古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「埴輪」命名譚 其の一

2018年10月14日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 垂仁紀に、それまでの殉死の風習を嫌い、埴輪を置くようになったとの言い伝えが載る。

 倭彦命(やまとひこのみこと)を身狭(むさ)の桃花鳥坂(つきさか)に葬(はふ)りまつる。是に、近習者(ちかくつかへまつりしひと)を集(つど)へて、悉(ことごとく)に生けながらにして陵(みさざき)の域(めぐり)に埋(うづ)み立つ。日を数(へ)て死なずして、昼に夜に泣(いさ)ち吟(のどよ)ふ。遂に死(まか)りて爛(く)ち臰(くさ)りぬ。犬烏聚(あつま)り噉(は)む。天皇、此の泣ち吟ふ声を聞しめして、心に悲傷(いたきわざ)なりと有(おもほ)す。群卿(まへつきみたち)に詔して曰はく、「夫れ生(いけるとき)に愛(めぐ)みせるを以て亡者(しぬるひと)に殉(したが)はしむるは、是甚だ傷(いたきわざ)なり。其れ古の風(のり)と雖も、良からずは何ぞ従はむ。今より以後(のち)、議りて殉(しぬるにしたが)はしむることを止めよ」とのたまふ。(垂仁紀二十八年十一月)
 皇后(きさき)日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)一に云はく、日葉酢根命(ひばすねのみこと)なりといふ。薨(かむさ)りましぬ。臨葬(はぶりまつ)らむとすること日有り。天皇、群卿に詔して曰はく、「死(しにひと)に従ふ道、前(さき)に可(よ)からずといふことを知れり。今此の行(たび)の葬(みはふり)にいかにせむ」とのたまふ。是に、野見宿禰(のみのすくね)進みて曰さく、「夫れ君王(きみ)の陵墓(みさざき)に生ける人を埋(うづ)み立つるは、是不良(さがな)し。豈後葉(のちのよ)に伝ふること得むや。願はくは、今便りなる事を議りて奏さむ」とまをす。則ち使者(つかひ)を遣して、出雲国の土部(はにべ)壱佰人(ひとももひと)を喚(め)し上げ、自ら土部等(たち)を領(つか)ひ、埴(はにつち)を取りて人・馬と種種(くさぐさ)の物の形を造作(つく)り、天皇に献りて曰さく、「今より以後、是の土物(はに)を以て生ける人に更易(か)へ、陵墓に樹(た)てて、後葉(のちのよ)の法則(のり)とせむ」とまをす。天皇、是に大きに喜びたまひ、野見宿禰に詔して曰はく、「汝(いまし)が便りなる議(はかること)、寔(まこと)に朕(わ)が心に洽(かな)へり」とのたまふ。則ち其の土物を、始めて日葉酢媛命の墓に立つ。仍りて是の土物を号けて埴輪(はにわ)と謂ふ。亦は立物と名(なづ)く。仍りて令(のりごと)を下して曰はく、「今より以後、陵墓に必ず是の土物を樹てよ。人をな傷(やぶ)りそ」とのたまふ。天皇、厚く野見宿禰の功(いさをし)を賞めたまひ、亦鍛地(かたしところ)を賜ふ。即ち土部職(はじのつかさ)に任(ま)けたまふ。因りて本姓(もとのかばね)を改めて土部臣(はじのおみ)と謂ふ。是、土部連(はじのむらじ)等(ら)、天皇の喪葬(みはぶり)を主(つかさど)る縁(ことのもと)なり。所謂(いはゆる)野見宿禰は、是土部連等が始祖(はじめのおや)なり。(垂仁紀三十二年七月)

 天皇は、二十八年の時、殉死者の泣きうめく声を聞いて心を痛めていた(注1)。そして、三十二年に皇后が亡くなった時、殉死させる風習を改めるよう議論させた。解決策は、野見宿禰が進言する形で提示される。「土部(はにべ)」を出雲から呼び寄せ、埴土で人や馬やその他いろいろの物の形に作って埴輪を作り、陵墓に立てて殉死の代わりとするというものであった。この話について、論考されることはさほど多くない。全否定されると考えられているからであろう。
 今日、「埴輪」という呼称については2つの説がある。円筒埴輪は古墳のまわりに環状に配置したからという説(注2)と、円筒埴輪は一個一個が輪の形をしているからであるという説(注3)である。今日では後者が優勢のようである。“埴輪”という学術用語について、筆者は関知しない。垂仁紀の記事にある訓詁の対象として、「埴輪」、「立物」という語を解釈することが目的である。垂仁紀が初出で、文献的に第一級の資料である。日葉酢媛命の墓に立てたとき、ハニワ(埴輪)、タテモノ(立物)という名前が起こったと日本書紀は伝えている。それが本当かどうかについては、他に多く見られる地名譚などと同様、証明することも反証することもできない。すべては話(咄・噺・譚)である。
 今日呼ばれる埴輪が古墳に置かれ始めたのは、3世紀に特殊器台が“円筒埴輪”化したものに始まると考えられている(注4)。4世紀なかばになって、“形象埴輪”が作られるようになった。また、古墳から殉死者が発掘されることはとても少ない。だから、垂仁紀の話は嘘だというのである。小出1990.には、「この説話は、埴輪本来のもつ意義・性格を全く忘却した段階での述作であることは何人も承認せざるをえないであろう。」(254頁)(注5)と結論づけられている。筆者は、承認しない者である。
 小出1990.の整理に、垂仁紀の話は、「イ 垂仁天皇の皇后日葉酢媛の死に伴う事件である ロ 殉死に替えて埴輪を作った ハ 野見宿禰が祖先である ニ 凶礼に関与する由縁である」(244頁)であるとする。土師氏とはどういう人たちかというフィルターを通して読んでいる。そして、日葉酢媛命の墓は狭木之寺間陵のことで、佐紀陵山古墳のこととされている。そこから出土する埴輪に、円筒埴輪(普通円筒、朝顔形、鰭付)と形象埴輪(家形、蓋(きぬがさ)形、楯形、囲形)が見られる(注6)。両方出てきているところを埴輪の始まりとするのは、記述として誤りであることは明らかだとされてしまっている。けれども、そういった捉え方は、話の主題から少しずれている。よくよく読めばわかるとおり、「埴輪」と名づけられたことを表わす記述ではあっても、今日の考古学者の概念規定に同じ、“埴輪”の創始を示す記述ではない。そういう文章ではないのである。
 垂仁紀三十二年条には、「仍号是土物埴輪亦名立物也。」とある。記述は、「是土物」を「埴輪」、または、「立物」と名づけた、という命名譚を語っている。何にしたがっているかと言えば、その前文の、「則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。」である。「其土物」とは「人・馬及種種物形」を土物で造作したもののことである。考古学的に見出される“埴輪”の形態が、円筒埴輪に始まり、形象埴輪は時代が遅れて作られていることとは何ら関係しない。吉備地方で行われていた特殊器台から変形したものは、3世紀後半から4世紀前半にはすでに古墳の周りに並べ立てられていた(注7)。4世紀のなかばから後半になって、それに加えていろいろな形に作った土の造形を置くようにした。そのとき、それを何と呼ぼうか考えた。ハニワ(埴輪)、タテモノ(立物)と呼ぶことにした。その訳は、日葉酢媛命の墓に立てたからであると言っている。それ以前、今日称されるところの円筒埴輪がほかの人の墓に立てられていても、それはハニワともタテモノとも呼ばれていなかったことを物語る(注8)
 日葉酢(ひばす)媛命の墓に立てたから、ハニワ、タテモノと命名した。ヒ(日)もハス(蓮)も形は丸い。日輪、蓮葉の形である。だから、同様に丸を造形の基本とする埴で作られたものは、ハニワ(埴輪)と呼ぼう。そう言っている。この丸形については後述する。蓮と言って思い浮かぶのは、蓮華と仏像との密接なつながりである。仏さまにお花をお供えすることは常態的に行われている。生け花のルーツとして、仏像を荘厳するために花や樹が生け花として飾られている。立花(たてはな)と呼ばれている。フラワーアレンジメントのようなものではなく、頸の細い水瓶に、まっすぐ立てるように生けられている。仏像の持ち物に蓮の花がつけられることも多い。もちろん、木造であればそれは木で作った造り物である。漆に金箔を貼ったお飾り、常花(じょうか)もよく見られる。立花に相似のもののことをタテモノと名づけたと考えて不自然ではない。日葉酢媛命の墓だから、そのように名前がついたと言っている。垂仁紀を叙述するに当たり、誰も学術用語の定義をしようとして言葉を操作してはいない(注9)
常花(新薬師寺、Smart Magazine様、https://www.smartmagazine.jp/kansai/article/sight/7092/)
ヒバを立てる(四天王寺)
 また、「天皇厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地。」という記述も理解されていない。大系本に、「集解に「按言熟陶器之地。検字書鍛冶金也。而後漢書韋彪伝曰、鍛錬之吏、註鍛錬猶成熟也。又儀礼士喪礼曰、功布、註功布鍛濯灰治之布也。由是鍛不必冶一レ金而已」といい、標註は「土部には似つかぬやうなれど、葬儀に銅鉄を用る事もあれば、然する地を賜ひしにや」というが、前説がよいか。」(②47頁)とある。鍛冶屋の場所が埴輪づくりと関係するのか理解しにくいとされている。賜わったのは、カタシトコロである。カタシ(鍛)はカタシ(片足)と同音である。野見宿禰と言えば、相撲取りとして知られる。

 七年の秋七月の己巳の朔乙亥に、左右(もとこひと)奏して言さく、「当麻邑(たぎまのむら)に勇み悍(こは)き士(ひと)有り。当摩蹶速(たぎまのくゑはや)と曰ふ。其の為人(ひととなり)、力強(こは)くして能く角を毀(か)き鉤(かぎ)を申(の)ぶ。恒に衆中(ひとなか)に語りて曰く、『四方(よも)に求めるに、豈(あに)我が力に比(なら)ぶ者有らむや。何(いかに)して強力者(ちからこはきもの)に遇ひて、死生(しにいくこと)を期(い)はずして、頓(ひたぶる)に争力(ちからくらべ)せむ』といふ」とまをす。天皇聞しめして、群卿に詔して曰はく、「朕(われ)聞けり、当摩蹶速は、天下(あめのした)の力士(ちからびと)なりと。若(けだ)し此に比(なら)ぶ人有らむや」とのたまふ。一(ひとり)の臣(まへつきみ)進みて言さく、「臣(やつかれ)聞(うけたまは)る、出雲国に勇士(いさみびと)有(はべ)り。野見宿禰と曰ふ。試みに是の人を召して、蹶速に当(あは)せむと欲ふ」とまをす。即日(そのひ)に、倭直(やまとのあたひ)の祖(おや)長尾市(ながをち)を遣して、野見宿禰を喚(め)す。是に、野見宿禰、出雲より至(まういた)れり。則ち当摩蹶速と野見宿禰と捔力(すまひと)らしむ。二人相対(むか)ひて立つ。各足を挙げて相蹶(ふ)む。則ち当摩蹶速が脇骨(かたはらほね)を蹶み折(さ)く。亦其の腰を蹈み折(くじ)きて殺しつ。故、当摩蹶速の地(ところ)を奪(と)りて、悉に野見宿禰に賜ふ。是以(これ)其の邑に腰折田(こしをれだ)有る縁(ことのもと)なり。野見宿禰は乃ち留り仕へまつる。(垂仁紀七年七月)

 相撲の勝負のつき方が不自然である。当時はルールのない果し合いの格闘技であったとする説もあるが、そうではなかろう。「二人相対立。各挙足相蹶。」とあるのは、取組前の四股を踏む所作、仕切り前の準備体操を言っているはずである。野見宿禰のほうは田舎者だから、それが所作であることを知らないまま、いきなり相手を踏みつけて骨を折って殺してしまっている。四股を踏むことは、お相撲さんがカタシことをすることに同じであると理解される。片足をあげて踏んでいる。大男が踏んでいるから地面は硬くなる。カタシにかなった人である。それが埴輪づくりとどのような関係にあるか。まず、土を取ってくる。余分な小石や木屑は選り分けながら砕いて粉状にする。そののち、水を加えて土を捏ねて粘るようにする。いずれの時も足で踏んでついている。力士が四股を踏むようなことを繰り返す。四股を踏むことは力足を踏むともいい、片足ずつ踏みつけている。片足はカタシで、鍛(かたし)に同音である。刀剣を鍛えることは、トンチンとハンマーを交互に叩きつけ続けることである。
足による荒練り(陶工伝習書様、http://kyusaku.web.fc2.com/toudo4.html)
当麻寺のお練り供養
四股(草加元気放送局「Sumo Wrestling 追手風部屋の遠藤関 相撲稽古で四股踏み」https://www.youtube.com/watch?v=IwHRqs578GI)
 その一連の行為をヤマトコトバにネル(錬・練・煉)という。ネルの義は多様な局面に用いられる。ゆっくりと威儀を正しつつもったいぶって歩き進むこと、刀剣類など武器を鍛えて作ること、生糸や生絹を灰汁で煮て膠着物を除いて柔らかくすること、薬や食品をこね合わせて程よい状態に仕上げること、陶器を作るためなどに土をこね合わせて程よくすることなど、何度も何度も叩きつけてちょうど良いようにすることを指す。お練り供養のネリでは、菩薩面を被った人がゆっくりゆっくり大仰に左右に足を代えながら往還している。片足を上げては踏み下ろすことを繰り返すさまは、唐臼を踏み続けることに似ている。陶器を製作する過程で陶土を細かく叩き続ける水車小屋に同じである。細かくした粘土に水を加えて捏ねることはネル作業である。金属を鍛えて刀剣を作る際、何度も何度も叩いては曲げて2つ折りにして再度叩き続ける。それはネルことであり、その鍛冶の場所はカタシトコロ(鍛所)である。そして、埴輪の基本形は、地面に埋める台座部分を片足に作っている(注10)。だから、埴と呼ぶことに違和感が生じない。日葉酢媛命による謂われとよく合致する言葉である。
 ここに何が新しくて、もの珍しくて、「埴輪」と命名したくなるような欲求があったかが垣間見られよう。台座部分を輪形に作ってその上に「人・馬及種種物形」に仕上げた造形が現出したのである。それまで、今日いわゆる円筒埴輪と呼ばれるものがあった。それは上から下まで筒が続いている。立てるために地面に埋め込む台座も筒なら、地上部分で人々の目に触れる造形部分も筒である。埴土で作った輪状のものだから“埴輪”であると今日の人は認めるかも知れないが、言葉の分節化の機能について鈍感であると言わざるを得ない。円筒埴輪を百年作り続け並べ立てていても、それはたとえば「筒」であるとは認識していても、「輪」であるとは理解されていなかったことを予感させる。上部のつくりを「人・馬及種種物形」に仕上げてみたけれど、その台座にして地面に埋め込む部分は相変らず同じ仕様にした時、はじめてある事実に気づく。これは埴土で作ったいろいろな造形ながら、一括して名前をつけるとするならば「埴輪」と呼ぶのがふさわしいと。そのことが、ヒバスヒメの名から思い知れたのである(注11)
「輪」の台座のある土物群(東博展示品)
 命名に当たり、埴土で「人・馬及種種物形」に造作したものについて、「是埴土」、「其埴土」と指示詞を用いて言及している。李2002.に、いわゆるコソアド言葉のすべてが論じられている。記紀歌謡と万葉集歌に用いられた指示詞「コノ」240例と「ソノ」115例についても、詳細な分析が行われている。コノは、現前の物的対象(ⓐ)や今現在を指して言う場合(ⓑ)に使われる。ソノは、先行文脈の物的対象や事柄を承けているもの(ⓒ)が多く見られる一方、指示対象が先行文脈にもなければ現前するものでもなく過去の経験に基づいてのみ了解可能な場合(ⓓ)や、対象としてすでに周知の事柄のとき、歌い手も聞き手もともに一つの観念的な対象として了解しているものの場合(ⓔ)にも使われるとされる(140~141頁)。それぞれの用法について、例示されている万葉集歌をひとつずつ示す。

 ⓐ橘の とをの橘 八つ代にも 我は忘れじ この橘を(万4058)
 ⓑ大君の 命(みこと)恐(かしこ)み 弓のみた さ寝か渡らむ 長けこの夜(万4394)
 ⓒほととぎす 無(な)かる国にも 行きてしか 其の鳴く音(こゑ)を 聞けば苦しも(万1467)
 ⓓぬばたまの 其の夜の梅を た忘れて 折らず来にけり 思ひしものを(万392)
 ⓔ…… 恋ひかも居(を)らむ 足ずりし 泣(ね)のみや哭(な)かむ 海上(うなかみ)の 其の津をさして 君が漕ぎ行かば(万1780)

 ⓔの例についての李2002.の究極の解説を示すと、「このような「その」は、現代語なら「あの」を用いるところであるが、これによって、おそらく「カ」が分化するまでは、「ソ系」は後の時代の「カ(ア)」の領域まで広がっていたのではないかと推測される。現場指示の場合でも「その」が話し手からも聞き手からも遠くにあるものを指す用法を持つこともこれを裏付ける。」(141頁)とあり、例示されている。

 袖振らば 見ゆべき限り 吾は有れど 其の松が枝に 隠らひにけり(万2485)(注12)

 このように、上代において、「是の」と「其の」には確実な違いがあった。それを踏まえて「仍号是埴物埴輪。」の一文を考える。「号○○△△」と綴られている。この点については調べる必要がある。
(つづく)

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