古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「事の 語り言も 此をば」考 其の二

2018年10月05日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
(注)
(注1)「事の語り事も 此をば」の「此(こ)」について、いま歌われた歌の歌詞のことではないとする説もある。青木2015.に、「是[(此)]の指示内容を一首一首の歌詞に限定すべきではな」く、「〈問答〉として展開する「語り言」を指示する語としての「をば」のあり方を認めてよいのではないか」(174頁)とする考え方も提案されている。「事の語り言」=「是[(此)]」とするという説に基づいている。それがあり得ない理由は、指示詞コが現前性を有するからである。「事の語り言も 此をば」のコが、現前していない「事の語り言」という一般概念を指すことはない。想定の事情を言うのであれば、あるいは「事の語り事も 如此(かく)は」か。
 新編全集本では、「「此をば」の「此」は妻問いのことを指し、「事を伝える語り事でも、このことを歌と同じように伝えています」の意。歌ってきた内容について、古い伝承を踏まえていることをいい、その真実性を保障する言葉。」(87頁)とする。「事の語り言も 妻問ひをば(伝ふ)」という意味にとっているのであろうか。「此」は妻問い一般のことなのか、今回歌われた歌の詞なのか、それらをドッキングさせた文章なのか、わからなくなっている。「(妻問ひハ)事の語り言(ニ)も 此をば(伝フ)」の約とするのであろうか。いずれの解釈も、指示詞コの意を汲んでいない。「此」はいま歌った歌の詞を指していると考える。
(注2)大野1993.に次のようにある。

  み空行く雲使ひと(万葉四四一〇)
  庭静けし(万葉三八八)
 これらのモは命題の題目を提示しているが、題目は単独でも確定したわけではなく、他にも同類のものが存在することを裏に含めた題目の提示で、松下大三郎[『改撰標準日本文法』中文社、1930年(勉誠社、昭和49年)]はこれを「合説」と名づけた。しかしそれは現代語のモを中心に見た見解で、古典語のモを見ると題目をそれだけと限定・特定しないだけでなく、不確定として提示するところに特質がある。たとえば次の例は、単に合説というだけでは理解できない。
  其の葉枯れず(万葉四一一一)
  せむすべ無し(万葉八〇四)
  雨降らぬか(万葉五二〇)
  浜の沙(まなご)吾が恋にあにまさらじか(万葉五九六)
  逢ふことあらむ(万葉三七四五)
 これらは、「其の葉なども」「なにもするすべも」「もしできるなら雨でも」「たぶん浜の砂ですらも」「もしかしたら逢うことも」の意を表わすものである。つまり、モもまた題目を提示するのであるが、松下が合説というような併立肯定の例は上代にはむしろ少なく、上代ではその題目は、不確定、非限定、仮定的なものであり、他に多くのものが潜在的に存在する中からの不特定の例としての提示であることの方が多い。(63~64頁)

 万4410番歌は後述するが、仮定的な言い方であって実際に「み空行く雲」が「使ひ」であることはない。譬えのための仮定である。なお、工藤1963.が、上代語のモについての正しい理解の嚆矢であるらしい。
 「事の語り言も」のモの意味について、諸説に誤解があるようである。相磯1962.に、「「も」は、「この鳥も」の「も」で感動の助詞で、「よ」の意。」(15頁)とし、「海人部の馳使の者の語り伝える物語。これをばお伝えしますぐらいの意。」(16頁)とする。山路1973.は、「モは強意の助詞。」(11頁)とする。そして、「コトのカタリゴトは、言(こと)であって、語(かた)り言(ごと)であるもの、(ノは、コトとカタリゴトとが同格であることを示す助詞。)すなわち、語り伝えた言葉。……「是をば」(バは、指示の助詞ハの連濁)は、反転して、「いしたふや―ことのかたりごと」を指示する句。(コは、前出の語を指示する代名詞。ヲは、対象を示す格助詞。)」(10~11頁)としている。土橋1972.は、「事の語り言として、このことを申し上げます、の意。」(27頁)とし、モについては触れられていない。西郷2005.にも、「事の 語言(カタリゴト)も是(コ)をば 歌いおさめの文句で、事はこのような次第でござるという意。カタリゴトとあるのは、聞き手を予想し、一つの事件をうたっているからで、現にこの歌はこれだけで終らず次の歌へと続き、以下三首にも同じ文句がついている。」(101頁)とある。モについての解説は省かれている。
 古事記注解は、「歌に対して「かたりごとも」と並べる意にとることができる……。「事を伝える語りごとでも、このことをば(同じように伝えています)」というわけである。……話は語り伝えられてあり、それをふまえて歌っているのだという意味で、歌を保障していると見ればよい。その話のなかの人物の心を、なりかわって歌う歌は新しいものということができる。」(145頁、この項、神野志隆光)とする。「こ」の内容は妻問いのことと取っているようであるが、「事の語り言も 如此(かく)は」としていない点に思い及んでいない。
 真にヤマトコトバを探求する姿勢があるのなら、「事の語り言此をば」という言説が、「事の語り言此をば」とはならない理由に思いを致さなければならない。コは現前性を示した。対して、「事の語り言」なるものは実際に行われてあるのだろうか。「語り言」は語られてはじめて語りごとである。その事実をひっくり返してみせているから、仮定性を示すモが使われている。さらに、コという原初的名称づけの現場とは、言語とメタ言語の操作が可能になった言語活動の原点となった局面であって、そのことを振り返らせてくれる場である。(注7)参照。
(注3)ホトトギス以外のオシドリとカリガネの例について付言する。オシドリの様子は紀に歌として詠まれている。

 山川(やまがは)に 鴛鴦(をし)二つ居て 偶(たぐひ)よく 偶へる妹を 誰か率(ゐ)にけむ(紀113)

 つがいが仲良くしている様を言っている。オシドリは2羽ずつ並んで湖畔を泳いでいる。鏡像のようである。鏡があるということは、己の姿を見ることができるということで、自意識の芽生えを促すことになる。

 万葉集に、「かりがね」という言葉で、カリ(雁)の鳴き声を表わすのが13首、カリ(雁)の個体を表わすのが24首を数えるとされる。ガン類は鳴き声がよく通る。だから、カリガネ(カリ(雁)+ガ(助詞)+ネ(音))と名に負っている。自己循環的に説明した名称なのだから、カリガネという生き物は自分の姿を自ら知っている自意識に目覚めた存在であろうと理解されたようである。
(注4)ジャック・ラカンに、「〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」宮本忠雄・竹内迪也・高橋徹・佐々木孝次訳『エクリⅠ』(弘文堂、昭和47年)が論じられている。
 鏡に映った自分の像を自分のものであると理解するのはヒトだけではないと報告されている。ボノボ、チンパンジー、ゴリラ、オランウータンなどは、鏡に映った自分の姿を見て、見えない部分まで見ようと体をくねらせている。そのほか、動物園にいるアジアゾウの何頭か、そしてカササギがなぜか鏡映像を理解しているサインを発しているという。他個体が自分を見るように自己を見る能力を示しているのである。自己意識の発生を物語っている。
(注5)青木 1962.に、「八千矛神から「この鳥も、打ちやめこせね」と依頼され、一方沼河比売から「命は、な殺(し)せたまひそ」と歎願されてゐる、問題の「いしたふや、あまはせづかひ」とは、一体何者であるか。……人の使となって天を馳せ、諸鳥を捕り殺すことの出来る鳥と言へば、鷹とか隼とかが頭に浮かぶ。……問題の「いしたふや、あまはせづかひ」も、このやうな鳥を捕る猛禽の擬人化された形と考へればよいのではないか。」(52~53頁)とする。飼っている鶏を鷹に襲わせる酔狂な行事があったのであろうか。
 修正された考え方に、例えば青木2015.がある。「この〈鳥〉のイメージが「天馳使」まででとどまっているならば、歌の文脈とそうかかわってこない。〈鳥〉の重要性は、沼河比売の答えが鳥と深くかかわってなされ、後の「日子遅神」の歌が〈鳥〉の比喩として表現されてくるからである。〈鳥〉のイメージは、以下の歌の文脈に重要な影響を与えている。」(167頁)とある。文脈を深読みするという発想は、近代の、ないしは大幅に譲って中古の、文字文芸からしか生まれ得ないのではないか。口頭でのみ行き交っている無文字歌謡に、文脈もへったくれもない。覚えていられるか、である。覚えていられる範囲のいっぱいいっぱいのところを「此をば」と現前のことを表わす助詞で示していた。鳥だから「天馳使」の意であるはずだとする捉え方が安直にすぎることはすぐ後に述べる。筆者は、記2と記3歌謡の前半とにのみイシタフヤアマハセヅカヒが載らない事実については、海人馳使→天馳使の転用的洒落に基づくものと考える。音の共通性をもって、歌詞に登場する鳥から連想されるのは「天(あま)」だから、そういえば、アマハセヅカヒのことだった、そうだったということで、カタリゴトモコヲバに冠していると考える。万葉集にも、鳥が伝えることはあるのだろうか? と疑問符付きに歌われたり、鳥が伝えることがあったらいいね、と願望的に歌われるだけで、実態として「天馳使」は想定しえないのだから、洒落でしかなく特に意味はないと考える。
 天若日子の殯(もがり)の場面でも、「……河鴈(かはかり)をきさり持と為(し)、鷺を掃持(ははきもち)と為、翠鳥(そにどり)を御食人(みけびと)と為、雀を碓女(うすめ)と為、……」(記上)と、具体的な例示が行われている。記2の「鳴くなる鳥」、「此の鳥」とは、「鵼」、「雉」、「鶏」のことを言っている。具体的な鳥ばかり出てくるなか、「天馳使」を奇怪な鳥として登場させられても困るのである。
 居駒2003.では、鳥とは無関係に天馳使説が唱えられている。「<あまはせづかひ>は「天馳使」の意であり、<よばひの使>という物語人物として考えられる。「天馳使」については、「天馳・使」ではなく「天・馳使」という語構成で考えるべきであろう。……「馳使」の名称は<よばひの使>の役割に由来すると考えられる。……その神話的表現が「天馳使」であった。」(193~194頁)と結論づけている。他に例の見えない人物を架空されても、了解のしようもなければ反証のしようもない。
(注6)海の駅制についてはまったく明らかではない。坂本1989.に、次のようにある。

水駅の問題は、甚だ不可解である。その制度は、立派に厩牧令に、
凡水駅不馬処、量閑繁駅別置船四隻以下、二隻以上、随船配丁、駅長准陸路置、
と規定せらるるけれども、実際の活動に至つては明かならぬ。第一、その名は、国史の記事や、格や、式やに、遂に一回もあらはれぬ。僅に、山郵の対句として詩に配され、似もつかぬ踏歌に関係した言葉となつてあらはれる位のものである。その性質の如何、位置の如何、悉くの問題は、簡単には明らめ難い疑問の中にある。(61~62頁)

 唐制との比較検討から、水駅について河水を上下する船の継場であるのではないかと検討されている。いま、筆者は、イシタフヤという枕詞が「石塔や」の意味で、常夜灯の灯台であると捉えている。海の駅制なるものがあるとするなら重要であったろうと考える。考古学的発見があるかもしれないが、法制上や史書から定められるものではない。それでも語学的検証の立場から、本説の提示にいささかも躊躇するものではない。
 なお、「丈(杖)」が使いのしるしではない点は、「玉梓(たまづさ)の」という枕詞が「使」にかかっていることからもわかる。梓の木を杖にして使者に立ったとして、それはいくらでも取り換えが可能な実用品だから、証拠品にはならないように感じられる。
(注7)カタル(語)という動詞については、大野1968.は、「語幹 kata は kötö と交替する。Kötö は「事」である。」(580頁)とする。岩波古語辞典では、「カタはカタドリ(象)のカタ、型のカタと同根。」(303頁)、白川1995.では、「形を与えて構成することをいう。」(232頁)と解されている。語源については定められないが、語意としては、イフ(言)が単なる発声、素朴な言語化であるのに対して、カタル(語)は順序立てが伴っているとされる。あるフレームにしたがって語り手の頭の中で再構成させていると理解できる。したがって、それ自体が循環的な物言いなのである。ここではそれをさらに「事の〔語り〕言」と明言していて、言語構成の袋小路事情を表立たせている。袋小路に見舞われている場は、コ(此)が最もふさわしい。さらにその表明を導く序として、「石塔や 海人馳使」とてんこ盛りに形容し、わざわざ感を醸している。歌の中に、言語表示部分とメタ言語表示部分があることを明らかにしてくれている。カテゴリー錯誤の洒落を味わうことが求められる。ライル1987.12~13頁に、「大学」についての有名な例がある。ここでは、東森2015.に紹介されている英語のジョークを示しておく。(無文字時代の言語のカテゴリー錯誤が理解できるように、“クイズ的”なぞなぞ仕掛けのものは示さない。)

 What two things can you not eat for breakfast?
 Lunch and dinner!

 具体世界で breakfast において食べるもの、食べられないものを探すとき、two things に ham や egg などを挙げるのと、言葉世界で breakfast と同類のものを探すのとの違いを楽しめるかどうかは、頓智の才があるかどうかである。メタ言語を示すのに、1つの文にまとめてしまうこともあるが、複文に構成されるようである。東森2018.に載る2例を示す。

 Television is a medium because well-done is rare.
 Middle age is when your age starts to show around your middle.

 ジョークが理解されやすくて楽しみやすい場とは、言葉が複数の人の間でやり取りされる即興時である。用例に感嘆符が付いている。うまいジョークは、もっぱら話し言葉の場にある。言葉が人々の間で説明する力を得たときとは、言語が体系として組織立てられたときであり、まさに同時に言語とメタ言語の操作が可能になったときである。それはまた、言葉が、互いにやり取りされてはじめて、結果として浮かび上がってくるものであることも意味している。コミュニケーションのためのシンボルとしての機能を持つ言葉の駆け引き的な使用によって、人間は経験をやり取りすることができ、他者の経験を自己の経験として利用することが可能となっている。コミュニケーションがコミュニケーションとして最も力強さを持つのは、それが互いにやり取りされる現場であろう。今日でこそ、通信情報システムの発達によって文字的なやり取りに現場性があらわれているが、その名称に twitter とあるほどに話し言葉的なものである。
 Transaction に見立てた言語への洞察は、J・デューイに行われている。デューイの言語理論として最適な論考は、John Dewey and Arthur F. Bently, Knowing and the Known, 1945,1960/1975reprint,Greenwood Press. (Dewey1989.所収)であるらしい。本注は、松下1999.、藤井2010.による解説に負っている。デューイがコミュニケーションを相互行為(interaction)としてよりも、取引行為(transaction)と捉えたことは意義深い。コミュニケーションの動的な側面、反応が人により、また時によりさまざまに変化しながら協同的活動となる点がよく理解できるからである。話にジョークのセンスを込めて面白がられる域に到達させることは、商売のうまい人が transaction に巧みな手練手管を使っているのと同じことを行っている。店頭販売員の口車に乗せられて商品を購入することなど、商品という言語を買っているのではなく、商品を宣伝する文句や実演というメタ言語、さらには販売員と客とサクラの居合わせるその場の空気感というメタ・メタ言語にお金を支払っているのである。
 「神語」、「天語歌」とは、transactional な性格を示さんとして、自らの発語を括弧で括ってメタ言語メッセージ「事の 語り言も 此をば」を付け加えて提示したものであるといえる。歌の内容ばかりか歌の歌い方までも歌うほどに、カタル様相を表わそうとしている。これは、地口と呼ばれる表現手段の1つのタイプと目される。小松原2015.は、文末表現の付与によるフレーミング効果について論じている。

 [以下の](7)(8)のような文末表現が言葉遊びにしばしばつけ加えられることは、言葉遊びの発話の第一義的な目的が、意味内容の伝達ではないことを示唆している。この種の文末表現は発話の真剣味を弱める機能をもっており、発話内容の情報価値が低いということを示しているといえる。
 (7)缶詰をバッグに詰めたりして、缶詰になる準備をするほかない、なあんちゃって。
 (8)あの子の私服姿にみとれてしまって至福の瞬間、みたいな。
 ことば遊びは “遊び” の一種である。滝浦(2002, 2005)はこの点に注目して、言葉遊びの中では「『これは遊びだ』というフレーミングが可能でなければならない」(滝浦 2002:91)と述べている。(7)や(8)における「なあんちゃって」「みたいな」といった文末表現は、そのようなフレーミングの標識としての役割を担っている。……言葉遊びは、対話者の間で “遊び” として了解されているにも関わらず、文字通りの情報伝達的な意味内容を保持しているという特徴をもっている。言い換えると、言葉遊びは、遊びであるにも関わらず、情報伝達という目的も放棄していない。(36~37頁)

 「なあんちゃって」や「みたいな」は、英語表現では just joking, it’s like, といった言葉を付与するのであろうか。八千矛神や沼河日売の歌でありながら、彼や彼女は「事の 語り言も 此をば」という「なあんちゃって」表現に徹している。歌の中身の鳥表現が諧謔にすぎているように感じられるのはそのせいである。これは、滝浦2002.も指摘するとおり、人間のコミュニケーションに現れる、かなり高度なフレームである。さらにそのフレームに、枕詞「いしたふや」が、「石塔や」の意から「海人馳使」に懸かって序となって被さっている。どこまでも“遊び”である。
 なお、記の「事の 語り言も 此をば」付加表現の歌謡の応酬は、滝浦2002.2005.が挙げている「ことば遊び」の型の、「即興型」、「技巧型」、「ゲーム型」のうち、「即興型」に属すると考える。小劇場の演劇が演出過多になっていて、役者の台詞が真に迫りすぎて滑稽なレベルに至った様相とよく似ている。俳優は決して噛むことなく、大見得を切ってドラマを演じ切る。どこまでも閉じた小劇場のなかで、現場に現在し現前するように(実際にはあり得ないことをアドリブを交えながら)真に迫ってまくし立てている。オーディエンスを巻きこんだ大芝居としての transaction なのだから、そんなメタ・メタ言語活動は、「神語」、「天語歌」としか評し得ないであろう。
(注8)新編全集本に、「何らかの鳥を使者に見立てたもの。鳥に向って、沼河比売に自分の気持を伝えてくれというのだが、戸一枚で隔てられた相手を前にして、鳥に伝言を託そうというのは、大袈裟な物言いによる諧謔的表現である。」(86~87頁)とある。あり得ない解釈である。その理由は、これは話だからである。話は、八千矛神と沼河日売との間でなされている形をとりながら、実際には例えば、稗田阿礼とその周りにいる聞き手との間で執り行われている。これを言語という。具体的に何の鳥かわからない示し方では聴衆に伝わらない。大袈裟な諧謔表現もおよそ伝わるものではない。珍鳥がいて男女の間をとり持っているのだという説明すらない。求婚において、媒(なかだち)を立てることは確かに行われていた。なぜわかるか。神武記や景行記、その他の記事に、使者が立てられていることや、その名前が記されているからである。この記2・3歌謡には書いてない。

 此の八千矛神、高志国の沼河日売に婚はむとして幸行(いでま)しし時に、其の沼河日売の家に到りて、歌ひて曰く、(記2の前)
 爾くして、其の沼河日売、未だ戸を開かずして、内より歌ひて曰く、(記3の前)
 
 他の媒の項に必ず書いてあるものが書いてなく、直接法で「歌曰」と書いてあるものを、どうして媒が存在してそれを謎の鳥類に比定できるのか。聴衆がわからないようなことはわからないから次に伝わらない。伝わってきて稗田阿礼が話していて、太安万侶が書き留めている。その状況から外れる深読みは、間違いであると断言できる。
 例えば、少し前に位置する稲羽の素菟の話では、裸の菟が痛み苦しんで泣くところまで時間の経過にしたがって述べた後、大穴牟遅神が現れて、どうしたんだ? と尋ね、事の顛末を最初からもう一度説明している。記ではほかにもこのように説明を繰り返す場面がしばしば見られる。なぜか。稗田阿礼の周りで聞いている聞き手に通じるように、念を押しているのである。空中を飛び交う音声言語ですべて理解されなければ、次に伝わって残っている“記憶遺産”たりえないではないか。

(引用文献)
相磯1962.相磯貞三『記紀歌謡全註解』有精堂出版、昭和37年。
青木1962.青木紀元「「いしたふや、あまはせづかひ」異見」『香椎潟』第8号、1962年12月。(https://ci.nii.ac.jp/els/contents110004671809.pdf?id=ART0007404693)(『日本神話の基礎的研究』風間書房、昭和45年所収)
青木2015.青木周平『青木周平著作集 中巻―古代の歌と散文の研究―』(おうふう、平成27年)
居駒2003.居駒永幸『古代の歌と叙事文芸史』笠間書院、平成15年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
大野1968.大野晋「日本語の語源についての二、三の覚え書」『上代文学論叢―五味智英先生還暦記念―』桜楓社、1968年。
大野1993.大野晋『係り結びの研究』岩波書店、1993年。
小田2015.小田勝『実例詳解 古典文法総覧』和泉書院、2015年。
折口信夫全集 『折口信夫全集1-古代研究 国文学篇-』中央公論社、1995年。
折口信夫全集 『折口信夫全集7-万葉集講義・日本古代抒情詩集:万葉集2』中央公論社、1995年。
工藤1963.工藤美紗子「「も」という助詞の意味」『文学』第31巻第12号、1963年12月。
古事記注解 神野志隆光・山口佳紀『古事記注解4』笠間書院、1997年。
小松原2015.小松原哲太「言葉遊びであることへのメタ言語的言及」『語用論研究(Studies in Pragmatics)』第17号、2015年。(http://pragmatics.gr.jp/content/files/SIP_017/SIP_17_Komatsubara.pdf)
坂本1989.坂本太郎『古代の駅と道―坂本太郎著作集第八巻―』岩波書店、平成元年。
白川1995.白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
西郷2005.西郷信綱『古事記注釈第三巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
滝浦2002.滝浦真人「ことば遊びは何を伝えるか?―ヤーコブソンの〈詩的機能〉とグライスの会話理論を媒介として―」『日本語科学』第11号、国立国語研究所、2002年。(https://docs.google.com/viewer?a=v&pid=sites&srcid=ZGVmYXVsdGRvbWFpbnx0YWtpdXJhbWFzYXRvfGd4OjRmNjBkNDBlY2I2NzYxZTM)
滝浦2005.滝浦真人「ことば遊び」中島平三編『言語の事典』朝倉書店、2005年。
土橋1972.土橋寛『古代歌謡全注釈 古事記編』角川書店、昭和47年。
橋本1986.橋本四郎「古代語の指示体系」『橋本四郎論文集―国語学編―』昭和61年、角川書店。
東森2015.東森勲「英語ジョークとメタ言語をめぐって」東森勲編『メタ言語と語用論』開拓社、2015年。
東森2018.東森勲『翻訳と語用論』開拓社、2018年。
藤井2010.藤井千春『ジョン・デューイの経験主義哲学における思考論―知性的な思考の構造的解明―』早稲田大学出版部、2010年。
松下1999.松下晴彦『〈表象〉としての言語と知識』風間書房、平成11年。
山路1973.山路平四郎『記紀歌謡評釈』東京堂出版、昭和48年。
ギルバート・ライル、坂本百大・宮下治子・服部裕幸訳『心の概念』みすず書房、1987年。
李長波2002.『日本語指示体系の歴史』京都大学学術出版会、2002年。
Dewey1989.John Dewey, The later works, 1925-1953, vol.16, Southern Illinois University Press. 1989.

(English Summary)
We think what “コトノカタリゴトモコヲバ”(the narrative of the thing also is this)in Kojiki is. We know that grammatical understanding of the demonstrative pronoun “コ” and the case-making particle “モ” is essential.

この記事についてブログを書く
« 「事の 語り言も 此をば」... | トップ | 「埴輪」命名譚 其の一 »