最近、よく思い出します。
「あなただけよければいいのですか?」という言葉。
このことについてちゃんと書こうと思っていました。
山本先生は、私が中学2年のときでしょうか、理科の担当でした。私の担任になったことはなく、小柄で髪を束ねて、どちらかと言えば目立たない真面目そうな中年の女性の先生でした。
理科の実験で、私のところは早く終わりました。そして私は中二らしく生意気に騒いでいたのでしょう。そのときでした。
「あなただけよければいいのですか?」
山本先生に言われました。私がそのあと大人しくなったことは目に見えています。
当時の中学校は結構荒れており、私も調子に乗ってバカをやっていました。先生たちがゲンコツで静かにさせるのも当たり前で、私も何度か食らっていました。
ただ、今思うのは、叩かれてもその場凌ぎです。何らかの内省にはつながらない。忙しい先生たちにはその場凌ぎの術も必要だったのかもしれない。だけど、今につながる気づきにはなっていない。
14歳で言われたとして、その後33年も私の中に残っている。そんな言葉は他にありません。年月が経ってみて、やっとわかる価値というものがあります。間違いなくその一つ。
「あなただけよければいいのですか?」
頭ごなしじゃない。暴力じゃない。説教でもない。
問いかけ。ずっとずっと続く問いかけ。
それを中学生相手に発して届けた先生がいた。
今、その問いに対して、何と応えられるでしょうか?
私だけよければ、必ずよくない人たちが生まれます。
だからと言ってあえて私をよくない人間にする必要もありません。
私が大事であることが基本で、だからこそ私以外の人たちのしあわせも大事です。
私がよくないとき、きっと他のよい人たちが手を差し出してくれる。
そう信じられることが生きていく上の支えとなる。
私はそのことを、その後の人生で実感してきました。
多数決、数が多い方が正しいとする考え方。それにも疑問が生じます。
「あなたたちだけがよければいいのですか?」
過半数を超えているから、少数派の意見は聞かなくてもいい。そんな政治が罷(まか)り通ってきたのではないでしょうか?
そもそも、人はなぜ言葉を生み出し、発達させてきたのでしょうか?
意見の異なる人たちとは話す必要もないのならば、言葉の力は衰退するだけでしょう。言葉が衰退するということは、人間が人間でなくなっていくということではないのでしょうか?
小説を書くとき、私以外の多くの人たちの声を聴く必要があります。「私だけがよい」のであれば、小説を書く必要がないとも言えます。
いや、「私だけがよければいい」のだと思って私だけがよくなる話だけを書く人もいるかもしれません。だけどそんな話、誰が聞きたいでしょうか。
目標達成や問題解決ありきの話もおもしろくない。それは作者の「私が思う回答」の二番煎じでしかないから。それは「私のよさ」から出ない態度だとも言えます。
こんなことを書けるのは、私が全部やってきたことだから。その果てに、やっと新作は現れてくれます。
「あなただけよければいいのですか?」
この問いが胸に繰り返されるようになったのは、それだけ私の目に曇りがなくなったのでしょうか? あるいは、この問いは、私に日々生まれる曇りを拭き取ってくれているのかもしれません。
山本先生は今もお元気でしょうか?
かつての中学生が先生の言葉を受け継いでいることを知り、笑顔になってくれたら、私もうれしい。
これからも使います。
私に。そして必要な誰かにも。
コスモスの花言葉は調和です。
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