写真は、枇杷の花です。こんな寒いときに咲きます。
朝、メジロたちの鳴き声で目覚めて。どうやらこの花が目当てのようです。
果実は、6月ごろでしょうか。今年は柿が大不作でしたが、枇杷は豊作でした。
年賀状を書いて出し、読書感想も終えて、やっと年末という感じ。
今年の一文字は「痛」。そして「和」。
「痛い」の反対語は「痒い」か「快い」みたいですが、はっきりしません。
私にとっては、「痛」一文字の反対語は「和」。
年始に女性関係の「痛」があり、尿路結石という人生最大の「痛」もあり、もちろんコロナ禍で友人、知人と会えない「痛」、またマラソン大会中止の「痛」でもありました。
飲食店や航空関係、旅行業など、職種による影響の差が出た「痛」もあります。
うつ病もひたひたと増え、木村花さんや三浦春馬さんの自死という「痛」も忘れられません。
本の需要は増え、本屋は激務と化しました。うれしいようでも心身に限界はあります。特に今月の鬼滅の最終巻発売日(12月4日)はすごかった。朝から並ぶわ並ぶ、カウンターからぐるっと一周して周回遅れ(?)まで発生。整理係やってました。
結果、首や肩や背中を痛めました(今は癒えてます)。
本屋だけでなく、保健所・医療関係者をはじめ、保育、教育関係者も大変な一年だったと想像します。
そしてまた、東京では過去最高の一日の感染者が1300人越え。
地下鉄の運転手の感染が判明しました。もう都心には、ほんと行けないですね。
それでも行かなければならない人たちのストレスもまた大変なものだと思います。
だからこそ「和」のありがたみをより強く感じた年にもなりました。
自分の好きなこと、好きな人がよりはっきりしたとも言えます。
マラソン大会の中止が続けば、やっぱり出たいなあ、走ることが好きだなあと感じる。
プロレス好きもより鮮明に。レスラーたちはまさに「痛」と日々闘い、負けまいとしている人たちですから共感しない訳がなかった。
自宅時間が増えれば呼吸するように書いていた。
小説が、やっと読んでいただけるところまできて、今日までで11人の読者に恵まれました。
年賀状を書いていて気づきましたが、物語とは、人と人との関係の歴史、あるいは言葉や経験の積み重ねそのものだなと。
年賀状で自分を語れる人が複数いるしあわせもまた感じた。
小説は、一人で書き抜いても完成しません。読んでくれる人がいて初めて生まれる。
それはコミュニケーションそのものだと言った人がいましたが確かにそう。私は、それがしたい。
互いが持っているものを交換しあって、より素敵な自分たちに変わっていくことを楽しむように。
それは心の呼吸とも言えるかもしれません。
本のまとめ買いが増えたということは、それだけ息苦しい人たちも増えたということ。
よき書き手の一つとなれるように、痒い背中のそこに届くような文章を作れるように、死ぬまで前進したいと普通に思います。
タバコを止めて丸一年経ちました。まったく吸う気はなくなりました。
書くときはよく音楽を流していましたが、それもあんまりしなくてよくなりました。
創造することが何より楽しいとわかったから。
そんな自分の中の「和」が確立できたのも、多くの人たちの出会いと支えがあってこそ。
自分にとって重要な体験はきちんと保存され、いつでも再生可能になっています。
それらは、描こうとする小説の一つのシーンを下支えするものとしてちゃんとここにありました。
だから大事なのは、一つ一つをやり抜くという体験の積み重ねなのかもしれません。
小説は、原稿用紙を一枚一枚積み重ねることでしか仕上がりません。
読むときは、一枚一枚めくっていく。
それは物語そのもので、人生を代表するものとも言えます。
だから本は、コミックや雑誌も含めて、不要不急ではなく、要で急なものとなった。本は、能動的に関わるものであるから。
自分が求め、自分が手にし、自分が読まない限り、本は先に進まない。その感覚こそが、多くの時間が止まった人たちにとって必要とされたのかもしれません。
ああだから走ることと書くことは相似なのだなあ。走ることは、明らかに自分が進む感覚を体験できますから。
ということで、やっぱり今年もまとまりませんが、これでよし。
明日からまた3連勤です。気持ちも新たに。
今年一年、貴重なお時間をお付き合いいただいて本当にありがとうございました。
みなさまどうぞよいお年をお迎えください。
朝、メジロたちの鳴き声で目覚めて。どうやらこの花が目当てのようです。
果実は、6月ごろでしょうか。今年は柿が大不作でしたが、枇杷は豊作でした。
年賀状を書いて出し、読書感想も終えて、やっと年末という感じ。
今年の一文字は「痛」。そして「和」。
「痛い」の反対語は「痒い」か「快い」みたいですが、はっきりしません。
私にとっては、「痛」一文字の反対語は「和」。
年始に女性関係の「痛」があり、尿路結石という人生最大の「痛」もあり、もちろんコロナ禍で友人、知人と会えない「痛」、またマラソン大会中止の「痛」でもありました。
飲食店や航空関係、旅行業など、職種による影響の差が出た「痛」もあります。
うつ病もひたひたと増え、木村花さんや三浦春馬さんの自死という「痛」も忘れられません。
本の需要は増え、本屋は激務と化しました。うれしいようでも心身に限界はあります。特に今月の鬼滅の最終巻発売日(12月4日)はすごかった。朝から並ぶわ並ぶ、カウンターからぐるっと一周して周回遅れ(?)まで発生。整理係やってました。
結果、首や肩や背中を痛めました(今は癒えてます)。
本屋だけでなく、保健所・医療関係者をはじめ、保育、教育関係者も大変な一年だったと想像します。
そしてまた、東京では過去最高の一日の感染者が1300人越え。
地下鉄の運転手の感染が判明しました。もう都心には、ほんと行けないですね。
それでも行かなければならない人たちのストレスもまた大変なものだと思います。
だからこそ「和」のありがたみをより強く感じた年にもなりました。
自分の好きなこと、好きな人がよりはっきりしたとも言えます。
マラソン大会の中止が続けば、やっぱり出たいなあ、走ることが好きだなあと感じる。
プロレス好きもより鮮明に。レスラーたちはまさに「痛」と日々闘い、負けまいとしている人たちですから共感しない訳がなかった。
自宅時間が増えれば呼吸するように書いていた。
小説が、やっと読んでいただけるところまできて、今日までで11人の読者に恵まれました。
年賀状を書いていて気づきましたが、物語とは、人と人との関係の歴史、あるいは言葉や経験の積み重ねそのものだなと。
年賀状で自分を語れる人が複数いるしあわせもまた感じた。
小説は、一人で書き抜いても完成しません。読んでくれる人がいて初めて生まれる。
それはコミュニケーションそのものだと言った人がいましたが確かにそう。私は、それがしたい。
互いが持っているものを交換しあって、より素敵な自分たちに変わっていくことを楽しむように。
それは心の呼吸とも言えるかもしれません。
本のまとめ買いが増えたということは、それだけ息苦しい人たちも増えたということ。
よき書き手の一つとなれるように、痒い背中のそこに届くような文章を作れるように、死ぬまで前進したいと普通に思います。
タバコを止めて丸一年経ちました。まったく吸う気はなくなりました。
書くときはよく音楽を流していましたが、それもあんまりしなくてよくなりました。
創造することが何より楽しいとわかったから。
そんな自分の中の「和」が確立できたのも、多くの人たちの出会いと支えがあってこそ。
自分にとって重要な体験はきちんと保存され、いつでも再生可能になっています。
それらは、描こうとする小説の一つのシーンを下支えするものとしてちゃんとここにありました。
だから大事なのは、一つ一つをやり抜くという体験の積み重ねなのかもしれません。
小説は、原稿用紙を一枚一枚積み重ねることでしか仕上がりません。
読むときは、一枚一枚めくっていく。
それは物語そのもので、人生を代表するものとも言えます。
だから本は、コミックや雑誌も含めて、不要不急ではなく、要で急なものとなった。本は、能動的に関わるものであるから。
自分が求め、自分が手にし、自分が読まない限り、本は先に進まない。その感覚こそが、多くの時間が止まった人たちにとって必要とされたのかもしれません。
ああだから走ることと書くことは相似なのだなあ。走ることは、明らかに自分が進む感覚を体験できますから。
ということで、やっぱり今年もまとまりませんが、これでよし。
明日からまた3連勤です。気持ちも新たに。
今年一年、貴重なお時間をお付き合いいただいて本当にありがとうございました。
みなさまどうぞよいお年をお迎えください。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます