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旅日記

故郷の風景(3)江の川の昔 桜江町川越 

江の川の昔の風景

江の川の川岸に出る道が雑木や雑草が生い茂りなくなっていました。昔は竹林を抜ける道や、川岸に降りる坂道があり、それを通って川岸に出られたのですが、この道が全くなくなっています。かつては江の川は生活に密着していましたが、今は江の川との関係が一切なくても生活が出来るようになっており、これらの道が消滅したのでしょう。現代は昔の思い出が亡くなるのは大変速いと感じます。

<渡船場に降りる道は途中で雑木や雑草で行けなくなっています>

 <写真の真ん中の木が立っているあたりが、かつて渡船場のあった所です>

<対岸から見たかつての渡船場 向こう側の中央辺りが船着き場>

 

1.渡し舟

昭和56年(1981年)に江の川渡しの最後の坂本渡船場の閉鎖式がありました。

川越のその他の地区も渡し舟で江の川を渡っていましたが、橋ができたり、自動車が普及し道路が整備されたことなどから、徐々に他の地区の渡し舟は消えていきました。江の川でも最後に残ったのが坂本地区の渡船場でした。

この時の船頭さんは月森さんと言う方でお年は82歳でした。月森さんは昭和35年(多分)ごろからズーット船頭さんをされていたと記憶しています。渡船料として船頭さんに毎月集落の各戸当たり、200円程度の謝礼を渡していました。集落に関係のない人が渡船するときは確か20円の料金を手渡していたと思います。舟は集落の持ち物です。

舟は常駐場所が決まっており、船頭さんもそこにいます。舟に乗りたいときはその控え小屋に船頭さんを尋ね、渡してもらうように依頼します。対岸側から舟に乗りたいときは、大声で川向うから船頭さんを呼んで舟で迎えにきてもらいます。

<学校にはこの船で江の川を渡って通いました>

江の川が洪水で水嵩が増した時は、危険なので、舟は利用できません。この時は下流の橋まで行って川を渡っていました。

 

・渦巻地区の渡船 

実を言うと、坂本地区には2か所の渡し船場がありました。一つは渡り地区に行く坂本渡船場でここに、専任の船頭として月森さんがおられました。もう一つは鹿賀地区に行く渡船場でここは坂本渡船場から約1Km上流側にあります。

ここでは船頭は専任ではなく、家族が渡りたい人を舟で運ぶようにしていました。私も小学生のころから舟を漕いでいました。

しかし住人の数が減少するとともに、舟を利用する人は段々いなくなり、ここの渡船場は坂本渡船場よりも先に消滅しました。

<左下の女性は洗濯しています>

 

・坂本渡船場の閉鎖式

昭和56年(1981年)の坂本渡船場の閉鎖式については、桜江町広報誌や山陰中央新報がこの時の様子を記事にしています。

坂本地区の人たち30人が82歳の船頭さんの艪(ろ)さばきで江の川を往復したあと、長さ10メートルの木製の渡し舟を全員で川から引き揚げてお別れをしたそうです。

 

2.江の川流域の昔

・水害防備林

国道261号線が整備されるまでは、江川の殆どの河岸は竹林で囲まれていました。現在も残っていますがこれは、治水目的で意図的に植えられた水害防備林というものです。

これらの竹林は、平安時代の弘仁10年(819)に現在の江津市桜江町甘南備寺を訪れた弘法大師の教えで植えていったといいます。別説では、同時代に朝廷から江の川の統治を命じられた伊勢山田の笹畑某という人物が山田二郎国久とともに植えていったともいいます。江戸時代においても浜田藩が増殖を奨励していました。

平安時代に弘法大師がこの地を訪れ水害を防ぐために竹林を植えさせたとは、驚きです。しかし別説もあることから真偽はわかりません。

<川の右側に竹林があります>

<川の左が竹林です>

<竹林を平地側から写した写真です>

 

・渡村の移動の話

今から約1000年前までの坂本・渡地区の地形は現在と全く違っていたそうです。現在の渡地区の道路、街並み、田畑になっている土地はすべて江の川の川床になっていて、水が流れており渡り千軒と言われた多数の人家と耕地が甘南備寺山の麓にあったそうです。ところが万寿3年(1026年)に洪水、津波の襲来に会って渡りの集落はすっかり洗い流されて、江の川は現在の様に甘南備寺山の裾に切り変わり渡り集落の人々は川を隔てて山を望現在の土地に移動したと伝えられています。こうしたことから、甘南備寺山は渡りの山と、渡里山とも呼ばれていたそうです。

鉄道はもちろん道路もなかった昔、中国奥地と山陰の海岸を結ぶ唯一の交通路、運搬路は江の川で毎日沢山の荷物や人を運ぶ舟が上り下りし、多くの材木、竹材が筏に組まれて川を下っていたとのことです。水上交通は昔から重要な交通手段でした。中国でも水上交通のための運河が古来から発達しています。 

・中国の運河の話

ちょっと話は飛びますが、中国は古来より運河が発達しており、運河が網の目の様に張り巡らされています。中でも有名なのは、2014年に世界文化遺産に認定された京杭大運河(けいこうだいうんが)で、中国の北京から杭州までを結ぶ、全長1794Km(日本本州の長さは約1500Km)、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河です(途中で、黄河と揚子江を横断しています)。

<京杭大運河>

 

 

・平安時代の人口について

この平安時代の頃の日本の人口は500~600万人と言われています。また平安京には約20万人、出雲地方で8.2万人、石見地方で4.7万人が住んでいたと推定されています。

この時代に甘南備寺山麓に千軒の家が建っていたとは、驚きです。勿論尾ひれが付き話が大きくなったことはあるかもしれません。

因みに、昭和22年(1947年)の川越人口は2,558人で490戸、平成27年(2015年)は602人で266戸、です。鄙びた現在の状況から見ると、1000年前にこんなにも賑わっていたとは驚きに堪えません。

 

・平安時代の生活状況について

弘法大師が訪れた、今から約1200年前(平安時代)はどのようなの暮らしをしていたのか、ちょっと興味が湧いてきました。

一般的に平安時代の貴族達は「寝殿作り」を取り入れた屋敷に住んでいて、庭園には桜が咲き、池があり、広い中庭があったと言われていますが、地方の一般庶民はどんな住まいだったのか?歴史の授業で出てきたかもしれませんが殆ど記憶にありません。

調べてみました。

  以下 ネットで調べた平安時代の庶民の住居と食事の内容です。

その頃の地方の一般庶民が住んでいたのは「竪穴式住居」だったとそうです。地面を掘り、そこに床と壁、屋根を設置して建築します。

竪穴式住居というと縄文時代のイメージがありますが、平安時代においても地方ではこの形式の住居が使われていたようです。

  

 

平安時代の農民あるいは商人たちは「ヒエ」や「アワ」を主食としていたそうです。それも非常に少ない量を食べるのが一般的だったようです。当時の庶民たちは満足する量を食べられるだけの経済的な余裕がなかったため、大人はもちろん、子供もお腹一杯の食事を摂ることができませんでした。

そのため、栄養失調により7歳くらいまでに亡くなってしまう子供が多く、大人でもせいぜい30歳程度、あるいはもっと短かったとも言われています。 医療不足や衛生的でない環境もありますが、食事を満足に摂れず、衰弱して病気になって亡くなった人が多かったようです。とはいえ、庶民たちはとてもよく働いたため、「1日3回」の食事は欠かせませんでした。

ヒエやアワに加え、「道端の雑草」を茹でたものや、「塩」などを口にしていたそうです。

現在からみるとかなり厳しい生活だったように思いますが、これが当たり前、又は仕方ないこととして受け入れて過ごしていたのでしょう。 

今の私たちは、京の貴族の生活を、本や絵で知ることができますが、当時の人たちは、貴族の優雅な生活は想像もつかなかったでしょうね。

 

<粟>               <稗>                  

   

<黍>

 

<平安時代 庶民の食事>   

 

<平安時代 貴族の食事> 

<漫画で見る平安時代の庶民の生活>

 

 <完>

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