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旅日記

故郷の風景(2)江の川と魚漁 桜江町川越

 

江の川の風景(1)

 中国道は以前上り下りとも宝塚トンネルを先頭に良く渋滞していましたが、平成30年(2018年)3月18日に新名神が神戸JCTまで全線開通した後は、渋滞が解消され、スムーズに走れるようになりました(ゴールデンウィーク時の中国道の宝塚トンネルでの渋滞は酷いもので、通過するのに最大3時間との予想が出ることもありました)。

実家にはこの中国道を使って帰るので、渋滞の解消は有難いです。

中国自動車道の千代田JCで浜田道に入り、大朝のICで下りて国道261号線で江津方面に向かいます。

国道261号線は因原の町で江の川と出会います。

江の川は、広島県山県郡芸北町阿佐山にその源を発し、幾つもの小支川を合わせながら盆地の上を北東に流れ、途中三次市において同規模の馬洗川、西城川を三方向より合わせて西流し、河口までは先行性峡谷を通り島根県江津市において日本海に注ぐ流域面積3,900km2、幹川流路延長194kmの中国地方最大の川です。

 

1.江の川 出典フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「ゴウノカワ」「ゴウカワ」という名の由来は定かになっていない。

「ゴウ」とは川・川岸という意味があり、これに「江」「郷」の字があてられた。河口の江津市はゴウの津つまり川の港から名付けられたと言われている。

漢字での江津という地名は永和2年(1376年)にでてくるが、この江津が康保4年(967年)『延喜式』ではゴウという地名で出てくる。

また広島、特に三次市中心部より上流は「可愛川」(可愛と書いてエと読みエノカワ)と言われていた。これは養老4年(720年)『日本書紀』に出てくる名である。

この可愛に大和仮名の江を用いて江の川としたとする話もある。

 

現代に至るまで流域各地で個別の名で呼ばれていた。

·明治19年(1886年) : 内務省土木局編『六十五大川流域誌』石見国(島根)側が「郷川」、安芸国(広島)側が「吉田川(あるいは可愛川)」と記載。

·大正8年(1919年) : (旧)河川法に則り、広島県がその管理区間を「郷川」とした。

·大正12年(1923年) : 逓信省編『水力調査書』島根側が「江川」、広島側が「可愛川」と記載。

·昭和5年(1930年) : (旧)河川法に則り、島根県がその管理区間を「江川」とした。

·昭和41年(1966年) : (現)河川法制定に伴い、一級河川指定(国の管理)の際に「江の川」に定められた。

異名として「中国太郎」がある。河川を管理する国土交通省によると、江の川は中国地方最大の河川であり、太郎は長男あるいは最大・最長の一番を意味することから、呼ばれるようになったとしている。

 

<出典: 国土交通省 中国地方整備局 三次河川国道事務所 >

 

江の川流域の土地利用は、中上流に水田が多く、下流部に森林が多いことが大きな特徴です。土地利用の割合は、山地等が約 92%、水田や畑地等の農地が約 7%、宅地等の市街地はわずかで約1%に満たない状態です。

平地部は上流の三次盆地周辺に市街地と耕地が広がっており、中流から下流にかけては狭窄部で山が迫っており、小集落が点在する程度です。流域内の市街地は広島県三次市・庄原市・安芸高田市、島根県江津市などです。

故郷は下流地区に位置しますが江の川を挟むように山が屹立しており、その山と江の川の間のわずかな平地に住居と田畑を作り生活しています。

 

<江の川 下流の川越地区>

写真の左側が下流でこの地区では江の川は西に向かって流れています(河口から約15~25Kmの場所です)。

蛇行している川のカーブの内側に平地ができ、住居や耕作地を作っていますが、川のカーブの外側は山が川まで迫り出して道路が通っているだけです。

 

 

2.江の川の魚 

 私が子供のころ、サケが少なくなってきたと聞いたことがありました。サケが少なくなったのは多分浜原ダムができたことが原因と思います。

 最近はウナギも鮎も最近少なくなっているらしいです。アユやウナギが少なくなったのも、やはり防災のための堤防工事や頻繁に起こる洪水も一因になっているのかもしれませんね。

  子供のころに江の川で捕れていたのは次のような魚でした。

 アユ、ウナギ、イダ(ウグイ)、ハエ(ハヤ)、ゴリ(ハゼ)、ギギ、ニゴイ、ナマズ

 魚の名前は地域によって違うようですね。例えば江の川ではゴリと呼んでいたものはハゼ、ハエと呼んでいたものはハヤというのが、一般名らしいです。

<イダ>

<ハエ>

<鮒>

<ゴリ>

<広島市水産振興センター の資料>

 

<ギギ>

<ニゴイ>

<ナマズ>

 

・メダカ

日本のメダカは2種類おり、キタノメダカ(生息地は本州の日本海側 東北・北陸地方)とミナミメダカ(生息地本州の太平洋側、中国地方、四国、九州、南西諸島)です。

野生のメダカは様々な要因によりその数が激減し、1999年に環境庁(現環境省)によって絶滅危惧Ⅱ類に指定されました。

これは絶滅の可能性がある種のカテゴリー(ランク)のうち、「絶滅の危険が増大している種」になります。昔はどこにでもいたメダカに絶滅の危険が迫っているとは驚きですよね。

 

ただ、絶滅危惧種に指定されているからと言って、捕獲や飼育が制限されているものではありません。基本的には個人による捕獲、飼育、繁殖が可能な生物となっています。

 

 

  

2.アユ釣り

 小さい頃は「カガシラ」と呼んでいた毛ばりでもっぱら「どぶ釣り」という釣り方法でアユを釣っていました。

この毛ばりは5円、10円、20円とありました。もっぱら安い5円のものを使っていました。

しかしある時隣で沢山釣っていた人の毛ばりを見たら20円の毛ばりでした。見た目で5円のものよりは3倍は良く釣れているようでした。

高いものはそれだけの価値はあるものだ子供ながら知りました。😅😅😅

<毛ばり>


<どぶ釣り>

沈み釣りともいい、アユの釣法の一つです。

(ふち)や流れのよどんだ深い場所で,昆虫に似せた毛針を使って釣る方法で、毛針をおもりで沈めたり、引き上たりしてアユを誘い釣ります。

 <友釣り>

アユの習性を利用した方法で,掛針をつけた生きたおとりのアユを流し,縄張り(テリトリー)を荒らされたと思って挑んでくる他のアユをひっかけて釣ります。

 

また流れの急な川の浅瀬に入り、毛ばりを流れに任せて、魚が食いつくのを待つこともしました。

5月、6月に川の中まで素足ではいるため足が寒く震えながら釣っていたことを思い出します。

釣れる量はどぶ釣りの方がはるかに多かったです。

友釣りは子供のころにした思い出は殆どありません。

 

3.ウナギ

ウナギ(鰻、うなぎ)とは、ウナギ科(Anguillidae) ウナギ属(Anguilla) に属する魚類の総称である。

世界中の熱帯から温帯にかけて分布する。ニホンウナギ、オオウナギ、ヨーロッパウナギ、アメリカウナギ(英語版)など世界で19種類(うち食用となるのは4種類)が確認されている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

ニホンウナギは、遥か南の西マリアナ海嶺で産卵します。

西マリアナ海嶺は、マリアナ諸島の西方沖、海山のある深海で深さは3,000~4,000mといわれています。

海嶺:両側に急斜面を持ち、細長く連なる海底の大山脈

<ニホンウナギの回遊経路>
(出典:水産庁(2018)「ウナギをめぐる状況と対策について(平成30年6月)」)

こんな遠くの海から江の川まで良く、泳ぎ着くものだと感心します。

 

 

・ウナギ籠漁

ウナギは投げ釣りでも釣りましたが、ウナギ籠でも良くとりました。

ウナギ籠は竹で編んだ筒状のもので、この中にミミズを入れて川に沈めて置きます。

籠は一方通行で、いったん中に入ると戻れないようになっています。

<ウナギ籠: クチを下流側に向けて川の底に一晩沈めておきます>

ウナギ籠漁はミミズを探し出すことから始めます。

ミミズは今でいうと少なくともカップヌードルのカップ1個ぐらいの量を集めなくてはなりません。

ミミズが沢山取れるところはだいたい決まっていますが、8月も後半になると土地も乾燥してミミズも少なくなってきて、色々な場所を探してミミズを集めました。

籠は夕方川に流されないように、石などを重しにして沈めておき、朝に引き上げます。

多いとき内はこの籠の中にはぎっしり入っており、10匹以上捕獲できるかとがあります。

夏休み中は毎日のようにウナギ籠を仕掛けました。勿論時々ウナギが入っていないときもありましたが、殆ど毎日1匹以上は捕獲できました。

 

4.危機一髪だった話

 ウナギ籠をセットするときに溺れかけたことがありました。

小学校4年の7月だったと思います。

水泳パンツになってウナギ籠をもって川にはいります。セットする場所は水面が腰辺りに来るような所にセットします。

セットし終わってから、ちょっと泳いでみたくなりました。小学生の水泳は夏休みになって、監視員がいるところでないと禁止されていました。

しかし、この前年に初めて泳げるようになったので、一人でも大丈夫と思って、禁じられていたが、ちょっと水深の深いとこまで行こうと、水の中を歩いて沖まで出ました。

 

すると、川底が抉られているのか、急に深くなって沈んでしまいました。

慌てていたのか、息の使い方うまくできず、とても苦しくなったのです。

これは大変だと岸の方向へ息もしないで手足を動かしました。もう溺れてしまうのかと観念したら、足が、川底に届きました。助かったのでした。

話しは前後しますが、このウナギ籠のセットは一人きりでしているので、誰もこれらの状況はみていません。

もし川の流れがもっと早かったら、岸に着けずに溺れ死んでいたのかもしれません。

勿論このことは誰にも話しませんでした。

しかしウナギ籠漁は翌日以降も続けました。

 

5.早朝に出来る池(本流から切り離された水たまり)

 子供のころ、朝早く川に行くと、川の水嵩が下がって、川の本流から取り残された水たまりができていました。この水たまりには沢山の魚が密集しています。

魚も水嵩が下がる時に本流に帰れずに取り残されたのです。

中には水溜まりにも入れずに死んでいる魚も沢山いました。

 

水溜まりは大きくてせいぜい5m四方で、深さは2030cmぐらいなので、ざるで取り放題でした。

30分くらいでバケツ2杯くらい取っていました。

多い時にはその2,3倍はとれますが、とっても食いきれないので、余った分は畑の肥料にするくらいしかないので、全部はとりません。

もうすぐ水嵩が増して本流に合流できるので、魚たちも本流に帰れるでしょう。

川の水嵩が上がったり下がったりするのは、海の干満潮に関係があるのでしょうか?

江の川は資料によると、河口から8.2Kmまでの区間は感潮域となっており、浜原ダム以降の川の勾配は1/9001/6000となだらかです。

私たちが住んでいた地点のは河口から約26Kmで、この勾配データを使って大雑把に海抜を計算すると約4m程度になります。

 

感潮域:河川等で潮汐現象の及ぶ河口から上流部までを感潮域という。

 

 

 一方日本海側の干満潮の差を調べてみると、この差は3040cmぐらいでした(しかし太平洋側ではこの差は100200cmと大きいです)。

ここの地点は河口から約26Km離れ、感潮域よりかなり上流側です。

従って日本海の干満潮が川の水位に何らかの影響を及ぼす可能性は少ない。

 

良く考えてみると、川の水嵩の変化は上流の浜原ダムで放水量の調節によるものと聞いたことを思い出した。

これは夜間の電力使用量が減ることによる発電量の調整のために放水量を調節していたものだった。

😅😅😅😅😅

 

6.蟹漁

故郷に帰って夕方、久しぶりに川辺に出てたら、何か魚を捕る網のようなものが置いてありました。

しばらくしたら、河の上流から舟に乗って人が近づいて岸に着きました。この網はその方のもので、蟹を捕る網だそうです。

<岸辺に置いてあった網>

<これから網をセットするとのことでした>

 

翌日昼頃 川戸の「水神さん」に行くと、同じ蟹漁の網が置いてありました。

近くに船がありましたが、誰もいませんでした。夕方にセットするのでしょう。

昨日も思ったのですが、蟹漁の網を放置していても盗まれないのでしょうか?使い方を知らない人には価値のないものかもしれませんが、世俗な心配は不要なところが、良いですね。😊😊😊

 

 

 

最後に

下記のウエブサイトで江の川について興味深い情報を得ることが出来ます。

 Chapter1 江の川の姿

 

<江の川-1 完>

 故郷の風景 目次 

 

 

 

 
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