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旅日記

故郷の風景(15)桜江町今田 流れ地蔵

 

江津市桜江町今田の香伝庵跡地と云う所に地蔵堂があります。

この地蔵堂には六地蔵、聖観音、弘法大師等の諸像の中央に小祠に納めた「流れ地蔵」があります。

像は頭部が欠け石塊状で像容も定かでないが、延命地蔵といいます。

この「流れ地蔵」についての説明が桜江町誌に記述されていました。

この内容が興味深かったので、現地に行ってみました。

 

流れ地蔵

この話は約180年前の弘化3年(1846年)に起こった出来事です。

<弘化3年頃の日本の状況>

日本史の弘化3年の主な出来事は120代仁孝天皇が弘化3年1月26日(1846年2月21日)に崩御されています。

しかしこの頃の元号は一世一元ではなく一代の天皇の期間中に複数の元号が制定されています。

たとえばこの仁孝天皇の次の孝明天皇時代の元号は、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応と7つあります。

もう少し話がずれますが、弘化3年の7年後の嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の司令長官ペリー提督が艦隊を率いて神奈川県浦和沖に来航しました。

 

<桜江町誌に記載された内容の要約>

弘化3年に大洪水が起こり、長谷村下田湯浅新助所有の田畑に安置されていた今田村六地蔵尊も流失した。

施主の新助をはじめ日頃から信仰の篤かった人たちは所在を案じて探したが見つからなかった。

やがて、地蔵尊2体が鳥取県河村郡(現東伯郡)泊の浦で発見されたとの噂を聞いた。

そこで、新助は浜田藩の添え書きを貰い、泊の浦に出向き1体を貰い受けた。

背中に背負い、道中多くの人々の出迎えを受けながら長谷に帰り、禅寺に移し建て祀った。

長谷の湯浅家には新助が泊り浦から道中に使用した白木綿地に毛筆書きの幟が保存されているという。

 

<桜江町誌の一部抜粋>

「洪水により石地蔵がどうして伯州(鳥取県)の海辺村に姿を現されたか当時としては全く信じられない事柄であり、仏の広大な功徳が人々を感動させたであろうことは現代でも想像に難くない」

 

「尊像発見の模様を関係者の泊浦庄屋は次のように述べている。

『五月二十四日 伯州河村郡泊浦赤崎屋平左衛門持船に倅の六右衛門が水夫三人と共に漁業のため沖合拾五里のところまで出かけた。

あたり一面に広がる海原の中に浮きつ沈みつ不思議な光を発して流れる物体がある。

近づいてよく見ると破れた厨子の中に棚板らしく広さ八寸長さ一尺五寸の朽ち板があり、その上に二体の地蔵尊が慈顔の温容で何事もなかったように安座されているではないか、海上にてなくなった水死人を御済度なされるためであろう、もったいないことだ。

自分たちが尊容に相逢うことが出来たのも宿世の善因によるものであろ。

四人申し合わせて船に移し奉りお供して磯まで帰ることにしようとして式浦の地にお連れした。

早速在地の地蔵庵に移置き、この有様を村役人から役所へ申し出た。

そこでこの話が広がり鳥取表にある本願寺に差出すよう仰付られ二体の内の一体が移され給うたが、式所の地蔵庵主は夢に地蔵が泊浦へ帰らせてくれと告げられたため、お願いして時を待っていた。

彼の地では不思議な地蔵の話が知れわたり泊浦を初め近郷の人達から厚い信仰を受けられた』

右は天災に伴う余聞であるが、得て災害は人の心を暗い陰惨なものにする中で、信仰に生きた人達の真剣な心根がうかがわれて何かほっとする明るい思いである」

 

<弘化3年の大洪水>

順序が後先になりましたが、弘化3年の大洪水について当時の記載は次の通りです。

五月十七日(閏)朝五つ頃より俄に雷雨烈敷く稀なる、前代未聞平水より一丈九尺余り御座候、跡市組三十六ヵ村之内水損無之村方 日和村、田津村、渡り村、大貫村右四ヵ村計御座候村方大損し河原に相成り当分元之通田方不相成村々跡市、宇津井、敬川損所多く被害の程誠に大なるものがあった。

つまり八戸川流域の各村が大被害になったようです。

 

<地蔵さんが通った距離>

二体の地蔵さんは八戸川、江の川を下り、日本海に出て、1っ週間後に鳥取県河村郡(現東伯郡)まで流れて行きました。

もし車で県道41号線で江川まででて、ここから国道261号線で江津までいき、そして国道9号線で鳥取県の泊りまで行くとすればその距離約200Kmになります。

地蔵さんたちは江津からは海を流れていっているので、移動距離はさらに5,60Kmは長くなるでしょう。

またよくぞ漁師さんたちに発見されたと思います。

 

<情報の伝達について>

さらに驚くのは、この情報の伝わり方です。

鳥取の漁村で起こった出来事が、島根県の山間の村まで割と早く伝わったことです。

新助さんが地蔵さんを受け取りに行った正確な日付は記載されていないので分かりません。

しかし、洪水による被害からの復旧が少しずつ手が付けられ始めたころ、噂を聞いたとの記載があるので、恐らく半年ないしは1年以内の事だろうと思います。

・修行僧

誰が情報伝達をしたのかと考えると、一番それらしいのは修行僧ではなかったのかと思います。

当時は修行僧も沢山往来していたでしょう。

これらの修行僧が、仏教・文化とともに都や各地の状況を伝えていたのではないかと思います。

・富山の薬売り

富山の薬売りも情報伝達している人々ではないかと思います。

置き薬と呼ばれ、江戸中期に藩の保護・統制を受けて発展したもので、全国各地の得意先に薬を置き、年に一、二度訪問して使用分の代価を清算し薬を補充したものです。

置き薬の薬売りさんたちは全国を行脚しているので、各地で色々な情報を入手し、それをお客さんたちに教えていたのではないかと思います。

しかし、この置き薬のシステムは信用と信頼がないと成り立たないものですが、凄いことですね。

修行僧も富山の薬売りも今では見ることは無くなりましたが、5,60年前は日常的な風景でした。

 

 

こう思うと、当時の日本では情報の地域格差はあまりなかったのではないかなどと思ったりしています。

 

<完>

 故郷の風景 目次 

 

 

 

 

 

 

 

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