36.南北朝動乱・石見篇
36.4. 戦線の拡大
建武4年/ 延元2年(1337年)3月、越前(福井県)の金ヶ崎落城し、 恒良親王が捕えられ、尊良親王は戦死する。
石見では、上野頼兼は美濃郡を経略し、その後、漸進して那賀郡に入る。
4月5日、 上野頼兼は安芸の吉河経秋・武田氏信、長門の厚東武実らの協力を得て、小笠原長氏と共に那賀郡三隅城を攻めた。
三隅兼連は、高津長幸、周布兼茂、内田彦太郎らと共に30日にわたる激戦をし、上野頼兼の武家方軍を退けた。
勢いに乗った宮方軍は、逃げる武家方の防長軍を追う。
5月に入ると、高津長幸、三隅一族、周布兼茂ら南朝軍は、前年石見守護上野頼兼に攻略された横山城(黒谷城)を回復する。
さらに5月11日、長門国阿武郡に侵出して、小河関所を破り、弥富・福田・宇生賀の集落を焼払い、北朝方虫追政國が守備する嘉年城(山口市阿東嘉年下)に攻め寄せた。
この後高津長幸一族は、前年石見守護上野頼兼によって攻略された美濃郡上黒谷の横山城(黒谷城)を取り戻し、そこに楯籠った。
2ヶ月後、武家方軍は、再び勢力を盛り返す。
7月4日、上野頼兼の軍勢が、宮方軍が占拠する黒谷の横山城へ迫る。
数日間の激戦が続き、長幸は再び敗退してしまう。
一方、この長門に進行中の宮方軍の手薄を狙って動き出す者がいた。
一旦、三隅城の戦いで破れた、武家方の小笠原長氏と君谷実祐は、宮方軍を牽制するため、安芸の武家方軍を誘って那賀郡の河上城を攻める企てをする。
川上城攻撃
7月12日、小笠原長氏、武田弥三郎 (小笠原貞宗の代理)らは那賀郡河上(川上とも)孫三郎の川上城(江津市松川町)を攻めた。
石見国河本郷一方地頭小笠原信濃守貞宗代桑原九郎次郎家兼申す軍忠の事、 今月十二日河上孫三郎の城郭に打寄せ浜手に於いて 小笠原又太郎長氏共に軍忠致し候ひんぬ向後の為に御証判に預るべく候仍って言上件の如し
建武二年七月二十五日(建武四年の間違いと思われる)
承了 (花押)
川上城というのは城というほどのものではなく、三方を山に囲まれた市村の粉野という所にあって、背後は上津井に通じる善導寺坂を控え、堂ヶ鼻というところに孫三郎の居館があった。
その館は江の川を望んだ側に柵をめぐらした館城である。
戦いの急報に接した、江の川下流の千本崎城から都野保道が兵を率いて、川上孫三郎を救援に駆けつけた。
戦いは数日続き、7月25日に川上孫三郎父子は敗退した。
36.4.2. 桜井庄
桜井郷
桜井郷は、邑智郡五郷のうちの一つである。
桜井郷の区域は、市木、日和、日貫、長谷、市山、川戸、谷住郷、田津、都川、和田の地域である。
この桜井の郷は古くから皇室の御領地として定められていた。
また、天武天皇の頃、八戸川筋は長谷村一圓と市山村の幾部は放生地として殺生禁断の掟がたてられた。
鎌倉末期の桜井郷の大部分は桜井庄で占められており、その桜井庄は元後宇多院の領地の一つであり、小田本郷・市山・清見・井沢・後山・川戸・長谷・重富・日貫・日和・今田・江尾・田津・住江・谷組・大貫が庄に組み込まれていた。
後宇多院が領家(荘園領主)ということは、つまりは鎌倉末期の桜井庄は大覚寺統の後醍醐天皇の持ち物であった、ということである。
<桜井庄位置図(推定)>
領家玉光
この桜井庄は、地頭が置かれていなかったが荘官として日貫の領家氏が管理していた。
この領家氏は領家という普通名詞を固有名詞の姓として使用していたようである。
領家氏の居城は東屋城(日貫城)であった。(日貫のまちの南にある小高い山「城山」の頂き)
山の北側を通っている県道7号線(浜田作木線)の傍らに城跡への登山口と「東屋城趾入口」の石碑がある。
この頃の当主は領家加賀守藤原玉光であった。
この領家玉光は当然ながら宮方に忠誠を尽くしており、後醍醐天皇が船上山で挙兵したときも佐和氏や福屋氏・三隅氏らと共に応援に駆けつけたと言われている。
ところが、叛乱を引き起こした足利尊氏はこの桜井庄を戦功の恩賞の対象として武家方の武将に与え始めたのである。
足利尊氏が九州からの東上戦の戦功の恩賞の対象にも、桜井庄の領地を当てて、足利方の勢力拡大を図った。
当然これを管理する日貫の領家藤原玉光との諍いがあちこちで勃発した。
領家氏は、北朝方の侵略を食い止めようとした。
建武4年/延元3年(1337年)3月10日、領家氏は福屋氏(江津市有福温泉町)と図って、石見へ侵攻を企てている安芸の北朝軍を攻撃した。
優勢になった石見の南朝軍は、更に北朝軍を安芸の大朝、新庄まで押し戻す。
激戦の結果、20日には安芸の北朝軍は退却し、石見南朝軍は勝利した。
だが、北朝方の桜井庄への侵略はこれで止むことはなかった。
<続く>