先週の水曜日、普段は遅番なのに早番でした。
雑誌出しをしていると、文芸誌に目がいった。
私も応募した第47回新潮新人賞の結果発表。
今回も力及ばず。
新人賞を取れずとも何も失うものはない。
その安堵と、受賞できなかった悔しさがないまぜになる。
年々、悔しさの方が大きくなっている。
何が足りなかったのか。
読めばわかる。読まずにはいられなかった。
3月末締めの大きな新人賞は、すばる文学賞と文藝賞。どちらも買って、むさぼるように読む。
で、わかったことがいくつか。
それを書き留めて、次作に生かしたい。
まず、回収しきれていない断片があったということ。
物語は、出てきたものすべてが有機的に結びつき、一つの流れを生み出したとき、最も力を発揮する。
前作では、「俺」の一人語りを推し進めることで、ある程度のリズムは生まれた。
でも、その他の登場人物の現実を浮かび上がらせるには至らなかった。
読者を納得させるだけの分量も足りなかった。
書き手自身が抱えている課題を「俺」が写し取り、言いたいように言わせた。
言ってみれば、登場人物を作者の私が利用した。
全部がそうだったわけじゃない。でも、部分的にでも、作者が物語に介入してしまった。
作者は、物語の邪魔をしないように、後ろから最後までくっついていかないといけない。
回収できなかった部分は、読者に不満足感を与えてしまう。
「新興宗教」を安易に持ち出した。
描き切れていない何かをそこに押し込めた。それを消失点という。
それも作者の都合だ。
文体自体も定まっていない。
あれかこれかと試行錯誤状態。
物語に定型があることも理解した。
定型からの逸脱こそが物語の面白さ。
どこかに連れて行ってしまうような強さ。
独自性。それもなかったわけじゃない。でもまだまだ。
人物造形もまた定型から脱していない。
頭の中にある理想が収まっていない。
立派すぎるように感じさせしまうのは、頭がなせる業。
現実はもっと生々しく、不可解。
簡単に言葉に結びつかない感情の渦。
わかっているのに書けない。このもどかしさ。
独自性ともつながるけど、それを描かなければならなかった必然性。
それに今、一番直面している。
なぜ書かなければならないのか。
この私が。
その作品を。
書けば書くほど向上している実感はある。
単純に、書き足りないのだとも。
文藝賞を受賞した一人は21歳だけど、小学4年からすでに小説を書いたという。
キャリアでいえば10年以上。
私は大学の最終学年で書き始めた。
わざわざ学生寮から出て、一人暮らしして。
書きたかったがゆえに寮を出た。そして書いた。
結果、鬱病を発症した。
治療を経て、そんな体験を生かしてカウンセラーになろうとした。
実際に面接も受け持った。
面接が終結すると、小説を書きたいと思っていた。29歳のとき。
カウンセラーへの道は作家への道に修正された。
東日本大震災があって、私の心もぐらぐらゆれた。
揺り戻されもした。どん詰まり感に苦しんだ。
そこからマラソンが生まれた。
長年勤めた池袋の書店も閉店した。
最後の日、駅に向かう通路で、やっぱり小説を書きたいと思っていた。
何を書くのか。何が書けるのか。何を書きたいのか。
まっさらな原稿用紙に向かってペンを取り、手を動かす。
その中でしかつかめないのかもしれない。
つかみ取って差し出したいと思う。
読者にとって、読んでよかったと感じられる確かなものを。
凹んでいるのは、自分のちっぽけな器が広がったから。
新たな気持ちで、また原稿に向かいます。
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