32. 建武の新政
後醍醐天皇の肖像画は「絹本著色後醍醐天皇御像:重要文化財、時宗総本山清浄光寺(遊行寺)(神奈川県藤沢市)蔵」が有名である。
この絵は元徳2年(1330年)10月26日、宮中の常寧殿で瑜祇灌頂という儀式を授けられた時の場面を表したものである。
瑜祇灌頂というのは、「究極の灌頂」「密教の最高到達点」とも言われ、当時の真言宗にとって最も神聖な儀式だった。
これより上は即身成仏しかない。
この絵は文観上人によって、後の暦応2年/延元4年(1339年)に描かれた。
<文観>
既述したように文観上人は、鎌倉幕府調伏の祈祷をしたという3人の僧侶の一人で、幕府によって薩摩の硫黄島へ島流しになっている。
建武の新政と共に復帰し、東寺一長者や醍醐寺座主などを務め、画僧としても名をなし、狩野永納に「不凡」と評されている。
延文2年/正平12年(1357年)10月9日入滅した。
32.1.後醍醐天皇の還幸
元弘三年(1333年)5月19日、船上山にいる後醍醐帝のもとに、六波羅滅亡の報せが届いた。
しかし、まだ鎌倉が陥落したことの連絡はまだ届いていない。
関東の勢力が攻め上って来ることを恐れ、後醍醐帝は京都に帰るべきかどうか迷ったが、還幸を決意する。
5月23日、後醍醐帝は船上山を下って帰京の途についた。
後醍醐帝が理想としていたのは、「延喜・天暦の治」のように天皇親政を行うことであった。
即ち、摂政・関白、院政、幕府などを廃止して、天皇が直接政治を行うことである。
後醍醐帝は、出発の翌々日、幕府が擁立した光厳天皇とその年号(正慶)を否定し、当時関白であった鷹司冬教以下を解任する命令を下した。
後醍醐天皇の一行は伯耆から山越えに播磨に出て、5月30日摂津の兵庫の福厳寺に着き、ここで赤松則村則祐父子の出迎えを受けた。
赤松則村は、後醍醐天皇から「恩賞は望み通り取らせる」と言われ大いに喜んだという。
しかし、建武の新政の論功行賞では満足な恩賞をもらえず、激怒して領地に帰ってしまう。
そして、後年足利尊氏に従って南朝側と戦うことになる。
さらに、新田義貞からの早馬の使者が到着し「鎌倉幕府の滅亡と関東の平定」を報せた。
後醍醐天皇は西国は平定したが、東国の平定は容易なことではない、と心配していたので大層喜び、「新田義貞にも、恩賞は望み通り取らせる」と告げたという。
また、早馬の使者にも恩賞を与えたという。
後醍醐天皇の至福の状態が伺える。
6月2日に楠木正成が兵庫で出迎えした。
もちろん後醍醐天皇は、楠木正成にも「恩賞は望み通り取らせる」と宣言した。
後醍醐帝入京する
楠木正成は道中の警護をして、京都まで送る。
後醍醐天皇一行は6月5日に京に入り、東寺で1泊した。
翌日後醍醐天皇は、東寺から二条の内裏に還幸した。
ここで、足利高氏、直義兄弟と面会し、高氏を鎮守府将軍に任し、左兵衛の守とした。
また弟の直義は左馬頭に任命した。
このころ、足利高氏は六波羅探題に代わって、京都の支配をかためつつあったのである。
高氏は、すでに鎌倉幕府に反旗をひるがえした直後から、主として西国方面の守護・地頭らに密書を送って、討幕への参加をよびかけていた。
高氏は六波羅軍 を撃破すると、いち早く六波羅に陣を構えた。
そして、旧探題配下の職員やら多数の御家人を吸収して京都支配の指導権を握り、さらに地方から続々上落する武士の多くを配下に収めた。
その数は完全に他の官軍の軍勢を圧倒していた。
一方、護良親王は、この足利勢の戦力増大の状況を警戒心、敵対心を持って、奈良の北西の信貴山にたてこもり、尊氏に無言の牽制を加えようとしていた。
後醍醐天皇は信貴山に勅使を送って、護良親王にすみやかに帰郷すること、ふたたび出家の身にもどることをすすめたが、 親王はこれをきかず、尊氏に幕府再興の野望ありと訴えて、ついに尊氏討伐の兵を起こそうとした。
六月二十三日、天皇は親王を征夷大将軍に任じて、ようやく慰撫し入京させることができた。
32.1.1.阿野廉子
後醍醐天皇が隠岐に配流された時に、3人の女性が随行している。
そのうちの一人が阿野廉子である。
阿野廉子と後醍醐天皇の間に3人の皇子がいた。
恒良親王、成良親王、義良親王(後の後村上天皇)である。
阿野廉子の最大の望みは息子に皇位を継がせることであった。
京に帰れば、後醍醐天皇の隠岐配流に付き添った阿野廉子の地位は跳ね上がることは確実だった。
廉子の息子が皇位に一歩近づくことになる。
しかし廉子の、その望月を陰らす者が出てきた。
護良親王である。
護良親王は、後醍醐天皇が隠岐に配流されている間も、反幕府運動を継続しており、鎌倉幕府滅亡に大きな影響を与えていた。
まさに公家方のスタープレイヤーであった。
廉子にとって護良親王は、心の襞を突っつく、なんとも煩わしい存在だった。
護良親王は出家していたが、後醍醐天皇の挙兵の際に還俗して、今に至っている。
廉子は考えた、『いっそのこと、もう一度出家してくれないかしら? 世の中も鎮まったし、天台座主として、国家鎮護を祈祷するのも、皇子として重要な任務のはずだから』
『今度、それとなく御上に囁いてみよう』と廉子は考えた。
32.1.2.護良親王
後醍醐天皇の第三皇子である護良親王は鎌倉幕府倒幕のため、吉野城の戦いなどで自ら軍事面を担って、各地にいる朝廷側の武士に綸旨を出して鼓舞し、倒幕のリーダーだった。
だが、護良親王は、鎌倉幕府が滅亡し後醍醐天皇が入京しても、護良親王は、信貴山(奈良県生駒郡平群町、大阪府八尾市)で兵を集めて陣を引いており、一向に入京しようとしなかった。
この頃、足利高氏は鎌倉幕府という後ろ盾を失った武士達の求心力となっていた。
これを護良親王は、足利高氏に新たな幕府を立ち上げる野望があり、警戒すべき存在であると考えていた。
護良親王は足利尊氏が「征夷大将軍」にでもなれば、面倒なことになると思った。
そこで、親王は自ら武士のリーダーになろうと、考えていた。
後醍醐天皇は、早く入京しろと使いを出す。
「天下はすでに鎮まって、武力の余勢を収めて天皇が新たな政治を行おうとしている。
しかしお前は、なおも武器を取って軍勢を集めている。
何の必要があってのことか。
お前は、天下が乱れて、敵からの難を逃れるために、一旦はその姿を俗体に変えたことは理解できる。
しかし、世がすでに鎮まった以上は、急ぎ剃髪僧衣の姿に帰って元の座主を受け継ぐことを専一すべきである」
すると、
護良親王は、後醍醐天皇に足利高氏が武家政権を目指しており、そうなればふたたび戦乱の世がくる、それを防ぐために自分を「征夷大将軍」に、と訴えた。
後醍醐天皇は苦慮する。
それは、護良親王の忠義心には心を動かされたが、足利高氏がよもやそんな野望を持っているとは思わなかったからである。
またすべての権限を天皇が掌握すべきと考えていたから、軍隊を全面的に委任する「征夷大将軍」という役職を設けたくなかったからである。
しかし、元弘3年(1333年)6月後醍醐天皇はやむなく護良親王を征夷大将軍に任命することになる。
護良親王は信貴山を出て征夷大将軍として上洛した。
<続く>