随思録

日々思うことを記す。

“ゆとり”は、福音をもたらす存在のはずだった (2)

2010-10-06 10:46:56 | Weblog
ゆとり教育とは何だったのだろう。

その愚策ぶりは枚挙に暇がないが、少なくとも文科省の役人はバカではない。
崇高な目的のため、欠点は承知のうえ邁進したに違いないのだ。

ゆとり教育が実践される10年ほど前。
バブルは崩壊し、冷戦構造は崩れ、世界情勢は大きく変化していた。
これからの時代、おそらく今まで通りの日本的な「経験則」を頭に詰め込んだ人間では、世界に伍していけなくなる。
日本は遠からず行き詰るだろう。
そのためには、子どもたちの持つ無限の可能性に賭けるしかない。
少々大げさだが、一部の人間がそう信じたののではないか。

ゆとり教育が実践される10年ほど前は、私が教育学を学ぶ学生だったころでもある。
そのころ、教育界でしきりに唱えられていた言葉がある。
それは「問題解決能力」「問題発見力」という言葉である。(「生きる力」という表現もあった。)
定義するのが難しい能力だが、ある事象に対し適切な観察・分析を行い、必要があれば修正を行える。
また、現在の事象から推測し、事前に危機を想定できる。
そのような能力のことである。

いままでの暗記型、詰め込み型の教育では身に着けることはできない。
子どもの心=内側から湧き出る学習意欲を尊重し、子どもが自ら学習しなければ、「問題解決力」は育成できないだろう。
混迷の時代を迎えるであろう子どもたちに、生き延びる力として、また日本を導く力として、「問題解決能力」を有してほしい。
それがゆとり教育の原理だったのではないか。

で、結論からいえば、ほとんどの子どもの内側に、学習意欲なんてものはなかったのである。

子どもが「気づく」仕掛けを用意し、気持ちのまま行動させ、その過程で知的好奇心と達成感を味わい、次々と問題解決の成功体験を積み上げていく。
それが「総合的な学習の時間」というやつである。

で、結論から言えば、そんな授業を毎回準備できる先生なんて、いないのである。

よって、そこからつくられたのは「なにも問わず、答えを知らない」人間たち――
それがゆとり教育の真相だったのではないだろうか。

(3)に続く

“ゆとり”は、福音をもたらす存在のはずだった (1)

2010-09-04 23:59:42 | Weblog
日本の製造業は、危機に瀕している。
産業別のGDP比で20%にすぎないとか、日本は外貨に依存していないとか、経済学上の分析はこの際どうでもいい。
リーマンショックによる北米の消費の落ち込みが製造業を痛めつけ、それに引きずられた日本経済がどれだけダメージを受けたかは、普通に働いている人間なら肌で感じたはずだ。
(もちろん、その中でも他社のシェアを奪うなどして、好調な企業があることも否定できないが。)

結局、製造業は、人件費の安いところに拠点を移し、量をつくって薄い収益をあげるしかない業種だ。
収益を求めて、国内の製造業(既にグローバル化を果たした大手企業)は、工場の海外移転をさらに加速させている。
それでも基幹部品や、特殊な技術を伴う部品などは国内の工場で生産し、輸出して現地で組み立てるという方式で国内の雇用を守る経営者もいたが、(民主党の無策を伴う)円高もあり、輸出入の為替リスクが存在しない現地生産が必然となり、その意欲も減退しつつある。
再来年くらいには日本から大手企業の工場が消えてなくなるかもしれない(決して大げさな表現ではない)。

グローバル化の最終段階である、人材のグローバル化も広がっている。
中国・インドの給与が半分で能力は3倍というような優秀な人材と、グローバル企業の社員の座を争わなければならない。

たとえば、生産している部品はニッチではあるものの、実は世界的なメーカーである中小企業の社長に聞いたのだが、次の社長は日本人ではないかもしれない、というのだ。
曰く、この会社は東南アジアに拠点を有しているが、そちらの拠点の人材が、かなり優秀である。
中国が今後世界のマーケットの主役になった際、日本に本社があるよりも、東南アジアにあったほうがよいから、社長をそちらの拠点から選んで、舵取りを委ねる可能性があるという。

大手企業の話ではない。
中小企業でも、だ。

こういう話を聞いていて浮かぶのは、「じゃあ今後日本人は、何で食べていけばいいのか?」という疑問である。
いまの日本は80年代のアメリカに似ているという。
しかし、アメリカにはその後ITという一大産業が生まれ、そちらに軸足を移した。
さらには金融産業(?)を発展させたり、せっせと戦争を起こしたりと、汚い稼ぎにも余念がなかった。
日本はどこに軸足を移せばいいのだろう。
明日がまったく見えない混迷の時代だ。

そこに一条の光をもたらす存在……それが“ゆとり”。
ゆとり教育を受けた、ゆとり世代のはずだったのである。

(2)に続く

富田メモの「前後」

2006-07-29 02:14:34 | Weblog
昭和天皇の発言を記したという冨田メモがマスコミによって発表されたとき、一番最初に感じたのは「文章の前後が知りたい」ということだった。
あまりにも断片的でどうとでもとれる内容を、A級戦犯の合祀問題と結びつけて報道していることに疑問を覚えたからだ。
ついに前後について証拠写真に基づいて分析されたBLOGが登場し、一読して、納得した。
ぜひ目を通していただきたいページである。

やはりねつ造だった「天皇発言」/依存症の独り言
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/07/post_5e43.html

もちろん富田メモに書かれた内容が昭和天皇の発言であったとしても、実はなんの問題もないのだが……テレビの報道を鵜呑みにする人たちは、なんとなく合祀が悪いような気分になってしまう。
だからこそなんとかこの情報をマスコミに取り上げさせたいもの。
まずはネットで情報リテラシーを持つ人たちに、広く伝えることが肝要だろう。

NHKのW杯放送は必要か?

2006-06-11 18:38:29 | Weblog
さて、テレビにかじりついてFIFAワールドカップを連日観戦しているわけだが、今回のテレビ放映、奇妙に感じていることがある。
スカパーがすべて録画放送なのである。なんのための有料放送なのだろうか。
転じて、NHKはどうだろう。
ほとんどの試合を生中継している。

放映権料が多額のため賄えるのがNHKだけであるという理屈もあるだろうが、視聴者が求めること=「公共性」というわけではないだろう。放映されなくたって、公益を損なうわけではない。
逆に言えば、NHKに払う金額をCSに投じれば、スカパーだって放映できたかもしれない。そんなにベッカムのFKが観たいのであれば、視聴料を払えばいいのだ。
それが適正な金銭の流れというものだろう。

とくにBSなどは、この数日ワールドカップの録画放送と、メジャーリーグ中継との2本立てで、ずっと海外のスポーツを流している。これではスポーツ専門チャンネルとなんら変わらない。
こんなものをNHKに私は少なくとも求めていない。
こういうものを民業圧迫というのだ。

折りしもNHKのチャンネル削減案が竹中総務相の私的懇談会によってまとめられたが、これでも手ぬるいのではないか。
NHKは現在テレビ・ラジオで8つチャンネルを所持しているそうだ。が、半減どころか、テレビ2つ、ラジオ1つにまで絞るべきではなかろうか。
その上で、受信料支払いを義務化すべきだ。
そして視聴率がまったくとれない硬派なドキュメントや、教育や福祉に資する番組をつくってほしい。
良質なニュースを流してほしい。

今の世の中、売れないものは価値がなくなってしまう。だが、売れないものの中にも文化は存在している。
ざっくりと切り捨てられた「放送文化」を守るための受信料徴収の義務化ならば、受けてもいいと感じる。
現在の支離滅裂な放映内容のままでは、NHKに存在意義はない。

本日マルタ戦!

2006-06-04 11:17:28 | Weblog
日本代表はW杯開幕前の最後の試合。
もちろんテレビで観戦。それを観てまた変わるかもしれないけれど、現時点でのグループリーグの予想を書き留めておこうと思う。

6/12 VSオーストラリア 0-1 ×
6/18 VSクロアチア 2-2 △
6/22 VSブラジル 2-0 ×

よって1分2敗でグループリーグ敗退。
オーストラリアは守ってカウンターというかたちをとるのでは? それを攻めきれるとは思えない。
クロアチアはブラジルに負けて、日本に勝ちにくると仮定すれば、スペースも空くしチャンスができるかも。これは願望もこみ。1-2が妥当かもしれない。
ブラジルに……どうやって勝つの? 教えて神様~

思いっきり願望をこめれば、こうなる。

6/12 VSオーストラリア 0-0 △
6/18 VSクロアチア 1-2 ○
6/22 VSブラジル 0-1 ×

ブラジル3勝、日本・クロアチア1勝1分1敗、オーストラリアが1分2敗。得失点差で決勝トーナメント進出。
でどうでしょ?
むしろクロアチア戦にチャンスがあるととらえているのだが。

この時期はみんな素人評論家になりますな。
マルタ戦も楽しみだ。