古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

記紀のオトタチバナ説話について 其の一

2023年05月23日 | 古事記・日本書紀・万葉集
走水でのオトタチバナヒメ

 倭建命やまとたけるのみこと(日本武尊)は、相武国さがむのくに(相模国)の野火の難に遇った後、走水はしりみづ馳水はしるみづ)から浦賀水道を越えて行こうとした。ところが波が荒れて船が進まず、弟橘比売おとたちばなひめ(弟橘媛)が人柱、人身御供となって入水したおかげで穏やかになり、先へ進むことができたという話になっている。記紀の間で話しぶりが少し異なっている。

 そこより入りでまして、走水はしりみづのうみを渡りし時に、其の渡神わたりのかみなみおこして、船をもとほして進み渡ること得ず。しかくして、其のきさき、名はおとたちばなめのみことまをさく、「あれ、御子にかはりて海の中に入らむ。御子は、つかはさえしまつりごとを遂げて、かへりことまをしたまふべし」とまをして、海に入らむとする時に、すがたたみ八重、かはたたみ八重、きぬたたみ八重を以て波の上に敷きて、其の上にしき。是に、其のあらなみおのづからぎて、ふね進むこと。爾くして、其の后、歌ひて曰はく、
 さねさし 相武さがむ小野をのに 燃ゆる火の なかに立ちて 問ひし君はも(記24)
といふ。かれ七日なぬかの後に、其の后のくしうみに依りき。乃ち其の櫛を取りて、はかを作りて治め置きき。(景行記)
 亦、相模さがむいでまして、上総かみつふさみたせむとす。海をおせりて高言ことあげしてのたまはく、「これちひさき海のみ。立跳たちをどりにも渡りつべし」とのたまふ。乃ち海中わたなかに至りて、あらきかぜたちまちに起り、ふね漂蕩ただよひて、え渡らず。時にみこに従ひまつるをみな有り。おとたちばなひめと曰ふ。穂積ほづみのうぢの忍山おしやまの宿禰すくねむすめなり。王にまをしてまをさく、「今風き浪はやくして、王船しづまむとす。是ふつく海神わたつみしわざなり。願はくは賤しきやつこの身を、王のおほみことへて海に入らむ」とまをす。まをすことをはりて、乃ちなみおしわけて入りぬ。暴風即ち止み、みふね、岸にくこと得たり。故、時人ときのひと、其の海をなづけて、はしるみづと曰ふ。(景行紀四十年是歳)

 記に、「以菅畳八重、皮畳八重、絁畳八重、敷于波上而、下-坐其上。」とある。「畳」という語は、「みちの皮の畳八重を敷き、亦、きぬ畳八重を其の上に敷き、その上に坐せて」(記上)、「葦原の しけしき小屋をやに 菅畳 いやさや敷きて 我が二人寝し」(神武記、記19)などともあり、敷物一般を指している。今日の畳は、藺草を泥染めしたものを織って作り、さらに縁布をめぐらせた畳表を、藁を綴じ固めた畳床の上にとりつけた一変容である。「畳」という言葉は歴史的変遷を経てきた。当時のタタミと称されるものは、薄縁とも呼ばれる今日の畳表、ないし、イグサ上敷のことを言っていたと考える(注1)
 弟橘比売命は、各種の「畳」をこれでもかと言わんばかりに八重に敷いている(注2)。紀に登場しない「畳」が、記にはとても凝った設定のために用いられている。稗田阿礼と太安万侶の伝に、「畳」自体に意味があって語られていると考えられる。「興浪」に対し、それを収めるのに「畳」が持ち出されている。目には目を、歯には歯を、浪には浪をもって対処しようとしている。タタミの織り方は、経糸の麻糸を2本ずつ飛ばして緯糸の藺草を通していき、隙間なく硬く叩くように織りあげたものである。経糸が表からも裏からも見えなくなり、整った波模様が全体に続いている。そのきれいな波立ちを穏やかな浪と見て取り、船の進み渡ることができるように変えたと言っているのであろう。
 「其渡神、興浪、廻船、不進渡。」(記)とある。「廻」の古訓にモトホスとある。新編全集本古事記に、「字に即してメグラスと読む。船をぐるぐるまわして先へ進ませないのである。モトホスと読む説では曲線を描きながら先へ進むこととなるので不適。」(226~227頁)とあるが、モトホス・モトホルの義は、周囲をまとうようにめぐる様子をいう。元へ戻ることを含意してモト・・ホス・モト・・ホルというのではないか。文中で「船」は目的語になっている。「御船、廻海」とあるなら、船が海(湾)をめぐることだからメグリテといった訓もあり得るが、「廻船」の部分に使役として訓む仕掛けは特に施されていない(注3)
 そして、メグラスという訓の場合、船は進行せずにその場で帆柱付近を軸として廻旋しているように感じられる。船外機に弄ばれる小型ボートをイメージできないわけではないが、鳴門の渦潮のようなものに巻かれて難破しかかっているさまを表現したかったとは思われない。浦賀水道を渡れない、船が対岸へ向かわないことを率直に述べている。古訓のモトホスならば、船は舳先を前にして進んではいるが、湾から出た後ぐるりと一周遊覧して元のところへ戻ること、それが二周、三周、四周、……といった具合に連続すること、何回にも渡ることを表している。「其渡神」の執念を示す洒落になっている。自己言及する言葉の仕組みから適切な訓とわかる。
 旧訓のモトホス(廻)という言葉は、言葉としても興味深い。モトルを再活性化させ、他動詞化させた語とも考えられる。古典基礎語辞典の「解説」として、「モドルは、モトル(悖る、道理などに反する意)と語源が同じで、モドク・モジル(捩る、ねじるの意)とは同根である。目的地をもった移動や、目的のある作業の途中で、目的を達成せず、中途からはじめの点へ逆行する意。」(1207頁、この項、須山名保子)とある。「悖る」と「戻る」は同根の語である。モトホスは戻る意を汲んでいるから、出航しても元へ戻ることばかりか、悖る意を汲んでいて道理に合わないことを示唆している。紀に、「是小海耳。可立跳渡。」とあるほど狭いのに、走り幅跳び流に渡れないのは理屈に合わないではないかということである。
 相武国での野火に対しては、倭建命は草薙剣を用いて草を薙ぎはらい、嚢を解いて火打石を取り出し、向い火を放つことで対抗できた。今度は弟橘比売が、「妾、易御子而入海中。」と言っている。倭建命が入るべきところ、「易」りて弟橘比売が海に入るのであると断られている。明記されている「易」は、同時に焼津の野火の対処法と対比し、それに「易」る相応の手法をとったということを表している。だからこそ、彼女は、辞世の歌に、火の歌、「さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」(記24)を詠んでいる(注4)。「問」うたのは火への対処法である。倭比売命はふくろを使うのだと教えていた。その設定を追加すべく弟橘比売命が新たに登場している。「走水海」で突然に現れた「后」である。この唐突感を解消するために、奥ゆかしいなぞなぞが繰り広げられている。焼遺(焼津)では草をぐことをしたのに対し、走水では浪を「」(凪)ぐことをした(注5)。弟橘比売がどんな嚢を使ったかについては後述する。
 なぜ浪が起こっていたのか。それは、地名が「走水(馳水)」だからである。記では設定として、紀では地名譚として扱われている。今日、浦賀水道と呼ばれる。水道とは、陸地に両側から挟まれて狭くなっている海や、大きな湖の部分を指す。海峡と呼んでも構わないのであるが、「道」のように一定の幅で相当の長さがあって流れをもつところを呼んでいる。飛鳥時代の首都圏に当たる奈良盆地南部に暮らしている人たちにとって、「走水」という名から受けるイメージとしては、水が馳せるように走る道のことで、人工的な構造物に譬えるならまさに水道である。水道のことは、古語に「(ヒは乙類)」という。
左:台所へ取水する懸樋(川崎市立日本民家園展示品、山田家住宅展示品)、右:木樋(奈良時代、平城京いざない館展示品)
 角川古語大辞典に、次のようにある。

ひ【樋・楲】……①水源から水を導くための長い管。竹を縦に割ったものを使ったり、檜(き ひの)などの木で作るほか、石樋や土を固めて作るものもある。埋樋(ミビウズ)、懸樋(ひ かけ)、下樋(ひ した)、伏樋(ひ ふせ)、立樋(ヒ タテ)など種類がある。樋管。……②水路などで、せきとめた水の出入り口に設けた戸。開閉して水位を調節する用を果たすが、単に水の流れを遮るためのものもある。楲( )。……③刀や薙刀(なたなぎ)の身の背に沿って付けた細長い溝。血流れ。……④敷居(ゐ しき)や鴨居(ゐ かも)などの面に付けられた細長い溝。……⑤大便を受ける箱状の器。また、便器の総称。厠(や かは)に置かれ、また、対屋や細殿を囲った場所、帳台(だい ちやう)の中などで用いられた。『内匠寮式』では朱漆器としている。使用後水で洗い、再び用いる。……(2頁)

 それぞれの用例としては、①に「廃渠槽ひはがち」(神代紀第七段一書第三)、「(下樋)」(允恭記、記78)、「下樋」(万2720)、また、「佐保川の 水をき上げ 植ゑし田を 尼作る 刈るわさいひは 独りなるべし 家持続ぐ」(万1635)の「独り」には「樋取り」が掛かっているとする説、②に「いけ」(武烈紀五年六月)、「池〈楲附〉 玉篇に云はく、池〈直離反、和名は以介いけ〉は水を蓄ふるなりといふ。淮南子に云はく、つつみさくりて楲〈音は威、和名は伊比いひ〉をひらくといふ。許慎曰はく、楲は陂のあなを通す所以なりといふ。」(和名抄)、④に「楲㢏 説文に云はく、楲〈音は威、〉は㢏なりといふ。国語注に云はく、㢏〈音は投〉は清廁へ行くなりといふ。」(和名抄)がある(注6)
 倭建命は、焼津で何とか火難から逃れた。ところが、またもや、走水で火(ヒは乙類)と同音の樋(ヒは乙類)の災難に遭っている。浦賀水道は「浪」が激しくて渡れないらしい。記に「渡神」、紀に「海神」の仕業とされているが、当然ながら自然界のことである。飛鳥時代の人であれ、ある程度の知識は経験上必ず持っていたに違いない。紀では「暴風」が起こっているが、記に風は出ていない。記の「浪」とはしきなみ(頻浪、重波、及波)のことを指しているのであろう。新撰字鏡に、「𣴊涾 波浪相重之㒵、之支奈美しきなみ」とある。寄せては返す波が、潮の干満によって激しくなっている。江戸(東京)湾の場合、浦賀水道という樋に相当する部分の流れが速くなり、川の早瀬や海の瀬戸のように流れが急になっている。湾奥へと向かう上げ潮と、湾外へと向かう引き潮が集中してとても速くなっている。すなわち、潮汐の話である。「廻船」とあるのは、船が対岸へ行こうとしているのに、流れがきつく、湾奥へ導かれたかと思えば湾外へ流されるといったくり返しで、全然前へ進めていないことを示している。そして、シキナミに対して各種の畳を加えたシキモノ(敷物)で対抗しようとしている。
 走水の荒波は、火→樋によって表されている。したがって、水が火によってたぎっているということである。古典基礎語辞典の、「たぎ・つ【激つ・滾つ】」項に、「タギル(滾る)と同根。」とし、「①水が逆巻くように音を立てて激しく流れる。また、激しく湧きあふれ出る。涙にもいう。……②心情が激しく湧きあふれ出る。」、「たぎ・る【滾る・沸る】」項に、タギツ(激つ)と同根。タギルは上代に確例はない。」とし、「①川水が激しく流れる。涙にもいう。……②熱湯が激しく沸き立つ。……③心中の思いが激しく湧き出る。嫉妬の思いが煮えくり返る。」(707頁、この項、白井清子)とある。急流、奔流をいうタギ(滝、上代に濁音)、道が凸凹していたり、足がよろよろして歩けないことをいうタギタギシも同系の語である。「「……然れども、今が足あゆむこと得ずして、たぎたぎしく成りぬ」とのりたまひき。故、其地そこを号けて当芸たぎと謂ふ。」(景行記)とある。
 江戸湾の細くなった入口部分が、樋のようであり、タギのように急流になっている。それを最もよく示す事柄は、煮えたぎる釜とそこから樋を通して湯桶へ流す bath のことではないか。記に、「廻船、不進渡。」のフネとは、浴びたり浸かったりする湯を受けるぶねのことをも連想させる。沸かしている釜から懸樋(筧)で湯を送る。槽は少し離れて設置されている。釜のまわりに浴槽があって、湯を沸かしてその都度送って満たす。たぎる湯の元はすべて釜にあるのがふつうである。ところが、湯船から釜の方へ樋を伝って逆流して戻ることがあるらしい。つまり、敷浪がモトホスことになっている。記になぞなぞが出題されている。
 そして、その答えはすでに述べられている。ヒ(樋・楲)という語義の①と②は対立項になる。水道と水道栓である。灌漑用水路、上下水道、ないし運河のことをヒと言いつつ、水門になるところもヒと呼んでいる。浦賀水道は水の走るヒであるから、そこに水門のヒ、それはヒノクチ(樋の口)とも呼ばれるものを作って水の流れを遮断する。焼津で火に対して向い火で対抗したように、樋の流れには樋の口をもって対処するということである。樋の口のことは、いり、また、単にいりともいう。記では、「妾、御子に易りて海の中に入らむ」と、浦賀水道にイリすることが告げられている。まさに、イリヒ(圦樋)である。きちんとひとことひとこと違わぬように語られている。水道(ヒ)に水門(ヒ)をつけて流れを遮り、向う岸へ行けるようにしようというのである。焼遺(焼津)での火には火をの話が、樋には樋をの話に「易」っている。

湯屋

 古い時代の風呂の実態についての資料は乏しい。西山2004.に、次のようにある。

 現在では、ごく一般的に「湯につかる」ことと「風呂に入る」ことは同じ意味で用いられています。本来「風呂」は「蒸風呂」のことですから、かつては「湯につかる」ことと「風呂に入る」ことは全く違った入浴方法だったのです。また、肩までどっぷりと湯につかる入浴方法は近世になってからといわれていますから、それまでは沸かした湯を浴びるだけであり、それを「風呂」とは区別して「湯」といっていました。とはいうものの、「風呂」と「湯」は早くから混用されるようになっていたようです。このように、湯屋とは本来、湯を浴びる場をさしますが、古代の湯屋については建物が残っていませんから詳しくはわかっていません。しかし、いくつかの寺院に残されている『資材帳』に「温室」や「浴堂」などの湯屋を示す記載を見つけることができますから、建物規模やそこで用いられた湯釜などについて知ることができます。(24頁)

 和名抄・伽藍具に、「浴室 内典に温室経有り。〈今案ふるに、温室は即ち浴室なり。俗に由夜ゆやと云ふ。〉」とある。巷間いわれるように、昔は入浴方法がサウナ形式に限られていたというわけではない。風呂という言葉が蒸し風呂を指し、湯という言葉が湯浴みを指しており、両者が早くから混同されていたとする説は妥当であろう。また、入浴一般を指す語として、西日本では風呂、東日本では湯と呼ぶのがふつうであったとする説や、フロという言葉がムロを語源とし、岩窟を意味するムロが訛ってフロとなり、風呂という字を当てたとの説もあるが当否は定めがたい。季節が良ければ水浴びもしていたろうし、水垢離もしていた。温泉地ではどっぷりと湯につかることもしていただろうし、水蒸気浴や岩盤浴風の熱気浴も条件が合えば行われていたことであろう。
 斎戒沐浴にも湯を使った。建武年中行事・六月に、「とのもんれう主殿寮、御ゆまいらす。御舟にとるなり。めす程にうめたり。そのゝちひの口より七たびまゐらす。」とある。延喜式・木工寮に、「沐槽かしらあらふふね 長さ三尺、広さ二尺一寸、深さ八寸。浴槽ゆあむるふね 長さ五尺二寸、広さ二尺五寸、深さ一尺七寸、厚さ二寸」とある。50㎝ほどの深さで湯浴みをしたらしい。死に装束を整える際にも湯を浴びせた。源平盛衰記・巻四十五に、「[重衡卿]「湯かけをせばや」と宣ひければ、[土肥次郎]近所より新しき桶・ひしやくを尋ね出だし、水を上げて奉る。」などとある。
    
  

左:湯屋(上から、慕帰絵々詞模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590849/28をトリミング、一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591575/22をトリミング、是害房絵巻、南北朝時代、14世紀、泉屋博古館蔵、@SenOkuKyoto様https://twitter.com/sorori6/status/1324287421945540609)、中:上から、湯屋指図(上醍醐西風呂指図、国立歴史民俗博物館HP「中世寺院の姿とくらし─密教・禅僧・湯屋─」https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/old/021001/img/photo1.jpg)、湯屋遺構(財団法人向日市埋蔵文化財センター「長岡京跡右京第755・762次調査現地説明会資料 宝菩提院廃寺の湯屋遺構」2003年2月22日。http://pit.zero-city.com/houbodaiin/houbodaiin.htm)、右:排水路の施された湯室(川崎市立日本民家園、佐々木家住宅、長野県南佐久郡佐久穂町畑の名主の家、18世紀。浴びるだけのようである)
 たくさんの薪を使って湯を沸かすのには経済的な制約がつきまとう。天武紀元年六月条に、「沐令ゆのうながし」、「湯沐よね」とある。養老令・禄令に、「中宮ちうぐう湯沐たうもくに二千戸」の食封じくふとあってかなり多いとわかる。庶民には鉄の大釜を手に入れることもできない。高度経済成長期以前にはもらい湯も多く行われていた。ここで注目したいのは、どっぷりと湯に入る場合であれ、湯を浴びる場合であれ、五右衛門風呂形式以前のものに懸樋形式のものが確かに見られる点である。今日の給湯タイプ、追い炊きタイプは、いずれもボイラーで湯を沸かしている。浴槽と連絡はしていても別である。安全性や煙の遮断をとるか、熱効率をとるかによって形態に違いが出てくる。絵巻物や建築図面、遺構からその構造は垣間見られる。
 慕帰絵詞では、釜で湯を沸かして蒸気を建物内へ送り込んでいるように見え、蒸し風呂形式であったとされている。向かって左の釜は室内へ蒸気を送っている。広さが三帖ほどあろうかと思われる室を蒸気で満たしてサウナのように温めている。右の釜は浴びせ湯用と考えられているが、湯屋の中へ送る配管装置が描かれていない。どこで浴びたのか不明ながら、絵としては蒸気用と浴びせ湯用の2つが描かれていてよいことになっている。
 一遍聖絵では、内部を窺うことはできないながら、排水が外へと流れ、庭の造りとして石橋を渡している。湯を浴びた証拠である。今昔物語・巻第二十八・池尾禅珍内供鼻語第二十に、「湯屋ニハ寺ノ僧共、湯不涌わかサヌ日无クシテ、あみののしりケレバ、にぎ(貝偏に充)ハヽシク見ユ。」とあり、贅沢なバスタイムぶりが描かれている。
 是害房絵巻では、釜で沸かした湯を湯屋へ送る樋が描かれている。このような形態が古くからあったとすれば、この樋こそ、倭建命が渡ろうとして廻された“水道”に当たるものと考えられる。煮えたぎるほど熱いから、代わりに弟橘比売が入ろうというのである。もちろん、修辞的表現であり、今日的に言えばそれはなぞなぞに該当する。彼らの言語ゲーム(Sprachspiel)の深奥を知るには、上代の人が湯といかに対したか、そしてどのような観念を抱いていたか、もう少し広範に見る必要があるだろう。湯とどのように接していたかについては、長野県の地獄谷で天然温泉に入るニホンザルがいることからもわかるように、頓に文化的な問題である。

盟神探湯くかたち

 湯が熱すぎる場合、入浴以外にも用いられた。允恭天皇の時代に、盟神探湯くかたちをして氏姓を正したという記事が載る。

 是に、天皇すめらみこと天下あめのした氏々うぢうぢ名々ななの人等のうぢかばねたがあやまれるを愁へたまひて、あま白檮かしこと八十やそまが日前ひのさきに、くかゑて、天下あめのした八十やそ友緒とものをの氏姓を定め賜ひき。(允恭記)
 四年の秋九月の辛巳の朔にして己丑に、詔してのたまはく、「上古いにしへくにをさむること、人民おほみたから所を得て、姓名かばねなたがふこと勿し。今われ践祚あまつひつぎしりて、こことせ上下かみしも相争ひて、百姓おほみたから安からず。或いは誤りて己が姓を失ふ。或いはことたへに高き氏をむ。其れ治むるに至らざることは、蓋しこれに由りてなり。朕、不賢をさなしと雖も、豈其の錯へるを正さざらむや。群臣まへつきみたちはかり定めてまをせ」とのたまふ。群臣、皆まをさく、「陛下きみあやまちを挙げまがれるを正して、うぢかばねを定めたまはば、臣等やつこら冒死かむがむつかへまつらむ」と奏すに、ゆるされぬ。戊申に、みことのりして曰はく、「群卿まへつきみたち百寮つかさつかさ及び諸の国造くにのみやつこたち、皆各言さく、『或いは帝皇みかどみこはな、或いはあやしくして天降あまくだれり』とまをす。然れども、三才みつのみち顕れ分れしより以来このかたさはよろづとせぬ。是を以て、ひとつの氏蕃息うまはりて更に万姓よろづのかばねれり。其のまことを知り難し。かれ、諸の氏姓の人ども沐浴ゆかは斎戒ものいみして、各盟神探湯くかたちせよ」とのたまふ。則ち味橿丘うまかしのをか辞禍戸𥑐ことのまがへのさきに、探湯瓮くかへゑて、諸人もろひとを引きてかしめて曰はく、「実を得むものはまたからむ。いつはらば必ずやぶれなむ」とのたまふ。盟神探湯、此には区訶陀智くかたちと云ふ。或いはうひぢなべれてわかして、手をかきはつりて湯の泥を探る。或いはをのを火の色に焼きて、たなうらに置く。是に、諸人、各木綿ゆふ手繦たすきて、釜に赴きて探湯くかたちす。則ち実を得るひとおのづからにまたく、実を得ざる者は皆傷れぬ。是を以て、ことたへうつはる者は、愕然ぢて、予め退きて進むこと無し。是より後、氏姓自づから定りて、更に詐る人無し。(允恭紀四年九月)

 「盟神探湯」とは、熱湯(熱泥、熱斧)に手を入れたり当てたりして爛れたら嘘をついている、火傷しなかったら本当のことを言っている、という嘘発見器の役割を担っている。これも湯との関わりの一つである。湯浴ゆあみは湯掛ゆがけともいい、同音のユガケには、ゆがけ(弓懸、韘)、すなわち、弓を射る時に使用する手袋のこともいう。和名抄に、「弽 毛詩注に云はく、弽〈戸渉反、訓は由美加介ゆみかけ〉は扶なり、能く射ををさむれば、則ち之れをぶなりといふ。周礼注に云はく、扶〈音は决〉は矢を挟む時、弦の飾りを持つ所以なりといふ。」、文明本節用集に、「弓懸・指懸 ユガケ」とある。
左:弽をして弓を射る(男衾三郎絵巻、鎌倉時代、13世紀、東博展示品)、中・右:弽(弓懸)(中:指懸図(武器袖鏡二編、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200000845/98?ln=jaをトリミング)、右:大洲藩加藤家伝来、江戸時代、文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/293410)
 すなわち、焼遺(焼津)の野火に対して果たした倭建命の火打嚢の役割を、走水の樋のたぎる急流に対して弟橘比売は手袋をもって果しているとして、複線的理解を促している(注7)。氏姓についての判定に限られて行われた盟神探湯は、氏姓が正しければ火傷を負わずに済む秘策があったものと推測される。簡単である。手袋をはめていればいい。熱湯に手を入れても手袋をしている部分は手が火傷したように見えても、なかに入っている人の手本体は火傷せずに済む。皮で作られる弽の手袋は、絵柄に鶉柄のほか疱瘡でも患ったような模様に仕立てられていた。
 ウズラという鳥は、丸く膨らんで、縞模様は皺々に爛れたようでも、さざ波が立っているよう(注8)でも、フクロウとよく似ているようにも見える。つまり、手袋を鶉柄にするのは、言葉どおりに小型のフクロ、テブクロらしく拵えたいからであったと考えられる。言葉が事柄どおりになり、言葉の一貫性が確保されることになる。これこそヤマトコトバの本質であり、言霊信仰のもとに暮らしていた上代の人の意にかなうことである。言葉に言霊が宿るのである。
 模様が入った手袋をはめれば火傷を負っているように見える。手前勝手に氏姓を主張していた輩は、丁寧な染めを施した弽をお上から賜わってはおらず、そのような裏事情があることも知らない。熱湯の中へ素手のまま入れては、即座に火傷し爛れてしまっていたことだろう。正真正銘の氏姓を持つ人は、お上から氏姓を賜わった時、弽も拝領している。もしもの時はこの手袋を使うようにと言い含められている。もしもの時とはどのような時かは伝えられていなくても、湯掛ゆがけが行われると聞かされれば同音のゆがけのことが思い出されて持参したことであろう。盟神探湯<くかたちで手を入れるように促されれば、恐れをなして熱湯に手を入れずに嘘を白状するが、本当の氏姓の人に順番が回ってきたときには弽を着けて手を入れ、すぐに爛れたふうの手をあげる。だが、よくよく調べると素手は何ともなくて誇ったという次第になっている。允恭天皇代の盟神探湯くかたちとは、そういう話である(注9)

樋の口(圦樋)

 次に、樋の口(圦樋)について考える。走水はタギ状態の流れの急な水道だから、樋の口を設けて堰きとめて浪を(凪)ぎるようにしたと仮定している。
左:堤の樋の口付近を進む一行(板橋貫雄模、春日権現験記絵第四軸、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286814/15をトリミング)、中:「水閘ひのくち」(寺島良安編・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1772984/364をトリミング)、右:登戸排水樋管
 江戸期の用例ながら、地方凡例録・九に、「一 圦樋の事 是ハ川より井路筋へ用水引入、又悪水落し、堀より川への落口に板にて差込、堤に伏込戸を明立致す物也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1365507/33、句読点等を施した)、宮崎安貞・農業全書に、「もし川なきところつつみつきをふせ、あるひハかけひにてとり、又たかき所にくみあぐるハ桔槹はねつるべ、又りうこつしやるいにてみづをとるべし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2557373/68、句読点等を整えた)、たはらかさね耕作絵巻に、「…本朝のいにしへ、田はたの用水、こころのまゝにならさりしに、聖徳太子世に出給ひ、河内・津の国に四十八个所の池をつくらせ水をたゝえ、田はたにせきいれさせられしより、諸国是にまなひて川のほとりにハつゝミをかたくつかせてつゝミのしたに樋をふせ、用水の池にきりとをして、水なき田にハ水をいれ、あまる水をハ流し出し、かのはねつるへハふかき池よりたかき田畠に水を入るゝの用意也。(11~12頁、句読点等を施した)とある。
樋の口関連図(左:溜池丸堤の図(秋田義一編・算法地方大成、天保8年(1837)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563366/31の文字部分など消去)、中:尺八樋伏埋仕立上の図(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563366/34)、右:一戸前圦樋の図(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563367/8)をトリミング合成))
 大阪府大阪狭山市の狭山池からは、さまざまな時代の樋の口の遺構が出土している。市川2009.によれば、「取水部は大きく、一段だけの底樋型のものと、樋管に竪樋(斜樋)を取り付け、竪樋にいくつかの樋穴を設けた尺八樋型に分類される。底樋型の場合、樋穴は上面にあけられそこに男柱がささるものがもっとも多い。男柱は支柱二本の間に穴のあいた板材(笠木と呼ぶ)をわたした鳥居状のもので支持されるので鳥居建と呼ばれることもある。」(99~100頁)とあり、概念図が示されている。これが古い形の樋の口であり、尺八樋型は後代のものである。
左:樋の構造概念図(市川秀之「狭山池出土の樋の復元と系譜」狭山池埋蔵文化財編『狭山池出土の樋の復元と系譜(復元)』の東樋下層遺構(奈良時代)取水部復元図(部分)図http://skao.web.fc2.com/rack/ike/hi-fkgn.pdf(3/10))、右:陶棺栓(岡山県勝央町平たんござ所在古墳出土、古墳(飛鳥)時代、7世紀、国政小市氏寄贈、東博展示品)
 水の出し入れのために堤を開削して水門を施けて行う形式は、満濃池や韓国の溜池、潮堤や河川堤防、洪水用の請堤などには見られるが、溜池には例が少ないという。技術は適所に用いられた。日本書紀に、すでに樋(楲)は記されている。

 人をしていけに伏せ入らしむ。に流れ出づるを、みつの矛を持ちて、刺し殺すことをたのしびとす。(武烈紀五年六月)

 樋尻(出口)側には穴が開いていて、ヒューム管のようなところへ人を入れ、反対側の取水口の栓となっている男柱を引き上げて一気に水を排出し、一緒に出てきた人を大きなフォークで刺して殺している。池溝を造ったという記事は、崇神紀、垂仁紀、景行紀、神功紀、応神紀、仁徳紀、履中紀、推古紀、崇神記、垂仁記、景行記、応神記、仁徳記などに見える。一定規模以上の溜池には水門が必要である。古墳時代のいつ頃のことか正確にはわからないものの、記事としては確かであろう。亀田2000.には次のようにある。

 ……五世紀中葉にいたると、洪積大地の水田化が進み、畿内王権や地方首長による大規模な開発労働力も編成されるようになるが、ここに半島から伝えられた新たな技術が行使されるようになる。開析谷における造池のみならず、大和平野にも、自然地形を利用しての造池が積極的に行なわれていったと見られる。記紀に見える応神・仁徳朝の造池溝の記事は、この時期のそれを物語っているものであって、おそらく池の造堤、堤下の樋管を通しての用水溝への導水といった工事が、渡来系技術を軸に活発に展開されていったのではなかろうか。(240頁)
 では、この時期において開樋は使用されなかったのであろうか。出土例がほとんどないことからその当否を確かめることはできないが、河川分流の場合、あるいは溝の開掘のさい地形条件などとあいまって開樋が設置されることはあったことと思う。そうした現象はそれ以前の時代にも存在したであろうが、ただ、五世紀中葉の開発に溜池が大きな比重を占めることを思うとき、この時期において注目されるのは閉樋であり、それも丸太を縦に二つ割りにし、中を刳りぬいたものを再び接合させた樋管の出現こそ、この時期の灌漑技術の一端を物語るものといえよう。開樋が灌漑技術の上で大きくクローズアップされるのは、むしろ次の八世紀にいたってである……。(242頁)

 堤を築いて樋管を埋めていたと考えられる。市川2009.は、樋管の類型として、U字型、O字型、箱型を挙げている。「丸太を半裁して双方の内部をえぐって再びあわせて樋管としたものは最近まで多くの溜池で利用されており、狭山池周辺でも池尻城跡で出土している。」(101~102頁)とある。他方、仁徳紀には、堤防を築いた話が載る。

 冬十月、宮の北の郊原を掘りて、南のかはを引きて西の海に入る。因りて其の水を号けて堀江と曰ふ。又将に北の河のこみほそかむとして、まむたのつつみく。是の時、ふたところの築かば乃ち壊れて塞ぎ難き有り。時に天皇、みいめみたまはく、神しましてをしへてまをしたまはく、……故、時人ときのひと、其の両処を号けて、こはくびのたえころものこのたえと曰ふ。是歳、新羅人朝貢みつきたてまつる。則ち是のえだちつかふ。(仁徳紀十一年十月~仁徳紀十一年是歳)

 新羅の人を堤防建設へかり出している。新しい技術を伝授してもらっているようである。川に放水路を作り、また、堤防を作っている。逸話のなかで大きく占めるのは、引用に略した天皇の夢の話や「うけひ」の話である。天皇の夢告に従って、武蔵人強頸と河内人茨田連衫子の二人が人柱に指名されている(注10)。話の上では、人柱によって堤を築くということがあったことがわかる。柳田1970.に、「伝説普及の条件は、聴く人のこれを信ずるといふことである。さうしてこの人柱の伝説は、本質の奇怪を極むるにも拘らず、近世の初め頃になるまで、なほ我が国では頗る民衆に信じられ易かつた事情があつたらしいのである。」(354頁、漢字の旧字体は改めた)とある。走水で弟橘比売が人柱になったのは、話の上において堤防の建設を示唆していると知れ、圦樋(伏樋、埋樋)が設置され、男柱が樋管の栓になっていたことがわかる。人柱とは、男柱のことを暗示していると考える。
 注目すべきは、浪が静まったので船で渡ったといえばそれまでのところを、堤防が築かれたらしいと思考している点である。海の事情について、同じ言葉を使う陸の水利によって理解している。現代人とは考え方が少し異なるということである。
 江戸時代の諸図に、堤のことは「つつみふみ」とある。土を馬が踏んで固める効果を狙っていた。倭建命の逸話も、走水から堤馬踏を馬を駆って渡ることができたことを暗示させる。紀の日本武尊の「高言ことあげ」に、「是小海耳。可立跳渡。」と言っていた。船は「たちをどり」するものではないから、馬がひとジャンプすることを示すものである。景行紀の弟橘媛の啓上する言葉に、「願賤妾之身、贖王之命而入海。」とあった。何をあがない代りにしているかといえば、日本武尊の高言を贖罪し代償としている。日本武尊は大風呂敷を広げていたため、海神を怒らせることになった。浦賀水道が風呂の樋に譬えられたから、風呂敷の話になっている(注11)。そして、「命」は通訓のオホミイノチのことではなく、オホミコト、すなわち、偉そうに言ったことを指している。軽口を撤回するべく登場しているのが弟橘媛なのである。この部分、熱田本傍訓に「御命申ニ」とある。蓋し、正解と言えよう。渡神に捧げるのに、賤しい弟橘媛の身が、貴い王のおほみいのちの代償になるはずはない。
 走水で、浦賀水道に弟橘比売が人柱になることで、江戸湾を仕切る堤防が築かれたことを話の上で想定していたのである。ヤマト朝廷が江戸湾干拓化事業を実際に画策したとは考えられないが、飛鳥時代の難波近辺の整備について思いを致せば、思考実験できないことではない(注12)。そして、堤の下に埋められた樋管に栓をした、という話の展開で、倭建命は無事渡れた。歴史学の観点から言えば、倭建命の「覆奏」すべき「所遣之政」、コトムケヤハス(言向和平)ことのうちに、干拓地造成計画のための地理的掌握も含まれていたのだと言うこともできようが、そこまで汲み取る必要はない。これは話(咄・噺・譚)にすぎない。
(つづく)

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