31.6.朱雀天皇
朱雀天皇は第60代醍醐天皇の第十一皇子で、母は藤原基経の娘の中宮藤原穏子である。
延長元年(923年)7月24日生まれで、延長4年(926年)、皇太子となる。
兄保明親王とその子慶頼王の二代にわたる皇太子の早世があり、母后穏子は怨霊(菅原道真の)を恐れて、寛明を3歳になるまで幾重にも張られた几帳の中で育てたという。
「大鏡」の「昔物語」列伝に、次のように記されている。
八幡の臨時のまつり、朱雀院の御時よりぞかし。朱雀院むまれ給て三年は、おはします殿の格子もまいらず、よるひる火をともして、御帳のうちにておほしたてゝまいらせ給、北野にをぢまうさせ給て。
天暦のみかどは、いとさもまもりたてまつらせ給はず。
いみじきをりふしにむまれをはしましたりしぞかし。朱雀院むまれをはしまさずば、藤氏の御さかへいとかくしも侍らざらまし。
延長8年(930年)父・醍醐天皇の危篤・譲位を受け9月22日に践祚、醍醐はその7日後に崩御する。
11月22日に8歳(満7歳3か月)で即位。
政治は、伯父である藤原忠平が摂政、関白として取り仕切っていた。
治世中の承平5年(935年)2月、平将門が関東で、翌年には藤原純友が瀬戸内海でそれぞれ反乱を起こした(承平天慶の乱)。
朝廷は懐柔策を試みたがうまくいかず、天慶3年(940年)、藤原忠文を征東大将軍に任命して軍隊を派遣し、藤原秀郷の手により将門は討たれた。
翌年には橘遠保により純友が討たれ、乱はようやく収束した。
治世中はこのほかにも富士山の噴火や地震・洪水などの災害・変異が多かった。また病弱のためか入内した女御はわずか2人であり、在位中には全く皇子女に恵まれなかった。
このこともあってか、天慶7年(944年)4月に同母弟成明親王(後の村上天皇)を東宮(皇太弟)とし、2年後の天慶9年(946年)4月20日に24歳で譲位し、太上天皇となる。
その後、後悔して復位の祈祷をしたともいう。天暦6年(952年)に出家して、仁和寺に入り、同年、30歳で崩御する。
退位の経緯
24歳の朱雀天皇が譲位した経緯は、「大鏡」によれば、朱雀天皇の孝心からだとしている。
朱雀天皇が母后穏子のもとへ行幸した際、穏子は朱雀天皇を見てめでたく嬉しいことだ、と言い、そして東宮(村上天皇)のこのような様子も見たいものだと言った。
朱雀天皇は、母は弟の即位を待っているのだと解釈し、譲位した。
穏子はそれを聞いて「そんなことは思ってもいなかったのに、先のことと思っていただけなのに」と嘆いたという。
退位の経緯を「大鏡」に次のように記されている。
さてまた、朱雀院も優におはしますとこそはいはれさせ給ひしかども、将門が乱など出できて、怖れ過ごさせおはしまししはどに、やがてかはらせたまひにしぞかし。
そのほどのことこそ、いとあやしう侍りけれ。母后の御もとに行幸せさせたまへりしを、「かかる御有様の思ふやうにめでたくうれしきこと」など秦せさせたまひて、「いまは、東宮ぞかくて見きこえまほしき」と申させたまひけるを、心もとなく急ぎ思し召しけることにこそありけれとて、ほどもなく譲りきこえさせたまひけるに、后の宮は、「さも思ひても申さざりしことを。
ただゆく末のことをこそ思ひしか」とて、いみじう嘆かせたまひげり。
余談「源氏物語」
源氏物語(寛弘5年(1008年)初出)は紫式部が書いた長編小説である。
「源氏物語」には朱雀院・冷泉院という名の天皇が登場する。
朱雀天皇(923年〜952年)、冷泉天皇(950年〜1011年)は源氏物語が書かれた、ほぼ同時期の天皇である。
しかし、小説に出てくる朱雀院・冷泉院が歴史上の朱雀天皇・冷泉天皇のことかといえば、そうではない。
平安時代の皇室は、内裏の外に後院といって、主に退位した天皇の屋敷として使っていた。
そのため後院に住んでいた上皇も屋敷の名を取って「○○院」と通称で呼ばれていた。
平安時代の主な御院は「冷泉院」「朱雀院」「堀河院」「鳥羽院」などがあり、累代の御院として歴代の天皇に付属の荘園とともに伝領された。
第61代朱雀天皇、第63代冷泉天皇は、通称が追号になってものである。
平安時代の人にとって、「朱雀院」あるいは「冷泉院」は上皇の代名詞のようなもので、特定の天皇を指す名称ではなかったのである。
<朱雀天皇醍後陵:京都市伏見区醍醐御陵東裏町>
朱雀天皇の御陵は、醍後天皇陵の約500m南(醍醐寺の北)に位置する。
31.7.村上天皇
延長4年(926年)6月2日生まれ、父は醍醐天皇、母は藤原穏子、朱雀天皇の同母弟である。
第十四皇子ながら、母が中宮であるため重んじられ、誕生の同年11月親王宣下。天慶3年(940年)2月、元服。
三品に叙され、上野太守、大宰帥を経る。天慶7年(944年)4月22日に皇太子(皇太弟)となり、2年後の天慶9年4月20日に朱雀天皇の譲位により践祚、4月28日に即位。
先代に続いて天皇の外叔父藤原忠平が関白を務めたが、天暦3年(949年)に忠平が死去するとそれ以後は摂関を置かず、延喜時代とともに親政の典範とされた。
しかし実際には政治の実権は依然摂関家の藤原実頼・師輔兄弟にあり、初期には母の穏子や兄の朱雀上皇も後見を理由に政治に関与しようとしたため、彼の親政は名目にすぎなかった。
平将門と藤原純友の起こした承平天慶の乱(935–940年)の後、朝廷の財政が逼迫していたので倹約に努めた。
文治面では、天暦5年(951年)に「後撰和歌集」の編纂を下命した。
「後撰和歌集」は「古今和歌集」に次ぐ2番目の勅撰和歌集であり、源順・大中臣能宣・清原元輔・坂上望城・紀時文らが撰者となった。
また天徳4年(960年)3月に内裏歌合を催行し、歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価されている。
朝儀にも精通しみずから儀式書「清涼記」を撰したが現在一部分のみを伝える。
琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といえる。
天皇の治績は「天暦の治」として天皇親政により理想の政治が行われた時代として聖代視された。
しかしその反面、この時代に外戚政治の土台が一段と固められ、吏治にも公正さが失われた。
また天徳4年の内裏焼亡をはじめとする数々の災難もあった。
康保4年(967年)5月25日、在位のまま42歳で崩御した。
鶯宿梅
村上天皇は「大鏡」にある鶯宿梅(おうしゅくばい)の逸話で有名である。
いとをかしうあはれに侍りし事は、この天暦の御時に、清涼殿の御前の梅の木の枯れたりしかば、もとめさせ給ひしに、 なにがしのぬしの蔵人にていますがりし時、うけたまはりて「若きものどもはえ見知らじ。
きむぢもとめよ」 との給ひしかば、ひと京まかりありきしかども、待らざらしに、西の京のそこそなる家に、色濃く咲きたる木の、やうだい美しきが待しを、掘りとりしかば、家あるじの、「木にこれ結びつけてもて参れ」といはせたうびしかば、あるやうこそはとて、もて参りて候ひしを、「何ぞ」とて御覧じければ、女の手にて書きて侍りける。
勅なればいともかしこしうぐひすの 宿はととはばいかがこたへむ
とありけるに、あやしく思し召されて、「何者の家ぞ」と尋ねさせ給ひければ、貫之のぬしのみむすめの住む所なりけり。
「遺恨のわざをもしたりけるかな」とて、
あまえおはしましける。繁樹、今生のぞくかうは、これや侍りけむ。
さるは思ふやうなる木もてまゐりたりとて、きぬかづけられたりしも辛くなりにき、とて、こまやかにわらふ。
<要約>
清涼殿の庭の梅の木が枯れてしまったので、代わりを探して京を歩き回った。
西の京のある家に色濃く咲いた立派な梅を見つけ、掘りとった。
その家の主人が「木にこれを結びつけて参上しなさい」と言ったので、何か訳があると思い、持参した。
帝が「何か」と言ってご覧になったところ女の筆跡で書いてあった。
【勅命ですから畏れ多いことなので、この木は差しあげます。しかし鶯が、自分の宿は、どこかと問うたなら、どう答えましょうか】
帝は不思議に思い「何者の家か」と調べさせたところ、紀貫之の娘の住む所であった。
帝は「残念なことをしたものよ」ときまり悪がっていたという。
繁樹(*1大鏡を語る老翁)の一生涯の恥辱はこれだった。
ご褒美の衣を頂戴したが、かえってつらかったと言って(繁樹は)にっこり笑った。
(*1)大鏡は作者不詳で、 文徳天皇から後一条天皇の代まで(850年―1025年)のことを大宅世継(おおやけのよつぎ)と夏山繁樹(なつやまのしげき)という2人の150歳をこえた老翁が語るという体裁をとっている。
<村上天皇村上陵:京都市右京区鳴滝泉谷町>
御陵は村上山の山中標高130mの所にある。
<続く>