泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

第47回新潮新人賞

2015-10-15 13:56:10 | エッセイ
 

 先週の水曜日、普段は遅番なのに早番でした。
 雑誌出しをしていると、文芸誌に目がいった。
 私も応募した第47回新潮新人賞の結果発表。
 今回も力及ばず。

 新人賞を取れずとも何も失うものはない。
 その安堵と、受賞できなかった悔しさがないまぜになる。
 年々、悔しさの方が大きくなっている。

 何が足りなかったのか。
 読めばわかる。読まずにはいられなかった。
 3月末締めの大きな新人賞は、すばる文学賞と文藝賞。どちらも買って、むさぼるように読む。

 で、わかったことがいくつか。
 それを書き留めて、次作に生かしたい。

 まず、回収しきれていない断片があったということ。
 物語は、出てきたものすべてが有機的に結びつき、一つの流れを生み出したとき、最も力を発揮する。
 前作では、「俺」の一人語りを推し進めることで、ある程度のリズムは生まれた。
 でも、その他の登場人物の現実を浮かび上がらせるには至らなかった。
 読者を納得させるだけの分量も足りなかった。
 書き手自身が抱えている課題を「俺」が写し取り、言いたいように言わせた。
 言ってみれば、登場人物を作者の私が利用した。
 全部がそうだったわけじゃない。でも、部分的にでも、作者が物語に介入してしまった。
 作者は、物語の邪魔をしないように、後ろから最後までくっついていかないといけない。
 回収できなかった部分は、読者に不満足感を与えてしまう。
「新興宗教」を安易に持ち出した。
 描き切れていない何かをそこに押し込めた。それを消失点という。
 それも作者の都合だ。

 文体自体も定まっていない。
 あれかこれかと試行錯誤状態。

 物語に定型があることも理解した。
 定型からの逸脱こそが物語の面白さ。
 どこかに連れて行ってしまうような強さ。
 独自性。それもなかったわけじゃない。でもまだまだ。

 人物造形もまた定型から脱していない。
 頭の中にある理想が収まっていない。
 立派すぎるように感じさせしまうのは、頭がなせる業。
 現実はもっと生々しく、不可解。
 簡単に言葉に結びつかない感情の渦。
 わかっているのに書けない。このもどかしさ。

 独自性ともつながるけど、それを描かなければならなかった必然性。
 それに今、一番直面している。
 なぜ書かなければならないのか。
 この私が。
 その作品を。

 書けば書くほど向上している実感はある。
 単純に、書き足りないのだとも。
 文藝賞を受賞した一人は21歳だけど、小学4年からすでに小説を書いたという。
 キャリアでいえば10年以上。
 私は大学の最終学年で書き始めた。
 わざわざ学生寮から出て、一人暮らしして。
 書きたかったがゆえに寮を出た。そして書いた。
 結果、鬱病を発症した。
 治療を経て、そんな体験を生かしてカウンセラーになろうとした。
 実際に面接も受け持った。
 面接が終結すると、小説を書きたいと思っていた。29歳のとき。
 カウンセラーへの道は作家への道に修正された。
 東日本大震災があって、私の心もぐらぐらゆれた。
 揺り戻されもした。どん詰まり感に苦しんだ。
 そこからマラソンが生まれた。
 長年勤めた池袋の書店も閉店した。
 最後の日、駅に向かう通路で、やっぱり小説を書きたいと思っていた。

 何を書くのか。何が書けるのか。何を書きたいのか。

 まっさらな原稿用紙に向かってペンを取り、手を動かす。
 その中でしかつかめないのかもしれない。
 つかみ取って差し出したいと思う。
 読者にとって、読んでよかったと感じられる確かなものを。

 凹んでいるのは、自分のちっぽけな器が広がったから。
 新たな気持ちで、また原稿に向かいます。

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