泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

弦楽セレナード・革命

2011-01-22 12:07:35 | 音楽
 音楽についてはもう2年半も書いていなかった。かといって聴いていなかったわけではない。ほぼ毎日聴いていたといって過言ではない。
 最近のお気に入りはチャイコフスキーの「弦楽セレナード」。ある日、NHKのN響アワーで紹介され、一発で参ってしまった。何度も聴いている。そのよさとはなんだろう。バイオリンやチェロがただの音ではなく、人の大切な何かに触れる。痛切な心。消えない思い出。叶わない願い。元気が出るというより凝り固まった感情が解かれる。胸が広がる。語り得ないけど確かにある働き。優れて情に深い。いくらぼくが言葉を並べたところでそのよさは伝えられない。つかみ切れない。だからまた聴く。貸し出しもする。
 昨年からよく聴いているのはショスタコーヴィッチ。この人の作品は痛みを覆うユーモアを感じさせる。知的に興奮させられる。展開が読めずおもしろいなあと聴きほれてしまう。同音の連打が魅惑的。中でも繰り返し回しているのが交響曲第5番の「革命」。これは昨年末、実際に所沢のミューズで生で聴いた。西村知美さんという日本人が、ラトビア国立交響楽団を引き連れての凱旋公演。女性の指揮者というのを初めて見た。優雅で、洗練されて、細やかで、力強かった。演奏の終わった後、鳴り止まない拍手の中で、今やっと会場の人たちを見るように、ゆっくりと四方に挨拶している姿が忘れられない。自分たちの仕事の実りを確かめていた。「革命」もまた何度聴いても聴き尽くせない。消え入りそうなか弱い声。吹っ切れたように突進する勢い。力が寄り集まって小爆発が繰り返される終焉。見えてきそうな物語がある。男女の交わりのようにも聴こえる。
 今年になってはまっているのがプロコフィエフ。ピッコロなのでしょうか、笛による甲高い鳴き声が印象的。この人の音楽には創造を感じる。これが創作なのだというような凄み。こうなってしまうのかというような驚き。行ったことのない世界に連れて行かれる楽しみ。まだ聴き始めだからこれくらいしか言えないけど、なにかぴったりくるものがある。創作を促すような力がこもっている。
 と、上に挙げた三人はいずれもロシア人なのでした。これは偶然でしょうか。
 ラフマニノフも相変わらず好きで、シャガールも一層好き。カンディンスキーもまたびびっとくる。
 性質、の問題なのでしょうか。ぼくの根本に関わる体質。雪国、東北出身であるということ。何世代か前は、雪の降り積もる土地で暮らしていたということ。田を耕し、菊を愛で、わずかな収穫にも感謝する一農民。冬生まれでもある。
 音楽にもまた作曲者の体質が出る。文章とそれは同じでしょう。合う合わないという問題もそこから生まれるように思う。
 音楽も文学も、基本的には相手を支え、励まし、生産的に感情を掻き回すものだと思う。生きるための補助だと。
 ぼくがこんなにもクラシック音楽に浸ってしまったのは、音符を言葉と等しく聴いているからなんだろう。
 作曲者の個性がありながら、紡がれた音符は、多様な楽器、演奏者を通り働きかけながら一つとなり、全体の流れの中で奇跡的な感動をもたらす。
 クラシックだからこそ、ぼくに届くまでに無数の人々の心を通り抜け、時間の風化にも耐えた力がある。壊すべき壁を壊し、無知による弾劾も内側から効いて無効にした。
 この価値は、ぼくにとっては本の持つ力と同じ。目や手や口を使わなくても、死ぬ間際まで機能するという耳さえあれば接することができるという点では、本よりも身近で親密で原始的なもの。
 言葉もまた声から生まれたということを思い出す。最近音読をしていなかったのではと反省する。
 だからぼくにとって音楽はきょうだい。あるいは伴侶のようなものなのかもしれません。もう、なくてはならない。本とCDはいくらあってもよい。
 最近、このあまり共感されにくい、共有することの希なクラシック音楽の世界を聴いてくれる人ができました。ありがたいことです。一つのことを共有するうれしさをしみじみ噛みしめる。今のその人にとって何が一番必要か、援助的なのか、思いながら曲を聴き選ぶ楽しさ。大切に、この関係を育てたい。
 音楽は楽しむもの。楽しいという状態は、人が生命体としてよりよく機能していることの証なのかもしれません。各人がよく働くために、音楽は必要とされ続けるのでしょう。ぼくもまた、飽くことなく。
 それでも、ぼくには文学が似合う。ぼくは間違いだらけだから。学び続けなければならない人だから。前回、愛ってなんだろう?と辞書を引いた後、一体ぼくは今まで何度失恋してきたかと数えてみた。覚えているだけで8度。中学時代Sさん、高校でSさん、大学でTさん、その後A、K、O、N、Y。末広がりでよかったということで。
 一方で逆バージョンもけっこうあったのでした。強烈なのは小学校の時、まったく不意打ちで自宅の郵便ポストにバレンタインチョコレートが入っていた。同級生のTさん。ぼくは面食らっておろおろし何もできなかった。チョコはしっかり食べたけど、お返しできなかった。何をすればいいのかわからなかった。大学の時もAさん。あの八木山動物公園&ベニーランドにデートを誘われた。このときも僕は身を固くして、何もできなかった。申し訳ない。その後N、Y。その一人とはホテルまで行った。しかし切れた。後悔したけれど、もう仕方ない。ぼくは確かに彼女たちを愛してはいなかったのだから。愛していないのに愛されるというのも辛いものです。しかししっかりと刻まれています。あなたたちを忘れたことはありません。
 行き違いが生じてしまうのはやはりコミュニケーションの問題だったのでしょう。そして様々な自己中心的な想像が介在して邪魔していた。自分が何者なのか伝え、相手がどんな人なのか知る。この根を下ろそうとする相互作用の試みの数々。誰も責めることはできない。むしろ関わり合えたことに感謝する。そうした他にどうしようもなかった動きこそが大切だったと思う。いとおしい身体の記憶。記憶がぼくを作り続けている。あなたたちがそこにいて、ぼくと関わったからこそ、今のぼくとあなたはいる。日々生まれ変わっている。
 と書いてきて、このブログに集中し始めてからはいわゆるあからさまな「失恋」をしていないことに気づく。もちろん今でもいろいろ起きていますが、関係は続いている。必要なものと必要でないものがはっきりしてきたということでしょうか。焦りや不安からは何も生まれないということ。本当に大切なものしか残っていかない。音楽の一つの音にしても、小説の一つの言葉にしても。
 大切なものとはなんでしょうか? 人が死なないでいられるために。それらを一つずつ書き残し、いつでも再生可能なものとして形作ることがぼくの務めなのかもしれません。
 プロコフィエフの荒々しいラッパが鳴り響き始めました。
 促されて、また原稿に向かうとします。

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