53.大乱の序章
応仁の乱は、室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年に及んで継続した内乱である。
その内乱は室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏それぞれの家督争いに端を発した。
この家督争いに、幕政の中心であった細川勝元と山名宗全(持豊)が絡み、幕府勢力が東西に分かれて争う戦乱に発展する。
さらに足利将軍家の後継者問題も絡んで、益々複雑化し各々の領国にも争いが拡大する大乱となった。
この大乱は明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。
53.1.畠山氏の内紛
畠山氏は、桓武平氏系と清和源氏系の2家系ある。
桓武平氏系は秩父氏一族で平安時代末から鎌倉時代初期の豪族だったが、北条氏に滅ぼされた(畠山重忠の乱)。
その後、畠山氏の旧領と名跡を、足利2代当主足利義兼の庶子義純が継承した。
清和源氏系は足利氏一族で室町時代に守護大名、幕府管領家として栄えた。
しかし同家の家督争いが応仁の乱の一因となり、その後も内紛が続いて没する。
秩父氏
桓武平氏の一門、坂東平氏の流れで、坂東八平氏のひとつに数えられる
畠山重忠の乱
鎌倉時代初期の元久2年6月22日(1205年)、武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)において、武蔵国の有力御家人・畠山重忠が武蔵掌握を図る北条時政の策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされた事件。
鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人粛清の一つ。
その畠山義純の8代後の子孫である畠山持国から、この話は始まる。
53.1.1.畠山持国
持国は応永5年(1398年)、畠山満家(畠山金吾家)嫡男として生まれた。
畠山金吾家
畠山家の庶流。
畠山国清の代に重用され、紀伊国および和泉国の守護となり、後に河内国の守護にも任命された。これが河内畠山家の始まりである。
永享5年(1433年)の父の死により家督相続、幕府の重臣として会議に参加する。
永享4年(1432年)の大和永享の乱で大和へ出兵、永享6年(1434年)に義教が延暦寺に軍勢を派遣させて包囲すると諫言して両者を和睦させ、翌永享7年(1435年)に再度大和に出陣、大和宇智郡守護に任命された。
永享12年(1440年)に関東地方で室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間で戦い(結城合戦)が起こった。
足利義教は、畠山持国に結城合戦への出陣を命じたが、畠山持国はこれを拒否した。
当時、足利義教は「万人恐怖」と評される恐怖政治を敷いており、特に三管領家に対する干渉を強めるようになっていた。
そのため、足利義教の報復を恐れた、畠山一族は持国を家督から外し、持国の弟の持永を家督に据えたのである。
家督を外された持国は京都を出て領国である河内国に下っていった。
しかし、足利義教の行動に恐怖を覚えた赤松満祐が、同年6月に義教を殺害する事件が勃発する(嘉吉の変)。
嘉吉の変
嘉吉元年(1441年)足利義教は、家臣である赤松教康の屋敷に招かれた。
足利義教は、猿楽を鑑賞していた時に、乱入してきた赤松家の武士に首をはねられ殺害された。享年48(満47歳)であった。
同行していた数人の大名も殺害された。
これは、数年前から赤松教康の父赤松満祐が将軍に殺されるという噂が流れていたため、先を打って赤松家が足利義教の暗殺計画を企てていたのである。
赤松満祐・教康父子は討手を差し向けられることもなく播磨に帰国するが、9月に山名氏らの討伐軍に敗れ、切腹して果てた。
嘉吉の変により、足利義教に京都を追い出された人たちが復権することになる。
畠山持国も復権する。
これを、知った畠山持永の一派は畠山持国に家督の座を奪い返されることを恐れた。
そこで、畠山持永の一派は刺客を放って持国の暗殺を試みる。
しかし、その刺客は持国に捕らえられ、訊問をうける。
すると、刺客は持永一派の差金だと白状した。
持国は激怒し、報復のため上洛を始める。
持永たちは、持国を恐れ、京を脱出し越中(富山県)に向かった。
しかし、持永たちは越中で捕まり殺されたという。
畠山持国管領となる
嘉吉2年(1442年)11月7日、足利義教の子・足利義勝が第7代の室町将軍となる。
そして畠山持国が管領となった。
この頃は、三管領のうちの斯波氏は当主が若いうちにどんどん死亡しており、管領になれる人物がいなかった。
このため、細川氏と畠山氏の勢力争いとなり、管領は両氏が交互に務めている状況であった。
53.1.2.畠山氏の内紛の始まり
持国には義夏という男の子が一人いたが、その母の身分が低いということで嫡子にはせず、弟の持富を後継者としていた。
しかし、文安5年(1448年)持国は、その約束を破り、持富の後継を破棄し、庶子の義夏(後の畠山義就)を後継者として、家督を譲ったのである。
裏切られた持富は、異議を挟むことはなく、その2年後に死去する。
しかし、一部の家臣は後継者の変更に納得しなかった。
彼らは、持富の子の弥三郎(政久)を後継者に擁立して、反対運動を起こすのであった。
こうして、畠山氏は弥三郎派と義就派に分裂し対立することになった。
そして、ついに義就派の遊佐氏(遊佐国助など)が弥三郎派の神保氏(神保国宗など)の屋敷を襲撃する事件が享徳3年(1454年)に勃発し、血で血を洗う内紛が始まることになる。
襲撃を受けた弥三郎派は逃亡し、細川勝元を頼った。
細川勝元は、最近勢いをつけている山名氏と組んで畠山氏を弱体化しようと目論んでいたところであった。
ちょうど、良い機会と捉えた細川勝元は、密かに部下に畠山弥三郎を匿わせた。
こうして、細川勝元と山名宗全の支援を受けた弥三郎派は勢力を盛り返し、8月21日に畠山屋敷を焼き討ちした。
畠山義就は失踪し、持国は28日に隠居することとなった。
だが、畠山義就派は八代将軍の足利義政を見方につけて対抗する。
足利義政
嘉吉2年(1442年)11月7日、足利義教の後はその子である9歳の義勝が第6代室町将軍となった。
しかし、この義勝は8ヶ月後の翌年7月21日に死去する。
この義勝の後継者となったのが、義勝の同母弟であった三寅である。
文安3年(1446年)12月13日、三春は後花園天皇より、義成の名を与えられる。
文安6年(1449年)4月16日、義成は元服し、同月29日に将軍宣下を受けて、正式に第8代将軍として就任した。
義政が14歳のときである。
その後、義成は享徳2年(1453年)6月13日、改名し、義政と名乗る。
<足利義政>
<細川勝元>
<山名宗全(持豊)>
義政の介入で12月13日に義就が上洛し、今度は弥三郎は大和国へ落ちのびることになった。
翌享徳4年(1455年)に畠山持国が死去(享年58)し、家督は義就が継いだ。
義就は弥三郎派を殲滅しようとして、大和国へ攻め込む。
この戦は当初義政も認めていたが、段々義就が自分勝手な行動を取るため義政との間が冷え込んでいく。
その一方、弥三郎は細川勝元の働きかけで弥三郎が赦免されるのである。
その弥三郎は死去しその後を畠山政長が継ぐ。
冷え込んでいた義政と義就の関係は、義政が畠山の家督を義就から取り上げ、義就の養子である政国へ与えるのである。
義政も家督を敵対する畠山政長に与えなかったところに、義就への配慮が見える。
<畠山義就>
しかし、義就はこれに激高し、屋敷に火をつけて河内国へ下ったのである。
それを知った義政も怒る。
政国に与えた畠山の家督を取り消し、敵対する畠山政長を家督と認めた。
そして、義就の討伐命令をだしたのである。
しかし、義就は強かった。
嶽山城で2年間籠城する。
嶽山城
元弘2年(1332年)に楠木正成が築城した南河内の日本の城。
大阪府富田林市彼方の嶽山山頂にあった。
中腹に龍泉寺があることから龍泉寺城とも呼ばれる。楠木七城の一つ。
結局は、義就は吉野に落ちのびるが、義就の戦の強さは世間に知れ渡ったのである。
畠山持国、弥三郎の死後も、政長派と義就派の抗争は止まず、足利将軍家や斯波氏の家督相続問題(武衛騒動)と関係して応仁の乱が発生するのである。
<続く>