万葉集中に「蝉」という言葉を歌中に詠みこんでいるのは、遣新羅使の一行の道中の万3617番歌一首に限られる。
安芸国の長門の島にして礒辺に舶泊して作る歌五首
石走る 滝もとどろに 鳴く蝉の 声をし聞けば 都し思ほゆ〔伊波婆之流多伎毛登杼呂尓鳴蝉乃許恵乎之伎氣婆京師之於毛保由〕(万3617)
右一首は大石蓑麿
題詞に「蝉」という言葉が登場するのは、以下の三~四例である。万1479番歌で「晩蝉」と書いてヒグラシと訓むことは、歌中に「日晩」とあるから正しいと思われる。歌われているのはみなヒグラシである。
蝉を詠む
黙然も有らむ 時も鳴かなむ ひぐらしの〔日晩乃〕 物思ふ時に 鳴きつつもとな(万1964)
蝉に寄す
ひぐらしは〔日倉足者〕 時と鳴けども 恋ふるしに 手弱女我は 時わかず泣く(万1982)
蝉を詠む
夕影に 来鳴くひぐらし〔来鳴日晩之〕 幾許も 日ごとに聞けど 飽かぬ声かも(万2157)
大伴家持の晩蝉の歌一首
隠りのみ 居ればいぶせみ 慰むと 出で立ち聞けば 来鳴くひぐらし〔来鳴日晩〕(万1479)
ヒグラシを歌った歌はほかに五例ある。
(風を詠む)
萩の花 咲きたる野辺に ひぐらしの〔日晩之乃〕 鳴くなるなへに 秋の風吹く(万2231)
(新羅に遣はさえし使人等の、別れを悲しびて贈答し、また海路にして情を慟ましめ思ひを陳ぶ、并せて所に当りて誦ふ古歌)
夕されば ひぐらし来鳴く〔比具良之伎奈久〕 生駒山 越えてそ吾が来る 妹が目を欲り(万3589)
右の一首は秦間満
(安芸国の長門の島にして礒辺に舶泊して作る歌五首)
恋繁み 慰めかねて ひぐらしの〔比具良之能〕 鳴く島陰に 廬するかも(万3620)
(筑紫の舘に至りて遥かに本郷を望みて悽愴みて作る歌四首)
今よりは 秋づきぬらし あしひきの 山松蔭に ひぐらし鳴きぬ〔日具良之奈伎奴〕(万3655)
(八月七日の夜に、守大伴宿禰家持の舘に集ひて宴の歌)
ひぐらしの〔日晩之乃〕 鳴きぬる時は 女郎花 咲きたる野辺を 行きつつ見べし(万3951)
右の一首は大目秦忌寸八千嶋
以上をまとめると、万葉集に歌われているセミは、ヒグラシが九首確認でき、単にセミとして歌っているものは一首のみであることになる。時代別国語大辞典の「ひぐらし」の項に、「【考】古今集以下になると、ひぐらしは秋のもの、せみは夏のものと区別されるが、万葉ではその区別がなく、ひぐらしと受け取りにくいものもあり、「詠レ蝉」の題のもとにひぐらしが詠まれたりしているので、せみ一般のことを称したという説、あるいは一種の歌語として蝉を詠む時はヒグラシとしたものかとする説などがある。しかし、大部分が秋や夕暮れの景物として詠まれているのだから、やはりかなかなぜみのこととして差し支えない。その特徴的な鳴き声は、せみの中でも、もっとも注意を引きつけたものであろう。」(607頁)とある(注1)。
おおむね妥当な解説ではあるものの、歌を詠むときにヒグラシに注意が向いたのは、前例を踏襲しているからであって、人が一般に注意を向けたとは限らない。ミンミンゼミは民主主義の譬えに使われるし、ツクツクボウシの鳴き声は、途中から鳴き声が逆転して最後に余韻を残して鳴くところなど、音楽的な聴覚からすればよほど注意を引きつけられる。なのになぜヒグラシばかり持ち上げているのか。まずヒグラシの歌の用例からわかることは、夏の終わりから秋にかけて、日暮れ時、物思う時、特に恋する人と別れて寂寥感を覚えるときに歌われている。ヒグラシというのだから、日暮れ時のことを歌うのに使われるのは当然である。ヒグラシの生態として、日暮れ時に鳴くからヒグラシと名づけられていて妥当である。そして、どちらかといえば夏の盛りよりも秋口になるほどよく現れるようである。さらに、鳴き声がカナカナカナと聞こえてカナカナゼミとも言われるように、それはカナシ(愛・哀・悲)の語幹を表しているから、物悲しいときに結びつけて歌われている(注2)。これは駄洒落なのか、それとも、カナシ(愛・哀・悲)という語の語源に関わる事柄なのか、それは証明しようにもできないことである。理屈について一般の人は考えない。なんとなくそんな気がすると思い、その言葉を使って歌を歌ってみている。いけないことなど何もない。語感が重要なのである。相手に通じればそれでいい。多くの人の共感が得られたから、物悲しいことを表すのにヒグラシを使うようになっている。それ以上でもそれ以下でもない(注3)。
hendarastream様ヒグラシの鳴き声(https://www.youtube.com/watch?v=7orelAc-0Bg)
その延長線上にとらえて、万3617番歌の「蝉」もヒグラシのこととする考え方がある。けれども、都のことを思っていてヒグラシが鳴いていよいよ思慕の情が深まったという歌ではない。第五句で「都し思ほゆ」と最後に出てくる。蝉の鳴き声を聞いて、その確定条件のもとに都のことが思い出されている。岩波古語辞典に、「文末に、「大和し思ほゆ」「家し偲はゆ」など、自発の意を表わす助動詞「ゆ」を含む語の用いられることが多いが(4)、この場合も、「自然に思われてくる」「自然に偲ばれる」の意で、話し手の気持を自然な流れとして表現するもので、話し手の積極的・作為的な主張を提示するものではない。……自発の助動詞「ゆ」と呼応するものなどには、現代語に適切な訳語が見当らない。現代にはこのようなやわらかな表現法が存在しないからである。……(4)「葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し(大和ナドガ)思ほゆ」<万六四>」(1494頁)とある。すなわち、蝉の鳴き声を耳にして、ふわっと自然な流れで都のことが思い出されると言っている。例にあげられている万64番歌は、そうそうそうだったよなあ、大和も、という思い出し方をしている。万3617番歌で、そうそうそうだったよなあ、都も、という思い出し方をするためには、「蝉の声」から自然に都が思い浮かんだはずである。ヒグラシのカナカナカナという鳴き声から、流れとして円滑に都の情景が彷彿と浮かぶことはない。ホームシックで切なく感じることは確かに表現し得ようが、直接的に声を聞いたから都が自然と思われると捉えることできない。思考回路として入り組んでいて、「都し思ほゆ」の助詞シが「作為的な主張を提示するもの」になってしまい、用法に合致しない。
橋本2009.は、この万3617番歌の「蝉」はヒグラシではないと論じている。「当時、セミ科の昆虫を表わす歌語は「ひぐらし」と歌うのが通例だった。しかし「ひぐらし」という歌語の性格は、人恋しさや物悲しさなど個人的な憂いにつながっており、蓑麻呂が訴えたかった、誇り高い「都」の生活を歌うには全く適していなかった。そこでやむを得ず漢語の「蝉」を使用したと思われる。蓑麻呂はさまざまな類型によりながらも、いかに「蝉の声」と「都」が直結するかを述べるために趣向を凝らしている。「蝉」という漢語を用いたのもその趣向のひとつであろう。従って『万葉集』においては、「ひぐらし」と「蝉」は全く異なるものと捉えていることになる。」(13頁)とする(注4)。万3617番歌の「蝉」がヒグラシでない点はそのとおりであろう。
さらに、万3617番歌に、「蝉の声をし聞けば都し思ほゆ」と、強調の「し」を重ねて使っている点について考察を加えている。万葉集中に、「し」を二つ使って思い入れの強さを歌った作として万913番歌をあげている。
…… 朝霧立ち 夕されば かはづ鳴くなへ 紐解かぬ 旅にしあれば 吾のみして 清き川原を 見らくし惜しも(万913)
「紐解かぬ旅」とは単身赴任の公務の旅を言っており、助詞シで強調することで、ああこれは一人の寂しい旅なのだ、と確かめられたので、自分だけできれいな川原を見ていることが惜しまれてきて、妻と二人で見たかったという思いを陳述している。万3617番歌でも、蝉の声を聞いてああこれは蝉だ、と確かめられたので、まったくもって都のことが思われることだと述べている。
これは奇妙なことである。「長門の島」という田園部で蝉の声を聞いて、都市部の「都」の蝉を思い出している。都市部の方が蝉が多いのであろうか。また、どうして都にいたと思われる官人が、蝉などに強く心を惹かれているのであろうか。ほとほとに頓珍漢な問題である。
上に、「ひぐらし」を歌語(?)としている理由を、その名前にまつわる日暮れ時のことと、その鳴き声のカナカナカナから悲しい情とを結びつけて歌っていると考えた。駄洒落のセンスばかり際立っている。同様に駄洒落のセンスをもって考えるなら、大石蓑麿(注5)が言いたかったのは、「蝉」という言葉の別の意味、船の檣や寺の幢の先端にあって、帆や幡を吊るしあげるための滑車のことであろうと考えられる(注6)。そんな滑車の中で、都で使われて写経師の大石蓑麿にとって身近な存在とは、車井戸の滑車しか思い浮かばない(注7)。井戸水を汲みあげて、その水で墨を磨ったし、紙を染めたし、飲み水にもした。掘り井戸なのにたくさんの水を得ることができたのは、井戸滑車のおかげであると思うことができる。「石走る滝もとどろに」と表現できる激流の水量ぐらい得ることができたものだと思い出している。つまり、激流的水量のとどろ的鳴声と、蝉という言葉の二義をそれぞれ掛けてこの歌は作られている。
一乗谷朝倉氏遺跡の復原井戸
その滑車としての蝉は、鳴き声としてはカナカナカナではなかろう。ヒグラシの実際の鳴き声の清い音声と、滑車の鳴る音とは似ていない。滑車の軋む音と考えるなら、ギーギーだかジージーだかそういった繰り返しの音を発するセミかとも推測される。アブラゼミやクマゼミなどは候補である。しかしそういう物理的な音響のことを言っているのではなく、蝉にしてもっとも音楽的センスの豊かなツクツクボウシの鳴き声におもしろみを覚えているのではないか。途中から反転するような声は、車井戸の滑車(「蝉」)の回転の反転を表しているようでふさわしい。作者が写経生であっただけに、法師と名づけられているセミには親近性がありそうである。イントロやラストのジーと鳴くところなど、釣瓶から水を移し替えている場面の再現ではないかとさえ感じられる。そして最大の理由は、彼の名が大石蓑麿というところにある。ツクツクボウシは途中からオーシーツクツクと鳴き声を裏返す。オホイシ蓑麿である。オホイシツクツク、オホイシツクツクと鳴いている。セミは丸いお腹をしてそれに蓑を羽織ったような姿をしている。メタボ気味の彼が、お腹を揺らしながら歌でも歌った日には、からかわれることもあったのであろう。そんなからかわれを逆手にとって名歌を残した。名に所縁があるから下級官吏にすぎないのに作者名が記されている。そういうことであろう。
earlgreyv3様「高画質ツクツクボウシ(Meimuna opalifera) in 広島空港 2011.8.26」(https://www.youtube.com/watch?v=4-t7WQKZE74)
以上、万3617番歌の「蝉」は、ツクツクボウシのことで、都の井戸滑車の「蝉」を彷彿とさせて歌った歌であることを語学的に証明した。万葉集研究でしなければならないこととはこういうことであろう。
(注)
(注1)東1935.に、「[ヒグラシは、]私は恐らく日中を鳴き暮らすと云ふ意味で、最初は蝉の総名として用ひられたのではなからうかと思ふ。」(410頁)、「尚萬葉集中には「うつせみ」を詠んだ歌が四十首ばかりあつて、空蝉、虚蝉、打蝉、欝蝉、宇都蝉、打背見、宇都世美、宇都勢美などと書かれてゐる。この「うつせみ」は現身の転じたもので、現身又は現世の意であり蝉の字は勿論借字である。萬葉集中に詠まれた「うつせみ」は全部この意味のもので、蝉とは全く関係ないものである。」(412頁、漢字の旧字体は改めた)とある。「うつせみ」という語については、ミは甲類で、身(ミは乙類)と音が異なり、雄略記に見えるウツシオミ(=ウツシ(現)+オミ(臣))の転であることが説かれて今日の通説となっている。また、ここに借字している「蝉」字は、鋳造鋳型の連想に蝉の羽化の状況を捉えたところから、現世に現れた臣下の意を強調する絶好の描写と思われて用いられている。詳細は、拙稿「一言主大神について 其の一」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/002448e0d7c8bfcc79da4d856417ca0eほか参照。そして、ヒグラシは万葉集の用字において「日晩」とある点や歌意から、夕方に鳴くカナカナゼミ、今日でもヒグラシと呼んでいるセミのことであると考えられるに至っている。
セミの羽化
佐々木2004.に、「万葉集の「ひぐらし」の歌にみられるのは、日の暮れ、夕方に鳴くセミの声を聞くことによって、恋情や鬱屈といった内面の晴れやらぬ心情が迫り上る作者の心情提示であった。景と情の融合であった。万葉集が、「蝉」(一首はあるが)ではなく、歌のことば「ひぐらし」を取り上げ九首に歌ってあることは、そして、「日晩」・「日晩之」の表記が五例あることは、万葉集の人々の、日暮れ、夕方に意識される思いと、その時間帯に鳴くセミの聴覚音声・印象とが融合されるものであったことを示していよう。万葉集の「ひぐらし」歌は、夏の終わりから初秋の「日の晩」に、夕べに鳴くセミを取り上げ歌った歌であり、「ひぐらし」は、その「日の晩」、夕べに鳴くセミを、己が心情を通わすことができるものとして捉え歌った歌のことばであったといえよう。」(358頁)とある。指摘のとおり、万葉集での「ひぐらしは、「[奈良朝にあって、懐風藻などに用いられる]詩語「蝉」の世界とは別趣な、抒情世界を形成して」(同頁)いたのであって、漢字文化圏の物色として共通するかのような捉え方は、およそナンセンスと言わざるを得ない。
(注2)万3589番歌を含む歌群の題詞に「遣新羅使人等、悲レ別贈答、……」(万3578番歌の前)とあり、巻第十五の目次に同様にある。例示した歌では、検討している万3617番歌のほか、「ひぐらし」を歌った万3620・3655番歌も巻第十五に含まれる。白川1995.に、「かなし〔愛・哀・悲〕 どうしようもないような切ない感情をいう。いとおしむ気持が極度に達した状態から、悲しむ気持となる。……〔岩波、古語〕に、思うことのかなわぬ意の動詞「かぬ」の形容詞形、「憂ふ~憂はし」と同じ関係であるとし、阪倉篤義説に、自己の不充足感から他を「兼ね」ようとする心情をいうとする。また柳田国男・吉田金彦説に、感動助詞「かな」の形容詞形とする。この第三説が、その語形を説きやすいようである。」(236頁、漢字の旧字体は改めた)とある。ヒグラシの鳴き声の捉え方からして、筆者も同意見である。
(注3)昨今、東アジアの漢字文化圏のなかに万葉集を位置づけようとする不思議な試みが研究者の間で行われている。漢籍の素養をもって万葉歌がたくさん作られたかのように捉えたがっている。そして、万葉集の原文表記の字面から漢籍を学んだ結果であるとの報告が行われている。知識人の知識人による知識人のための歌が万葉集の歌であるとすることで、お勉強屋さんは悦に入っている。それが本当のことなら、当時、ほんの一握りの人の間でのみ歌は通行するものであったことになる。万葉集に東歌や防人歌が一緒くたに載っている理由が了解できない。懐風藻に東漢詩、防人漢詩があるだろうか。歌として歌われて音声言語としてあったものを筆記したのが、いま、万葉集の伝本として伝わっている。ほとんどの言葉がヤマトコトバから成っているのは、ヤマトコトバが話されていたからで、ヤマトコトバでなければ歌われてもわからなかったからであろう。「漢字は、その音訓を通して国語の表記に用いられる限りにおいて、それは国字に外ならぬものであること」(白川2004.2頁)を忘れてはならない。
井上2008.に、「万葉集の表現のなかでのヒグラシは、秋の物色として認識されていたとみるべきであると考える。……このような物色とは、中国詩文からもたらされた概念を和歌においてどう取り込むかという際にかたち作られていった漢字と和語の混合物ということができる。つまり、漢字文化圏における文字と地域性のある音声言語との関わり方の一例であると捉えている。そして、そのような混合物の形成の背景には、律令という汎東アジア文化の共有があり、国家の形成に伴って四時および物色の概念を取り入れたことが直接の契機であったと考える。」(45頁)とある。
筆者はそうは考えない。カナカナカナと日暮れ時に鳴くセミのことをヒグラシと、それはそれは昔からヤマトコトバに呼んでいた。カナカナカナと鳴くから悲しいことと関連があると戯れて歌の言葉に使っている。とても機智のある言葉づかいである。中国詩文からカナカナゼミのイメージを学んだのではなかろう。日暮れ時によく鳴くからヒグラシであり、字を当てるのに「日晩」としたにすぎない。井上2008.には、「漢語において、「日晩」は生物の名にはならない」(46頁)と、自ら芸文類聚や文選の例をあげている。漢語にカナカナゼミのことを表わさないのに「日晩」と書いて納得しているのはヤマトの人に限られるであろう。朝鮮半島の人がどのように書いていたかについては措くとして、そこいらで鳴いているセミの「概念」なるものを、カナカナゼミのヒグラシのことを「日晩」と中国で書かないのに中国詩文から学んだとする見解は到底認められるものではない。当たり前の話だが、当時においても今日においても、文字言語の歴史よりはるかに長い歴史を背負って音声言語は存在している。カナカナゼミも漢籍が伝わるよりずっとずっと昔から、列島で身近に鳴いていたことだろう。
もちろん、ひょっとすると古生物学にヒグラシが歴史時代になって列島に渡ってきたのかもしれず、また、縄文時代にカナカナとは鳴かずに違う鳴き方をしていて突然変異を遂げたものかもしれないし、人間のほうがカナカナとは別の音として認識していたのかもしれない。よって断言することはできないし、検証できないことは科学ではないが、言葉を科学することだけで言葉がわかるとは到底思われない。
小学生に向かって、ほら、ヒグラシが鳴いている、夏も終わりだ、悲しいね、などと言った時、子どもが、何で悲しいの? と聞き返したとしよう。だって、カナカナカナと鳴いているじゃないか、と答えるだけでその問答は完了する。もし完了しなかったら、その子は夏休みの終わることの何たるかを知らない長期不登校児か、あるいは言語能力において厄介な問題を抱えていると言わざるを得ない。そしてこれは学校で教わるものではない。
(注4)セミ(蝉)を漢語、ないし漢語に由来するとする説はあるものの、新撰字鏡に、「蟬 時旃反、蜩也、世比」、「嚖 虎惠反、虫聲、世比乃己惠」とある。セビという古形があってセミへと転化したとすると、漢語由来であるとは認めがたい。盆をボン→ボニと言いやすいように漢語を変えた言葉は、もっぱらもともと本邦にないもの、観念としてないものであるから新語を造ったということになろう。列島に cicada が馬(マ→ウマ)などのように連れて来られたのではなかろうから、ヤマトコトバにセミ(セビ)という語はあったと思われる。蝉(セン)という音に近づけるために、セビ→セミへと馴化させた可能性はある。もちろん、そのようなことがあったとしても、それは単なる口遊びである。
(注5)大石蓑麿という人物は、正倉院文書(大日本古文書・巻之二十四)・天平十八年十二月条に、「王廣麿 冩經百六十(六)張〈之中三枚、依大石䒾万呂先用紙、〉」(東京大学史料編纂所https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0024/0392?m=all&s=0391&n=20)とある人物に当たり、写経生とされている。
(注6)名語記に、「セミ 問 夏ナク セミ如何 答セミハ蟬也 スヱムシノ反 木ノスヱヲコノメル故歟 次 船ノホバシラ乃サキヲセミトナツク如何 蟬ノ形ヲツクリ ツケタルハイフ也」(836頁)、日葡辞書に、「Xemi.セミ(蟬)蟬.¶Xemiga naqu.(蟬が鳴く)蟬が鳴く./Xemi.セミ(蟬)帆を巻き上げたり上へ揚げたりするために,帆柱の先端にある滑車.」(749頁)とある。高いところの物を引き上げるために竿の先につけられた滑車のことを蝉といい、帆船、建築、土木に用いられたものをそう呼んでいる。金沢兼光編・和漢船用集に、「蟬 明律考佼轆と書。旗竿の蟬、本に同じ。……綱と車と揉合つよく[コガノキの]外の木を用る時ハ火出る者也。古賀の木を用ることハ其災有ことなし。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200018378/414~415?ln=ja)とあり、コガノキはカゴノキのことという。木製滑車は摩擦熱で火が出ないように注意が必要だったらしい。それだけ力を受けるのだから、滑車が剥き出しに作られるのではなく、車軸が外れないように上下にロックするように枠組みされていたものが本来であったと考えられる。木に止まって鳴くセミの、体が羽の長さ以内に納まるさまと同じである。
船のセミ(鳥羽市立海の博物館展示品)
なお、朝鮮半島の寺院に幢竿支柱の遺物は多い。斎藤2003.に、朝鮮半島において、幢竿を檣の名で呼称したことに関して、風水思想に基づいてなされたものであるという考えが示されている。「慶州市乾川邑乾川里にある幢竿支柱のについて「金庾信将軍旗幢支柱」といわれ、新羅統一に功をたてた英雄金庾信が百済軍を迎えうつために大軍を駐屯させた時に旗を吊るすために建てたものという伝承がある……。軍旗としての幢竿の類とむすびつけられた伝承として興味深いものがある。」(175~176頁)として、風水思想との関係がある一例にあげている。筆者は、少なくとも本邦においては、滑車の仕組みにこそ刮目すべき点があって、そのからくりについて蝉という言葉で理解したところに共通項があると考えている。
(注7)考古学に、井戸の滑車はなかなか出土を見ない。有機質である点や壊れない限り他へ転用された可能性が高いこと、また、そもそもたくさん水を汲みあげる必要のある深い掘り井戸で、撥ね釣瓶では対処しきれない狭いスペースに設置されるもの、といった限られた条件下の稀少な存在であったかもしれない点を考慮しなければならない。現代人は、とかく便利な機械が付いていればいるに越したことはないと考えがちであるが、発展途上国へ援助したまま放置されている機械が多いことも参考になるだろう。メンテナンスが行き届かなければ永続的な利用には結びつかず、電動のものなどは電力が安価で安定的に確保されなければ無用の長物となってしまう。車井戸とただの釣瓶井戸との違いにおいて、井戸の滑車を支える支柱を掘っ建てたら腐るのは時間の問題であるし、そのたびに作りかえるのがコストの面から賢明か否か、また、井戸のそばに穴を掘ることは井戸側の崩壊につながりかねない点も注意しなければならない。最悪の事態は、井戸の滑車を子どもがおもしろがって玩具にして遊び、死亡事故につながることである。その点、写経所近くに設けられた平城京の井戸には、高い蓋然性をもって滑車が付けられていたと考えられる。天平期の写経活動は国営事業としてとみに盛んであり、字を写し間違えると写経生は罰金処分にあうといった規律が伝わっており、現在も荼毘紙などに書かれた経典を多数目にすることができる。天平六年(724)に官立の写経所が設けられ、万3617番歌は天平八年(736)の遣新羅使の途上で歌われている。写経司、写経所が何人規模の役所であったか筆者は不勉強で知らないが、正倉院文書には、700名を超える写経生の名が見えるという。一人で一日3000字写したとされている。国家的大プロジェクトであるから、水道システムもデラックス版にしたことは窺えよう。その井戸の滑車をセミと呼んでいたと思われる。cicada に姿がよく似ていて、高い木の上に止まっていて、軋む音を繰り返していた。セミと名づけてとてもわかりやすい。
(引用・参考文献)
井上2008. 井上さやか「「日晩(ひぐらし)」という表語─漢字文化圏における万葉歌の位置を探るために─」『万葉古代学研究所年報』第6号、財団法人奈良県万葉文化振興財団万葉文化研究所、2008年。奈良県立万葉文化館HPhttps://www.manyo.jp/ancient/report/
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
斎藤2003. 斎藤忠『幢竿支柱の研究─アジアの特殊仏教石造文化財の系譜Ⅰ─』第一書房、2003年。
佐々木2004. 佐々木民夫『万葉集歌のことばの研究』おうふう、平成16年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
白川2004. 白川静『新訂 字統』平凡社、2004年。
宋2009. 宋成徳「蝉、ひぐらしを詠む万葉歌と中国文学」『京都大学國文學論叢』第20号、2009年2月。京都大学学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/2433/137380
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1995年。
橋本2009. 橋本美津子「滝もとどろに鳴く蝉─『万葉集』のまなざし─」『語文』第134輯、日本大学国文学会、平成21年6月。
東1935. 東光治『萬葉動物考 正編』人文書院、昭和10年。
名語記 経尊著、田山方南校閲、北野克写『名語記』勉誠社、昭和58年。
※本稿は、2017年12月稿を2024年8月に、その後目にした論文を検討に入れ(ていないが)、字句を整理し、図版を差し替え、ルビ形式にしたものである。セミの鳴き声を動画投稿されている方に感謝申し上げる。
安芸国の長門の島にして礒辺に舶泊して作る歌五首
石走る 滝もとどろに 鳴く蝉の 声をし聞けば 都し思ほゆ〔伊波婆之流多伎毛登杼呂尓鳴蝉乃許恵乎之伎氣婆京師之於毛保由〕(万3617)
右一首は大石蓑麿
題詞に「蝉」という言葉が登場するのは、以下の三~四例である。万1479番歌で「晩蝉」と書いてヒグラシと訓むことは、歌中に「日晩」とあるから正しいと思われる。歌われているのはみなヒグラシである。
蝉を詠む
黙然も有らむ 時も鳴かなむ ひぐらしの〔日晩乃〕 物思ふ時に 鳴きつつもとな(万1964)
蝉に寄す
ひぐらしは〔日倉足者〕 時と鳴けども 恋ふるしに 手弱女我は 時わかず泣く(万1982)
蝉を詠む
夕影に 来鳴くひぐらし〔来鳴日晩之〕 幾許も 日ごとに聞けど 飽かぬ声かも(万2157)
大伴家持の晩蝉の歌一首
隠りのみ 居ればいぶせみ 慰むと 出で立ち聞けば 来鳴くひぐらし〔来鳴日晩〕(万1479)
ヒグラシを歌った歌はほかに五例ある。
(風を詠む)
萩の花 咲きたる野辺に ひぐらしの〔日晩之乃〕 鳴くなるなへに 秋の風吹く(万2231)
(新羅に遣はさえし使人等の、別れを悲しびて贈答し、また海路にして情を慟ましめ思ひを陳ぶ、并せて所に当りて誦ふ古歌)
夕されば ひぐらし来鳴く〔比具良之伎奈久〕 生駒山 越えてそ吾が来る 妹が目を欲り(万3589)
右の一首は秦間満
(安芸国の長門の島にして礒辺に舶泊して作る歌五首)
恋繁み 慰めかねて ひぐらしの〔比具良之能〕 鳴く島陰に 廬するかも(万3620)
(筑紫の舘に至りて遥かに本郷を望みて悽愴みて作る歌四首)
今よりは 秋づきぬらし あしひきの 山松蔭に ひぐらし鳴きぬ〔日具良之奈伎奴〕(万3655)
(八月七日の夜に、守大伴宿禰家持の舘に集ひて宴の歌)
ひぐらしの〔日晩之乃〕 鳴きぬる時は 女郎花 咲きたる野辺を 行きつつ見べし(万3951)
右の一首は大目秦忌寸八千嶋
以上をまとめると、万葉集に歌われているセミは、ヒグラシが九首確認でき、単にセミとして歌っているものは一首のみであることになる。時代別国語大辞典の「ひぐらし」の項に、「【考】古今集以下になると、ひぐらしは秋のもの、せみは夏のものと区別されるが、万葉ではその区別がなく、ひぐらしと受け取りにくいものもあり、「詠レ蝉」の題のもとにひぐらしが詠まれたりしているので、せみ一般のことを称したという説、あるいは一種の歌語として蝉を詠む時はヒグラシとしたものかとする説などがある。しかし、大部分が秋や夕暮れの景物として詠まれているのだから、やはりかなかなぜみのこととして差し支えない。その特徴的な鳴き声は、せみの中でも、もっとも注意を引きつけたものであろう。」(607頁)とある(注1)。
おおむね妥当な解説ではあるものの、歌を詠むときにヒグラシに注意が向いたのは、前例を踏襲しているからであって、人が一般に注意を向けたとは限らない。ミンミンゼミは民主主義の譬えに使われるし、ツクツクボウシの鳴き声は、途中から鳴き声が逆転して最後に余韻を残して鳴くところなど、音楽的な聴覚からすればよほど注意を引きつけられる。なのになぜヒグラシばかり持ち上げているのか。まずヒグラシの歌の用例からわかることは、夏の終わりから秋にかけて、日暮れ時、物思う時、特に恋する人と別れて寂寥感を覚えるときに歌われている。ヒグラシというのだから、日暮れ時のことを歌うのに使われるのは当然である。ヒグラシの生態として、日暮れ時に鳴くからヒグラシと名づけられていて妥当である。そして、どちらかといえば夏の盛りよりも秋口になるほどよく現れるようである。さらに、鳴き声がカナカナカナと聞こえてカナカナゼミとも言われるように、それはカナシ(愛・哀・悲)の語幹を表しているから、物悲しいときに結びつけて歌われている(注2)。これは駄洒落なのか、それとも、カナシ(愛・哀・悲)という語の語源に関わる事柄なのか、それは証明しようにもできないことである。理屈について一般の人は考えない。なんとなくそんな気がすると思い、その言葉を使って歌を歌ってみている。いけないことなど何もない。語感が重要なのである。相手に通じればそれでいい。多くの人の共感が得られたから、物悲しいことを表すのにヒグラシを使うようになっている。それ以上でもそれ以下でもない(注3)。
hendarastream様ヒグラシの鳴き声(https://www.youtube.com/watch?v=7orelAc-0Bg)
その延長線上にとらえて、万3617番歌の「蝉」もヒグラシのこととする考え方がある。けれども、都のことを思っていてヒグラシが鳴いていよいよ思慕の情が深まったという歌ではない。第五句で「都し思ほゆ」と最後に出てくる。蝉の鳴き声を聞いて、その確定条件のもとに都のことが思い出されている。岩波古語辞典に、「文末に、「大和し思ほゆ」「家し偲はゆ」など、自発の意を表わす助動詞「ゆ」を含む語の用いられることが多いが(4)、この場合も、「自然に思われてくる」「自然に偲ばれる」の意で、話し手の気持を自然な流れとして表現するもので、話し手の積極的・作為的な主張を提示するものではない。……自発の助動詞「ゆ」と呼応するものなどには、現代語に適切な訳語が見当らない。現代にはこのようなやわらかな表現法が存在しないからである。……(4)「葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し(大和ナドガ)思ほゆ」<万六四>」(1494頁)とある。すなわち、蝉の鳴き声を耳にして、ふわっと自然な流れで都のことが思い出されると言っている。例にあげられている万64番歌は、そうそうそうだったよなあ、大和も、という思い出し方をしている。万3617番歌で、そうそうそうだったよなあ、都も、という思い出し方をするためには、「蝉の声」から自然に都が思い浮かんだはずである。ヒグラシのカナカナカナという鳴き声から、流れとして円滑に都の情景が彷彿と浮かぶことはない。ホームシックで切なく感じることは確かに表現し得ようが、直接的に声を聞いたから都が自然と思われると捉えることできない。思考回路として入り組んでいて、「都し思ほゆ」の助詞シが「作為的な主張を提示するもの」になってしまい、用法に合致しない。
橋本2009.は、この万3617番歌の「蝉」はヒグラシではないと論じている。「当時、セミ科の昆虫を表わす歌語は「ひぐらし」と歌うのが通例だった。しかし「ひぐらし」という歌語の性格は、人恋しさや物悲しさなど個人的な憂いにつながっており、蓑麻呂が訴えたかった、誇り高い「都」の生活を歌うには全く適していなかった。そこでやむを得ず漢語の「蝉」を使用したと思われる。蓑麻呂はさまざまな類型によりながらも、いかに「蝉の声」と「都」が直結するかを述べるために趣向を凝らしている。「蝉」という漢語を用いたのもその趣向のひとつであろう。従って『万葉集』においては、「ひぐらし」と「蝉」は全く異なるものと捉えていることになる。」(13頁)とする(注4)。万3617番歌の「蝉」がヒグラシでない点はそのとおりであろう。
さらに、万3617番歌に、「蝉の声をし聞けば都し思ほゆ」と、強調の「し」を重ねて使っている点について考察を加えている。万葉集中に、「し」を二つ使って思い入れの強さを歌った作として万913番歌をあげている。
…… 朝霧立ち 夕されば かはづ鳴くなへ 紐解かぬ 旅にしあれば 吾のみして 清き川原を 見らくし惜しも(万913)
「紐解かぬ旅」とは単身赴任の公務の旅を言っており、助詞シで強調することで、ああこれは一人の寂しい旅なのだ、と確かめられたので、自分だけできれいな川原を見ていることが惜しまれてきて、妻と二人で見たかったという思いを陳述している。万3617番歌でも、蝉の声を聞いてああこれは蝉だ、と確かめられたので、まったくもって都のことが思われることだと述べている。
これは奇妙なことである。「長門の島」という田園部で蝉の声を聞いて、都市部の「都」の蝉を思い出している。都市部の方が蝉が多いのであろうか。また、どうして都にいたと思われる官人が、蝉などに強く心を惹かれているのであろうか。ほとほとに頓珍漢な問題である。
上に、「ひぐらし」を歌語(?)としている理由を、その名前にまつわる日暮れ時のことと、その鳴き声のカナカナカナから悲しい情とを結びつけて歌っていると考えた。駄洒落のセンスばかり際立っている。同様に駄洒落のセンスをもって考えるなら、大石蓑麿(注5)が言いたかったのは、「蝉」という言葉の別の意味、船の檣や寺の幢の先端にあって、帆や幡を吊るしあげるための滑車のことであろうと考えられる(注6)。そんな滑車の中で、都で使われて写経師の大石蓑麿にとって身近な存在とは、車井戸の滑車しか思い浮かばない(注7)。井戸水を汲みあげて、その水で墨を磨ったし、紙を染めたし、飲み水にもした。掘り井戸なのにたくさんの水を得ることができたのは、井戸滑車のおかげであると思うことができる。「石走る滝もとどろに」と表現できる激流の水量ぐらい得ることができたものだと思い出している。つまり、激流的水量のとどろ的鳴声と、蝉という言葉の二義をそれぞれ掛けてこの歌は作られている。
一乗谷朝倉氏遺跡の復原井戸
その滑車としての蝉は、鳴き声としてはカナカナカナではなかろう。ヒグラシの実際の鳴き声の清い音声と、滑車の鳴る音とは似ていない。滑車の軋む音と考えるなら、ギーギーだかジージーだかそういった繰り返しの音を発するセミかとも推測される。アブラゼミやクマゼミなどは候補である。しかしそういう物理的な音響のことを言っているのではなく、蝉にしてもっとも音楽的センスの豊かなツクツクボウシの鳴き声におもしろみを覚えているのではないか。途中から反転するような声は、車井戸の滑車(「蝉」)の回転の反転を表しているようでふさわしい。作者が写経生であっただけに、法師と名づけられているセミには親近性がありそうである。イントロやラストのジーと鳴くところなど、釣瓶から水を移し替えている場面の再現ではないかとさえ感じられる。そして最大の理由は、彼の名が大石蓑麿というところにある。ツクツクボウシは途中からオーシーツクツクと鳴き声を裏返す。オホイシ蓑麿である。オホイシツクツク、オホイシツクツクと鳴いている。セミは丸いお腹をしてそれに蓑を羽織ったような姿をしている。メタボ気味の彼が、お腹を揺らしながら歌でも歌った日には、からかわれることもあったのであろう。そんなからかわれを逆手にとって名歌を残した。名に所縁があるから下級官吏にすぎないのに作者名が記されている。そういうことであろう。
earlgreyv3様「高画質ツクツクボウシ(Meimuna opalifera) in 広島空港 2011.8.26」(https://www.youtube.com/watch?v=4-t7WQKZE74)
以上、万3617番歌の「蝉」は、ツクツクボウシのことで、都の井戸滑車の「蝉」を彷彿とさせて歌った歌であることを語学的に証明した。万葉集研究でしなければならないこととはこういうことであろう。
(注)
(注1)東1935.に、「[ヒグラシは、]私は恐らく日中を鳴き暮らすと云ふ意味で、最初は蝉の総名として用ひられたのではなからうかと思ふ。」(410頁)、「尚萬葉集中には「うつせみ」を詠んだ歌が四十首ばかりあつて、空蝉、虚蝉、打蝉、欝蝉、宇都蝉、打背見、宇都世美、宇都勢美などと書かれてゐる。この「うつせみ」は現身の転じたもので、現身又は現世の意であり蝉の字は勿論借字である。萬葉集中に詠まれた「うつせみ」は全部この意味のもので、蝉とは全く関係ないものである。」(412頁、漢字の旧字体は改めた)とある。「うつせみ」という語については、ミは甲類で、身(ミは乙類)と音が異なり、雄略記に見えるウツシオミ(=ウツシ(現)+オミ(臣))の転であることが説かれて今日の通説となっている。また、ここに借字している「蝉」字は、鋳造鋳型の連想に蝉の羽化の状況を捉えたところから、現世に現れた臣下の意を強調する絶好の描写と思われて用いられている。詳細は、拙稿「一言主大神について 其の一」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/002448e0d7c8bfcc79da4d856417ca0eほか参照。そして、ヒグラシは万葉集の用字において「日晩」とある点や歌意から、夕方に鳴くカナカナゼミ、今日でもヒグラシと呼んでいるセミのことであると考えられるに至っている。
セミの羽化
佐々木2004.に、「万葉集の「ひぐらし」の歌にみられるのは、日の暮れ、夕方に鳴くセミの声を聞くことによって、恋情や鬱屈といった内面の晴れやらぬ心情が迫り上る作者の心情提示であった。景と情の融合であった。万葉集が、「蝉」(一首はあるが)ではなく、歌のことば「ひぐらし」を取り上げ九首に歌ってあることは、そして、「日晩」・「日晩之」の表記が五例あることは、万葉集の人々の、日暮れ、夕方に意識される思いと、その時間帯に鳴くセミの聴覚音声・印象とが融合されるものであったことを示していよう。万葉集の「ひぐらし」歌は、夏の終わりから初秋の「日の晩」に、夕べに鳴くセミを取り上げ歌った歌であり、「ひぐらし」は、その「日の晩」、夕べに鳴くセミを、己が心情を通わすことができるものとして捉え歌った歌のことばであったといえよう。」(358頁)とある。指摘のとおり、万葉集での「ひぐらしは、「[奈良朝にあって、懐風藻などに用いられる]詩語「蝉」の世界とは別趣な、抒情世界を形成して」(同頁)いたのであって、漢字文化圏の物色として共通するかのような捉え方は、およそナンセンスと言わざるを得ない。
(注2)万3589番歌を含む歌群の題詞に「遣新羅使人等、悲レ別贈答、……」(万3578番歌の前)とあり、巻第十五の目次に同様にある。例示した歌では、検討している万3617番歌のほか、「ひぐらし」を歌った万3620・3655番歌も巻第十五に含まれる。白川1995.に、「かなし〔愛・哀・悲〕 どうしようもないような切ない感情をいう。いとおしむ気持が極度に達した状態から、悲しむ気持となる。……〔岩波、古語〕に、思うことのかなわぬ意の動詞「かぬ」の形容詞形、「憂ふ~憂はし」と同じ関係であるとし、阪倉篤義説に、自己の不充足感から他を「兼ね」ようとする心情をいうとする。また柳田国男・吉田金彦説に、感動助詞「かな」の形容詞形とする。この第三説が、その語形を説きやすいようである。」(236頁、漢字の旧字体は改めた)とある。ヒグラシの鳴き声の捉え方からして、筆者も同意見である。
(注3)昨今、東アジアの漢字文化圏のなかに万葉集を位置づけようとする不思議な試みが研究者の間で行われている。漢籍の素養をもって万葉歌がたくさん作られたかのように捉えたがっている。そして、万葉集の原文表記の字面から漢籍を学んだ結果であるとの報告が行われている。知識人の知識人による知識人のための歌が万葉集の歌であるとすることで、お勉強屋さんは悦に入っている。それが本当のことなら、当時、ほんの一握りの人の間でのみ歌は通行するものであったことになる。万葉集に東歌や防人歌が一緒くたに載っている理由が了解できない。懐風藻に東漢詩、防人漢詩があるだろうか。歌として歌われて音声言語としてあったものを筆記したのが、いま、万葉集の伝本として伝わっている。ほとんどの言葉がヤマトコトバから成っているのは、ヤマトコトバが話されていたからで、ヤマトコトバでなければ歌われてもわからなかったからであろう。「漢字は、その音訓を通して国語の表記に用いられる限りにおいて、それは国字に外ならぬものであること」(白川2004.2頁)を忘れてはならない。
井上2008.に、「万葉集の表現のなかでのヒグラシは、秋の物色として認識されていたとみるべきであると考える。……このような物色とは、中国詩文からもたらされた概念を和歌においてどう取り込むかという際にかたち作られていった漢字と和語の混合物ということができる。つまり、漢字文化圏における文字と地域性のある音声言語との関わり方の一例であると捉えている。そして、そのような混合物の形成の背景には、律令という汎東アジア文化の共有があり、国家の形成に伴って四時および物色の概念を取り入れたことが直接の契機であったと考える。」(45頁)とある。
筆者はそうは考えない。カナカナカナと日暮れ時に鳴くセミのことをヒグラシと、それはそれは昔からヤマトコトバに呼んでいた。カナカナカナと鳴くから悲しいことと関連があると戯れて歌の言葉に使っている。とても機智のある言葉づかいである。中国詩文からカナカナゼミのイメージを学んだのではなかろう。日暮れ時によく鳴くからヒグラシであり、字を当てるのに「日晩」としたにすぎない。井上2008.には、「漢語において、「日晩」は生物の名にはならない」(46頁)と、自ら芸文類聚や文選の例をあげている。漢語にカナカナゼミのことを表わさないのに「日晩」と書いて納得しているのはヤマトの人に限られるであろう。朝鮮半島の人がどのように書いていたかについては措くとして、そこいらで鳴いているセミの「概念」なるものを、カナカナゼミのヒグラシのことを「日晩」と中国で書かないのに中国詩文から学んだとする見解は到底認められるものではない。当たり前の話だが、当時においても今日においても、文字言語の歴史よりはるかに長い歴史を背負って音声言語は存在している。カナカナゼミも漢籍が伝わるよりずっとずっと昔から、列島で身近に鳴いていたことだろう。
もちろん、ひょっとすると古生物学にヒグラシが歴史時代になって列島に渡ってきたのかもしれず、また、縄文時代にカナカナとは鳴かずに違う鳴き方をしていて突然変異を遂げたものかもしれないし、人間のほうがカナカナとは別の音として認識していたのかもしれない。よって断言することはできないし、検証できないことは科学ではないが、言葉を科学することだけで言葉がわかるとは到底思われない。
小学生に向かって、ほら、ヒグラシが鳴いている、夏も終わりだ、悲しいね、などと言った時、子どもが、何で悲しいの? と聞き返したとしよう。だって、カナカナカナと鳴いているじゃないか、と答えるだけでその問答は完了する。もし完了しなかったら、その子は夏休みの終わることの何たるかを知らない長期不登校児か、あるいは言語能力において厄介な問題を抱えていると言わざるを得ない。そしてこれは学校で教わるものではない。
(注4)セミ(蝉)を漢語、ないし漢語に由来するとする説はあるものの、新撰字鏡に、「蟬 時旃反、蜩也、世比」、「嚖 虎惠反、虫聲、世比乃己惠」とある。セビという古形があってセミへと転化したとすると、漢語由来であるとは認めがたい。盆をボン→ボニと言いやすいように漢語を変えた言葉は、もっぱらもともと本邦にないもの、観念としてないものであるから新語を造ったということになろう。列島に cicada が馬(マ→ウマ)などのように連れて来られたのではなかろうから、ヤマトコトバにセミ(セビ)という語はあったと思われる。蝉(セン)という音に近づけるために、セビ→セミへと馴化させた可能性はある。もちろん、そのようなことがあったとしても、それは単なる口遊びである。
(注5)大石蓑麿という人物は、正倉院文書(大日本古文書・巻之二十四)・天平十八年十二月条に、「王廣麿 冩經百六十(六)張〈之中三枚、依大石䒾万呂先用紙、〉」(東京大学史料編纂所https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0024/0392?m=all&s=0391&n=20)とある人物に当たり、写経生とされている。
(注6)名語記に、「セミ 問 夏ナク セミ如何 答セミハ蟬也 スヱムシノ反 木ノスヱヲコノメル故歟 次 船ノホバシラ乃サキヲセミトナツク如何 蟬ノ形ヲツクリ ツケタルハイフ也」(836頁)、日葡辞書に、「Xemi.セミ(蟬)蟬.¶Xemiga naqu.(蟬が鳴く)蟬が鳴く./Xemi.セミ(蟬)帆を巻き上げたり上へ揚げたりするために,帆柱の先端にある滑車.」(749頁)とある。高いところの物を引き上げるために竿の先につけられた滑車のことを蝉といい、帆船、建築、土木に用いられたものをそう呼んでいる。金沢兼光編・和漢船用集に、「蟬 明律考佼轆と書。旗竿の蟬、本に同じ。……綱と車と揉合つよく[コガノキの]外の木を用る時ハ火出る者也。古賀の木を用ることハ其災有ことなし。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200018378/414~415?ln=ja)とあり、コガノキはカゴノキのことという。木製滑車は摩擦熱で火が出ないように注意が必要だったらしい。それだけ力を受けるのだから、滑車が剥き出しに作られるのではなく、車軸が外れないように上下にロックするように枠組みされていたものが本来であったと考えられる。木に止まって鳴くセミの、体が羽の長さ以内に納まるさまと同じである。
船のセミ(鳥羽市立海の博物館展示品)
なお、朝鮮半島の寺院に幢竿支柱の遺物は多い。斎藤2003.に、朝鮮半島において、幢竿を檣の名で呼称したことに関して、風水思想に基づいてなされたものであるという考えが示されている。「慶州市乾川邑乾川里にある幢竿支柱のについて「金庾信将軍旗幢支柱」といわれ、新羅統一に功をたてた英雄金庾信が百済軍を迎えうつために大軍を駐屯させた時に旗を吊るすために建てたものという伝承がある……。軍旗としての幢竿の類とむすびつけられた伝承として興味深いものがある。」(175~176頁)として、風水思想との関係がある一例にあげている。筆者は、少なくとも本邦においては、滑車の仕組みにこそ刮目すべき点があって、そのからくりについて蝉という言葉で理解したところに共通項があると考えている。
(注7)考古学に、井戸の滑車はなかなか出土を見ない。有機質である点や壊れない限り他へ転用された可能性が高いこと、また、そもそもたくさん水を汲みあげる必要のある深い掘り井戸で、撥ね釣瓶では対処しきれない狭いスペースに設置されるもの、といった限られた条件下の稀少な存在であったかもしれない点を考慮しなければならない。現代人は、とかく便利な機械が付いていればいるに越したことはないと考えがちであるが、発展途上国へ援助したまま放置されている機械が多いことも参考になるだろう。メンテナンスが行き届かなければ永続的な利用には結びつかず、電動のものなどは電力が安価で安定的に確保されなければ無用の長物となってしまう。車井戸とただの釣瓶井戸との違いにおいて、井戸の滑車を支える支柱を掘っ建てたら腐るのは時間の問題であるし、そのたびに作りかえるのがコストの面から賢明か否か、また、井戸のそばに穴を掘ることは井戸側の崩壊につながりかねない点も注意しなければならない。最悪の事態は、井戸の滑車を子どもがおもしろがって玩具にして遊び、死亡事故につながることである。その点、写経所近くに設けられた平城京の井戸には、高い蓋然性をもって滑車が付けられていたと考えられる。天平期の写経活動は国営事業としてとみに盛んであり、字を写し間違えると写経生は罰金処分にあうといった規律が伝わっており、現在も荼毘紙などに書かれた経典を多数目にすることができる。天平六年(724)に官立の写経所が設けられ、万3617番歌は天平八年(736)の遣新羅使の途上で歌われている。写経司、写経所が何人規模の役所であったか筆者は不勉強で知らないが、正倉院文書には、700名を超える写経生の名が見えるという。一人で一日3000字写したとされている。国家的大プロジェクトであるから、水道システムもデラックス版にしたことは窺えよう。その井戸の滑車をセミと呼んでいたと思われる。cicada に姿がよく似ていて、高い木の上に止まっていて、軋む音を繰り返していた。セミと名づけてとてもわかりやすい。
(引用・参考文献)
井上2008. 井上さやか「「日晩(ひぐらし)」という表語─漢字文化圏における万葉歌の位置を探るために─」『万葉古代学研究所年報』第6号、財団法人奈良県万葉文化振興財団万葉文化研究所、2008年。奈良県立万葉文化館HPhttps://www.manyo.jp/ancient/report/
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
斎藤2003. 斎藤忠『幢竿支柱の研究─アジアの特殊仏教石造文化財の系譜Ⅰ─』第一書房、2003年。
佐々木2004. 佐々木民夫『万葉集歌のことばの研究』おうふう、平成16年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
白川2004. 白川静『新訂 字統』平凡社、2004年。
宋2009. 宋成徳「蝉、ひぐらしを詠む万葉歌と中国文学」『京都大学國文學論叢』第20号、2009年2月。京都大学学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/2433/137380
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1995年。
橋本2009. 橋本美津子「滝もとどろに鳴く蝉─『万葉集』のまなざし─」『語文』第134輯、日本大学国文学会、平成21年6月。
東1935. 東光治『萬葉動物考 正編』人文書院、昭和10年。
名語記 経尊著、田山方南校閲、北野克写『名語記』勉誠社、昭和58年。
※本稿は、2017年12月稿を2024年8月に、その後目にした論文を検討に入れ(ていないが)、字句を整理し、図版を差し替え、ルビ形式にしたものである。セミの鳴き声を動画投稿されている方に感謝申し上げる。