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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−124(南北朝動乱・石見編−15 南朝軍の復活−2)

36.南北朝動乱・石見編

36.6. 南朝軍の復活

36.6.3.貞和元年/興国6年(1345年)

この年に、京都では天龍寺の落慶供養が行われている。

天龍寺

天龍寺は京都市嵯峨野にある臨済宗天龍寺派の大本山の寺院で、開基は足利尊氏、開山は夢窓疎石である。

足利尊氏は後醍醐天皇が暦応2年/延元4年(1339年)8月16日に崩御すると、その菩提を弔うため、天龍寺の建立を始めた。

貞和元年/興国6年(1345年)、後醍醐天皇7回忌の年に落慶供養が行われた。

 

貞和元年/興国6年(1345年)における石見関係の紛争の記録は、古文書の中に発見できない。

おそらく南朝方も優越するだけの力がなく、北朝方も徹底的に制圧を加えることができず、全く膠着状態となり、各地で小競り合いが繰り返されていたのであろう。

しかしかかる状態は単に石見一国だけの現象ではなく全国的様相でもあった。

 

36.6.4.貞和2年/正平元年(1346年)

貞和2年/正平元年(1346年)6月、上野頼兼らはまたもや都野氏を攻めた。

三隅兼連は都野氏応援のため21日に発向し、二日間にわたって都野攻囲中の頼兼勢を後巻(味方を攻める敵を、さらにその背後から取り巻くこと)で攻めた。

吉川恒明軍忠釈に、
 石見國三隅城凶徒等、去月廿一日打出同國都野鄉之間、迄于同廿二日致日夜合戰佐木十郎(富部隼人佐若當) 令分捕、然早預御證判、偽備後證、恐々言上如件、
  貞和二年七月 日
    承了(判) (上野頼兼)

 

結局、この戦いでは大きな戦乱も起こらずに頼兼軍が包囲陣を撤退して幕が下りたようである。

 

36.6.5.貞和3年/正平2年(1347年)

石見に於いては、貞和3年/正平2年(1347年)は5月4日に、美濃郡の赤松山で小合戦があったばかりで、南北朝両軍は鳴りをひそめてこれという動きがなかった。

36.6.5.1.楠木正行

だが、中央で動きがでてきた。

楠木正行が動き出したのである。

楠木正行は正成の嫡男である。

建武3年/延元元年(1336年)楠木正成は、湊川に向かう途中の桜井の宿(大阪府三島郡島本町)で正行に、「生き残って忠義に励め」と河内に返した。

その時、正行は11歳であった。

河内に帰った正行は、南朝後村上天皇が即位した翌年の暦応3年/ 延元5年(1340年)に南朝の

河内守・守護となり、河内国を統治する。

正行は、河内守になって7年間は戦いを一切行わず力を蓄えていた。

楠木正行が​​弁内侍を救う図:弁内侍は日野俊基の遺児であり、後醍醐天皇の後宮の女官として引き取られ、吉野朝随一を誇る絶世の美女として知られていたと伝わる。噂を聞きつけた高師直が拉致しようとしたところを楠木正行に救われたことを契機に深い仲となったという>


8月10日、楠木正行は、紀伊に入り隅田城(和歌山県橋本市墨田町、岩倉城とも)を攻めた。

これにより、熊野地方の大半宮方に属し、摂津・和泉の兵と合流、京都攻略の形勢となった。

 

36.6.5.2. 藤井寺・教興寺の戦い

8月19日、足利尊氏は細川顕氏(北朝の河内・和泉守護)を出陣させた。

細川顕氏は、天王寺を経由で堺浦(堺市)に向かった。 

しかし、楠正行は北朝軍を破り、9月には顕氏を天王寺まで追いつめる。

そこで足利尊氏は、山名時氏・大友氏泰の軍を細川顕氏の援軍として送り、本腰を入れて南朝を討伐することにした。

 

36.6.5.3. 天王寺の戦い

11月26日、住吉・天王寺の戦いの火蓋が切られた。

住吉(大阪市住吉区住吉)および天王寺(大阪府大阪市天王寺区南部から阿倍野区北部)で両軍は激突する。

幕府第一軍の大将である細川顕氏は、大した戦いもしないまま遁走した。

幕府第二軍の大将である山名時氏はしばらく踏みとどまったが、数人の弟を殺され、自身と息子(山名師義)も手傷を負うという壊滅的な被害を受け、ついに撤退した。

正行が目指すのは京の奪還である。

京は震撼したという。

 

36.6.5.4. 高師直・高師泰兄弟の出陣

12月、足利尊氏は麾下最強の武将高師直を河内・和泉守護に任命し、南朝軍の討伐を企てた。

高師直は、四国・中国・東山・東海二十余カ国の兵を召集した。

「太平記」ではその数8万騎と記されているが、実際は1万騎前後であったといわれている。

この軍は二つに分け、第一軍を高師直が率い、第二軍は高師泰(師直の弟)が率いた。

この両軍は、京の淀・八幡に駐留し越年する。

 

正行、後村上天皇に拝謁する

12月27日、楠木正行は弟の正時と連れだって、吉野行宮に参上し後村上天皇に拝謁する。

正行は「高師直、高師泰と雌雄を決する合戦前に、今一度帝の御顔を拝しに参内した」と言った。

後村上天皇は、「私はその方を大切な臣と思っている、命を疎かにしてはならぬ」と言葉をかけた。

 

36.6.6.貞和4年/正平3年(1348年)

36.6.6.1. 四條畷の戦い

貞和4年/正平3年(1348年)1月、師直は和泉の堺浦に、師泰は河内の佐々良に陣して、楠木正行軍を待ち受けた。

これは、楠木軍が、海、山側のどちらを北上しても待ち受けられるようにしたものであった。

楠木軍は、山側の東高野街道を北上し四条畷にて合戦した。

兵力は師直軍約7000騎、楠木軍約3000騎と云われている。

正行が山側を北上した理由を専門家は次のように説明する。

このコースは、東は山で、西側は湿地で挟まれており、大軍が展開できるような、スペースがない。

そのため、正行は師直の本陣に突入できれば、師直を打ち取ることができると考えた。


実際、本陣に突入された師直軍は大混乱に陥り、楠木軍が有利に展開した。

一人の武将が師直の身代わりになって討ち取られたといわれている。

しかし、師直も策略をたてて、東の飯盛山に佐々木道誉率いる別働隊を隠しておいた。

この別働隊に挟撃さた楠木軍は壊滅するのである。

そして、楠木正行は弟の正時と自害して果てた。

<歌川國芳 四條畷の戦い(一部)>

36.6.6.2. 吉野行宮陥落

勢いに乗った高軍は吉野行宮に侵攻する。

1月26日から30日にかけて行宮を陥落・焼亡させた。

南朝後村上天皇は賀名生(奈良県五條市)へと行宮を移さざるを得ず、以降、南朝方はさらなる劣勢を強いられることになった。

正行を討ち吉野を攻略した最強の武将として高師直はその存在感を高めていった。

このことで、足利直義と師直の間の政治力の均衡が崩れ去り、足利氏の内紛、観応の擾乱(1350年 - 1352年)と呼ばれる南北朝時代最大の政治闘争の一つに発展することになるのである。

四条畷の決戦で南朝方が壊滅的打撃を受けたことは、諸国の日和見的であった多くの地頭に、武家方に帰属すべき決断を与えた。

 

36.6.6.3. 足利直冬初陣

足利直冬は南北朝時代の武将で足利尊氏の長男で母は越前局である。

足利直冬は母の出自の低さから尊氏に冷遇され、子供のころは鎌倉東勝寺の喝食となっている。

建武3年/延元元年(1336年)に、尊氏が室町幕府を開幕した後に上洛して認知を求めたが、冷遇され、叔父足利直義の養子となって直冬と称した。

正平3年/貞和4年(1348年)に紀伊など各地で南朝勢力が強大になり、尊氏は放置できない状況となる。直義はその討伐に直冬の起用を進言し、尊氏は嫌々ながらもこれを受け入れたとされる。

尊氏が討伐軍の大将に直冬を任命したという事は、尊氏が直冬に父子の名乗りを挙げた、つまり認知したという事になる。

直義は光厳上皇の院宣を奉じ、直冬は従四位下左兵衛佐に叙任されて討伐軍の大将として初陣を飾った。

この直冬は後年、足利尊氏に敵対することになるが、それは後述する。

 

36.6.6.4. 石見の状況

石見における争乱もまた活発になってきた。

楠木正行らが亡くなると、今のところ南朝が頼りにするのは、石見の南朝勢力だけとなった。

一方、足利尊氏にとっても、石見経略の軍を派して既に十数年経過するが、今持って討伐の埒があかない状況で、思い出すたびに不快な気になって来るのだった。

そこで、尊氏は早々と鎮圧するように厳しく督促した。

これを受け、上野頼兼はまたもや三隅城攻撃をしようとした。

吉川経明・田村盛泰・永安二郎太郎・君谷実祐(出羽実清嫡男)らが頼兼に従軍する。

3月22日上野頼兼らは三隅城に向かった。

4月9日三隅兼連は、城を出て北朝軍の道中を遮り藁谷・赤松尾におびきいれて戦った。

藁谷・赤松尾は三隅高城の麓にあり、人馬は一列で通るしかない狭所である。

ここへ誘い込まれた北朝軍は、山上から岩石や丸太攻めに遭い、軍列を寸断されたところに矢攻めをかけられて多くの兵が負傷した。

やむなく、上野は兵を一旦引き上げた。

この戦で、北朝軍の田村盛直、賀井田盛行、賀井田行政、賀井田爲氏等が負傷したとの記録がある。

吉河大郎三郎經明申軍忠事
右去月廿二日屬御手、令發向三隅城、取向陣連々合戰之處、今月九日、凶徒打出赤松尾間、先懸馳向彼所依致强戰、自身(左腰射疵)被疵畢御見知之上者早預御證判、爲備後訴言上如件、
貞和四年四月日
  承了(判)(上野頼兼)(吉川家什書)


屬賴兼于致軍忠輩等事、田村四郎盛泰
一、貞和四年四月九日三隅藁谷合戰之時、一族三郎四郎盛直(右腿射疵)若黨賀井田彥五郎盛行(右肩射疵)同彥三郎行政(右足射疵)同布原大郎三郎爲氏(左足同)等被疵云々
貞和五年正月十八日
         左馬助賴兼牲判
進上御奉行所
(萩閥周布家條)

 

上野率いる北朝軍は8月に再度三隅城を攻撃する。

8月24日より27日まで三隅城大手で戦があり、28日に井野村城ついで鳥屋尾・高城(高城村) 諸城で北朝軍の攻撃が続けられた。

しかし、北朝軍はどれだけの戦果をもあげられず、退散した。

萩閥出羽家條に

石見國君谷三郎二郎實祐申軍忠事、右至于自去八月廿四日同廿七日、於三隅城之大手、致日々夜々合戰之刻、同廿五日合戰、若黨馬五郎(左股射疵)同若黨清七(左腕射疵)郎貞清源太(左肩切疵) 此等之次第、爲
大將軍御目前合戰之上旨、下賜御證判、向後彌爲成軍忠勇、仍恐々言上如件、
貞和四年九月 日
承了(判)(上野頼兼) 

8月28日の島屋尾城等の攻撃については、北朝軍の田村盛泰を初め同盛俊、盛資、布原二郎三郎等が負傷したことが注進状で伺われる。

一、同年(貞和四年)四年八月廿八日鳥屋尾凶徒退治之時、自身(頭打疵)扶持舍弟又四郎盛俊(左腕打疵)同二郎盛資(右手打疵)若黨布原二郎三郎(右腰射疵)訖
一、從曆應四年以来迄于今、三隅城一切所之間、構領內要害致警固訖、 

この8月28日の戦については、君谷実祐も軍忠状(萩閥出羽家)で申し立てている。

去八月廿八日夜、押寄鳥屋尾城之一手、合戰之刻親類津志見彦七實◻(顔切疵) 同次實弘(右足突疵)同夜半駕先城内責入、致······合戦之處富部河隼人祐若當、村田八郎左衛門尉(頭取)畢、」

又、吉河経明の軍忠状もつぎのとおりである。

「去月廿八日押寄當國鳥屋尾城、先懸攻入城内竭戦功、凶徒對治之時、若當熊谷七郎経重(左腕切疵)被庇畢、 」

 

なお、この頃高木城(那賀郡高城村)で戦があり、周布兼氏が感状を受けている(萩閥周布條)。

石見國鳥屋尾並高木城合戰事、致軍忠之由、上野左馬助賴兼所注申也、尤以神妙、向後彌可抽忠節之状如件、
貞和四年十月九日   (判)(足利直義)
  周布彌次郎殿

 

こうして、北朝軍の威勢は振るわず、尊氏から督促を受けた石見計略も遅々として進まぬうちに、この年も暮れていった。

翌、貞和5年/正平4年(1349年)に、石見の南朝方を喚起し鼓舞する新たな人物が現れる。

 

<続く>

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