「正しく」理解することが先決である。どんなに漢籍を繙いてみても、筆記の研究や漢文で記そうと試みられた題詞や左注、山上憶良の文などを除き、直接つながることなどない。万葉集を歌っていた上代人に近づくためには、我々現代人の感覚としてではなく当時の人々の感覚でヤマトコトバを「正しく」理解していくことが唯一の方法である。誰が聞くこともウェルカムであった万葉集の歌は、そこに現代に対する付加価値があるかどうかは別として、今日でも万人に開かれている。
(注)
(注1)巻之三中、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979062/1/351~参照。
(注2)万葉集の歌は、ヤマトコトバで考えてヤマトコトバで作ってある。片仮名外来語を挿入してあたかもすごいことを言っているように見せかける政府文書ではない。白書は国民が読んだりしないからそれでかまわないが、万葉集に載る歌は、声をあげて周りにいる人が聞いたものである。周りにいる人が聞いてわからなければ歌として安定、定着しない。ものの考え方が漢籍の外注でできているとして事足れりとする発想は、ヤマトコトバの内実、ヤマトの人のものの考え方に迫ろうとする気がないばかりか、漢籍の出典を示してどこか誇らしげな様子でさえある。曲解の挙げ句に「個人的感懐の表現」(寺川2005.5頁)、「酒という具に基づいて思いを述べる精神文化の成熟」(辰巳2020.63頁)であるなどと評されている。「讃酒歌」のなかで「賢しら」と詠まれているそのものの姿を身にまとっている。お勉強屋さんの、お勉強屋さんによる、お勉強屋さんのための万葉歌解釈は、防人歌や東歌を同列に含めて驕るところのない万葉時代の人たちの、万葉時代の人たちによる、万葉時代の人たちのための万葉集歌とは別のところにある。
(注3)新大系文庫本261~265頁。
「讃酒歌」を歌群としてその構成を読み解こうとする研究も見られるが、これまでのような覚束ない解釈のままに歌群の構造がどうなっているのか論じても仕方がなく、当面の課題としない。
(注4)本居宣長・詞玉緒、橋本1951.、山口1980.、西宮1991.、大野1993.、佐佐木1999.、鈴木2003ab.、小柳2004.、栗田2010.、古川2018.など参照。
(注5)ハへと接続している「ず」、ラシへと接続している「ある」はそれぞれ適した活用形になっている。「ず」は連用形でいわゆる連用形中止法になっている。「ず」を未然形、ハを接続助詞とする説もみられる(小田2015.268頁)。
(注6)往年のCMの例は、「クリープを入れないコーヒーなんて、ピンボケの写真のようだ。」といった譬えを使っていたと記憶する。ここでは日焼けした写真プリントに改めた。写真プリントがコーヒー色に焼けることを含ませたかったからである。「ハ」の前と後とが絡んでいなければ歌のレトリックとしておもしろみがない。あるいはこうも言えるだろう。「ハ」の前と後とでかけ離れたことを言っていて、それをつなぐ助詞「ハ」に負荷がかかっている。どうして両者を「ハ」でつなぐことができるのかという疑問に対して、ほら、よく考えてごらん、前と後とで絡んでいるところがあるだろう、と証明してみせているのである。
(注7)井伏鱒二の名訳を引く。三・四句目のつながりが訳出に失われていない。なお、上代のズハの用法については拙稿「万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─」も参照されたい。
勧酒 于武陵
勧君金屈巵 コノサカヅキヲ受ケテクレ
満酌不須辞 ドウゾナミナミツガシテオクレ
花発多風雨 ハナニアラシノタトヘモアルゾ
人生足別離 「サヨナラ」ダケガ人生ダ
この詩と旅人の歌とでは大きな違いがある。旅人の歌は酒を讃える歌であり、自分がこれから酒を飲むとか、相手に酒を勧めるといった歌ではない。一般論を歌っている。歌の文句にあるような験なき物思いも一般論であって、具体的になにか煩わしい事態に直面していたことを反映するものではない。
(注8)大伴旅人がどの漢籍を見て学んだかを突き止めようとする努力が行われている。書名が記載された大伴旅人の日記が発見されでもしなければ特定されることはない。論拠の後ろ盾を持たない推論は空論である。
讃酒歌について旅人の独吟、モノローグであるとする見方も行われている。上代における「歌」とは何かについて、根本的なところを理解しようとしていない。
(注9)「吉備能酒」(万554)とあるが、産地名のことではなく「黍の酒」のこととも考えられている。
(注10)絵巻物に描かれた牛車では、輻の数は21本、24本などのことが多い。外枠の板の数が奇数になっているのは技術的な問題で、板の継ぎ目が上下に揃わないようにして壊れないようにしているからという。周礼の理念には反するが、致し方ないということだろう。
(注11)漢詩文に「酔泣」という語も見られないという。このような例を認めておきながら漢籍出典説を唱えることはダブルスタンダードになるだろう。
(注12)鉄野2016.100~101頁。
(注13)「酔ひ泣き」の語は万347・350番歌にも出てくる。節操を欠いているとか、みっともないことだといったニュアンスは受け取れない。書いてないからわざわざ色眼鏡でみる必要はない。
(注14)二者を比較してどちらが良いかと尋ねるときに、言葉を自己言及的に活用している例としては、「夫と兄と孰か愛そ」(垂仁記)の例がある。拙稿「古事記のサホビメ物語について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/409df1a4513ed94a0b63264673b829ef参照。上代の人は、AとBとを比べるという時、何の点において比べているのかを非常に厳密に、厳格に比べており、AとBのなかにその言葉を意味するところがないか、えぐるように探っている。
(注15)岩波古語辞典379頁。
小島1964.は、「極貴」は後漢書・梁皇后紀に見え、「極貴は訓読による漢籍語の応用と云へる。」(932頁、漢字の旧字体は改めた)としているが、「応用」などと言い出されたら証明のしようも反証のしようもない。どうやって言葉を捻り出しているかが焦点になるのではなく、どうしてそのような言葉を使っているのか、使用の問題として考えなければならない。使用されて通じているから言葉として成り立っている。
(注16)鉄野2016.101頁。
(注17)田令に、「凡課二桑漆一、上戸桑三百根、漆一百根以上、中戸桑二百根、漆七十根以上、下戸桑一百根、漆卌根以上、五年種畢。郷土不レ宜、及狭郷者、不二必満レ数。」、紀では、「諸国の貸税、今より以後、明に百姓を察て、先づ富貧を知りて、三等に簡び定めよ。仍りて中戸より以下に貸与ふべし。」(天武紀四年四月)とある。法制度上では、三等戸と九等戸の二種類の分け方があり、三等戸制は丁数(成年男子数)による分類、九等戸制は資財量(貧富)による分類であると見られている。ここで「上戸」、「下戸」という観念は、天武紀に記されているように貧富の差を示すものである。
(注18)「なかなかに 人~」とつづく歌は、他に次の歌がある。
なかなかに 人とあらずは 桑子にも ならましものを 玉の緒ばかり(万3086)
注17で示した田令の公課に桑のことが記されている。だから蚕のことをいう「桑子」が出てきている。中途半端な暮らしぶりしかできていない人、下戸は、短期間でも桑子にもなりたいものだなあ、と思い願うものであると言っている。下戸は暮らしに余裕がなく、税も多くは納められず、絹とは縁のない生活をしている。それでも桑を一百根課されている。蚕に桑の葉を食べさせて糸を吐かせ、絹を生産するためである。下戸はわずかにしか貢献していない。それに対応するように、「玉の緒」という言葉を使っている。「玉の緒」は短いから、「玉の緒ばかり」はちょっとでも、の意である。少しの桑拠出でできた絹の緒を使う「玉の緒」になってみたいとずるっこい考えをくり広げている。絹の緒は貴重だろうが、結ぶ玉石のほうが価値はずっと高い。つまりは玉の輿に乗りたいというのである。
(注19)このような頓智的思考と、芸文類聚から得た知識を使って歌を作ったのだという知識的思考は相容れるものではない。鉄野氏の議論では、猿に似ているのは酒を飲んで赤ら顔をしたほうであるとし、酔いが回っているから言葉が転倒しているとまで言う(105頁)。しかし、これらの歌は「大宰帥大伴卿讃レ酒歌十三首」であって、「大宰帥大伴卿酔レ酒歌十三首」ではない。
(注20)何度も断っているように、歌は歌われて聞かれて理解されてナンボのものである。ちまたの常識を基にしなければ通じることはない。「無価宝珠」は現世においてずっと安楽に暮らせるだけの富をもたらすものであると解されることがあるが、年金や投資のセミナーにおいて作られた歌ではあるまい。
(注21)中古では、源氏物語・松風に、「若者は、いともいともうつくしげに、夜光りけむ玉の心地して、袖より外には放ちきこえざりつるを、……」と見え、源順集などにも例がある。紫式部の頃には中国では最も珍重な宝物の代表と認識されるに至っている。それは容易に想像がつく。源氏物語は紫式部が文字として書いている。文字から得られた知識を文字に落としている。一方、それを遡ること270年ほど前に、大伴旅人は言葉(ヤマトコトバ)として声をあげて歌っている。知識を発表するために歌があるのではないし、三十一音で発表されても何を言っているのか理解できなくては用をなさない。歌に使われる言葉は、歌い手ばかりでなく聞き手もすでに、ともに、肌感覚で認識している言葉でなければ聞き取ることはできない。
(注22)小島1964.は、「心やる」(遣悶・遣情・消悶)、「この世」(現世)、「来む世」(来世)、「濁れる酒」(濁酒)、「いにしへの七の賢しき人等」(七賢人)、「価なき宝」(無価宝珠)、「夜光る玉」(夜光之璧)、「生ける者遂にも死ぬる」(涅槃経純陀品)を大伴旅人による翻訳語の造語であるとし、漢籍を「眼」で学んだことが明らかであるという(931頁)。どうして旅人による造語であると決めてかかれるのか、そもそもそれらは「いにしへの七の賢しき人」以外、漢籍と関わらなければ生れ出るはずのない考え方なのか、確証は得られない。古墳に埋葬して副葬品を供えたのは、「来む世」があると思っていたからのようであるし、酒には澄めるのと濁れるのとがあると戯れて言うことは至極自然な発想であろう。それらのヤマトコトバを筆記するに当たり、漢籍ではどのように書いてあるかを瞥見したところ、それらしい書き方を見つけて当て字をしたためたら、あたかも翻訳語を造語しているかに見えているだけのことではないか。このことは、それらの語が登場する歌の解釈と直結する。これまでの研究による歌の解釈は、「酒を讃ふる歌」の解釈として履き違えている。
(注23)「冷者」はスサメルハ(童蒙抄ほか)と訓む説のほか、スズシクハ、スズシキハとオーソドックスに訓む例も多い。ただし、「冷」をスズシと訓んでも、心が清く爽やかととる説ばかりでなく、心が荒涼として楽しまないととる説もある。
(注24)「世間」という漢字の字面は仏教語である。それをセケンと音でよめば仏教語由来の言葉である。ところが、万葉集ではヨノナカと訓み、ここでは一般に通行していることを表している。このヨノナカという言葉は、仏教語から派生したものなのか、あるいは仏教語が侵食してきたものなのか。
ヨノナカという語はヨ(世・代)+ノ(助詞)+ナカ(中)という語構成によって作られている。ヨ(世・代、ヨは乙類)をイメージするうえでは、竹の節と節の間のことをいうヨ(節間)という言葉が大いに与っている。区切られた間のところ、かぐや姫が入って光っていたところがヨである。そのヨ(節間、ヨは乙類)という言葉を説明調に表したら、ヨノナカという言葉ができあがる。
(注25)同じく大伴旅人の歌に次のようにある。
世の中は むなしきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり(万793)
一般性を表現する形式をなすものとして「もの」という語が使われている。この歌は仏教語の「世間空」と関連があるとされ、万349番歌でも「仏者の生者必滅といふ常套語をとり来りて語をなしたるなり。」(山田1943.国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880320/1/254~255)と捉えられている。次の例も参照される。
…… 生まるれば〔生者〕 死ぬといふことに 免れぬ ものにしあれば ……(万460、大伴坂上郎女)
「生者」は「生ける者」、「生ける人」といった訓もあるが、山田氏は「生まるれば」と訓むとする考えで、筆者も採る。
(注26)西宮1984.221頁に一案として示され、古典集成本や伊藤1996.178頁が採っている。
(注27)和訓と呼ばれる言葉群である。翻訳語と呼ぶべきものではない点に思いを致すことは、当時の人たちが言葉をどのように考えて使っていたのかについて深い洞察へと導いてくれる。
(引用・参考文献)
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辰巳2020. 辰巳正明『大伴旅人─「令和」を開いた万葉集の歌人─』新典社、2020年。
鉄野2016. 鉄野昌弘「「大宰帥大伴卿讃酒歌十三首」試論」『萬葉集研究』第三十六集、塙書房、平成28年。
鉄野2021. 鉄野昌弘『大伴旅人 新装版』吉川弘文館、2021年。
寺川2005. 寺川眞知夫「旅人の讃酒歌─理と情─」『万葉古代学研究所年報』第三号、2005年3月。奈良県立万葉文化館https://www.manyo.jp/ancient/report/
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻三』有斐閣、昭和59年。
西宮1991. 西宮一民『上代の和歌と言語』和泉書院、1991年。
橋本1951. 橋本進吉『上代語の研究』岩波書店、昭和26年。
古川2018. 古川大悟「上代の特殊語法ズハについて─「可能的表現」─」『萬葉』第225号、2018年2月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/2018
山口1980. 山口堯ニ『古代接続法の研究』明治書院、昭和55年。
山田1943. 山田孝雄『萬葉集講義 巻第三』宝文館、昭和18年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880320
※大伴旅人の讃酒歌の論考については近年のものに限って記載し、注釈書も特筆すべき点のない場合は割愛した。
大宰帥大伴卿の、酒を讃むる歌十三首」〔大宰帥大伴卿讃酒歌十三首〕
酒を褒めているのだからそのままだろうと思われているが、「讃」字はホムだけでなくタタフとも訓まれる。タタフとは「湛」字で表すことがあるように、たくさんの水で満たされることを指す言葉である。この十三首も、酒のことをたくさんの言葉で満たして讃嘆しているのだから、タタフと訓まれなければならない。
誰が酒を讃えているかといえば、作者の大伴旅人である。歌の言葉はヤマトコトバで、それを集めてきたのは旅人である。仮にゴーストライターがいたとしても漢籍に従うものではない。なぜなら、ヤマトコトバで歌のダムを満タンにしているからである。漢詩文典故説は歌それ自体を理解せず、する気もない研究者による作り話である(注2)。
大宰帥大伴卿の、酒を讃ふる歌十三首」〔大宰帥大伴卿讃酒歌十三首〕
中国の古典を典故としているとする考え方を示して批判しながら解釈を述べるために、新大系文庫本の訓み、訳、注釈を掲示してから逐次私見を述べることにする(注3)。
験なき ものを思はずは 一坏の 濁れる酒を 飲むべくあるらし〔驗無物乎不念者一坏乃濁酒乎可飲有良師〕(万338)
何のかいもない物思いをするくらいなら、一杯の濁り酒を飲むべきであるらしい。
▷大宰府の長官大伴旅人が酒を讃えた歌十三首。
酒を讃美することは中国の詩文に例が多い。なかでも、竹林の七賢の一人、晋の劉伶の「酒徳頌」(文選四十七)は、紳士君子が目を怒らして飲酒の悪を攻撃し、礼法を説くことを冷笑する。そのような超俗の姿勢としての飲酒の意味づけは、「酒を讃めし歌十三首」における「賢しら」批判にも一貫している。この歌は、十三首の総論にあたる。「濁れる酒」は隠者の飲む、白濁した下等の酒。「濁酒一盃、弾琴一曲、志願畢(をは)れり」(晋・嵆康「与山巨源絶交書」・文選四十三)。
▷大宰府の長官大伴旅人が酒を讃えた歌十三首。
酒を讃美することは中国の詩文に例が多い。なかでも、竹林の七賢の一人、晋の劉伶の「酒徳頌」(文選四十七)は、紳士君子が目を怒らして飲酒の悪を攻撃し、礼法を説くことを冷笑する。そのような超俗の姿勢としての飲酒の意味づけは、「酒を讃めし歌十三首」における「賢しら」批判にも一貫している。この歌は、十三首の総論にあたる。「濁れる酒」は隠者の飲む、白濁した下等の酒。「濁酒一盃、弾琴一曲、志願畢(をは)れり」(晋・嵆康「与山巨源絶交書」・文選四十三)。
ズハの用法についていろいろと議論されている(注4)。現代語にどう反映させるか訳出の問題として捉えられ、無用の混乱を来しているように見受けられる。~ズハ~という形は、~ハ~という形の一類型であることに違いあるまい。ハは係助詞である(注5)。助詞ハの作用にはおもしろいところがあり、「長男はジョンです。」とも「ジョンは長男です。」とも言える。使われている実態に対して、そのハの用法は何か、と文法学では後付けの解説をする。そんなことはお構いなしに、実社会では「ジョンはジョンです。」とも使っている。
主語、述語が異なるセンテンスどうしをハでつなぐときもある。ハの前に打消のズがあるときにも上代人は使った。今ではそうは使わないからわからなくなっている。どういう意味を表しているか、どのように訳したらいいか、へ関心が向く。三十一文字で何ごとかを言いたくて歌を歌っているのだから、ズハの前と後とが絡んでいるはずで、その関係を条件や因果ではないかと勘ぐってしまうのである。意味内容の吟味、訳出上の問題からいったん離れれば、構造上は助詞のハによって前と後とが結ばれたものであることが確認される。
P:験なき ものを思はず
Q:一坏の 濁れる酒を 飲むべくある
PはQ:「験なきものを思はず」ハ「一坏の濁れる酒を飲むべくある」ラシ
考えるといいことがある見込みなどないことを考えずにいること ≒ カップのどぶろくを買って飲むのがよいだろうということ
「≒」記号に、ハとラシを含めて表している。
現代語でも似たようなハの使い方は行われている。「クリープを入れないコーヒーは、日焼けした写真プリントのようだ。」を上代流に直すなら、「コーヒーにクリープを入れずは、写真プリントの日焼けするらし。」ということになるだろう(注6)。
いま構造しか見ていないが、万338番歌の前半部の否定に否定を重ねた表現を噛みくだいていけばさほど難しいものではない。考えても仕方がないことを考えずにいることとは、カップのどぶろくを飲むことを推奨するということらしい。甲斐のないことを考えないためには、濁り酒を一杯飲むべきであるようだ。下手の考え休むに似たりだ、安酒飲んでくよくよするな。
これらの訳はみな当たらずといえども遠からずで、おおむねそれで妥当な訳である(注7)。安酒であっても飲めば自ずと酔っぱらって考えごとができなくなる。頭が回らないという点でハの前と後とが絡んでいる。そのことを完全に見失い、~よりは~すべきであるらしい、~しないで~すべきであるらしい、とパターン化してしまうのはいただけない。なぜなら、ズハと言っているからである。~よりは、の意味を表したいなら上代から常用されているヨリハという。~しないで、の意味を表したいならセズテという。何のためにその言葉が存在し、使われているのか忘れてはならない。
俗っぽい内容であった。文選を理解している必要などまったくない。酒を讃える詞章は酒を知っている民族ならおそらくどこにでもあり、この歌と似た考えも必ずと言っていいほどあるに違いない。大伴旅人は大宰帥の地位にあり、漢詩文に見られるような隠者ではない。酒造りは濁り酒を作ることから始まり、今でも市販されていて、隠者のための限定商品でもない。
酒の名を 聖と負ほせし 古の 大き聖の 言の宣しさ〔酒名乎聖跡負師古昔大聖之言乃宜左〕(万339)
酒の名を聖人と名付けた、古の大聖人というその言葉の適切さよ。
▷禁酒令の行われた魏の時代、酔客たちが秘かに濁酒を賢人、清酒を聖人とよんだという説話(「魏略」・芸文類聚・酒)によって、その命名の絶妙を賛嘆する。第二句の「聖」を、第三・四句で「古の大き聖」と繰り返す。結句の「言」は言葉。
▷禁酒令の行われた魏の時代、酔客たちが秘かに濁酒を賢人、清酒を聖人とよんだという説話(「魏略」・芸文類聚・酒)によって、その命名の絶妙を賛嘆する。第二句の「聖」を、第三・四句で「古の大き聖」と繰り返す。結句の「言」は言葉。
漢土でさえ「魏略」にあるような考え方が普及していたのかよくわからない(注8)。不確かなことを大伴旅人が公言していたとはなかなかに想定しにくい。百歩譲って旅人が勉強して知っていたとしても、地方行政機関で働く役人たちが周りにいて旅人が歌うのを聞いたとき、誰も理解できないであろう。
ヤマトにおいて酒の銘柄として「聖」という名で呼んでいたことは知られていない。銘柄として呼ばれたかもしれない例としては「吉備の酒」(注9)というのがあるが、こことは無関係である。銘柄名ではなく、酒のこと自体をヒジリという言葉と関係することとして呼んだとしか考えられない。酒のことはミワ(ミは甲類)と呼んだことがある。神に供える酒のことという。ミワはまた、三輪山のミワ(ミは甲類)である。酒の神として通っている。古事記の三輪山伝説では、赤土を撒いておいて紡麻を裾につけておいたところ、鍵穴から抜き出ていって三勾残っていた。辿っていくと三輪山に着いたというのである。
哭沢の 神社に神酒据ゑ 祷祈れども わご大君は 高日知らしぬ〔哭澤之神社尓三輪須恵雖祷祈我王者高日所知奴〕(万202)
神酒 日本紀私記に神酒〈美和〉と云ふ。(和名抄)
故、其の麻の三勾遺りしに因りて其地を名づけて美和と謂ふ。(崇神記)
ミワは御輪のこと、御所車などに使う牛車の車輪のことをも指していたと考えられる。輻で構造体を支える巧妙な仕組みでできており、車の直径を2mほどにまで大型化でき、軽量化に伴い動かしやすく壊れにくい。和名抄に、「輪〈輞附〉 野王案に云はく、輪〈音は倫、和〉は車脚の転進する所以なりといふ。四声字苑に云はく、輞〈文両反、楊氏漢語抄に於保和と云ふ。一に輪牙と云ふ〉は車輪の郭曲木なりといふ。」、「輻 老子経に云はく、古車に三十輻〈音は福、夜〉有り、月に象るを以ての数なりといふ。」とある。車輪(輞)を輻が支える構造で、ひとつの車にスポークが30本あるのはひと月が30日であるからとしている。周礼・冬官・輈人に、「軫之方也、以象レ地也。蓋之圜也、以象レ天也。輪輻三十、以象二日月一也。蓋弓二十有八、以象レ星也。」とあるのがもともとの拠りどころとされる(注10)。
つまり、酒のことをいうミワという言葉は、古く、ひと月が30日であると知っていたから成り立っているといえる。日のことをよく知っていてできているのがミワであり、ミワという言葉は酒の別名でもある。ゆえに、大伴旅人は酒のことをヒ(日)+シリ(知)=ヒジリ(聖)であると歌っている。太古の昔、三輪山伝説のことを考えた人は、酒や車のこともよくよく弁えていた人で、日月のことを心得た「大き聖」であったと想定されることを歌っている。昔の人はうまいこと言ったねえ、というのが歌意である。
歌はヤマトコトバで歌われ、ヤマトコトバで聞かれ、ヤマトコトバで理解され、ヤマトコトバで伝えられている。裏を返せば、ヤマトコトバでしか理解されず、それ以外のことは理解されておらず、行われていなかった。
古の 七の賢しき 人たちも 欲りせしものは 酒にしあるらし〔古之七賢人等毛欲為物者酒西有良師〕(万340)
古の七賢人もまた、欲しがったのはもっぱら酒だったらしい。
▷「古の七の賢しき人たち」は、俗世を避け、飲酒、清談、弾琴に遊んだ魏晋の「竹林の七賢人」。
▷「古の七の賢しき人たち」は、俗世を避け、飲酒、清談、弾琴に遊んだ魏晋の「竹林の七賢人」。
この歌は、中国の魏晋南北朝時代の竹林の七賢人のことを歌っているとされている。そのとおりであろう。海を隔てたヤマトにおいて、田舎の役人たちが聞いてわかるかと言えば、なんとなく聞いたようなことだからわかると言えよう。この歌では、「古の」で始まり「らし」で終っている。例えば、万13番歌では、「神代」「古」「うつせみ」の3つの時制が詠まれて「らし」で結んでいる。そうらしいと歌うことは、聞き手も、へえ、そうなんだってさ、と軽い気持ちで受けとることができる。聞き手にとって、それまでぼんやりとしか知らなかったことであっても差し支えがない。もちろん、誰一人として知らないというのでは過去のことを勝手に創作していることになり、出鱈目や嘘の作り話に当たるから歌にされることはない。
…… 神代より かくにあるらし 古も 然にあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき(万13)
注意しておきたいのは、話としてそれらしいと知っているということと、中国の詩文を典故としているということは別物であるという点である。前者はあくまで話の世界、後者は文字を介して勉強した結果である。後者は万葉集の歌にほとんど登場しないと筆者は考える。歌が歌われて周りで聞いている人がその時にわからなければ、歌として成立していないからである。万葉の宴は教室の講義でもなければ、研究者たちが集まる学会後の打ち上げでもない。
この歌も、酒を讃える歌であって一般論を歌にしており、七賢人はその目的のために引っ張り出されている。「七の賢しき人たちも」の「も」は、自分を含めた「賢し」くはない有象無象だけでなく「七の賢しき人たち」でも、の意である。どうして「七の賢しき人たち」が酒を欲したのかについては、詠まれていないからわからないし、わかる必要もない。そういう話として聞いていて、そうであるらしいと言っているからそのままに受けとるのが解し方として正しい。
賢しみと 物言ふよりは 酒飲みて 酔ひ泣きするし 優りたるらし〔賢跡物言従者酒飲而酔哭為師益有良之〕(万341)
賢いからと偉そうにものを言うより、酒を飲んで酔い泣きする方がまさっているらしい。
▷「賢しみと」は、理由を表すミ語法に、引用のトの接した形。「酔ひ泣き」→三四七・三五〇。
▷「賢しみと」は、理由を表すミ語法に、引用のトの接した形。「酔ひ泣き」→三四七・三五〇。
この歌には漢詩文との関係は指摘されていない(注11)。逆に、「賢しみと物言ふ」ことを否定していて、これまで歌ってきたことの教養語りを否定することにもなるとする指摘もある(注12)。筆者はすでに、それらが教養語りではないことを示している。また、泣き上戸のことをいう「酔ひ泣き」について、好まれないことと考えられていたとする説もある(注13)。
この歌では、~ヨリハ~と比較していて、どちらが優っているかといえば後者であるとしている。この表現の巧みなところは、マサル(優・勝)という語を使うところにある。マサルはマス(益・増)という語から派生した語と考えられているが、音としては、マサ(正)とつながりが認められる。マサシ(正)、マサニ(正・将・当)といった語の語幹であり、形状言である。正しいさま、条理にかなったさま、確かなさまをいう。木材を切って材として扱うとき、その切り方で年輪の筋が直線的に平行に入っているのが柾目である。マサニという副詞は、二つの事柄や物が合致していることを意味している。
つまり、ここでマサルという語を使っているのは、「賢しみと物言ふ」ことと、「酒飲みて酔ひ泣きする」こととでは、明らかに「酒飲みて酔ひ泣きする」ことのほうがマサなる点においてマサっていると自己言及的に語ろうとしているためである(注14)。
「賢しみと物言ふ」とき、格好をつけて喋るから、尾鰭をつけて話そうとすることになる。一方、「酒飲みて酔ひ泣きする」とき、思考は停滞して外面をよく見せようとする意識も薄らぎ、憚ることなく本音を吐露している。心と言葉がマサ(正)なる関係、揃っている状態にあるのは、泣き上戸になっている時であると言っている。頓智の利いた名歌である。
言はむすべ せむすべ知らず 極まりて 貴きものは 酒にしあるらし〔将言為便将為便不知極貴物者酒西有良之〕(万342)
言いようもなく、どうしようもないほど、最高に貴重なものは、酒であるらしい。
▷「極まりて」は漢語「極」の訓読語。「極貴」の文字は、巻五、山上憶良の「沈痾自哀文」にも見える。
▷「極まりて」は漢語「極」の訓読語。「極貴」の文字は、巻五、山上憶良の「沈痾自哀文」にも見える。
評価しづらい注が付いている。ヤマトコトバに、キハム、キハマルという動詞があり、助詞のテを付けてキハメテ、キハマリテの形をとっている。この例では副詞的に使われているものの、自然な語展開、語構成であり、「極」字を学ぶことから得られた言葉とは定められそうにない。平安時代以降、漢文訓読に用いられたともされている(注15)。
「極貴」の字面は、山上憶良・沈痾自哀文に載ってはいる。「故、知る、生の極めて貴く、命の至りて重きを。〔故知生之極貴命之至重〕」。そこではキハメテと訓んでいて、キハマリテではない。
この歌では酒のことを一等すばらしいと言っているだけで、特段に何かを語ろうとしているわけではなく、「無内容」(注16)であると評されることもある。
ノム(祈)(粉河寺縁起、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/粉河寺縁起絵巻)
「極貴」なる筆記について、それが仏書によるものであるかどうかはあまり問題ではないが、キハマリテタフトキモノなる言い方は、信仰心と関わりがありそうな言い回しである。信仰心があれば、ましてそれが最高潮に達するときには、人は言葉を発したり、特定の所作をもって奉仕するようなことにならない。祝詞をあげたり二礼二拍手一礼したりと儀式ばることはない。ただ額づいて祈るばかりである。古語では動詞でノム、連用形名詞でノミ(ノ・ミは甲類)といい、「叩頭、此には廼務と云ふ。」(崇神紀十年九月)と見える。このノム・ノミ(叩頭)は、ノム・ノミ(飲、ノ・ミは甲類)」と同音である。言うことでもすることでも方法を知らずに感極まっている様子は、ノム・ノミ(叩頭)ことであるから、ノム・ノミする対象である酒こそが最高に貴重なものなのだと洒落を飛ばしている。頓智の利いた名歌で、漢詩文とは一切かかわりなく、歌詞の言葉は肥沃なヤマトコトバのなかにある。
なかなかに 人とあらずは 酒壺に なりにてしかも 酒に染みなむ〔中々尓人跡不有者酒壺二成而師鴨酒二染甞〕(万343)
なまなかに人間であるよりは、酒壺になってしまいたい。酒気が染みこんでくるだろうから。
▷三国時代の呉の大夫鄭泉が、酒を好むあまりに、死なばわが屍を窯場の側に埋めよ、やがて陶土となって「酒瓶」に作られたいと遺言した故事(琱玉(ちょうぎょく)集・嗜酒篇)による歌。「染む」は「紅に深く染みにし心かも」(一〇四四)、「香にぞ染みぬる」(古今集・春上)の例のように、色や香りや液体などが物に浸透すること。酒が、酒壺となったわが身に染みこむことを願う。壺は清音のツホ。第四句のニは助動詞ヌの連用形。テシカは願望の助詞。
▷三国時代の呉の大夫鄭泉が、酒を好むあまりに、死なばわが屍を窯場の側に埋めよ、やがて陶土となって「酒瓶」に作られたいと遺言した故事(琱玉(ちょうぎょく)集・嗜酒篇)による歌。「染む」は「紅に深く染みにし心かも」(一〇四四)、「香にぞ染みぬる」(古今集・春上)の例のように、色や香りや液体などが物に浸透すること。酒が、酒壺となったわが身に染みこむことを願う。壺は清音のツホ。第四句のニは助動詞ヌの連用形。テシカは願望の助詞。
この歌でも、中国詩文に典故があるとされている。聞いた人が誰一人わからないような難しいことを言っているとは思われない。
「なかなかに 人とあらず」とは、中途半端な暮らしぶりしかできていないことを指している。リッチではない、富んでいない、上層階級ではない、ということである。リッチな家は律令制で「上戸」という。貧しい家は「下戸」である。体質的に酒の飲めない人のことを「下戸」というのは、酒を買うお金がないから酒が飲めないことを指したのに由来するとする説がある(注17)。つまり、「なかなかに人とあらず」とは、貧乏で酒が買えないのだけれど、だからといって酒を飲まずにいるなんてとてもじゃないが我慢できるものではない、そんな境遇に置かれるのはまっぴらご免で、せめて酒壺にでもなってしまいたいものだ、じわじわっと酒が体にしみ込んでくる。「下戸」の二つの意味をうまくとり入れている。
その証拠に、サカツボは、傾斜地の一区画の土地、「坂坪」のことにも当たる。平らなところではあるが貧乏暮らしを強いられるぐらいなら、人間が住むにはふさわしくないかもしれない山奥にポツンと一軒家を構え、酒を密造して楽しみたいではないか(注18)。頓智の効いた名歌である。
あな醜 賢しらをすと 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似る〔痛醜賢良乎為跡酒不飲人乎𤍨見者猿二鴨似〕(万344)
ああ見苦しい。賢明ぶって酒を飲まない人をよく見たら、猿にでも似ているかな。
▷初句切れ。浅智恵の人を猴(猿)のようだと貶めることが中国の詩文には多く見られる。「志性軽躁にして猶ほ獼猴(びこう)の如し」(仏蔵経・中)とも。
▷初句切れ。浅智恵の人を猴(猿)のようだと貶めることが中国の詩文には多く見られる。「志性軽躁にして猶ほ獼猴(びこう)の如し」(仏蔵経・中)とも。
浅知恵の人のことを猿知恵とも言う。その呼び方は漢籍に依らなければ起こらなかったものなのだろうか。
「醜」という言葉は、ミ(見)+ニク(憎)の意、見るのが難しい、見たくない、というのが本義である。なのに歌の後半では、「人をよく見ば」と一生懸命に見ることをしている。周到に仕組まれた修辞表現であると考えるべきである。
「よく見ば」は、よくよく見れば、の意である。古語に「つらつら見れば」のことである。つらつら見て猿にも似ているということは、猿の横顔、ツラ(面)の特徴を見たということである。ツラは左右にあるからつらつらに見ている。人にはなくて猿にあるツラの特徴と言えば、猿頬である。頬袋があって食べ物を貯えておくことができる。食べ物を見つけたら一気に口に入れて頬張り、安全なところへ移動してから噛み直しては飲み込んでお腹に入れている。大伴旅人が酒を讃える歌で歌おうとしているのは酒を飲むことである。
これまでの解釈では、「賢しらをすと酒飲まぬ人」というのは、賢ぶって酒を飲まない人、賢しらである状態を保とうとして酒を飲まない人という意味に捉えられている。「賢しらをす」の意味が、酔わないでおいて後で賢しらごとをすること、酒を飲まずにしらふでいて賢明さを発揮しようとすることと思われていた。そうではあるまい。
「「賢しらをす」と」は後続の「酒飲まぬ」に直接かかる。「と」は指示、資格を表す。つまり、「賢しらをす」ることとは「酒飲まぬ」ことそのものである。酒を飲んでいるかと聞かれれば、ああ、飲んでいると言いながら実際には酒を飲んでいないというのが、酒の席でもっとも「賢しら」なことであろう。どういうことか。
せっかくの宴の席で酒を飲まない人は何をしているか。ご飯を食べている。昔、醸造技術の初期段階では、酒を造るために、蒸し米を口に含んで噛んでから甕などに戻し入れて貯蔵し、醗酵するのを待った。口噛み酒である。酒を醸むというのはその名残りである。酒を飲んでいると言いながら飲んでいない輩は、蒸し米を噛んで貯えているから酒を飲んでいるのと同じことだと醜い言い訳をしている。賢しらな理屈である。蒸し米はどこへ行ったのか。食べてはいないと言っている。ということは、さては猿にある頬袋でも持っているということだな。発想自体が猿知恵で、やってることも猿にそっくりだ、と言っている。頓智の利いた名歌である(注19)。
価なき 宝といふとも 一坏の 濁れる酒に あにまさめやも〔價無寳跡言十方一坏乃濁酒尓豈益目八方〕(万345)
価の知れない珍宝といっても、一杯の濁酒にどうしてまさろうか。
▷「価なき宝」は、仏典語「無価宝」「無価珍」などの翻訳語。結句は反語。漢文訓読の語法か。
▷「価なき宝」は、仏典語「無価宝」「無価珍」などの翻訳語。結句は反語。漢文訓読の語法か。
「価なき宝」という言葉は漢訳仏典(法華経)からとられた語であるとされている。しかし、その言葉が背景とする思想までそのまま享受して歌で表しているとは言えない。例えば次のような歌がある。
銀も 金も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも〔銀母金母玉母奈尓世武尓麻佐礼留多可良古尓斯迦米夜母〕(万803)
この歌は、山上憶良の「子等を思ふ歌一首 并せて序/釈迦如来の、金口に正に説きたまはく、「等しく衆生を思ふこと、羅睺羅の如し」と。又説きたまはく、「愛は子に過ぎたるは無し」と。至極の大聖すら、尚ほ子を愛ぶる心有す。況むや世間の蒼生の、誰か子を愛びざらめや。〔思子等歌一首并序/釋迦如来金口正説等思衆生如羅睺羅又説愛無過子至極大聖尚有愛子之心況乎世間蒼生誰不愛子乎〕」の反歌である。「価なき宝」という言い方は比喩に使われ、「子」のことを指している。今日でも常識的にそう思われいる(注20)。
そんな子どもよりも一杯の濁り酒のほうがまさっていると歌っている。どういうことか。
子(コは甲類)と濃(コは甲類)は同音である。つまり、濃酒(醴)よりも濁り酒のほうがいいと言っている。「醴 四声字苑に云はく、醴〈音は礼、古佐計〉は一日一宿の酒なりといふ。」(和名抄)、「醪 力兆反、平、汁滓雑酒也。古云、一夜酒、謂有滓酒也。古佐介」(新撰字鏡)、「醴酒者、米四升、蘖二升、酒三升、和合醸造、得二醴九升一。」(延喜式・造酒司)、「醴 音礼、コザケ」(名義抄)、「醅 音盃、カスゴメ、俗用糟交二字、コサケ、アマサケ、サケ」(名義抄)とある。日本書紀には、「因りて醴酒を以て天皇に献りて歌して曰さく、」(応神紀十九年十月)と見え、嵩増しした甘酒のようなものかとされている。醴と濁り酒は見た目はあまり変わらないが、吞兵衛としては濁り酒のほうがいいに決まっている。酔いたくて飲むのであって、欲しいのはアルコールである。吞兵衛が飽きずに洒落を言っているよと、内容ともどもおもしろがられたことであろう。
夜光る 玉といふとも 酒飲みて 心を遣るに あにしかめやも〔夜光玉跡言十方酒飲而情乎遣尓豈若目八方〕(万346)
たとえ夜光る珠玉であっても、酒を飲んで思いを晴らすことにどうして及ぼうか。
▷隋侯が得た「夜光珠」は、天下の至宝として有名であった。「珠は夜光と称す」(千字文……)。結句の動詞「しく」は、追いつくこと。
▷隋侯が得た「夜光珠」は、天下の至宝として有名であった。「珠は夜光と称す」(千字文……)。結句の動詞「しく」は、追いつくこと。
「夜光珠」なるものが記された漢籍を典故としているという主張らしい。千字文が当時の地方自治体の役人の間でどれほど勉強されていたのかわからない。千字文というものがあって、ワニという人が我が国にもたらした、という大枠の知識としてなら通っていただろうが、そのなかの一節、「剣号二巨闕一、珠称二夜光一」について、あるいは他の関連記事、史記・鄒陽列伝や捜神記に所載の知識が常識化していたとは考えられない。もし仮に常識化していたのなら、同時代の上代の文献のなかで、酒を讃える歌一か所にしか見られないという状況は起らないだろう(注21)。
左:ヒオウギの花、中:ヒオウギの実、右:檜扇(平城宮内膳司推定地東隣接地区SK820出土、奈良文化財研究所蔵、平城宮いざない館「のこった奇跡 のこした軌跡─未来につなぐ平城宮跡─」展展示品)
夜光る玉として万葉人に知られていたものと言えば、「ぬばたま」「うばたま」の類である。枕詞になっている。「ぬばたま」はヒオウギの実のことかともされている。古語にヒアフギ、同音の言葉に「檜扇」がある。「檜扇」は恋の相手と交換することが行われた。自分の恋心を示すために贈るもの、遣るものである。恋の駆け引きに使われるプレゼントと、飲んでしまって開放的な気分になる飲み物とで、どちらが「心を遣る」点ですぐれているかといえば、絶対に酔いが回る酒の方である。「檜扇」を渡したからといって、その効果のほどは定かではない。恋の相手の心変わりもあるし、最初から素振りだけの場合もある。恋の証として相手に求めるものは、檜扇やダイヤモンドやブランド品やお金でもなくて、肉体関係であることもある。「心を遣る」(注22)という意味においては、心がとろけるほうがふさわしいということである。人間の性をよく心得ながら、頓智的に巧みな比喩を凝らした酒讃歌である。
世の中の 遊びの道に たのしきは 酔ひ泣きするに あるべかるらし〔世間之遊道尓冷者酔泣為尓可有良師〕(万347)
人の世の遊びの道において最も楽しいことは、酔い泣きをすることであるらしい。
▷第三句の原文は諸本「冷者」。「冷」を「怜」の誤りと見てタノシキハと訓んだ本居宣長説(玉の小琴)により改める。飲酒の歌には「楽し」という語がふさわしい。→二六二。ただし、「怡」字であった可能性もある。「怡 タノシフ」(名義抄)。
▷第三句の原文は諸本「冷者」。「冷」を「怜」の誤りと見てタノシキハと訓んだ本居宣長説(玉の小琴)により改める。飲酒の歌には「楽し」という語がふさわしい。→二六二。ただし、「怡」字であった可能性もある。「怡 タノシフ」(名義抄)。
三句目の「冷」字を「怜」の誤写ととる解釈が行われている。しかし、諸本とも「冷」字に揺るがない(注23)。
考えるべきは、「遊びの道」とは何かである。上代において「道」は、往来するところのほか、仏道・学問・芸術などの正しい修行の過程のことを表したり、世間のならい、慣習のことを表したりする。また、「遊び」(名詞)は、神前での舞や音楽のこと、宴会のこと、狩猟のこと、ほかに、「遊行女婦」のように集団で遊芸を行う女性のことも指した。この「遊び」と「道」の組み合わせとして考えられるのは、後の時代に考えられたような伝統芸能を継承するための修行の類ではなく、道路上で行われる音楽のことを言っていると推測される。そのような「遊び」の例は天若日子の殯の様子に描かれている。
故、天若日子が妻、下照比売が哭く声、風と響きて天に到りき。是に、天に在る天若日子が父、天津国玉神と其の妻子と、聞きて降り来て哭き悲しび、乃ち其処に喪屋を作りて、河鴈をきさり持と為、鷺を掃持と為、翠鳥を御食人と為、雀を碓女と為、雉を哭女と為、 如此行ひ定めて、日八日夜八夜以て遊びき。(記上)
殯の際に専門業者を雇っている。それぞれ決められた所作が行われ、それを「遊ぶ」と言っている。「哭女」がいて、声をあげて泣いている。儀礼上の舞や音楽のことだから、これは「遊び」に違いない。どこでするかというと往来であるし、所作は一途に決まっている。つまり、「世の中の遊びの道」というのは、殯のときに専門業者が哭き声をあげることが世の中では一般に執り行われていることを言っている(注24)。歌の後半の「酔ひ泣きする」ことと関わりが出てきて正しい解釈であると確かめられる。
そして、「冷」字はサム(寤、醒、覚、冷)と訓むとわかる。眠りからさめること、迷いからさめること、酔いからさめること、熱気からさめることをすべてサムといい、サムシ(寒)と同根の言葉である。名義抄では「覚」「冷」「涼」「寤」「蘇」「醒」などにサムの訓みがある。
葬儀業者のすることはお決まりだから、葬式でどんなに大きな声で泣かれても心が籠っていない気がして興ざめする。泣き方として下手だということである。真心から泣いているように聞こえるのは「酔ひ泣き」である。万341番歌同様、「酔ひ泣き」を肯定的に捉えて歌を歌っている。酒を讃える歌なのだから、酒を飲んだ結果の「酔ひ泣き」を否定的に捉えたら讃える歌とならない。
世の中の 遊びの道に 冷めたれば 酔ひ泣きするに あるべくあるらし(万347)
世の中で礼法上行われている殯のときの「遊びの道」の泣き声に皆興ざめしてしまっているので、酔っぱらって泣き上戸になって声をあげて泣くことが世の中にあってしかるべきこととなっているようだ。
この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 我はなりなむ〔今代尓之樂有者来生者蟲尓鳥尓毛吾羽成奈武〕(万348)
この現世に、楽しくしていられたら、来世には虫にも鳥にも私はなってしまおう。
▷「この世」「来む世」は、もと仏典の「此世」「来世」の訓読にもとづく語であったか。この歌と次歌には酒に関する語がないが、「楽し」によって飲酒の快楽が暗示される。古代語「楽し」は飲酒の場に集中して用いられる。「酒は不善諸悪の根本」(涅槃経二)などと説く仏典には、悪業によって鳥や虫に化する報を受けることを言う。「虫に鳥にも」は、七音句の制約により「虫にも」のモを略した。
▷「この世」「来む世」は、もと仏典の「此世」「来世」の訓読にもとづく語であったか。この歌と次歌には酒に関する語がないが、「楽し」によって飲酒の快楽が暗示される。古代語「楽し」は飲酒の場に集中して用いられる。「酒は不善諸悪の根本」(涅槃経二)などと説く仏典には、悪業によって鳥や虫に化する報を受けることを言う。「虫に鳥にも」は、七音句の制約により「虫にも」のモを略した。
この歌には酒の文言が入っていない。酒との関連を探ると、酒を飲むことが楽しいことであろうことは確かである。そして、「酔ひ泣きする」ことを盛んに述べているので、酒を飲むと泣き上戸で酔って泣くのが常のようである。ということは、この世でそうやっているように、来るべき新たなる生においても同じようにナクことがしたいから、鳴く生き物、虫や鳥になりたいな、ととぼけたことを歌っている。きっと虫や鳥が鳴いているのも、酒を飲んで「酔ひ鳴き」しているに違いないからというのである。この洒落た表現について、因果応報の考えの表れととることは無粋であろう。
生まるれば 遂にも死ぬる ものにあれば この世なる間は 楽しくをあらな〔生者遂毛死物尓有者今生在間者樂乎有名〕(万349)
生まれたら、後には必ず死ぬと決まっているものだから、この世に生きている間は楽しくありたいな。
▷「生まるる者は皆死に帰し」(無常経)、「人生まるれば要(かなら)ず死す、何為(なんす)れぞ心を苦しめん」(漢・広陵王胥「歌」)。また、「酒に対して当(まさ)に歌ふべし、人生幾何(いくばく)ぞ」(魏・武帝「短歌行」・文選二十七)は、どうせ短い生なのだから、酒を飲んで楽しくすごそうと詠う。
▷「生まるる者は皆死に帰し」(無常経)、「人生まるれば要(かなら)ず死す、何為(なんす)れぞ心を苦しめん」(漢・広陵王胥「歌」)。また、「酒に対して当(まさ)に歌ふべし、人生幾何(いくばく)ぞ」(魏・武帝「短歌行」・文選二十七)は、どうせ短い生なのだから、酒を飲んで楽しくすごそうと詠う。
この歌にも酒の文言が入っていない。万348番歌同様、「楽し」いこととは酒を飲んで酔って泣くこととすれば、この世に生きているうちは酔っぱらって泣いていたいものだ、と言っていることになる。上三句で人生について大きなことを語っているように見えながら、酔っぱらって泣き上戸になっていることをお茶目に肯定するために構えている。生まれたら必ず死ぬわけであるが、だからといって、死んだら酔うことも泣くこともできないということを言うために大仰に述べているのだとは考えにくい(注25)。なぜといって、これは酒の讃歌である。前世、今生、来世を並べて、今生は「酔ひ泣き」して楽しくありたい、酒があるのは今生だけだ、来世では香を嗅ぐしかできないのだ、などと言っているとは考えられないからである。
人は泣きながら生まれてくる。死ぬともう泣くことはないが、万347番歌で見たような雇われた哭女の儀礼的仕儀であれ、周りの者は泣く。その二者の泣きに挟まれているのが「今生」なるこの世である。「今生在間者」は「この世にある間は」(注26)と訓むものと思われる。生まれる時のことと死ぬ時のことの二者をあげているから「遂にも」と言っていて、「遂には」ではないのだろう。生まれた時と死ぬ時に訳もわからず泣くのと違い、その間だけは楽しく泣きたい、「酔ひ泣き」したいと言っている。その間のことを「今生」と戯れに呼んでいる。人生の最初、最後と、その間とでは、泣く心が違うようにしたいと主張し、うまい具合に泣き上戸を正当化している。巧みなレトリックを漢籍由来の観念と解くことはできない。
もだ居りて 賢しらするは 酒飲みて 酔ひ泣きするに なほしかずけり〔黙然居而賢良為者飲酒而酔泣為尓尚不如来〕(万350)
むっつりと賢そうにしているのは、酒を飲んで酔い泣きをすることにやはり及ばない。
▷「もだ」の原文は「黙然」。黙っていること。上二句は、仏典語の「賢聖黙然」に通ずる。
▷「もだ」の原文は「黙然」。黙っていること。上二句は、仏典語の「賢聖黙然」に通ずる。
これまでも出てきた「賢しら」と「酔ひ泣き」にまつわる歌である。「賢しらす」とは黙っていて賢明なふりをすること、おしゃべりは銀、沈黙は金、のようなことと思われている。しかし、「賢しらに」と副詞に使う場合、自分の判断で積極的に、の意に用いられる。「賢しら」は、自分の判断は何にもまして正しいのだと我勝ちに自信を持った言動のことを指している。万344番歌において「賢しらをすと酒飲まぬ」こととは、「賢しらをす」ることがすなわち「酒飲まぬ」ことであった。この歌でも、同様に考えればよいのであろう。
「賢しらす」には何か言動が伴っている。「黙然居りて」とは、黙っていること、また、何もしないでいることを表す。両者の結びつきは一見矛盾するトリッキーなものである。「黙然居りて賢しらする」とは、「賢しらする」ことが「黙然居りて」いることなのである。酒を飲むか飲まないかといったやりとりにさえ加わらずに黙っていて、局外中立的に何もなかったかのようにやり過ごそうとすることである。でも、そんなことは、酒を飲んで酔っぱらって泣き上戸に陥って止まらないことにはやはり及ばないものだと気がついた、と言っている。「なほ」とあるのは、万344番歌と同じように、の意と、とり上げてはみたがやはり何といっても、の意を兼ねたものと解される。酒宴において、やってますか? と聞かれて、はい頂いていますと答えながら飲んでいないのもだが、会話の輪に入らずに隅っこで飲まずに黙っていてただ時間が過ぎるのを待っている人も、酔っぱらって泣き上戸になって心が溶けているのには比較にならないものだと了解するに至ったと言っている。何を「けり」と悟ったのか。
万349番歌では、生まれた時と死ぬ時に泣くのは気持ちが張り詰めて泣いていることと見られていた。楽しくて泣いているのではないのである。気持ちをゆるゆるにすることが楽しいことのはずだから、酔っぱらって泣き上戸に泣くことこそ楽しいことである。酒はなんてすばらしいのだろう。せっかく酒が用意された宴席で、黙ってやり過ごして酒を飲まないなんて、生れて死ぬまでの間の人生を楽しもうとさえしないこと、最初から放棄していることで、ただ命を長らえているだけの何もない人生を送っているということではないか。酒というありがたいものがあって、気持ちを弛緩させることができるのに、知らぬ存ぜぬを通すなど、話にならないことだとよくわかったと述べている。
以上、大伴旅人の讃酒歌を検討してきた。すべては酒のすばらしさをヤマトコトバで讃える歌であった。
歌はヤマトコトバでできている。ヤマトコトバは母語であり、ものを考えるのにヤマトコトバで考え、ヤマトコトバで言葉に表してコミュニケーションをとっている。
至極当たり前のことである。声をあげて歌を歌ったとき、周りの人が聞いて理解できなければそれは歌として存立しない。中国ではこれこれこういうことを言っている、と言われても、そんなこと知らないよ、だってここは中国じゃなくてヤマトの国だから。誰に向かって歌っているの? そんなに中国かぶれのことを言いたいのなら、漢詩にして発表したらいいじゃないの、字もろくすっぽ読めないし書けない私たちを詩会に呼んだりしないでね、ということである。
言葉は使われて言葉である。もともと漢語であり、翻訳語として成った言葉であれ、ヤマトコトバとして使われている。使われているということは、すでにあるということである。そのことと中国の詩文から目で見て得られる「知識」とは異なる。漢籍にある「夜光珠」という知識は、上代のヤマトにおいて言葉として使われておらず、広く知られてはいない。それが実情である。もちろん、中国から伝来して普及した技術は数知れない。「馬」、「甕」、「機」、「仏」、「文」……。これらは皆、ヤマトコトバの顔をしてヤマトコトバとして使われている(注27)。すでに自家薬籠中におさめた技術は既知のことであり、つまりはヤマトコトバに造られていて日常言語として使われている。他方、唐突に知らないことを声を張り上げて歌うことは、選挙でもないのに一人街頭に立って演説を始めるようなもの、「狂言」や「逆言(妖言)」に受けとられかねない。そのようなことは完全になかったとは言わないが、あったとしても周りが理解できない。歌が歌われる空間において音声言語として成り立っていなければ、歌として認められることはあり得ない。万葉歌の内容を理解するには、歌われている言葉(音)のヤマトコトバとしての性格を「正しく」理解することが先決である。どんなに漢籍を繙いてみても、筆記の研究や漢文で記そうと試みられた題詞や左注、山上憶良の文などを除き、直接つながることなどない。万葉集を歌っていた上代人に近づくためには、我々現代人の感覚としてではなく当時の人々の感覚でヤマトコトバを「正しく」理解していくことが唯一の方法である。誰が聞くこともウェルカムであった万葉集の歌は、そこに現代に対する付加価値があるかどうかは別として、今日でも万人に開かれている。
(注)
(注1)巻之三中、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979062/1/351~参照。
(注2)万葉集の歌は、ヤマトコトバで考えてヤマトコトバで作ってある。片仮名外来語を挿入してあたかもすごいことを言っているように見せかける政府文書ではない。白書は国民が読んだりしないからそれでかまわないが、万葉集に載る歌は、声をあげて周りにいる人が聞いたものである。周りにいる人が聞いてわからなければ歌として安定、定着しない。ものの考え方が漢籍の外注でできているとして事足れりとする発想は、ヤマトコトバの内実、ヤマトの人のものの考え方に迫ろうとする気がないばかりか、漢籍の出典を示してどこか誇らしげな様子でさえある。曲解の挙げ句に「個人的感懐の表現」(寺川2005.5頁)、「酒という具に基づいて思いを述べる精神文化の成熟」(辰巳2020.63頁)であるなどと評されている。「讃酒歌」のなかで「賢しら」と詠まれているそのものの姿を身にまとっている。お勉強屋さんの、お勉強屋さんによる、お勉強屋さんのための万葉歌解釈は、防人歌や東歌を同列に含めて驕るところのない万葉時代の人たちの、万葉時代の人たちによる、万葉時代の人たちのための万葉集歌とは別のところにある。
(注3)新大系文庫本261~265頁。
「讃酒歌」を歌群としてその構成を読み解こうとする研究も見られるが、これまでのような覚束ない解釈のままに歌群の構造がどうなっているのか論じても仕方がなく、当面の課題としない。
(注4)本居宣長・詞玉緒、橋本1951.、山口1980.、西宮1991.、大野1993.、佐佐木1999.、鈴木2003ab.、小柳2004.、栗田2010.、古川2018.など参照。
(注5)ハへと接続している「ず」、ラシへと接続している「ある」はそれぞれ適した活用形になっている。「ず」は連用形でいわゆる連用形中止法になっている。「ず」を未然形、ハを接続助詞とする説もみられる(小田2015.268頁)。
(注6)往年のCMの例は、「クリープを入れないコーヒーなんて、ピンボケの写真のようだ。」といった譬えを使っていたと記憶する。ここでは日焼けした写真プリントに改めた。写真プリントがコーヒー色に焼けることを含ませたかったからである。「ハ」の前と後とが絡んでいなければ歌のレトリックとしておもしろみがない。あるいはこうも言えるだろう。「ハ」の前と後とでかけ離れたことを言っていて、それをつなぐ助詞「ハ」に負荷がかかっている。どうして両者を「ハ」でつなぐことができるのかという疑問に対して、ほら、よく考えてごらん、前と後とで絡んでいるところがあるだろう、と証明してみせているのである。
(注7)井伏鱒二の名訳を引く。三・四句目のつながりが訳出に失われていない。なお、上代のズハの用法については拙稿「万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─」も参照されたい。
勧酒 于武陵
勧君金屈巵 コノサカヅキヲ受ケテクレ
満酌不須辞 ドウゾナミナミツガシテオクレ
花発多風雨 ハナニアラシノタトヘモアルゾ
人生足別離 「サヨナラ」ダケガ人生ダ
この詩と旅人の歌とでは大きな違いがある。旅人の歌は酒を讃える歌であり、自分がこれから酒を飲むとか、相手に酒を勧めるといった歌ではない。一般論を歌っている。歌の文句にあるような験なき物思いも一般論であって、具体的になにか煩わしい事態に直面していたことを反映するものではない。
(注8)大伴旅人がどの漢籍を見て学んだかを突き止めようとする努力が行われている。書名が記載された大伴旅人の日記が発見されでもしなければ特定されることはない。論拠の後ろ盾を持たない推論は空論である。
讃酒歌について旅人の独吟、モノローグであるとする見方も行われている。上代における「歌」とは何かについて、根本的なところを理解しようとしていない。
(注9)「吉備能酒」(万554)とあるが、産地名のことではなく「黍の酒」のこととも考えられている。
(注10)絵巻物に描かれた牛車では、輻の数は21本、24本などのことが多い。外枠の板の数が奇数になっているのは技術的な問題で、板の継ぎ目が上下に揃わないようにして壊れないようにしているからという。周礼の理念には反するが、致し方ないということだろう。
(注11)漢詩文に「酔泣」という語も見られないという。このような例を認めておきながら漢籍出典説を唱えることはダブルスタンダードになるだろう。
(注12)鉄野2016.100~101頁。
(注13)「酔ひ泣き」の語は万347・350番歌にも出てくる。節操を欠いているとか、みっともないことだといったニュアンスは受け取れない。書いてないからわざわざ色眼鏡でみる必要はない。
(注14)二者を比較してどちらが良いかと尋ねるときに、言葉を自己言及的に活用している例としては、「夫と兄と孰か愛そ」(垂仁記)の例がある。拙稿「古事記のサホビメ物語について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/409df1a4513ed94a0b63264673b829ef参照。上代の人は、AとBとを比べるという時、何の点において比べているのかを非常に厳密に、厳格に比べており、AとBのなかにその言葉を意味するところがないか、えぐるように探っている。
(注15)岩波古語辞典379頁。
小島1964.は、「極貴」は後漢書・梁皇后紀に見え、「極貴は訓読による漢籍語の応用と云へる。」(932頁、漢字の旧字体は改めた)としているが、「応用」などと言い出されたら証明のしようも反証のしようもない。どうやって言葉を捻り出しているかが焦点になるのではなく、どうしてそのような言葉を使っているのか、使用の問題として考えなければならない。使用されて通じているから言葉として成り立っている。
(注16)鉄野2016.101頁。
(注17)田令に、「凡課二桑漆一、上戸桑三百根、漆一百根以上、中戸桑二百根、漆七十根以上、下戸桑一百根、漆卌根以上、五年種畢。郷土不レ宜、及狭郷者、不二必満レ数。」、紀では、「諸国の貸税、今より以後、明に百姓を察て、先づ富貧を知りて、三等に簡び定めよ。仍りて中戸より以下に貸与ふべし。」(天武紀四年四月)とある。法制度上では、三等戸と九等戸の二種類の分け方があり、三等戸制は丁数(成年男子数)による分類、九等戸制は資財量(貧富)による分類であると見られている。ここで「上戸」、「下戸」という観念は、天武紀に記されているように貧富の差を示すものである。
(注18)「なかなかに 人~」とつづく歌は、他に次の歌がある。
なかなかに 人とあらずは 桑子にも ならましものを 玉の緒ばかり(万3086)
注17で示した田令の公課に桑のことが記されている。だから蚕のことをいう「桑子」が出てきている。中途半端な暮らしぶりしかできていない人、下戸は、短期間でも桑子にもなりたいものだなあ、と思い願うものであると言っている。下戸は暮らしに余裕がなく、税も多くは納められず、絹とは縁のない生活をしている。それでも桑を一百根課されている。蚕に桑の葉を食べさせて糸を吐かせ、絹を生産するためである。下戸はわずかにしか貢献していない。それに対応するように、「玉の緒」という言葉を使っている。「玉の緒」は短いから、「玉の緒ばかり」はちょっとでも、の意である。少しの桑拠出でできた絹の緒を使う「玉の緒」になってみたいとずるっこい考えをくり広げている。絹の緒は貴重だろうが、結ぶ玉石のほうが価値はずっと高い。つまりは玉の輿に乗りたいというのである。
(注19)このような頓智的思考と、芸文類聚から得た知識を使って歌を作ったのだという知識的思考は相容れるものではない。鉄野氏の議論では、猿に似ているのは酒を飲んで赤ら顔をしたほうであるとし、酔いが回っているから言葉が転倒しているとまで言う(105頁)。しかし、これらの歌は「大宰帥大伴卿讃レ酒歌十三首」であって、「大宰帥大伴卿酔レ酒歌十三首」ではない。
(注20)何度も断っているように、歌は歌われて聞かれて理解されてナンボのものである。ちまたの常識を基にしなければ通じることはない。「無価宝珠」は現世においてずっと安楽に暮らせるだけの富をもたらすものであると解されることがあるが、年金や投資のセミナーにおいて作られた歌ではあるまい。
(注21)中古では、源氏物語・松風に、「若者は、いともいともうつくしげに、夜光りけむ玉の心地して、袖より外には放ちきこえざりつるを、……」と見え、源順集などにも例がある。紫式部の頃には中国では最も珍重な宝物の代表と認識されるに至っている。それは容易に想像がつく。源氏物語は紫式部が文字として書いている。文字から得られた知識を文字に落としている。一方、それを遡ること270年ほど前に、大伴旅人は言葉(ヤマトコトバ)として声をあげて歌っている。知識を発表するために歌があるのではないし、三十一音で発表されても何を言っているのか理解できなくては用をなさない。歌に使われる言葉は、歌い手ばかりでなく聞き手もすでに、ともに、肌感覚で認識している言葉でなければ聞き取ることはできない。
(注22)小島1964.は、「心やる」(遣悶・遣情・消悶)、「この世」(現世)、「来む世」(来世)、「濁れる酒」(濁酒)、「いにしへの七の賢しき人等」(七賢人)、「価なき宝」(無価宝珠)、「夜光る玉」(夜光之璧)、「生ける者遂にも死ぬる」(涅槃経純陀品)を大伴旅人による翻訳語の造語であるとし、漢籍を「眼」で学んだことが明らかであるという(931頁)。どうして旅人による造語であると決めてかかれるのか、そもそもそれらは「いにしへの七の賢しき人」以外、漢籍と関わらなければ生れ出るはずのない考え方なのか、確証は得られない。古墳に埋葬して副葬品を供えたのは、「来む世」があると思っていたからのようであるし、酒には澄めるのと濁れるのとがあると戯れて言うことは至極自然な発想であろう。それらのヤマトコトバを筆記するに当たり、漢籍ではどのように書いてあるかを瞥見したところ、それらしい書き方を見つけて当て字をしたためたら、あたかも翻訳語を造語しているかに見えているだけのことではないか。このことは、それらの語が登場する歌の解釈と直結する。これまでの研究による歌の解釈は、「酒を讃ふる歌」の解釈として履き違えている。
(注23)「冷者」はスサメルハ(童蒙抄ほか)と訓む説のほか、スズシクハ、スズシキハとオーソドックスに訓む例も多い。ただし、「冷」をスズシと訓んでも、心が清く爽やかととる説ばかりでなく、心が荒涼として楽しまないととる説もある。
(注24)「世間」という漢字の字面は仏教語である。それをセケンと音でよめば仏教語由来の言葉である。ところが、万葉集ではヨノナカと訓み、ここでは一般に通行していることを表している。このヨノナカという言葉は、仏教語から派生したものなのか、あるいは仏教語が侵食してきたものなのか。
ヨノナカという語はヨ(世・代)+ノ(助詞)+ナカ(中)という語構成によって作られている。ヨ(世・代、ヨは乙類)をイメージするうえでは、竹の節と節の間のことをいうヨ(節間)という言葉が大いに与っている。区切られた間のところ、かぐや姫が入って光っていたところがヨである。そのヨ(節間、ヨは乙類)という言葉を説明調に表したら、ヨノナカという言葉ができあがる。
(注25)同じく大伴旅人の歌に次のようにある。
世の中は むなしきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり(万793)
一般性を表現する形式をなすものとして「もの」という語が使われている。この歌は仏教語の「世間空」と関連があるとされ、万349番歌でも「仏者の生者必滅といふ常套語をとり来りて語をなしたるなり。」(山田1943.国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880320/1/254~255)と捉えられている。次の例も参照される。
…… 生まるれば〔生者〕 死ぬといふことに 免れぬ ものにしあれば ……(万460、大伴坂上郎女)
「生者」は「生ける者」、「生ける人」といった訓もあるが、山田氏は「生まるれば」と訓むとする考えで、筆者も採る。
(注26)西宮1984.221頁に一案として示され、古典集成本や伊藤1996.178頁が採っている。
(注27)和訓と呼ばれる言葉群である。翻訳語と呼ぶべきものではない点に思いを致すことは、当時の人たちが言葉をどのように考えて使っていたのかについて深い洞察へと導いてくれる。
(引用・参考文献)
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山田1943. 山田孝雄『萬葉集講義 巻第三』宝文館、昭和18年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1880320
※大伴旅人の讃酒歌の論考については近年のものに限って記載し、注釈書も特筆すべき点のない場合は割愛した。