31.動乱の鼓動
後醍醐天皇は元弘4年(1334年)1月29日、元号を建武に改元した。
31.1護良親王の幽閉
31.1.1.護良親王の執念
新政府は東国武士の力を抑えるため「陸奥将軍府」を設置し、義良親王を擁し北畠親房の子、北畠顕家が陸奥守・鎮守大将軍として陸奥国の多賀城(宮城県多賀市)に赴任した。
また関東を管轄する「鎌倉将軍府」を設置し、成良親王を奉じ足利直義が鎌倉へ下った。
義良親王は後醍醐天皇の第三皇子で後の村上天皇であり、同じく成良親王は後醍醐天皇の第六皇子であり、二人共阿野廉子の子供である。
後醍醐天皇と阿野廉子の間にはもう一人、第五皇子である恒良親王がおり、皇太子となっている。
さて、護良親王は、足利尊氏をどうにかして亡き者にしようと、兵士を集めていた。
何故、護良親王と尊氏の仲が悪いのか、ということが「太平記」に書かれている。
抑(そもそも)高氏卿今までは随分有忠仁にて、有過僻不聞、依何事兵部卿親王は、是程に御憤は深かりけるぞと、根元を尋ぬれば、去年の五月に官軍六波羅を責落したりし刻、殿法印の手の者共、京中の土蔵共を打破て、財宝共を運び取ける間、為鎮狼籍、足利殿の方より是を召捕て、二十余人六条河原に切ぞ被懸ける。
其高札に、「大塔宮の候人、殿法印良忠が手の者共、於在々所々、昼強盜を致す間、所誅也。」とぞ被書たりける。殿法印此事を聞て不安事に被思ければ、様々の讒を構へ方便を廻して、兵部卿親王にぞ被訴申ける。加様の事共重畳して達上聞ければ、宮も憤り思召して、志貴に御座有し時より、高氏卿を討ばやと、連々に思召立けれ共、勅許無りしかば無力黙止給けるが、尚讒口不止けるにや、内々以隠密儀を、諸国へ被成令旨を、兵をぞ被召ける。
そもそも高氏卿はこれまでずいぶん忠功のある人で、分を過ぎた振る舞いがあったとも聞いてない、何故兵部卿親王(護良親王)はこれほどに御憤りが深いのだろうかと根本を探ってみると、去年の五月に官軍が六波羅を攻め落とした時、殿法印の家来たちが、京中の土蔵を打ち破って財宝を運び取った。
その狼藉を鎮めようと足利殿の手でこれを召し捕り、二十余人を六条河原で首を刎ねて晒した。
そしてその高札に、「大塔宮に仕えた、殿法印良忠の部下どもがあちこちで昼強盗を行うので、誅伐した」と書かれてあった。
殿法印はこのことを聞いて腹立たしく思ったので、様々な讒言をこしらえてあげ手立てを尽くして兵部卿親王に訴えた。
こういうことがいくつも重なって、宮のお耳に入ったので、宮もお怒りになった。
(護良親王が)信貴山にいる時から高氏を討ちたいとずっとお思いになっていたけれども、勅許がなかったのでやむなく黙っていた。
しかし、なお讒言が止まなかったのか、内々に秘密のことだと言って諸国に令旨を出され、兵を集められた。
31.1.2.護良親王の捕縛・配流
護良親王は建武2年(1334年)6月22日に捕縛された。
この時、義貞は武者所の頭人として、親王の捕縛を主導したといわれている。
天皇の命令であったとはいえ、政治的に接近していた親王の捕縛に関与したことは、義貞の政治的な力量の未熟さ、また宿敵尊氏との差を示す点として指摘されている。
親王失脚後、旗頭を失った宮方が、新たな旗頭に義貞を擁立しようとする動きを見せた。
源氏の血族であること、鎌倉幕府打倒の武功などの要素から、義貞に尊氏の新たな対抗馬として白羽の矢が立った。
背景には、親王の代わりに義貞を使って尊氏を牽制しようとする後醍醐天皇の意図もあった可能性もある。
この時期、新田一族の昇進が顕著であり、義貞自身は左兵衛督になった。これらの昇進は、義貞を尊氏の対抗馬にしようとする天皇の意図の傍証となっている。
新田と足利の対立が表面化するのは、もう少し先のことである。
同年11月、護良親王は足利方に身柄を預けられ、護良親王の付添いも女官1人と制限され鎌倉へ送られた。
「太平記」と「梅松論」では束縛された時の状況が異なっている。
「太平記」では、
尊氏が護良親王が諸国の武士に送った令旨を手に入れ、阿野廉子を通じて、後醍醐天皇に告げ口したとされている。
それも「帝位を狙おうとして送った令旨」であるとしている。
阿野廉子も、ここで一気に護良親王の力を削ぎたかったので、尊氏の言葉に乗ったのであろう。
後醍醐天皇は激怒して、清涼殿で行われる御遊びの会に参列した護良親王を召し捕った。
とされている。
高氏卿はこの事(護良親王が兵を集めていること)を聞いて、内々に継母の准后(阿野廉子)を通して帝に、
「兵部卿親王は帝位を奪い申し上げたいために、諸国の兵を集めておられる。
その証拠は明らかです」
と言って、諸国へ下された令旨を取って帝にご覧に入れた。
帝は大いにお怒りになって、
「この宮を流罪に処さねばならない」と言って清涼殿で行われる御遊びの会に事寄せて兵部卿親王をお呼びになった。
宮は、そういうこととは全くお考えにならず、先駆け二人、侍十余人を供にして身軽な様子でご参内なさったところ、結城判官と伯耆守の二人があらかじめ勅命を受けて準備していたので、鈴の間のあたりで待ち受けて捕らえ申し上げ、すぐに馬場殿に閉じ込め申し上げる。
その上で足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府にあった尊氏の弟・足利直義の監視下に置かれた。
上は、護良親王が土牢で経を誦ずる図。
付き添っている女性は「南御方」といわれこの方の証言が、後に尊氏討伐宣旨が下りる決め手の一つであった、といわれている。
一方、「梅松論」では、
兵部卿の護良親王は後醍醐天皇の密命を受け、新田義貞・楠木正成・赤松則村と共に尊氏を討つ計画を企てたが、尊氏の実力になかなか手を出せずにいた。
同年夏、状況が変わらないことに我慢がならなくなった護良親王は令旨を発し、兵を集めて尊氏討伐の軍を起こす。
尊氏も兵を集めた上、後醍醐天皇に謁見し、護良親王の行いについて上訴した。
後醍醐天皇は「これは親王の独断でやったことで、朕には預かり知らぬことである」と発言し、護良親王を捕らえ、尊氏に引き渡した。
と次のように記述されている。
翌年、改元ありて建武元年なり。元三節会以下の儀式、雲客花の袂を連ね、昔に返る躰なり。然ども世中の人々心も調はず。
よろづ物騒がしく見えしかば、此ままにてはよもあらじと恐ろしくぞ覚えし。
去程に、兵部卿親王護良・新田左金吾義貞・正成・長年、潜かに叡慮を請けて打立こと度々に及ぶといへども、将軍に付き奉る軍勢その数をしらざる間、合戦に及ばゞ難儀たるべきによりて、已に師有るべき日、先づ事を延ん為に、無異の躰にて北山殿へ臨時の行幸度々に及びしなり。
・・・(中略)・・・
その後もなほ京中騒動して止むときなし。中にも建武元年六月七日、兵部卿親王(護良親王)大将として将軍(尊氏)の御前に押し寄せらるべき風聞しける程に、
武将(尊氏)の御勢御所の四面を警固し奉り、余の軍勢は二条大路充満しける程に、事の躰大義に及ぶによつて、当日無為になりけれども、将軍より憤り申されければ、
「全く叡慮にはあらず、護良親王の張行(強行)の趣なり」し程に、十月廿二日の夜、親王(護良親王)御参内の次(ついで)を以て、武者所に召し籠め奉りて、翌朝に常磐井殿へ遷し奉り、武家輩警固し奉る。
宮の御内の輩をば、武家の番衆、兼日(あらかじめ)勅命を蒙りて、南部・工藤を初めとして数十人召し預けられける。
同十一月、親王をば細川陸奥守顕氏請取り奉りて、関東へ御下向あり。
思ひの外なる御旅の空申すもなかなか愚かなり。
宮の御謀叛、真実は叡慮にてありしかども、御科を宮に譲り給ひしかば、鎌倉へ御下向とぞ聞えし。宮は二階堂(永福寺)の薬師堂の谷に御座有りけるが、「武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふ」と御独言有りけるとぞ承る。
「太平記」と「梅松論」では後醍醐天皇の立ち位置が、180度違っているが、はたしてどちらが正しいのであろうか?
どちらもありそうに思える。
また、目くじらをたてて、どちらが正しいと主張しているのも寡聞にしてしらない。
このあたりが、物語の面白いところである。
<続く>