毎年夏が近づくと実家の周りの草刈りや庭の手入れのために帰省しています。
帰省したついでに今年は久しぶりに近辺を回り、懐かしさを感じようと思いました。しかし、かといって特徴のない村落なので特にこれと言った場所もありませんが、お寺や神社を巡って昔を偲んでみました。
昔の小学校学区内には寺が8寺、神社が5社ありました。この寺や神社が今どうなっているのか見に行きました。
この学区は川越学区と言い、江の川沿いにあり、端から端までは約9Kmです。なお江の川の河口から約20Km上流に位置しています。
①甘南備寺
実家から川沿いにくだり、約2.3Km行ったところに「甘南備寺」があります。
甘南備寺は真言宗の寺院で石州霊場第11番札所、山号宝生山、本尊は観音菩薩です。もとは天平18年(747)に法相宗の寺として創設されましたが、弘仁10年(819)弘法大師巡錫のおり、真言宗に改宗したと伝わっています。
甘南備寺は戦国時代以前は渡りの山(甘南備寺山)の山頂台地に諸伽藍を配置していましたが、元亀年間(1570~1573)の大火災により大半は焼失し、また明治維新後の浜田地震により飲料水が枯渇したこと、加えて寺領が国有林に接収されたことにより、明治17年に現在の位置に移築しました。
御本尊は創設の折、自ら刻まれた虚空蔵菩薩(前仏)と平安末期の仏師定朝の作である虚空蔵菩薩(秘仏)の二体です。
300有余年にわたり温湯城の丸山城主小笠原市の戦勝祈願寺であったことから、 奉納された佐々木高綱の大鎧(正式名称:黄櫨匂威大鎧残闕はじにおいおどしおおよろいざんげつ、国指定重要文化財)、備前長船兼光の大刀、鎌倉二代将軍源頼家の写経、 その他武具や古代仏具などの宝物が現存し展示しています。
また寺領内には熊野六所権現、聖観音、十六羅漢、仁王尊像などが鎮座され、山上には理源大師の神変大菩薩(役の行者)が石仏として安置されています。
甘南備寺では毎年7月の第一日曜日に法要を行っています。今年も参列しました。
<これは戦国時代の甲冑>
<江戸時代の消防ポンプ>
<この境内の樹齢150年といわれるしだれ桜が有名です>
②興盛寺
甘南備寺からさらに約1.5Km行くと「興盛寺」があります。
このお寺は現在は廃寺になっています。同級生の父親が住職でしたが、亡くなられてから誰も継いでいないです。
興盛寺は 金福山 真言宗で本尊は薬師如来で伝聖徳太子作。開創は奈良時代後期、神護景雲年間と伝えられています。
もとは江津市上津井にあり、興盛寺屋敷という地名も残されているといいます。元禄14年(1701年)8月に大貫へ移転し再建。殿堂荘厳を極めましたが、文化の大火で焼失し、文化12年(1815年)5月に再建されました。
③法泉寺
興盛寺から約1Km離れたところに「法泉寺」がありました。ここも現在廃寺です。この法泉寺という寺については実はあまり記憶にありませんでした。
浄土真宗本願寺派のお寺だったそうです。
本堂に行く道は草に覆われていました。
❶御嶽神社
法泉寺から約700m行くとこの大貫地区の八幡宮社である「御嶽神社」があります。ご神体は「蔵王権現」です。
①寛平3年(891年)創建 ②天文23年(1554年)小笠原長雄再建
<蔵王権現>
修験道における最高の礼拝対象で、金峰山寺(きんぷせんじ)蔵王堂の本尊。役(えん)の行者が金峰山で衆生救済のために祈請して感得したと伝える。
像は右足を高く踏み上げ、右手に三鈷杵(さんこしょ)を振りかざし、左手は腰に当て、逆髪忿怒(ふんぬ)相を示す。銅像や鏡像・懸仏(かけぼとけ)など数多く作られた。金剛蔵王菩薩(ぼさつ)。(出典 小学館デジタル大辞泉)
次のお寺は川向うの田津と言うところにあります。御嶽神社から約800m行くと大貫橋がありますのでここを渡っていきます。この橋は1車線ですが、橋の途中に車のすれ違いができるように数か所が広くなっていました。
橋を渡って今度は川の上流方向に行きます。行先は「正泉寺:浄土真宗本願寺派」です。
④正泉寺 浄土真宗本願寺派
浄土真宗 本願寺派における御本尊は「阿弥陀如来」です。
本願寺派と大谷派では、同じ阿弥陀如来が御本尊で、後光は48本になりますが、上部の後光の数が異なります。
❷諏訪神社
JR三江線(現在廃線)田津から約900m
正泉寺から1.6Km上流に行くと「諏訪神社」があります。ご神体は「建御名方神」です。
①寛文10年(1670年)再建 ②享保6年(1721年)再建立
<建御名方神>
日本神話で、大国主命の子。武神としての性格をもつ。武甕槌神(たけみかづちのかみ)らが葦原の中つ国の国譲りを大国主命に迫ったとき、大国主命の命令で武甕槌神と力比べを行ったが敗れて信濃諏訪湖に逃れ、この地から出ないと誓った。諏訪大社の祭神。(出典 小学館デジタル大辞泉)
さらに川上流に約1.5km行くと渡地区に入り、ここに「渡八幡宮」があります。
❸渡 八幡宮
八幡神は武運の神(武神)として源氏平家ともに崇敬を集めた神様です。ご神体は誉田別命です。
①長久元年(1040年)創建 ②元禄13年(1700年)再建
<誉田別命>
誉田別命は応神天皇と同一視されることが多く、誉田別命=応仁天皇という図式が成り立っています。
応神天皇は諸説ありますが西暦400年前後に実在した可能性が高い天皇です。
八幡神は誉田別命以外にも
• 応神天皇の母親である神功皇后
• 特定の神では無く主宰神の妻や娘、もしくは関係の深い女神を指す意味の比売神
が加わり、この3柱を八幡三神と呼んでいます。
他にも神功皇后の夫であった仲哀天皇や武内宿禰、玉依姫命も八幡神として祀っている神社もあります。
なお八幡神が、応神天皇となったのはかなり後の奈良平安時代からと言われています。
渡地区にはかつては3寺ありましたが、現在は1寺のみが開業しています。
廃寺のうちの1寺は
⑤光明寺
この寺は現在廃寺です。昔は幼稚園も一緒に開業しており、私もここに通いました。私の家はこの寺の川向うですが、当時は橋もないので、渡し船で通ったものです。この光明寺は今は建物もなく更地になっていました。
<渡し船の写真 50年以上前の写真です>
⑥正覚寺 浄土宗
浄土宗(じょうどしゅう)は、大乗仏教の宗派のひとつで、浄土信仰に基づく日本仏教の宗旨で、法然を宗祖とする。鎌倉仏教のひとつ。
本尊は阿弥陀如来(舟後光立弥陀・舟立阿弥陀)。教義は、専修念仏を中心とします。
⑦浄蓮寺
浄土真宗本願寺派、現在廃寺です。
浄蓮寺からさらに川の上流に3km行くと鹿賀地区です。ここに「福泉寺」と言うお寺があります。
⑧福泉寺 浄土真宗本願寺派
この福泉寺から山の方に向かうと「春日神社」に着きます。
❹春日神社 ご神体は春日神
①元禄7年(1694年)建立
<春日神>
春日神(かすがのかみ)は、神道の神です。春日明神または春日権現とも称され、春日大社から勧請を受けた神のことであり、神社の祭神を示すときに主祭神と並んで春日大神などと書かれます。
春日大社の祭神は以下の四柱の神。
·武甕槌命
·経津主命
·天児屋根命
·比売神
(出典 ウィキペディア(Wikipedia))
実家の近くに「坂本八幡宮」があります。
❺坂本 八幡宮
①宝暦4年(1754年)再建 ②平成10年(2001年)再建立
ご神体は応神天皇、神功皇后、玉依姫命です。
以前はお宮のような建物があったのですが、川の堤防工事(土地の嵩上げ)に伴い解体され集会所と兼用の建物になっています。
かつて神社では秋祭りに、石見神楽が奉納されていました。夜中から明け方にかけて神楽が舞われました。
・石見神楽
<同窓会で舞われた石見神楽>
この狭い地域に8つのお寺があり、5つの神社あると言うのは今から考えるととても多いように思えますが、車もなく、橋もない時代にはやはり必要だったのでしょう。
しかし神社のご神体が夫々異なっているのはどのような理由かは不明です。
田舎の神社やお寺は京都などの神社仏閣に比べると、規模も格段に小さくまた普段、秋祭りか葬儀以外は近所の人を含めて拝観する人はいません。山間や木陰に、ひっそり佇んでおり、時間がゆっくりと流れている感じがしました。
昔物語のように狸や狐がひょこっと出てきて語りかけて来ても驚くことはないと思われる雰囲気でした。
<完>
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