泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

ゴドーを待ちながら

2009-09-21 21:02:55 | 読書
 小説を書いていて、会話で詰まり、これだと思いました。
 これもまた以前に(いつだったか?)買ってはいたのですが。
 初っ端がこうです。

エストラゴン「どうにもならん」
ウラジミール「いや、そうかもしれん。そんな考えに取りつかれちゃならんと思ってわたしは、長いこと自分に言いきかせてきたんだ」

 また諦めて、「どうにもならん」から、この芝居は始まる。
 映像では観てないので、もちろん芝居でも、ぜひ観てみたいものです。何もないところから、なので、一層演じ手が現れてしまうのではないでしょうか。
 二人は浮浪者です。どこで寝ているのかもわからない。エストラゴンは、常に暴力に曝されてもいる。しかし、二人は、柳の木の近くで今日も会う。というか、昨日と今日の、明日の境も不明になっている。なんのために? ゴドーに会うために。
 ゴドーとは何者か? それも最後までわかりません。二人も会ったことがない。ただ会えば救われると信じている。
 ポッツォとラッキーという二人組が現れます。ラッキーは奴隷。首輪をされ、雇い主の命令に従う。ゆえにラッキー(幸福)とは、戦争体験者だけはあります。
 著者のサミュエル・ベケットは1906年、アイルランド生まれ。ユダヤ系であった彼もまた、戦中は身を隠した。ときに友人宅の屋根裏で。そこで小説を書いていた。合間の息抜きとして、この戯曲を書いたそうです。
 フランクルが、ストレートに生きる意味を提出したのなら、ベケットは逆説として、人間の無意味を描いたのかもしれません。不条理演劇の代名詞にして最高傑作と言われるゆえんです。まったくの無意味、無、なにもない。ただ板の上にいる。来ることもないものを待ちながら。待つと言う口実を作って、何とか自殺しないで済んでいる。
 産まれてきた価値がない。生きていても意味がない。自殺する人のほとんどが口にする言葉です。思いです。
 嫌と言うほど戦争を、人間の悪を観たであろうベケット。徹底的な不条理は、それはそれで共感を呼ぶ。初演が100回にも及んだそうです。悪評によって。
 会話がかみ合わないのです。誰も聴いてはいないのです。すれ違ってばかりで、言葉は役に立たず、痛みが常に付きまとう。痛んで苦しんで、命令に従って、命令しても孤独で泣いて崩れて、それでもゴドーを待つ。ゴドーという何かを待ちたい。ゴドーという未だ来ない存在を信じていたい。と書いてくると、絶対的な無にありながら、かすかな一筋へ頼る人間というものが浮かんできます。まったくばかげていて、うんざりもしてきて、それでいて引き込まれてしまう。そうだよなあと思ってしまう。なんとも斬新な切り口です。
 言葉について熟知しているからこそ、こんな一見めちゃくちゃな文が(文ともいえないもの)書けるのだと思う。文芸には、ほんとに思いもつかない見せ方、使い方があります。読んでも読んでも尽きることはない。それが楽しいことでもあるのですが。
 そして、僕の小説の会話は進んだでしょうか?
 はい。なんとか2ページ。
 それにしても、ベケットはいい男です。ハンサムです。かっこいいです。
 何度観ても飽きません。
 僕にも、ゴドーはいたなと思う。
 あるときは「彼女」、あるときは「資格」、あるときは「卒業」、あるときは「就職」、あるときは「結婚」。
 モラトリアム、決定の先延ばし。
 楽園妄想。
 被害妄想。
 今は消えたのでしょうか?
 いや、やっぱりいますね。
 ゴドーたちは、限りなく具体的に、行動的に、肉体的に、僕に近づいていますが、決して届くということはないのだろうと思う。
 人間に完成形なんてないのだから。常に変わっていくものだから。
 僕の目的であり、修正され続ける目標であり、同一ではないけど必要不可欠な他者であり、心から誰かに祈りを捧げる対象であり。
 そんなゴドーたちを、僕も待っています。
 ただ待つということは、とても能動的です。自分を差し出すことであり、相手をなんとか理解しようとする関わりでもあります。受身どころではありません。いつでも対応できる状態にあるということです。
 その一つが想像であって、小説を書くことでもあるのかもしれません。
 そういう「待つ」を、確かに身につけていきたいです。

サミュエル・ベケット著/安堂信也・高橋康也訳/白水社/2008

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