この本を読むと、北條民雄が生きていた時代の空気や、文学の師であり、希望の光ともなった川端康成との関係、またハンセン病療養所の中での友人たちとの確かな交流も、目に見えるように再現されていきます。
昭和8年(1933年)、民雄が19歳の3月、ハンセン病の告知を受け、その年の2月に川端(34歳)の「伊豆の踊り子」の映画が封切りされ、1月にヒトラーがドイツの首相となり、2月に小林多喜二が虐殺されている。
昭和11年(1936年)、民雄が22歳のとき、川端たちが立ち上げた文芸誌「文學界」の2月号に「いのちの初夜」が掲載された。そのとき、川端は「雪国」を連載中だった。その2月の26日、皇道派によるクーデター未遂事件(2•26事件)が起きている。
民雄が亡くなるのは翌年の昭和12年(1937年)、23歳の12月5日、早朝。その日の午後に川端も遺体に対面している。その12月の13日、日本軍は中国の南京を占領している。南京事件で虐殺された人々は10万人とも言われています。
何が言いたいのかと言えば、軍国主義が、ひたひたと足元に忍び寄っていた時代。たとえば「民族浄化」という美名のもとに、「らい予防法」が制定され(昭和6年、1931年)、収容所に患者が集められるようになった。警察が主導して。
民雄が、当時の全生病院に入ったのは、まだ強制ではなかったけれど、そこにしか居場所はなかった。
そこが終の住処だと認めるまで、散々に苦労した。痛ましいほどに放浪して、無理解に傷ついて、死場所を絶えず求めて。
そう「死」。死ぬことが剥き出しで世の中には満ちていて、民雄自身も何度も死のうとして、死のうとするたびに「生きたい!」自分を発見するのでした。
川端康成の生い立ちにも死は色濃くありました。家族はみな早くに死んでしまい、孤児として生きていた。
川端の民雄への手紙には愛情が溢れている。作家として大成するように細かな配慮もしている。
民雄の原稿はすべて川端を通じて発表されていました。印税などのお金の管理も。
23歳という若さでまた愛情を注いだ人に死なれてしまった。川端は後悔もしたようです。自分の対応は本当に正しかったのか、と。
生きることは書くこと。そう一つになった民雄は猛烈に書くのですが、体調管理は二の次だったようです。夜遅くまで蝋燭の灯りの下で読書と執筆をし、朝は遅く、ろくに朝食もとらなかった。結核菌にも冒されていった。
今になって「いのちの初夜」、そして北條民雄が復活したのは、ある意味、不穏な空気が漂い始めたからなのかもしれません。
新型コロナの世界的な流行がそれであり、さらにはロシアによる軍事侵略。さらに加えれば、異常気象による災害の頻発や、東日本大震災など大規模な自然災害の記憶もまざまざと残っている。「平和」の名の下に、ひたすら隠されてきた「死」が、ひたひたと迫ってくるかのよう。
信じていた足元が揺らぎ、胸に不安がじんわりと広がるとき、支えになるものが欲しい。そう思うのは人として自然です。
「宗教」が、人々を救ってきました。しかしその「宗教」だったはずのものが、人を救うのではなく、人を苦しめる。あるいは搾取する。最悪、殺してしまう。そんな現実も見せつけられてきました。「安全」なはずの原発が途方もなく「危険」で、精算するのに膨大な金と時間と労働が必要だったと明らかにもされて。
要するに、たくさんだまされるようになりました。いやこれは、古代ギリシャの時代から変わっていないのかもしれないけれど。
だから、「いのちの初夜」。この題名は、川端康成がつけたものです。
川端は、全生病院にいる若者たちの作品に、文学そのものを見ていた。あるいは、文学の発生現場を。
文学もまた人を救う。人を癒しもする。生きがいにすらなる。
川端の「伊豆の踊り子」を読んだのは高校生のときでしょうか。なんか、あっけなくて、なんだ、と思った。若い男が、踊り子に恋し、たしか風呂場で踊り子の裸を見て、なんだまだ子供じゃないか、と我に返って笑う、みたいな。その「よさ」がさっぱりわからなかった。「雪国」も読んだけど、やっぱその「よさ」がわからなかった。
でも、今は違う。
何気ないひとこまに、若い男と、さらに若い女との、確かな感情のやり取りを感じ、「生きている感覚」を取り戻すのではないでしょうか。
「生きている感覚」を麻痺させているものがある。相殺させているものがある。その前提(時代の空気や思想)があればこそ、検閲や抑圧がのしかかればかかるほど、健気に地元に根ざして生きている女性の姿が、「生」そのものの象徴となって輝きを増す。
民雄の文学は、そんな川端の作品に通じる「存在」と「肯定」の文学でした。
足掻いて、もがいて、逃走して、毒づいて、空しくなって、帰るしかなくて。その苦行の果てに、「いのち」を体得した。
真の友情をも獲得した。
民雄もまた母を早くに亡くしていました。
実の母のない子の苦痛や生きにくさについて、私がどれだけわかるのか。
ただ、文学は生きるためにあり、その気持ちが純粋であるほど、真の友も呼ぶ。ということだけは、わかりました。
私にとっても「いのちの初夜」は、何度でも立ち返る再出発の原点として、これからも輝き続けるでしょう。
ありがたい贈り物です。
桜が咲いてきました。
そろそろ、全生病院、今の多磨全生園、ならびに国立ハンセン病資料館にも再訪しようと思います。
髙山文彦 著/角川文庫/2003
昭和8年(1933年)、民雄が19歳の3月、ハンセン病の告知を受け、その年の2月に川端(34歳)の「伊豆の踊り子」の映画が封切りされ、1月にヒトラーがドイツの首相となり、2月に小林多喜二が虐殺されている。
昭和11年(1936年)、民雄が22歳のとき、川端たちが立ち上げた文芸誌「文學界」の2月号に「いのちの初夜」が掲載された。そのとき、川端は「雪国」を連載中だった。その2月の26日、皇道派によるクーデター未遂事件(2•26事件)が起きている。
民雄が亡くなるのは翌年の昭和12年(1937年)、23歳の12月5日、早朝。その日の午後に川端も遺体に対面している。その12月の13日、日本軍は中国の南京を占領している。南京事件で虐殺された人々は10万人とも言われています。
何が言いたいのかと言えば、軍国主義が、ひたひたと足元に忍び寄っていた時代。たとえば「民族浄化」という美名のもとに、「らい予防法」が制定され(昭和6年、1931年)、収容所に患者が集められるようになった。警察が主導して。
民雄が、当時の全生病院に入ったのは、まだ強制ではなかったけれど、そこにしか居場所はなかった。
そこが終の住処だと認めるまで、散々に苦労した。痛ましいほどに放浪して、無理解に傷ついて、死場所を絶えず求めて。
そう「死」。死ぬことが剥き出しで世の中には満ちていて、民雄自身も何度も死のうとして、死のうとするたびに「生きたい!」自分を発見するのでした。
川端康成の生い立ちにも死は色濃くありました。家族はみな早くに死んでしまい、孤児として生きていた。
川端の民雄への手紙には愛情が溢れている。作家として大成するように細かな配慮もしている。
民雄の原稿はすべて川端を通じて発表されていました。印税などのお金の管理も。
23歳という若さでまた愛情を注いだ人に死なれてしまった。川端は後悔もしたようです。自分の対応は本当に正しかったのか、と。
生きることは書くこと。そう一つになった民雄は猛烈に書くのですが、体調管理は二の次だったようです。夜遅くまで蝋燭の灯りの下で読書と執筆をし、朝は遅く、ろくに朝食もとらなかった。結核菌にも冒されていった。
今になって「いのちの初夜」、そして北條民雄が復活したのは、ある意味、不穏な空気が漂い始めたからなのかもしれません。
新型コロナの世界的な流行がそれであり、さらにはロシアによる軍事侵略。さらに加えれば、異常気象による災害の頻発や、東日本大震災など大規模な自然災害の記憶もまざまざと残っている。「平和」の名の下に、ひたすら隠されてきた「死」が、ひたひたと迫ってくるかのよう。
信じていた足元が揺らぎ、胸に不安がじんわりと広がるとき、支えになるものが欲しい。そう思うのは人として自然です。
「宗教」が、人々を救ってきました。しかしその「宗教」だったはずのものが、人を救うのではなく、人を苦しめる。あるいは搾取する。最悪、殺してしまう。そんな現実も見せつけられてきました。「安全」なはずの原発が途方もなく「危険」で、精算するのに膨大な金と時間と労働が必要だったと明らかにもされて。
要するに、たくさんだまされるようになりました。いやこれは、古代ギリシャの時代から変わっていないのかもしれないけれど。
だから、「いのちの初夜」。この題名は、川端康成がつけたものです。
川端は、全生病院にいる若者たちの作品に、文学そのものを見ていた。あるいは、文学の発生現場を。
文学もまた人を救う。人を癒しもする。生きがいにすらなる。
川端の「伊豆の踊り子」を読んだのは高校生のときでしょうか。なんか、あっけなくて、なんだ、と思った。若い男が、踊り子に恋し、たしか風呂場で踊り子の裸を見て、なんだまだ子供じゃないか、と我に返って笑う、みたいな。その「よさ」がさっぱりわからなかった。「雪国」も読んだけど、やっぱその「よさ」がわからなかった。
でも、今は違う。
何気ないひとこまに、若い男と、さらに若い女との、確かな感情のやり取りを感じ、「生きている感覚」を取り戻すのではないでしょうか。
「生きている感覚」を麻痺させているものがある。相殺させているものがある。その前提(時代の空気や思想)があればこそ、検閲や抑圧がのしかかればかかるほど、健気に地元に根ざして生きている女性の姿が、「生」そのものの象徴となって輝きを増す。
民雄の文学は、そんな川端の作品に通じる「存在」と「肯定」の文学でした。
足掻いて、もがいて、逃走して、毒づいて、空しくなって、帰るしかなくて。その苦行の果てに、「いのち」を体得した。
真の友情をも獲得した。
民雄もまた母を早くに亡くしていました。
実の母のない子の苦痛や生きにくさについて、私がどれだけわかるのか。
ただ、文学は生きるためにあり、その気持ちが純粋であるほど、真の友も呼ぶ。ということだけは、わかりました。
私にとっても「いのちの初夜」は、何度でも立ち返る再出発の原点として、これからも輝き続けるでしょう。
ありがたい贈り物です。
桜が咲いてきました。
そろそろ、全生病院、今の多磨全生園、ならびに国立ハンセン病資料館にも再訪しようと思います。
髙山文彦 著/角川文庫/2003
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