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旅日記

故郷の風景(4)三江線  

三江線は江の川に沿って走る鉄道で40年前ぐらいまでは主要な交通機関でした。しかし道路が整備され自動車が普及したことと、人口減が重なって鉄道の利用者が減ったことにより、ついに2018年の4月1日に廃線となりました。

廃線から1年経って実家近辺の三江線沿線を少し辿ってみました。

 

1.三江線の開通から廃線まで

三江線(さんこうせん)は、かつて島根県江津市の江津駅から広島県三次市の三次駅までを結んでいた西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)で、2018年(平成30年)331日をもって旅客営業を終了し、翌41日付で全線廃止となりました(JR発足後、路線距離が100kmを超える鉄道路線の全線廃止は本州では初の事例です)

江津駅 - 三次駅間を結ぶ陰陽連絡路線として、1930年代から長い期間をかけて建設されましたが、全通は1975年(昭和50年)です。

 1930年(昭和5年)に江津駅‐川戸駅間が開通し、その後段々延伸して1937年(昭和12年)に 浜原駅まで繋がりました。

・昭和5年に江津駅‐川戸駅間が開通

・昭和6年に石見川越駅まで延伸

・昭和9年に石見川本駅まで延伸

 1955年(昭和30年)に三江南線開業( 三次駅 - 式敷駅間)に伴い、三江北線に改称されました。

 1975年(昭和50年)に三江北線の浜原駅と三江南線の口羽駅間が開通し三江線となりました。

 2018年(平成30年)41 全線廃線

 

<三江線全線開通記念碑 浜原駅>

 

2.三江線の列車

かつては三江北線では米子機関庫浜田分庫の蒸気機関車が使用されており、当初は500形、つづいて1070形にかわった。1934年(昭和9年)118日にキハ40000形2両で石見江津 - 石見川本間の運行を開始。

1939年(昭和14年)からC12形も使用された。戦後はC125両で旅客、混合列車を運転していたが1957年(昭和32年)3月からは旅客列車はディーゼルカーに置き換わり、1959年(昭和34年)よりC56形が貨物列車に使用された。

貨物列車は1974年(昭和49年)1130日限りでDD16形ディーゼル機関車にかわった。三江南線は開業時はキハ20形2両により運行された。

1984年ごろは基本は2両編成で浜田機関区(現在の浜田鉄道部)所属のキハ47形、キハ40形、キハ45形、キハ23形が中心となり、口羽-三次間、直通の一部は三次運転区のキハ47形、キハ40形、キハ45形、キハ23形が運用されていた。

JR化後は、キハ120形が導入されるまではキハ40形による単行でワンマン運転を行っていた。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

キ: エンジンつき車両 (電車と違って先頭車・中間車区別はありません)
*現在、エンジンの付いていない気動車はないので、事実上「キ」が気動車を表すものになっています。

ハ:普通車(自由席だったり、指定席だったり、単なる通勤電車だったりします)

貨物列車も1974年(昭和49年)にDD16形ディーゼル機関車にかわりました。

 

<鹿賀駅>

  

  

<廃線後の鹿賀駅>

 

鹿賀→石見川越間を走る三江線 (2017年11月6日 14時過ぎ撮影)

 

 

・ディーゼルカーの三江線での最高時速

 最高時速は35Km/h

一番前の車両では運転席の状況を見ることが出来ます。時速計もみえるので、子供のころは今何キロで走っているか知りたくてよく見ていました。私が見た最高時速はほんの数秒でしたが、35Km/hでした。友達は40Km/hの時を見たと言っていました。この頃はすごく速いと思っていました。

何故この程度のスピードしか出せないのは、カーブが多いからだと思います。直線で走れる距離はgoogle mapで見ても1Kmもありません。だからこの程度のスピードしか出せないのは仕方ないことだと思います。

 

 3.三江線以前

江の川は物資輸送の「幹線」でした。江戸時代には中国山地で生産された鉄や木炭が船で河口の江津へ運ばれ、北前船に積み替えられて大阪方面に向かっています。

 大正末期には、後部に積んだプロペラを回して進む船(飛行船)が定期運航を始めました。

 昭和に入ると、ダム開発による水量減と鉄路の登場で、川を行き来する船は次第に姿を消していきます。

明治20年代、支流馬洗川・西城川・八戸川にあった船着場を含めると流域には49箇所の船着場がありました。最上流は土師(現安芸高田市)にあり、荷物取扱高順では郷田川端(現江津市)・粕淵(現美郷町)・吉田浜(現安芸高田市)・三次五日市(現三次市)・川本今津(現川本町)などが多く取り扱っていました。

江津から三次の間を下りは2日・上りは5日要し、上りは風があるときは帆を張ってないときは沿岸の船頭道からロープで舟を引いたといいます。

かつて江の川中流域石見国側で生産された鉄製品は河口の郷田にのみ運ばれていたが、このころになると三次-吉田と江の川上流(可愛川)へ舟で運ばれ陸路あるいは太田川水運で広島にも運ばれていきました。舟荷は江戸時代とほぼ同じ内容のものに加えて、銅も運ばれています。

明治後期には浜原と江津を結ぶ定期船が登場し、大正期には江川飛行船が登場しました。これは後ろにプロペラを付けた船で、江津-粕淵の間を12往復していました。

ただ舟運も大正10年(1921年)発電を目的とするダム開発で、航路が分断されたことにより急速に衰退していきました。更に同じ頃には道路網の整備が進み始め、川に沿って三江線整備が進み昭和12年(1937年)江津-浜原間が完成したことにより、舟運は完全に途絶えました。

 

<飛行船>

 

4.三江線廃線後の風景

廃線後の駅舎の様子は色々でした。

1)活用されている駅舎

①川戸駅はサロンとして活用されていました。

 

<昔の切符売り場です>

<切符売り場の対面にサロンがありました>

<ドアを出ると、プラットホームがあります。勿論今は改札口はありません>

<三江線は単線で、主な駅にはすれ違い用の線路がありました。下の写真の駅舎の前が下り用のプラットホームで、右側の土手のようなものが上り用のプラットホームでした。この二つのプラットホームの間には、2本の線路がありましたが、今は上り用は撤去されていますね。>

 

②因原駅は運輸会社の営業所になっていました。

 

 

2)殆どの駅舎は閉鎖されており立ち入り禁止となっていました。

<鹿賀駅>

・鹿賀駅 待合室

・鹿賀駅 プラットホーム

 

<田津駅>

 

<石見川本駅> 

 

 <竹駅>

 

<石見簗瀬駅>

<粕淵駅>

<浜原駅>

<潮駅>

 

3)石見川越駅は駅舎が撤去されていました。

 

4)踏切は道路に改造され、鉄道内には立ち入りできないように柵がもうけられていました。

<渡地区>

現在水害対策として堤防が造られています。三江線の線路が堤防より低い位置を通っていたための対策と思いますが、ゲートが設けてありました。

  

5)その他

・線路作業車

線路の撤去か整備のためか、改造された自動車が線路に載っていました。作業者の方は近くに見えませんでした。

二日後も同じ状態で車がありました。

 

・現在の線路の状況

三江線の石見川越駅と鹿賀駅の間の線路の直ぐ傍に鳴滝と呼ぶ滝があります。この滝を見に行くには三江線の線路伝いに行きます。

久しぶりにこの滝を見に行きました。三江線の線路に入ってみると草に覆われて線路が殆ど見えない状況でした。

<ここから坂を上り、線路に向かいます>

<線路は雑草に覆われていました>

<左側が鳴滝です>

<三江線 廃止前の写真>

5年、10年後にはどうなっているのでしょうかね? 

<完>

 故郷の風景 目次 

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