1957年、ソヴィエトは世界初の人工衛星を打ち上げた。その名が「スプートニク」。意味は旅の道連れ。
すみれという作家志望の女性が、初めて恋に落ちる。その相手はミュウという年上の女性。それはたまたまのことだった。親戚の結婚式で知り合い、後に彼女の仕事を手伝いにヨーロッパを回り、ギリシャの孤島に余暇に行く。そこで彼女はミュウに体ごとぶつかっていくが、ミュウには受け入れられない。そして彼女は、煙のように消えてしまう。
語り手は「ぼく」。小学校の先生をしている。大学の後輩にすみれがいて、ぼくは彼女を愛しているが、彼女はミュウを愛している。にんじんというニックネームの生徒の母親がぼくの「ガールフレンド」。体の関係があるが、ぼくはその人を愛していない。ガールフレンドはその夫とうまくいっていない、もちろん。
ミュウは一夜にして髪が真っ白になってしまう。それまで彼女はピアニストを目指していたが、それ以後、彼女は「半分」になってしまう。留学していたヨーロッパで、夏の夜、散歩したついでに遊園地の観覧車に乗る。管理人はよっぱらいのおやじで、彼女を乗せたことを忘れたまま、観覧車の運転を止めてしまう。真っ暗な宙吊りにされた小部屋で、ミュウは自分のアパートの部屋を、オペラグラスで覗く。そこにはもう一人のミュウがいて、言寄って来ていた男とみだらな行為をしていた。男に汚されている。それが彼女の望んだことなのか。混乱のままに意識を失い、目覚めたときには病院のベットにいた。そして、髪が真っ白になっていて、二度とピアノは弾けなくなっていた。
すみれはミュウを愛しているがために、彼女の全てを知りたくて、その出来事を聴き出し、書き留めた。ミュウからすみれの失踪を知ったぼくは、ギリシャまで行き、すみれの部屋のかばんから、その記録を見つけ出す。
村上春樹にしてはハッピーエンドと言えるのかもしれません。すみれは日本に帰ってきた。その途上で、すみれは悟る。あなた(ぼく)は私自身であり、私(すみれ)はあなた自身なのだと。すみれのいない間、ぼくもすみれ以外には友達がいないことを痛感し、ガールフレンドの子供、にんじんの万引き事件をきっかけに、彼女と別れることを決意する。そして、いつまでも眠れずに眺めていた電話が、ついに鳴った。私を迎えに来て、とすみれは言う。
この小説、テーマは不在、あるいはこちらとあちらなのでしょう。ミュウは神話的に美しいが、彼女の本体と言うべき芯が、致死的になくなっている。それは自分の責任ではなく、不条理に向こうの住人である「やつら」に奪われた。極度に不安な状態において、もう一人の自分を見るという経験は、実際にありえるのではないでしょうか。そんな体験を単なるフィクション、作り話としてでなく、僕(読者)に納得させるのは、作者が心のひだを丁寧になぞっているからなんだと思う。不在においてこそ現実を強く認識することができる。また現実に起こっていることが、すべて夢なんじゃないかと思えることもある。夢と覚醒、不在と実在のゆらめき、反復が、僕らを強くもするし、危険なことでもあって、あちらに奪われてしまったままの人間も出てくる。この小説の魅力は、ギリシャの孤島の夜中にぼくが聞いた土俗的な音楽、それは実際にはなかったけど、ぼくの体験としては現実だった、に引かれ、行くところまで行って、それでも最終的には自分を見失わないように守って、現実(いんちき金貸しやピンクチラシの貼り尽された電話ボックス)に戻ってくるところにあると思います。そして、みんな生きている。決定的に奪われても、生きている。
ただ、正直に言って、なんというか、飽きを感じないわけでもありませんでした。高級車のジャガーやらモーツアルトの歌劇集やらワインの買い付けやら当たり前のような不倫、それらは僕の現実とは遠いところにあって、感情移入がしにくい。それに、23歳と25歳には思えない技巧的な会話。鼻につく長すぎる比喩。上手も度が過ぎると受け入れられなくなるのでしょうか。
すらすらとは読めてもぐっと来るところは少なかったなと思う。
一つ残ったことを挙げるなら、この世は不公平だということでしょうか。万引きしたにんじんとその母、担任を絞り上げるスーパーの警備員のおっさんが、僕はこの小説の登場人物で一番好きだったかもしれない。華美なだけでなく、そういうまったく庶民的な人物を描けるところが作者の奥行きだとも思いました。
村上春樹著/講談社文庫/2001
すみれという作家志望の女性が、初めて恋に落ちる。その相手はミュウという年上の女性。それはたまたまのことだった。親戚の結婚式で知り合い、後に彼女の仕事を手伝いにヨーロッパを回り、ギリシャの孤島に余暇に行く。そこで彼女はミュウに体ごとぶつかっていくが、ミュウには受け入れられない。そして彼女は、煙のように消えてしまう。
語り手は「ぼく」。小学校の先生をしている。大学の後輩にすみれがいて、ぼくは彼女を愛しているが、彼女はミュウを愛している。にんじんというニックネームの生徒の母親がぼくの「ガールフレンド」。体の関係があるが、ぼくはその人を愛していない。ガールフレンドはその夫とうまくいっていない、もちろん。
ミュウは一夜にして髪が真っ白になってしまう。それまで彼女はピアニストを目指していたが、それ以後、彼女は「半分」になってしまう。留学していたヨーロッパで、夏の夜、散歩したついでに遊園地の観覧車に乗る。管理人はよっぱらいのおやじで、彼女を乗せたことを忘れたまま、観覧車の運転を止めてしまう。真っ暗な宙吊りにされた小部屋で、ミュウは自分のアパートの部屋を、オペラグラスで覗く。そこにはもう一人のミュウがいて、言寄って来ていた男とみだらな行為をしていた。男に汚されている。それが彼女の望んだことなのか。混乱のままに意識を失い、目覚めたときには病院のベットにいた。そして、髪が真っ白になっていて、二度とピアノは弾けなくなっていた。
すみれはミュウを愛しているがために、彼女の全てを知りたくて、その出来事を聴き出し、書き留めた。ミュウからすみれの失踪を知ったぼくは、ギリシャまで行き、すみれの部屋のかばんから、その記録を見つけ出す。
村上春樹にしてはハッピーエンドと言えるのかもしれません。すみれは日本に帰ってきた。その途上で、すみれは悟る。あなた(ぼく)は私自身であり、私(すみれ)はあなた自身なのだと。すみれのいない間、ぼくもすみれ以外には友達がいないことを痛感し、ガールフレンドの子供、にんじんの万引き事件をきっかけに、彼女と別れることを決意する。そして、いつまでも眠れずに眺めていた電話が、ついに鳴った。私を迎えに来て、とすみれは言う。
この小説、テーマは不在、あるいはこちらとあちらなのでしょう。ミュウは神話的に美しいが、彼女の本体と言うべき芯が、致死的になくなっている。それは自分の責任ではなく、不条理に向こうの住人である「やつら」に奪われた。極度に不安な状態において、もう一人の自分を見るという経験は、実際にありえるのではないでしょうか。そんな体験を単なるフィクション、作り話としてでなく、僕(読者)に納得させるのは、作者が心のひだを丁寧になぞっているからなんだと思う。不在においてこそ現実を強く認識することができる。また現実に起こっていることが、すべて夢なんじゃないかと思えることもある。夢と覚醒、不在と実在のゆらめき、反復が、僕らを強くもするし、危険なことでもあって、あちらに奪われてしまったままの人間も出てくる。この小説の魅力は、ギリシャの孤島の夜中にぼくが聞いた土俗的な音楽、それは実際にはなかったけど、ぼくの体験としては現実だった、に引かれ、行くところまで行って、それでも最終的には自分を見失わないように守って、現実(いんちき金貸しやピンクチラシの貼り尽された電話ボックス)に戻ってくるところにあると思います。そして、みんな生きている。決定的に奪われても、生きている。
ただ、正直に言って、なんというか、飽きを感じないわけでもありませんでした。高級車のジャガーやらモーツアルトの歌劇集やらワインの買い付けやら当たり前のような不倫、それらは僕の現実とは遠いところにあって、感情移入がしにくい。それに、23歳と25歳には思えない技巧的な会話。鼻につく長すぎる比喩。上手も度が過ぎると受け入れられなくなるのでしょうか。
すらすらとは読めてもぐっと来るところは少なかったなと思う。
一つ残ったことを挙げるなら、この世は不公平だということでしょうか。万引きしたにんじんとその母、担任を絞り上げるスーパーの警備員のおっさんが、僕はこの小説の登場人物で一番好きだったかもしれない。華美なだけでなく、そういうまったく庶民的な人物を描けるところが作者の奥行きだとも思いました。
村上春樹著/講談社文庫/2001
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