ぬかが和子の想い

区議会議員ぬかがかずこ(額賀和子)の日々の活動や出来事、感じたことを綴るページ

ねばり強くあきらめずに一歩ずつ要求実現―大師前駅編―

2019年01月10日 | 日記

「今の大師門前の繁栄があるのは共産党のおかげ」(当時の門前当主)

55年前の東京オリンピック時、東武大師線は廃線の危機だった
  環七は戦前に計画された路線でしたが、戦争中に凍結されました。しかし55年前の東京オリンピック開催のためのオリンピック道路として急ピッチで工事が行われることになりました。北区~鹿浜橋間は、オリンピック道路として整備、その直後、西新井大師付近の環七建設工事が行われることになりました。
 当時、大師前駅は環七の南側(今の東武ストア大師前店付近)にモダンな駅舎としてありました。しかし、この環七の工事で線路が分断されることになり、西新井駅からの距離も短いことから「廃線」の方向でした。

東武大師線、廃線の危機をのりこえて

 当時の私の先輩の共産党議員は、地域の方々と力を合わせ、体をはって「存続運動」を行いました。その結果、オリンピックの4年後に、今の位置(環七の外側)に駅を移動し、当時日本で一番営業キロの少ない鉄道駅として、存続しました。当時を知る門前当主からは「もし大師前駅がなかったら、今の大師門前の繁栄はなかった。共産党のおかげ」といわれたものでした。

今の駅舎ー最初は「エスカレーター無し、五反野駅のような駅舎」計画
 今から約30年前、鉄道の高架化にあたり、平屋の駅舎から2階に車両が入る新駅舎を建設することになりました。しかし、当初は、エレベーターはつくるものの、エスカレーター無し、。駅舎も五反野のような通常の予定でした。共産党は、当時運輸委員だった地元の共産党国会議員とともに東武本社に直接交渉。区に対しては、区議会に請願署名をだし「エスカレーターの設置、歴史的景観に見合った駅舎」を求めてきました。署名は、門前当主のご協力もいただき、請願が採択され、区が財政支援をして今の駅舎が誕生しました。

駅前に住区センター区民の望む施設実現へ
 今、駅前に住区センター・区民事務所の複合施設を計画。ぬかが和子区議の要望が実り、地域の声をいかす計画づくりをすすめています。