泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

あれから6年

2017-03-13 17:15:36 | エッセイ
 

 7回目の3.11が過ぎました。
 やはりその日は、私にとって特別でした。
 震災関連の報道が増え、食い入るように見聞きし、被災された方々の言動にうなずくことが多かった。
 そして、感情がかき乱され、何度も深呼吸をした。目が、自ずと潤んでしまう。
 小説を書くだけだと向き合うのですが、どうにも滞って、こうしていったんここで整理しようと。

 6年前のこのブログの記事も読み直しました。
 言葉が過剰ですね。つけ入る隙がないというか、肩に力が入りまくっているというか。
 どん詰まり感が半端じゃなかった。
 その当時、心にいた異性を心配しているふりをして近づき、結局は自分が救われたかっただけだった、ということもあった。
 走り始めたのはふられてすぐ。2011年の8月の暑いとき。

 記念日反応というのはどうしようもないのかもしれません。
 花が、そのときになれば咲くのと同じで。
 いったいどれだけの人たちが、今も人知れず苦しんでいるのか。
 報道されるのは、ほんのほんの一部だけです。しかもそれは選択されてもいる。

 行きつくのは、自分は自分にできることを精一杯やって、他の人たちの役に立ちたいということ。
 改めて思ったのは、僕はいつも言葉とともにいた、という事実。
 20年、毎日日記をつけてきた。今年40になり、日記をつけている日の方がそうでない日より増えていく。
 突き動かされて走るようになって、何を身に着けようとしてきたのか。
 本当に感じるのは、新たに何かを身に着けたのではなく、すでにあるものを最大限に生かそうとしている動き。
 私はただそんな機能の邪魔をしないだけ。不要なものを見極め捨て、必要なものを敏感に感じ取り吸収する。
 結果として、文章も際立つ。文章は、今の自分からしか出てこない。その自分がいかに充実しているか、それこそが大事だった。

 こうして書いても、簡単に感極まった感じは治まりません。
 ただ、ゆっくり、ゆっくり、と思う。
 ゆっくり、ゆっくり、と唱えながら走ると、タイムは伸びます。
 はやく、はやく、とせかしたら、怪我や病が待っているだけ。
 言葉は、いつだって体験の後。言葉を先にかかげることから、あらゆる問題は発生します。

 僕が毎日書きたいのは、体験を裏付けして、体験に蓋をして、安心したいからなのかもしれません。
 いくら蓋をしたって、次から次に湧いてくるのだから、蓋を仕切ることはできないのだけど。
 それだけ僕の不安は根が深いのかもしれません。用心深いとも言える。
 酒を飲んで意識を失ってそのまま寝る、なんてことはできない。
 しかし、これが私。この私を捨てることはできない。

 日々、体験と向き合い、言語化すること。この繰り返しの20年。
 一方で、常に言葉を越えようとする突き上げ。
 突き上げによって走り出して、ようやっとかみ合い始めた言葉と体験。
 そこを土台として、作品がある。日々の生活が成り立っている。

 ここまで書いて、うん、大丈夫だ、と思えてきました。

 これからも3.11は、私にとって特別な日であり続けるのでしょう。
 それまでを振り返えらざるをえない記念日。

 写真は、4年前に掲載しましたが、津波で流されつつも心ある人によって拾われ戻ってきた私の小学校入学時の記念写真です。
 またここから1年、再入学するつもりで、ゆっくりと、でも着実に進みたいと思います。

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