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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−127(高師泰の石見討伐隊−2)

38.高師泰の石見討伐隊

38.3.高師泰那賀郡に侵攻する

佐波一族を降伏させると師泰は軍勢を二分し、 上杉重能をして江川峡谷を下らせ、自身は安濃・邇摩の海岸沿いに西進し、両軍江津の島の星に集結、ここを本陣として三隅攻撃の体制を整えた。


浜原の青杉城を陥落させた後の高師泰軍の勢いは凄まじかった。

石見の南東部の邑智郡を占拠すると、そこから扇のように石見全土に幾手にも別れて侵攻していった。

最終最大の標的である三隅城である。

北朝軍はそこを目指し、沿道の諸城を破竹の勢いで落としていった。

佐波氏の敗戦は石東の宮方の士気を失わしめ、師泰の西進の途次にある四城が陥落し、七城が降参した。

四城とは、三久須城(大田市祖式町)・川上城(江津市松川町)・都治城(江津市都治町)・月出城(江津市金田町)である。(落城した城は、青杉城と合わせると五城となる)

七城とは、市山城(江津市桜江町)・大和田城(江津市渡津)・亀山城(江津市江津長)・神主城(江津市二宮町)・本明城(江津市有福温泉町)・小石見城(浜田市原井町)・周布城( ​​浜田市穂出町)である。

 

太平記には青杉城を落城させた後のことが次のように記されている。

其後越後守、石見勢を相順て国中へ打出たるに、責られては落得じとや思けん、石見国中に、三十二箇所有ける城共、皆聞落して、今は只三角入道が篭たる三隅城一ぞ残ける。

此城山嶮く用心深ければ、縦力責に攻る事こそ不叶共、扶の兵も近国になし、知行の所領も無ければ、何までか怺て城にもたまるべき。

只四方の峯々に向城を取て、二年三年にも攻落せとて、寄手の構密しければ、城内の兵気たゆみて、無憑方ぞ覚ける。

 

「その後、越後守(高師泰)は石見勢を従えて国の中へ討って出た。

これらの城は、攻められてしまっては逃げられないと思ったのか、石見の国に三十二ヶ所あった城は、皆噂を聞いただけで逃げ出してしまった。

今は三角(三隅)入道が籠もっている三隅城が一つ残った。この城山は険しく警戒していたので、たとえ力ずくで攻めても落とせないだろう。

しかし、助けの兵も近国におらず、また領有する土地もないので、いつまでも堪えて城に留まれるはずもない。

ただ寄せ手の方は四方の峰々に拠点の城を構えて、二年三年かかってもじっくりと攻め落とす様子である。

そうなると、城中の兵は気力が萎えて、頼りにするものもないように思われた。」

 

三隅城攻撃

観応元年/正平5年(1350年)8月25日に邑智郡の青杉城(三郷町)を落とした討伐軍は、あっという間に南朝方の諸城を落とし、9月の初めには三隅城に攻めかかった。

しかし、三隅城の攻撃が始まったが、これまでの破竹の勢の進撃は三隅に至って全く渋滞してしまった。

総大将の高師泰は、いつまで立っても落城の目処がつかないので段々苛立ちを見せてきた。

「石見征伐も、余すはこの城のみぞ。 全軍を挙げて一気に攻め落せよ」

と厳命し、城の大手口・搦め手口・その他いたるところから総攻撃をかけた。

これを眺めた城将兼連は待っていたとばかりに、兼ねて用意の策を城兵に伝え、敵が人垣つくって城壁近く攻め登るのを見はからい、上から大丸太や岩石を投げつけて払い落とし、足場を失って逃げまどうところを攻めにかけて射倒した。

これは、かつて楠木正成が千早城の戦いで用いた策と似ている。

討伐軍は目も当てられない惨敗を喫した。

討伐軍はその後数度の攻撃を仕掛けたが、すべて跳ね返された。

長期戦になれば、九州から足利直冬が、或いは直冬に味方する南朝方が攻めてくる恐れが拭いきれなかったが、仕方なく、長期戦の兵糧攻めとすることにした。

ところが、2ヶ月経っても、3ヶ月経っても三隅城内の様子は変わらなかった。

逆に討伐軍の兵糧が尽きてきそうな状況となった。

討伐軍の中には、飢えに耐えかねて本国に帰る軍団もあったという。

さらに、山陰の冬は荒海から吹きくる北西の風に寒気は増し、肌も凍るばかりに降り続く雪の中で、兵達はあてもない野陣に凌ぐ得ずして、その数も減少していった。

 

38.4.高師泰討伐軍の敗走

大将師泰は焦りにあせった。

この状況を知った市木(浜田市旭町)の周布因幡入道兼宗がまず軍を起こした。

すると、これに引きづられ、いったん降伏していた石見の南朝軍も再び反旗をひるがえして、都野・福屋・平田らの軍が師泰から逃げて反撃に出た。

師泰の攻城軍は背腹へ敵を受けたので、急に戦況が逆転して窮した。 

そんな折り、京都に在っては、足利直義が兄の尊氏に叛き、南朝へ味方したので形勢が一変するのである。

その年も明けて正平5年の正月はじめ、尊氏は石見征伐に向けている師泰に、急ぎ軍を率いて 京都へ帰還するよう命じたのである。 

師泰は、渡りに舟を得た心地で慌ただしく攻囲を解き、全軍を率いて京都へ引き返そうとした。

ところが、軍を返す帰路の三坂峠は、周布兼宗が控えており、雲月峠には波佐(浜田市金城町)の来原氏(周布一族)らが退路を塞ごうとしていた。

退く枝泰軍を追って三隅兼連は都野・福屋らと連絡をとり、雲月峠へ追撃した。

師泰軍はさんざん防戦をしながら雲月峠を越えて、なんとか逃げ戻ったという。

この噂は、次から次へと中国・四国・九州・近畿の諸国に伝わり、南朝方は意気を盛り返した。

 

<続く>

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