古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

上代における死のケガレについて 其の一

2019年01月17日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 本邦におけるケガレについての研究には、いくつかの接近法がある。民俗学、歴史学、宗教学、神話学、上代文学などである。議論として主だっているものに、民俗学の一派がある。ケガレとは、ハレ(晴)―ケ(褻)―ケガレ(穢)の構造の中にあるもので、ケガレとは、ケ(褻または気)がカレ(枯または離)ることであるとする“学術用語”が作られて物語られた。波平恵美子、桜井徳太郎、宮田登らによって理屈っぽく語られている。歴史的にどのようにケガレの概念があったかということとは別に、言葉を“造語”して図式に合うように嵌め込んで事実を説こうとしており、議論のための議論であると言わざるを得ない。白川1995.に、「晴(は)れと褻(け)との別は上代語にみえず、中世のモノであろうと思われる。」(317頁)(注1)、西宮1990.に、「奈良朝以降今日まで用ゐられてゐる日本語のケガレは依然として「不浄・よごれる・きたない」が基本的な意味をもち続けてきてゐるが、それだけに精力源、活動源の枯渇といふやうなエネルギーを意識させるやうな意味もまた機能ももちあはせてゐないと考へられるのである。」(131~132頁)とある。
 本稿において問題にしたいのは、上代においてケガレはどのように意識されていたか、という点である。意識調査もせずに了解の域に達するためには、ケガレという言葉がどのように用いられていたかを吟味することに限られる。意識されているからケガレという言葉がある。どのような場面でケガレという言葉が用いられていて、どのようなところで用いられていないか、形容詞形にケガラハシとキタナシの区別をいかにつけているかを見出せば、上代におけるケガレ意識について迫ることができる。
 大化薄葬令に、次のようにある。

 凡そ畿内(うちつくに)より、諸の国等(くにぐに)に及(いた)るまでに、一所(ひとところ)に定めて収め埋めしめ、汚穢(けがらは)しく処々に散し埋むることを得じ。(孝徳紀大化二年三月)

 「不汚穢散埋処々」とあるからには、当時、まだ墓埋法がなく、どこにでも埋められていたことを表す。その状況を、「汚穢」と言っている。墓地と定めた特定の一個所に集中させれば、「汚穢(けがらは)しく」はないと孝徳天皇は考えていて、詔を発している。これは、上代におけるケガレの観念のあり方を窺い知る好例である(注2)
 上代におけるケガレの観念に、死の穢れを忌むことに普遍性はなかったとする説が提唱されている。土谷1986.に、「穢の用法には時代的な変遷があり、「穢=不浄」として忌避すべきものとする考え方が一般化するのは八世紀頃の仏教との交渉が深まりはじめた時からであり、特に九世紀半ば以降にその強化が進められるようになった。……延喜式にある穢観とそれに伴う規制は、九世紀、十世紀頃を中心とした仏教的不浄観に刺戟されての一学説であろう。……仮にこのことを、神道の発展過程のなかにおける文化的吸収であり、神道心意の拡大と整理であるとするにしても、それは国家観、天皇観、人間観の大きな転換を伴うことである。」(155~156頁)とする。大本2013.は、記紀万葉に載る「穢」字の特徴として、「一、単独名詞(「穢」が一文字で名詞となっているもの)は全く出てこない。これは「穢」の概念が穢として固定化していないことを示すといえる。当然、触穢の穢と同一の用いられ方をする「穢」はでてこない。二、土谷が述べているように、「穢」は必ずしも「不浄」をあらわしてはいない。三、「穢」の訓は「キタナキ」「ケガス」「ナレ」など多様であることがわかる。」(34頁)をあげている。上代に、忌避すべきとされるはずのケガレの概念は固定化しておらず、今日知られる触穢の意識も芽生えていないと指摘している。
 ただし、ケガレやケガル、ケガス、ケガラハシという言葉は歴として存在する。ヤマトコトバのケガレについて、漢字の「穢」を用字として当てるかどうかについて固定化していないといったほうが正しいであろう。そのヤマトコトバにいうケガレという概念が、時代的な変遷を大きく被った語であったことは首肯される。これはもはや、上代において、ケガレとはどういうものであったかという、いわば定義の問題にたち返ることになる。用字としての「穢」は主題ではなく、ケガレと言われていたこと、文字資料である記紀万葉から求める際にケガレ、ケガル、ケガス、ケガラハシなどと訓まれるべき内容について、どのような意味で用いられているか、それを検討しなくてはならない。
 西宮1990.に、記紀にケガレと訓まれるかもしれない正訓字の諸例をあげている。ここでは、筆者の判断で妥当と思われる訓読文を提示した(注3)

 古事記
(1)いなしこめしこめき穢(きたな)き国(伊那志許米志許米岐穢国)(記上)
(2)此の二神(ふたはしら)は其の穢繁(しけ)しき国に到りたまひし時、汚垢(けがれ)に因りて成れる神なり。(此二神者所其穢繁国之時、因汚垢而所成之神者也。)(記上)(注4)
(3)邪(きたな)き心(邪心)(記上・崇神記・安康記)
(4)穢汚(きたな)くして奉進(たてまつ)ると以為(おもほ)して(以-為穢汚而奉進)(記上)
(5)何ぞ吾を穢(きたな)き死人(しにひと)に比(そ)ふる。(何吾比穢死人。)(記上)
(6)僕(やつかれ)は穢邪(きたな)き心無し。(僕者無穢邪心。)(履中記)
(7)是(こ)は義(ことわり)にあらず。(是不義)(履中記)
 日本書紀
(1)伊弉諾尊、既に還りて、乃ち追ひて悔いて曰はく、「吾前(さき)に不須也凶目(いなしこめ)き汚穢(きたな)き処に到る。故、吾が身の濁穢(けがらはしきもの)を滌(あら)ひ去(う)てむ」とのたまふ。則ち往きて筑紫の日向の小戸の橘の檍原(あはきはら)に至りまして、祓(みそ)ぎ除(はら)へたまふ。遂に身の所汚(きたなきもの)を盪滌(すす)ぎたまはむとして、……不須也凶目汚穢、此には伊儺之居梅枳枳多儺枳(いなしこめききたなき)と云ふ。(伊弉諾尊既還、乃追悔之曰、「吾前到於不須也凶目汚穢之処。故当-去吾身之濁穢」。則往至筑紫日向小戸橘之檍原、而祓除焉。遂将-滌身之所汚、……不須也凶目汚穢、此云伊儺之居梅枳枳多儺枳。)(神代紀第五段一書第六……第七)
(2)但し親(みづか)ら泉国(よもつくに)を見たり。此既に不祥(さがな)し。故、其の穢悪(けがらはしきもの)を濯ぎ除(はら)はむと欲して、(但親見泉国。此既不祥。故欲-除其穢悪、)(神代紀第五段一書第十)
(3)月夜見尊、忿然(いか)りて作色(おもほてり)して曰はく、「穢(けがらは)しきかな。鄙(いや)しきかな。寧(いづくに)ぞ口より吐(たぐ)れる物を以て、敢へて我に養(あ)ふべけむ」とのたまひて、(月夜見尊、忿然作色曰、「穢哉。鄙矣。寧可口吐之物、敢養上レ我乎」、)(神代紀第五段一書第十一)
(4)素戔嗚尊、対へて曰はく、「吾(やつかれ)は元(はじめより)黒(きたな)き心無し。……濁(きたな)き心……」(素戔嗚尊、対曰、「吾元無黒心。……濁心……」)(神代紀第六段本文)・悪(きたな)き心……悪(あ)しき意(こころ)(悪心……悪意)(同一書第一)
(5)衆神(もろかみたち)の曰く、「汝(いまし)は是躬(み)の行(しはざ)濁悪(けがらは)しくして、逐(やら)ひ謫(せ)めらるる者(かみ)なり。……」(衆神曰、「汝是躬行濁悪、而見逐謫者。……」)(神代紀第七段一書第三)
(6)味耜高彦根神、忿然(いかり)作色(おもほてり)して曰く、「朋友(ともがら)の道、理(ことわり)相(あひ)弔(と)ふべし。故、汚穢(けがらは)しきに憚らずして、遠くより赴(おもぶ)き哀ぶ。何為れか我を亡者(しにたるひと)に誤つ」といひて、……世人(よのひと)、生(いけるひと)を以て死(しにたるひと)に誤つことを忌む、此其の縁(ことのもと)なり。(味耜高彦根神、忿然作色曰、「朋友之道、理宜相弔。故不汚穢、遠自赴哀。何為誤我於亡者」、……世人悪生誤一レ死、此其縁也。)(神代紀第九段本文)
(7)亦(また)形姿(かほ)穢陋(かたな)し。(亦形姿穢陋。)(景行紀四年二月)
(8)台直須弥(うてなのあたひすみ)は、初(はじめ)は上を諫むと雖も、遂に俱に濁(けが)れたり。(台直須弥、初雖上、而遂俱濁。)(孝徳紀大化二年三月)
(9)凡そ畿内(うちつくに)より、諸の国等(くにぐに)に及(いた)るまでに、一所(ひとところ)に定めて、収め埋めしむべし。汚穢(けがらは)しく処処(ところどころ)に散し埋むること得じ。(凡自畿内、及諸国等、宜一所、而使収埋。不汚穢散埋処処。)(孝徳紀大化二年三月)
(10)凡そ諸の僧尼(ほふしあま)は、常に寺の内に住(はべ)りて、三宝(さむぽう)を護れ。然るに或いは及老(お)い、或いは患病(や)みて、其れ永(ひたぶる)に陜(せば)き房(むろ)に臥(ふ)して、久しく老疾(おいやまひ)に苦ぶる者は、進止(ふるまひ)便(もやもや)もあらずして、浄地(いさぎよきところ)亦穢(けが)る。(凡諸僧尼者、常住寺内、以護三宝。然或及老、或患病、其永臥陜房、久苦老疾者、進止不便、浄地亦穢。)(天武紀八年十月是月)
(11)素戔嗚尊……天照大神の新嘗(にひなへきこ)しめす時を見て、則ち陰(ひそか)に新宮(にひなへのみや)に放𡱁(くそま)る。(素戔嗚尊……見天照大神当新嘗時、則陰放- 𡱁於新宮。)(神代紀第七段本文)
(12)是に、兄、著犢鼻(たふさき)して、赭(そほに)を以て掌(たなうら)に塗り面に塗りて、其の弟(おとのみこ)に告(まを)して曰(まを)さく、「吾(われ)、身を汚(けが)すこと此(かく)の如し。永(ひたぶる)に汝(いまし)の俳優者(わざをきひと)たらむ。……」とまをす。(於是、兄著犢鼻、以赭塗掌塗面、告其弟曰、「吾汚身如此。永為汝俳優者。……」。)(神代紀第十段一書第四)
(13)是に、千熊長彦を新羅に遣して、責むるに百済の献物(たてまつりもの)を濫(けがしみだ)れりといふことを以てす。(於是、遣千熊長彦于新羅、責以百済之献物。)(神功紀四十七年四月)
(14)武彦、皇女を姧(けが)しまつりて任身(はら)ましめたり。(武彦姧皇女而使任身。)(雄略紀三年四月)
(15)爰に神の名(みな)・王(きみ)の名を以て、人の賂物(まひなひ)とするの故に、他(ひと)の奴婢(をのこやつこめのこやつこ)に入れて、清き名を穢汚(けが)す。(爰以神名・王名、為人賂物之故、入他奴婢、穢-汚清名。)(孝徳紀大化三年四月)

 西宮1990.は、キタナシ、ケガレ、ケガスの一覧を作成して、それぞれの語系の内容の由来を探っている。しかし、判然としない点も多いためか、王朝仮名文学の例を引き、そこでのケガレの意味をまとめている。
(イ)ケガレは、基本的に「不浄・よごれる・きたない」と観念されるものや事柄で、それは「忌(い)み嫌はれる」感情が作用する。
(ロ)「月経」の如く、「にはかに」といつた突然性が考へられる。
(ハ)「清浄汚損」「名誉毀損」とかの如く、「損ずる・そこなふ・傷つく」といふ「よごれ」がある。(125頁)
そして、最終的に、ケガレの語源に、ケガ(怪我)という語幹をみる仮説を私按として提唱している(注5)
 土谷1986.、大本2013.が示唆するとおり、古代においてケガレの観念自体が大きく変化している。(ロ)の月経は上代にケガレとされておらず、「にはかに」感も不明である。成清2003.に、弘仁式や延喜式よりも以前の古代においては、「人間の出産を忌む「産穢」などはまだ成立しておらず、記紀神話などにたびたび登場する「産屋」も出産瞥見の禁忌を示すものと考えられるのではないだろうか。」(81~82頁)とする。また、古事記の美夜受比売(みやずひめ)の「月経(さはり)」のことを記す歌謡(記27)も、触穢の思想から歌われているものではない。ケガレの概念が上代から中古にかけて大きく転換しているようである。その理由については、特に平安京という都市の衛生問題と、そこに常住の貴族社会が「都市化」して自然を排除する側に回ったこと、その際に仏教や陰陽道の思想を利用して管理社会化をすすめ、また、畏怖の感情に訴えかけることでケガレ観が拡張されたからであろうと考えられている(注6)。したがって、通時的にヤマトコトバにケガレが一様な概念であったとは考えられず、上代には上代のケガレ観があったと考えなければならない。
 ところが、考古学からは、古墳のあり様から穢れの観念を見出そうとする試みが行われている。古墳の横穴式石室と記紀の黄泉国との関係をかたるものである。高橋健自、小林行雄、白石太一郎、土生田純之、和田晴吾らが提唱している。筆者は、これらはまず、歴史民俗を知らない人々であると思う(注7)。そしてまた、「話のわからない」人々であると思う。黄泉国のお話には、黒い鬘を投げたら蒲子(えびかづら)になったとか、櫛を投げたら笋になったとか、桃の実を3つ投げたら黄泉の勢力はみな退散したといった興味深い事件が述べられている。考古学からのアプローチは、これらの要素を小道具に過ぎないとして等閑視している。お話と古墳のあり様との対照がとても乏しいままに、「黄泉比良坂」が羨道、「千人所引(ちびき)の磐石(いは)」が閉塞石といった舞台装置にあてがい、「黄泉之竈(よもつへぐひ)」は横穴式古墳の入り口付近で発見される土製のミニチュア竈一式(竈、釜、甑)のことを表していて、埋葬儀礼を行ったことを示していると論証(?)している。考古学者に問いたいところであるが、例えば横穴式古墳では、髪飾りをエビカヅラに変化させるマジックショーが行われていたとするのであろうか。そしてまた、記紀の話は膨大で、例えば、国生みの話は具体物として何に当たるのか、天照大御神と須佐之男命の誓約(うけひ)の話は具体物として何を示しているのか。その他諸々の記紀の話すべてにわたって古墳時代のモノに還元して説明できたとき、はじめてなるほど黄泉国とは横穴式の古墳のことをお話にしたものであると理解するのに安心であろう。お話とは何か、言語活動とは何かについて、思索をめぐらせたことが一度でもあったら、恥ずかしくてとても唱えることなどできない幼稚な推量が、他の話例をいっさいオミットすることで罷り通っている。
 さて、先に筆者は、罪・穢れを祓うことに関して、「祓ふ」という語について考究した(注8)。四段活用の「払ふ」は、目の前に物理的に存在しているゴミ、塵芥、露や霜を除き去ることから展開し、人を追い払い追放したり、敵対者を払いのけて平定することにも用いられている。対して下二段活用の「祓ふ」は、目の前にはない罪や穢れといった感情上での汚れたものを、「祓つ物」というシンボリックなものを目の前に現してそれを投げ棄てることで、精神面での衛生を保つことにつなげている。すなわち、「祓ふ」は、想念上におけるハラフ行為である。祓つ物を払うことが疑似的行為に当たるから、本行為と疑似行為が重なり合わさっていて、アヘ(合)の声が混じり約されており、ハラフ(払)とアフ(合)の約として下二段活用の動詞が構成されていると考えられる。自分の身に付いている罪穢れを、目に見えない箒を使って取り除いている。人形(ひとがた)に息を吹きかけることをしておいて、身代わりにそれを川に流し、自らはきれいになったと心を収めている。実と虚とが合わさっている。「祓ふ」という語は、アナロジカルな多重性を一語の中に秘めているとするのが、筆者の語学的な考えである。
 そんな「祓ふ」対象としてケガレは存在している。類義語としては、「きたない」、「よごれ」といった語が思い浮かぶ。ただし、ケガレという語が指すのは、あくまでも気持ちの上で「きたない」とか「よごれ」ていると思っていることである。現実に「きたない」ことや「よごれ」ている場合には、それはそのままキタナシという語を用いるであろう。では、感情的に「きたない」とか「よごれ」ているとはどのように感じることか。それは、清潔―不潔ではなく、清浄―不浄の問題軸に立つ想念である。精神上において、「きたない」とか「よごれ」ていると感じること、それをケガレと呼んでいる。神聖な儀式を行うためにきれいにしておきたいと願って清浄している場所に、ゴミや屎を散らかされると、そこはケガレたところということになる。同じ家屋敷でも、裏庭の物置小屋の横手に雑草が生えていても放っておくが、玄関先には1本の雑草も見逃されずに除去しようとする気持ちが我々にはある。西宮1990.は、常陸風土記の例をあげて、「この「穢臭」は、人間の排泄物で神域を汚(よご)すのであるから、……キタナシ一般ではなく、ケガラハシでなくてはならない。この辺りに、「神聖」との関係が無視できないケガレの特性があると言へる。」(120~121頁)としている。

 今、此処(ここ)に坐せるは、百姓(おほみたから)近くに家(いへゐ)して、朝夕(あしたゆうべ)に穢臭(けがら)はし、理(ことわり)、坐すべからず。(今所此処、百姓近家、朝夕穢臭、理不坐。)(常陸風土記久慈郡)

 このように考えたとき、ケガレという言葉は、その言葉によって何をケガレとし、何をケガレとしないのかを、自らが語るといえる。すなわち、人(々)により、時代により、変わってくるもの、それがケガレである。上に、上代に「産穢」が認められないというのもそのとおりであろう。そして、「死穢」というのも、はたして上代に中古以降のような形で観念されていたか疑問である。人の死ぬことは当たり前にしてたくさん起っており、それをいちいちケガレだなどと言い出して忌み嫌っていたら、日常生活が立ち行かなくなるのではないか。西宮1990.に、記紀の例に、「死関係」としてケガレと訓むものがあるとされている。記の(2)、紀の(1)・(2)・(6)・(9)例である。筆者は、それらのケガレが、死そのものによるものではないと予測する。再掲する。

記(2)此の二神(ふたはしら)は其の穢繁(しけ)しき国に到りたまひし時、汚垢(けがれ)に因りて成れる神なり。(記上)
紀(1)伊弉諾尊、既に還りて、乃ち追ひて悔いて曰はく、「吾前(さき)に不須也凶目(いなしこめ)き汚穢(きたな)き処に到る。故、吾が身の濁穢(けがらはしきもの)を滌(あら)ひ去(う)てむ」とのたまふ。則ち往きて筑紫の日向の小戸の橘の檍原(あはきはら)に至りまして、祓(みそ)ぎ除(はら)へたまふ。遂に身の所汚(きたなきもの)を盪滌(すす)ぎたまはむとして、……不須也凶目汚穢、此には伊儺之居梅枳枳多儺枳(いなしこめききたなき)と云ふ。(神代紀第五段一書第六、一云……第七)
紀(2)但し親(みづか)ら泉国(よもつくに)を見たり。此既に不祥(さがな)し。故、其の穢悪(けがらはしきもの)を濯ぎ除(はら)はむと欲して、(神代紀第五段一書第十)
紀(6)味耜高彦根神、忿然(いかり)作色(おもほてり)して曰く、「朋友(ともがら)の道、理(ことわり)相(あひ)弔(と)ふべし。故、汚穢(けがらは)しきに憚らずして、遠くより赴(おもぶ)き哀ぶ。何為れか我を亡者(しにたるひと)に誤つ」といひて、……世人(よのひと)、生(いけるひと)を以て死(しにたるひと)に誤つことを忌む、此其の縁(ことのもと)なり。(神代紀第九段本文)
紀(9)凡そ畿内より、諸の国等に及るまでに、一所(ひとところ)に定めて、収め埋めしむべし。汚穢(けがらは)しく処処(ところどころ)に散し埋むること得じ。(孝徳紀大化二年三月)
 まず、紀(9)の例は、死体は、一か所に収めて埋めれば良いとし、てんでばらばらに散らかして埋めることが「汚穢(けがらは)し」とされている。死そのものがケガレであるなら、一か所に集めようが何しようがケガラハシであろう。そうは受け取られていない。気持ちの問題として、整序を欠いていると思われたからケガレているとして、ケガラハシと形容されている。心のうちで、生きている人の生活の場と、死者の葬られる墓地とを分けようと思い始めたということである。生えている草が、排除されるべきと思うようになってはじめてそれは“雑草”となる。その時点で、ケガレ意識が芽生えている。
 紀(6)の例は、天若日子の死に際して、味耜高彦根神が葬儀に参列している際の物言いである。一般に、死者一般を「汚穢(けがらは)しき」として近寄るのを憚ると述べていると捉えられている。そのような気持ちが上代にあったのか疑問である。当たり前のように殯(もがり)が行われ、誄(しのびごと)を言うのが習わしで、盛大にお別れをしている。死そのものや、死体そのものをケガレとして忌み嫌っていたら、殯という儀式が行われるはずはなかろう。ほかにも例が見える。

 丙子に、翹岐が児(こ)死去(し)ぬ。是の時に、翹岐と妻(め)と、児の死にたることを畏(お)ぢ忌みて、果して喪に臨まず。凡そ百済・新羅の風俗(くにわざ)、死亡者(しにひと)有るときは、父母(かぞいろは)兄弟(あにおとと)夫婦(をうとめ)姉妹(いろねいろど)と雖(いふと)も、永(ひたす)ら自ら看ず。此を以て観れば、慈(うつくしび)無きが甚しきこと、豈(あに)禽獣(けだもの)に別(こと)ならむや。(皇極紀元年五月)

 百済や新羅の風俗に、自分の子の死を悼む喪にのぞまないのは、慈悲心がないからで、まるで禽獣と同じであると叙述されている。本邦ではそんな薄情なことはなく、人としての慈悲心は当然持つべきであるという視線で物事を捉えている。「死穢」などという感性があったら、その慈悲心に背反してしまう。「死穢」の気持ちがないから、翹岐批判が展開されている。味耜高彦根神が「汚穢(けがらは)しきに憚らずして」と言っているのは、亡くなった天稚彦が、高天原の命令に背いた逆賊で、罪人だったからであろう。罪と穢れとは相通じるものである。清廉を旨とした味耜高彦根神は、犯罪者と顔を合わせることがケガラハシキことであると考えていたようである。
(つづく)

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