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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−161(南北朝合一)

52.南北朝合一

時代は第3代室町将軍足利義満のときまで遡る。

<第3代室町将軍足利義満>

 

明徳元年/元中7年(1390年)足利義満は、足利氏の脅威となり得る有力守護の討伐を始めた。

美濃の守護土岐康行を討ち、翌年には最大勢力だった丹波国・和泉国・山城国・但馬国守護山名氏清を討ち、権力基盤を確固たるものにした。

そして、義満は朝廷政策に乗り出す。

南朝と領地を接する和泉・紀伊の守護大内義弘(大内家第10代当主)の仲介で南朝との本格的交渉を開始した。

義満の南北両朝に対する政策も、その根本においては強力守護対策と変わるものではなかった。

南朝は、数十年来の宮方・武家方の抗争の間に鍛え上げられ、皇統という権威をいまだ失わずしてなかば 強力な地方武士化していた。

一方義満は力の弱い北朝方を戴くことによって王朝のもつ権威をしだいに自分のものとし、朝廷に属していた京都の支配権を接収し、経済的にも皇統に替る新しい権威の象徴としての将軍の地位を確立ししつあった。

義満にとって南北朝の対立など無意味な存在に過ぎないものであった。

まして泥沼化してきた南北両朝の抗争はすでに王朝の権威を失っており、守護・地頭にとっては王朝の権威は保身の道具に過ぎなかった。

このような情況のもとに南北両皇統は、自身の置かれている環境に気づいたのである。

お互いに争っていた国家的王朝の権威はすでに自分たちの手元にはなかったことを。

恐らくこの頃が、天皇の権力が最も減退した時期であったと思われる。


52.1.明徳の和約

和平交渉は和泉・紀伊の守護を手に入れて、 直接南朝方と接触をもつようになった大内義弘によって始められたという。

やがて北朝では義満の信頼の厚い吉田兼煕、南朝から吉田宗房・阿野実為が出て折衝を重ねた。

明徳3年/元中9年11月、義満は吉田兼煕を使者として講和条件の承諾書を南朝に送った。

それによると、両朝の和平は「御合体」と表現されており、合体条件はつぎの三ヵ条であった。

しかし、義満には最初からこれらの条件を実行する意志はなかった。

一、後亀山天皇は譲国の儀式をもって三種の神器を後小松天皇に渡す。

一、今後、皇位は南朝・北朝すなわち大覚寺・持明院の両統交互とする。

一、諸国の国衙領は大覚寺統、長護堂領は持明院統の支配とする。

この、「後亀山天皇は譲国の儀式をもって三種の神器を後小松天皇に渡す」ということは、南朝が保持していた三種の神器が真正のものであると、幕府と北朝が認めたことを意味する。

南北朝の争いは正統性を巡る争いであったが、これを以て南朝が正統であったことが確定したのである。

南北朝正閏論(せいじゅんろん)

南北朝正閏論とは、日本の南北朝時代において南朝と北朝のどちらを正統とするかの論争である。

この論争は、各時代を通じて行われてきた。

明治時代には、明治天皇に裁可を仰ぎ、政府はこれで得た「明治天皇の勅裁」をもとに南朝を正統に決定し、皇統譜令(旧皇統譜令)第41条を定めて北朝天皇を『皇統譜』から除外した。

大東亜戦争の敗戦直後には、熊沢寛道に代表される自称天皇が現れ、自身が南朝の子孫であり正統な皇位継承者であると主張した、などのエピソードもある。

これについては、関連する話を後で述べる。

 

閏十月、後亀山天皇は行幸の儀礼を用いたとはいえ、延臣17名、 武士26名という余りにもわびしい姿で、大覚寺統ゆかりの洛西嵯峨の大覚寺に入った。

帰京三日後、譲位の先例に反して神器だけ後小松天皇の皇居、土御門東洞院の内裏に移され、ここに57年に及ぶ南北両朝の分裂は国家的王朝の権威を失った者同士のもの悲しい幕切れに終ったのであった。

 

義満の野望

応永11年(1404年)末頃より、義満は自身に「太上天皇」の尊号が贈られないか、朝廷に対し働きかけていたといわれている。

応永13年(1406年)、後小松天皇の生母三条厳子が没すると、「天皇在位中に二度の諒闇(りょうあん)は不吉」であるとして、2番目の妻である日野康子を後小松天皇の准母にしてしまった。

これにより義満は天皇の義父と言える存在となるのである。

繧繝縁(うんげんべり)の畳

北山第(鹿苑寺)に後小松天皇を招いて20日間に及ぶ宴を催したときのことである。

この時には天皇と上皇だけが座ることが許される繧繝縁の畳が義満の座にも敷かれ、義満と天皇の対面は、上皇と天皇の対面と同じ作法を以て行われたという。

応永15年(1408年)4月25日には、出家予定であった子の次男の義嗣を親王の例で元服させ、参議にまで昇進させた。

義嗣は後小松天皇の猶子となり、親王宣下を行い、皇族になることが予定されていたという。

もしこれが実現していたら、義満は天皇の実父として院号宣下を受け、正真正銘の上皇に上り詰める可能性があった。

しかし、その野望は実現しなかった。

2日後の4月27日、義満は病に倒れ、様々な治療が行われたが、5月6日の申刻過ぎから酉刻近くに遂に死去した。享年51(満49歳没)。

朝廷は亡き義満に「贈太上天皇」の尊号を宣下すると決定するも、幕府はこれを辞退した。

もしこれが実行されていたら、死後とはいえ民間人が初めて正式に上皇の座に就くことになったが、それは回避された。

この決定は幕府の重鎮である斯波義将が、諸大名の意見を取りまとめたものだった。

これは、義満の後継者は義嗣ではなく、義満の長男である第四代将軍足利義持とすること、そして、義満の後継者は外から幕府と朝廷を支配するのではなく、武家社会を統率する幕府の長であるべきという決定だった。

義持は父義満と反目していたし、幕府の上層部には義満の皇位簒奪計画に不信感を抱いていた者が多くいた。

一方、践祚間近と見られていた義嗣だったが、兄の義持が将軍となったことで、兄弟の対立が深まった。

義嗣は上杉禅秀の乱に関係していたと見做され、京都相国寺に幽閉され、応永25年(1418年)に殺された。25歳だった。

上杉禅秀の乱
室町時代の応永23年(1416年)に関東地方で起こった戦乱。

前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱である。禅秀とは上杉氏憲の法名。

 

混乱の時代

義満は国家的意識と責任の自覚なくして、国家的王朝の権威を横奪した。 

国家意識のない権力は国家を混乱に陥れる。

国家意識の欠如した室町幕府は、その権威を自分たちの利益の為に使うことを優先した。

この結果、虚言、背信、謀反、寝返り、内通などが蔓延し、策謀、機略に長けた者が権勢を得ていくのである。

室町時代は、鎌倉時代以前には見られない出自不明の農民・商人層の社会進出を可能とし、日本史上初めて顔が見える民衆を登場させた時代である。

つまり、新しい時代の到来であった。

経済面においては農業・工業ともに技術が向上し、生産も増大、内外の流通が盛んになった。

また、文化面の充実も著しい時期でもあった。

この様な急激な発展・進歩の時期に国家観なき権力者が政治を行ったのである。

当然のように国家混乱の時代が始まるのである。

 

<統一後の皇統>

 

52.2.後南朝

後南朝(ごなんちょう)とは、明徳3年(1392年)の南北朝合一後、南朝の再建を図った南朝の皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室の総称である。

この名称は江戸時代末期に儒学者斎藤拙堂によって付けられたもので、それまで名称は特に決まっていなかった。

また後南朝という呼び方も戦後に広まったもので戦前までは定着してはいなかった。

応永17年(1410年)11月27日後亀山法皇(99代天皇)は突如嵯峨を出奔して吉野に潜幸する。

これは、明徳3年(1392年)の南北朝合一時の約束(明徳の和約)では、天皇は北朝系(持明院統)と南朝系(大覚寺統)から交代で出す(両統迭立)ことになっていた。

しかし、当時の幕府が講和条件の一である両統迭立を破って、後小松天皇皇子の實仁親王(後の称光天皇)の即位を目論んでいたことを知り、それに対する後亀山法皇の抗議行動であった、のではないかと考えられている。

後亀山法皇の懸念は現実のものとなった。

応永19年(1412年)に北朝系の後小松上皇が皇子の實仁親王に譲位したのである。

この後北朝系によって天皇位が独占されるようになった。

これに反発して南朝勢力はしばしば武装蜂起することになる。

 

応永22年(1415年)伊勢国司の北畠満雅は後亀山法皇とその皇子小倉宮恒敦を奉じて挙兵したが、室町幕府の討伐を受け和解する。

応永23年(1416年)9月に広橋兼宣らの仲介で法皇は大覚寺に還御した。

後亀山法皇は応永31年(1424年)4月12日に崩御する。

後亀山が果たせなかった皇位回復の遺志は子孫の小倉宮に受け継がれ、やがて後南朝による幕府への抵抗運動を惹き起こす。

正長元年(1428年)、嗣子のなかった称光天皇(101代天皇)が崩御したために北朝の嫡流は断絶するが、後小松上皇(100代天皇)は、北朝の傍流(ただし持明院統としては本来の嫡流)である伏見宮家から彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとする。

しかし、南朝側は、北朝は皇統断絶して皇位継承権を失ったと主張し激しく反発する。

伊勢国司の北畠満雅は再び小倉宮を奉じて伊勢で挙兵するが、幕府軍と戦って敗死した。

この事件を皮切りとして、以後、応仁の乱に至るまで、南朝の子孫は反幕勢力や南朝の遺臣らに奉じられて断続的に活動を続けた。

西陣南帝

文明3年(1471年)、応仁の乱において、大和国高取の壺阪寺にいた小倉宮の末裔と称する人物(『大乗院寺社雑事記』には「小倉宮御末」「小倉宮御息」との記述あり)が山名宗全ら西軍大名により河内国古市を経由して洛中の西陣(北野の松梅院)に迎えられている(これを西陣南帝と呼ぶ)。

南帝は後に山名宗全の妹が住んでいた比丘尼寺安山院に移り住み、四条氏がこれに奉仕した。

だが、この「南帝」擁立劇は呆気なく幕を閉じる。

文明5年(1473年)3月に西軍大将の宗全が死に、その2か月後に東軍大将の細川勝元も死ぬと東西両軍は和議に向かう。

山名宗全が死ぬと、「南帝」の消息は『大乗院寺社雑事記』でも絶えて伝えられなくなる。

その後、南朝皇胤は各地を放浪したようであり、文明11年(1479年)7月19日に越後から越中を経て越前の北ノ庄に到着したことを最後に史料から姿を消した。

同時に後南朝に関する記録もなくなり、歴史からは姿を消した。

ただし、『後深心院関白記』には長慶天皇の末裔である八寿王が信貴山に昭懐南朝を開いたという「落人伝説」が記されている。

また、美作国には南朝の皇胤によって開かれた美作後南朝が存在し、植月御所と呼ばれていたともされる。

その後も民間で後南朝の伝説や伝承は残り、瀧川政次郎は貴種流離譚の一つとして山の民に利用された可能性を指摘している。

また、清浄光寺には南帝王の位牌や、南朝の遺臣と見られる人物達の名前が記された過去帳が残されている。

 

<熊沢寛道>

昭和の敗戦後の混乱期に後南朝の子孫を自称する熊沢寛道(熊沢天皇)が現れた。

熊沢をGHQが調査したり、多数の新聞各社が取材する等、一時は世の注目を浴びた。

昭和21年(1946年)5月政治団体「南朝奉戴国民同盟」を設立し、全国各地を遊説して南朝の正系が自分であることを説き、昭和天皇の全国巡幸の後を追い、面会と退位を要求したが拒否される。

体制派の歴史学者は熊野宮信雅王の実在を否定し、反熊沢キャンペーンを展開、さらにGHQの昭和天皇利用方針が固まると、世間は熊沢に対して次第に冷ややかになっていった。

昭和26年(1951年)1月、東京地方裁判所に「天皇裕仁(昭和天皇)は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い国民を欺いているのであるから天皇に不適格である」と訴えたが、「天皇は裁判権に服さない」という理由で棄却された(「皇位不適格訴訟」)。

昭和41年(1966年)6月11日、東京の板橋病院で膵癌のため死去する。

<熊沢寛道>

 

<続く>

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