古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

雄略記「上つ枝は天を覆へり 中つ枝は東を覆へり 下枝は鄙を覆へり」歌は、「負へり」の誤りである

2012年03月18日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 雄略記に、天皇が長谷の百枝槻の下に豊楽(とよのあかり)をしたとき、伊勢国の三重の采女(うねめ)がお酌をしていた。葉っぱが杯に浮かんでいたので粗相と咎めて手打ちにしようとした。采女は歌を歌った。

 纏向(まきむく)の 日代(ひしろ)の宮は 朝日の 日照(で)る宮 夕日の 日影(がけ)る宮 竹の根の 根垂(だ)る宮 木の根の 根延(ば)ふ宮 八百土(やほに)よし い築(きづ)きの宮 真木(まき)栄(さ)く 檜(ひ)の御門
 新嘗屋(にひなへや)に 生ひ立(だ)てる 百足(ももだ)る 槻(つき)が枝(え)は 上(ほ)つ枝は 天(あめ)を覆(お)へり 中(なか)つ枝は 東(あづま)を覆へり 下(しづ)枝は 鄙(ひな)を覆へり 
 上つ枝の 枝の末葉(うらば)は 中つ枝に 落ち触(ふ)らばへ 中つ枝の 枝の末葉は 下(しも)つ枝に 落ち触らばへ 下(しづ)枝の 枝の末葉は 蟻衣(ありきぬ)の 三重(みへ)の子が 捧がせる 瑞玉盞(みづたまうき)に 浮きし脂(あぶら) 落ちなづさひ 水(みな)こをろこをろに 是(こ)しも あやに恐(かしこ)し
 高光る 日の御子 事の 語り言も 是(こ)をば(記100)

 歌謡は、段落を追って、宮讃めの話、枝の譬え話、末葉の落ちる話、まとめ、となっている。居駒永幸『古代の歌と叙事文芸史』(笠間書院)では、景行天皇の代の故事から説き起こし、天・東・鄙という統治観やめでたき献杯、創世神話を語ることで、天皇の権威を賛美しようという叙事歌であるとしている。藤原享和『古代宮廷儀礼と歌謡』(おうふう)は、単なる歌による助命譚ではなく、新嘗祭で天皇の治世を寿がんがための歌で、お膳立てとして槻の葉が落ち、天皇は怒っていると見ている。現在までのところ、ぼんやりと、雄略天皇に景行天皇とその代の倭建命(日本武尊)(やまとたけるのみこと)を準えている、また、なんとなく、新嘗祭に当たって国土創世神話がほのめかされている、さらに、それとなく、天皇の統治領域を天・東・鄙によって表している、といった点が強調されている。象徴詩のような手法の歌を聞いて、古代の人は理解、納得したのであろうか。
 記の歌謡は一字一音で記されている。通説に、「淤弊理」を「覆(お)へり」と訓んでいる。「覆(おほ)ふ」の意の「覆(お)ふ」は、「真床覆衾(まどこおふふすま)」にある。槻はケヤキとされており、ケヤキは幹の部分でいくつにも分岐し、それぞれの枝が伸びていって上のほうで葉をつける。枝全体が覆うという表現はわかるが、上中下を別に扱うのは叙景ではないということになる。他の可能性は、武田祐吉説にある「負へり」である。「名に負う」の意と解せる。ことば(の音)が意味を背負っているという意味である。歌の後半部で、「盞(うき、キは甲類)」に「浮き(キは甲類)」と洒落を言うほどである。景行紀十八年八月条に、筑紫国で、盞を忘れ、「盞は(どうしたのか)?」から「浮羽(うきは)」と名づけたという地名譚も載る。いま、盞に葉っぱが浮いている。
 歌っているのは三重の采女で、三重は倭建命が東征からの帰路に訪れ縁がある。場所は、雄略天皇の長谷の朝倉宮のはずが、景行天皇の「纏向の 日代の宮」である。冒頭部でさんざんに宮讃めの歌がもったいぶられている。采女は頚に刀を当てられながら、殺さないでくれ、奏上したいことがあると言っている。倭建命が熊曾建(くまそたける)を殺そうとしていた場面を髣髴とさせる。すると、枝については、「ほつ」→「脱(ほつ)る」→「天」、「なかつ」→「菜勝つ」→「東」、「しづ」→「倭文(しづ)織り」→「雛」=「鄙」と解釈することができる。すなわち、彼女がまず歌いたいのは、纏向の日代宮に都した景行天皇の子、倭建命の故事である。
 倭建命は、倭男具那(日本童男)(やまとおぐな)、小碓命(小碓尊)(おうすのみこと)ともいった。兄は大碓命(おおうすのみこと)で、「大碓皇子・小碓尊は、一日に同じ胞(え)にして双(ふたご)に生(あ)れましし」(景行紀二年条)とあるように、一卵性双生児である。「胞」と「枝」はともにヤ行のエ、だから枝の話を持ち出している。
 倭建命は、三重から少し行った能煩野(のぼの)で亡くなった。そこに墓を作ったが、「八尋(やひろ)の白智鳥(しろちどり)と化(な)り、天(あめ)に翔りて、浜に向ひて飛び行きき」とある。さらに、河内の志幾(しき)に再度墓を作って鎮座させたが、またも天に翔けて飛んで行ったとされる。これは、道教にいう尸解仙(しかいせん)に当たる。抱朴子に、「下士、先に死して後に蛻く、之を尸解仙と謂ふ」とあり、例えば、漢書郊祀志に「黄帝僊して天に登る」とあるのはその一例とされる。「蛻」は蝉や蛇に見られることで、「脱」に当たる。名義抄に、「脱 ハツル」とある。「削(はつ)る」は、表皮などを剥ぎ取る、外れる意である。似た意の「解(はつ)る」は、織ったり編んだり束ねたりしたものが解けほどける意で、「ほつる」ともいう。ならば、仙術において自ら脱皮する術は、「ほつる」といったのではないか。いま、マジシャンが後ろ手に縛られながらも、関節を自ら外すなどして縄を解き、再び関節を入れて脱出する技である。
 倭建命は、東方に遠征し、その帰路に「あづま」という地名が付会されている。「東(あづま)」の地名譚には、紀に「吾(あ)+妻」とし、記に「中(あつ)+目(ま)」とする。後者は、足柄の坂本で坂の神の化けた白い鹿に襲われた時、「咋(く)ひ遺せる蒜の片端を以て、待ち打ちしかば、其の目に中てて、乃ち打ち殺しき」とある。食べ物で勝っている。すなわち、「菜(な)+勝(か)つ」である。斎宮忌詞で、塔のことを「阿良良岐」(あららぎ、ギは乙類)という。蘭(あららぎ)は粗(あらら)葱(き)のことかという。ネギ、ニンニク、ノビルの総称の蒜は、葱坊主や零余子(むかご)などを頭につける。これを塔の宝珠に見立てて忌詞にしたらしい。薬味にする香草だから、仏塔の抹香臭いのと同等である。「香(こり)塗れる 塔(たふ)にな依りそ 川隅(かはくま)の 屎鮒喫(は)める 痛き女奴(めやつこ)」(万3828)。わざわざ食べ残した蒜の片端というのだから、擬宝珠(ぎぼし)とも呼ばれる葱坊主の部分である。これで鹿の目を見えないようにした。そのマジックは、仏教の術であろう。
 倭建命は、熊襲の征伐において、熊曾建は、「其の家の辺にして、軍(いくさ)三重に囲み、室を作りて居りき」とあり、その新築祝いに童女の恰好をして潜入する。やはり、「三重」と断ってある。「童女の髪の如く、其の結へる御髪を梳り垂れ、其の姨(をば)の御衣(みけし)・御裳(みも)を服(き)て、既に童女の姿と成り、女人(をみな)の中に交り立ちて」紛れ込んでいる。姨とは、伊勢神宮に仕える倭比売命(やまとひめのみこと)のことで、彼女から授かった衣装によって変装している。女装しただけで童女に成り切れたのは、その衣装が質素なものであったからであろう。織り方は、倭に古くから伝わる倭文織(しづお)りに違いない。シツリ、シトリ(トは甲類が確認されている)ともいう。大陸から伝わった機織りは、バタバタと音を立てて鳥が飛び立とうとするほどだが、倭文織りが静かに織るものであったらしい。すなわち、鳥の雛のようなものである。ピヨピヨ鳴(泣)いているのは、鄙びた斎宮にいる倭比売命であろう。これが、神道の術である。
 シヅということばは、静(しづか)・鎮(しづまる)・沈(しづく)・垂(しづ)・雫(しづく)などは同根のことばである。賤(しづ)も同根で、身分の賤しいものをいう。「倭文手纏(しづたまき)」は、「賤(いや)し」を導く枕詞になっている。鄙の字は、トヒト(ト・ヒは甲類、トは乙類)とも訓む。トヒトは外人、域外の人の意で、賤しいさまをいう。
 倭建命は変装に、「其の御髪を額に結ひき」してあったのを「童女の髪の如く、其の結へる御髪を梳り垂れ」とあって、ちょんまげ姿をほどいている。子どものころから力が強く、相撲取りのようであったのを改めている。相撲節会のために各地から力持ちを集めたのは、「部領使(ことりのつかひ、コは乙類、事執りの意とすると、事のトは乙類だが、執るのトには甲乙両方ある)」である。西国の防人(さきもり)の要員を送るのも、部領使の役目であった。「鄙」に西国の田舎とする説があるのは、このへんと関係がありそうである。コトリに類するシトリの話と言いたいらしい。
 以上、倭建命は、仙術、仏教、神道の術によって倭の国を平定したことを物語った。変化(へんげ)が語られることは、復活の儀式たる新嘗祭にふさわしい。上中下の枝葉は「触らばへ」の状態にある。「末葉」とは裏(卜)に表れたしるしを言っている。ウラの術(わざ、ばけ)の話である。ここで、一部、「下(しも)つ枝」とある。前後ともシヅエである。シヅエを強調したいからである。盞に浮かんでいる槻の木の葉が焦点である。「蟻衣」、すなわち、美しい絹織物と下等な倭文織物とを対比させている。「三重の子が 捧がせる 瑞玉盞に 浮きし脂」のミヅタマウキにシヅタマキ(倭文手纏)を洒落ている。捧げ持っているのは手で、それにつけた安物のアクセサリーである。「倭文手纏 数にも有らぬ 命もち 何かここだく 吾が恋ひわたる」(万672)。通説で、「浮きし脂」や「水こをろこをろに」とあるのを国土創世神話ととる向きがあるが、寿ぐためではない。「塩こをろこをろに」してできた淤能碁呂島(おのごろじま)は、水蛭子(ひるこ)、淡島同様、「子の例(つら)には入れず」とある存在不確かなもの、「数にも有らぬ」存在である。三重の采女は、浮いている葉っぱなど、どうだっていいものなのだと言っている。おっと、口が滑りましたというので、「是しも あやに恐し」と謝っている。
 この歌で、三重の采女は罪を赦されている。続いて、大后と天皇の唱和した歌が載る。同様に譬え話をしているが、三重の采女のように比喩の広がりを見せることはできなかった。そこで、ボーナスをたくさんあげたと記されている。

 吉村武彦「天と夷(ひな)・東国」小島憲之監修『萬葉集研究 第21集』(塙書房)、仁藤敦史『都はなぜ移るのか』(吉川弘文館)に、上・中・下の枝の話は、倭朝廷の地方支配におけるコスモロジーの表明で、倭王武に当たる雄略天皇にふさわしいとする説がある。しかし、続く記101番歌に「斎つ真椿」とあり、槻の木が聖木として特別視されているわけではない。そもそも、無文字社会に抽象的な観念から演繹する思考法があったとなると、レヴィ=ストロース、ピアジェ以下、驚くであろう。

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