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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−43(武士の萌芽−1)

17. 武士の萌芽

 

17.1. 承平天慶の乱

承平天慶の乱は、平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱の総称である。

武士という職業が発生し表舞台に姿を現してくるきっかけの一つが、これらの乱であると思われる。

 

17.1.1. 平将門の乱

 

高望王

平将門の祖父である皇族の高望王は、寛平元年(889年)「民部卿宗章朝臣」の反乱を討伐した功労により、平朝臣を賜与され臣籍降下し、平高望を名乗った。官位は従五位下。

昌泰元年(898年)、高望は上総介に任官され、長男国香、次男良兼、三男良将を伴って任地に赴いた(上総では守は置かれず、介が事実上の長官であった)。

後の話ではあるが国香の孫維衡は後の伊勢平氏の祖であり、この伊勢平氏の家系から平清盛が出てくる。

当時の上総は群盗等の反乱が相次いでおり、朝廷にはこの人事は軍事鎮圧の狙いがあった。

高望親子は任期が過ぎても帰京せず上総に土着した。また高望の子らは武芸の家の者として坂東の治安維持を期待され、関東北部各地に所領を持ち土着するのである。

坂東の豪族たちは、京都への憧憬を持ち、皇親や貴族に対して畏敬の念を持っていた。

高望親子は、この坂東豪族の子女と婚姻関係を結ぶ。

国香と良兼は前の常陸大掾の源護の娘たちを、良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなどして在地勢力との関係を深めた。

さらに、彼らは常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発して勢力を拡大し、後の高望王流桓武平氏の基盤を固めていった。

長兄の国香は常陸国、次兄の良兼は上総国、良将は下総国で未墾地を開発し、私営田を経営するようになる。

父親の高望はその後延喜2年(902年)に西海道の国司となり大宰府に居住、延喜11年(911年)に同地で没したと言われている。

平将門

将門の父は良将である。

良将は下総国佐倉に所領を持ち鎮守府将軍を勤めるなどし、基盤を固めていく。

将門は、15、16歳のころ京に上って朝廷に中級官人として出仕し、滝口の衛士(天皇の警備)として仕えていた。

軍事警察を管掌する検非違使を志願するが叶わなかったという。

その後、将門は父良将の死を知り帰郷する。

「やはり、都では身分が低いと思うようにならないもんだ。ここは一旦関東に帰って反乱や暴動を鎮圧し治安維持の実績を上げれば、朝廷も儂の力を見直すに違いない」と気落ちせず自ら鼓舞するように関東に帰って来た。

しかし、帰ってみると父の所領の多くが伯父の国香、良兼達に横領されていたのである。

事態を知った将門は、冷静であった。いま、このまま怒りにまかせて行動を起こしても敵の思うツボであろうと考えた。

「ここは、しばらく大人しくして、油断させるほうが良いと」決めた。

将門は下総国豊田(現常総市)を拠点にして勢力を培うことにした。

将門は現地の豪族を取り込み、勢力を伸ばして行く。
将門は軍事力の強化を狙い、若者たちに京で覚えた武芸を教え込んだ。
そして、近隣にはない強力な武力集団が誕生した。

将門はその後、領地と女をめぐり親族間の激しい争いを幾度も行うことになる。
将門はこれらの争いで連戦連勝し、関東での将門の名声は広まっていった。

朝廷はこれらの争いは、あくまでも一族との私的な争いとみなされ、国家に対する反乱であるという認識は朝廷側にはなかった。

しかし、将門は朝廷と対立する戦いに足を踏み入れることになる。

天慶2年(939年)11月、常陸国の住人の藤原玄明は受領と対立していた。

藤原玄明の系図は明らかでないが、土着受領の末裔だったと考えられる。玄明は領地の収穫物を横領し、租税を納めることを拒否していたのである。

この玄明に国衙から追捕令が出され、常陸介藤原維幾は玄明を逮捕しようとする。
しかし、藤原玄明は妻子を連れて、下総豊田郡に逃げ、将門に庇護を求めた。

常陸介藤原維幾は玄明の引渡しを将門に要求する。

将門は「藤原玄明は、確かにやって来たが、一息入れたら更に逃げると行って立ち去った。だから既にもうここにはいない」と玄明を匿って、要求には応じなかった。

この後将門は考える。「いつまでも玄明を匿うわけには行かないだろう、いつの日かここにいることが国府に知られるに違いない。そうなったら面倒だ」

そこで先手を打つことにした。

将門は天慶2年11月21日軍兵を集めて常陸府中(石岡)へ赴き玄明追捕の撤回を求めた。

常陸国府はこれを拒否するとともに宣戦布告をしたため、将門は戦うこととなった。

将門は戦いに自信を持っていた。「儂が鍛えた兵士はそんじょそこらの兵士とは違う、まぁ儂の兵一人で4,5人は相手にできる」

その通りであった。将門は1000人の手勢で常陸の国府を襲い、国府軍3000人を打ち破ったのである。


国衙は将門軍の前に陥落し、将門は国の印と蔵の鍵を奪った。

しかし、これで将門はルビコン川を渡ることになる。

朝廷から託された印と鍵を奪うことは、「常陸の国を手に入れる」ことになるからである。
将門は「これは少しやりすぎたか」と思ったが、「弱者救済のためだ」と嘯いた。

周囲もほっては置かなかった。

国衙の悪政に苦しむ民衆は、将門のこの戦を快挙と喜び、味方となって行き、勢いはさらに増していく。
将門は同年12月に下野、上野の国府を占領した。

将門は、この勢いに自信と自分の天命を感じた。

「なんと、簡単に手に入ったものよ。民衆は儂の味方になってくれたし、まるで天まで味方してくれているようでもある。
まてよ、本当に天も味方になっているのではないか?
それならまずは、国王を宣言して様子を見てみるか、儂も天皇の末裔でありまんざらダメだということもないだろう」

と将門は考えた。

将門は関東諸国の国司を自分で新たに任命するとともに、自ら「新皇」と名乗り、東国の支配者になろうとした。

将門の勢いに恐れをなした諸国の受領たちは皆逃げ出した。
武蔵、相模などの国々を従え、ついに関東全域を手中にした。

 

朝廷の反撃

これに対し、朝廷は異例の太政官符を発行し、将門を討った者には、貴族の位を与えるという、破格の褒章を打ち出した。

太政官符の呼びかけに応じた1人が平貞盛で平将門の叔父平国香の子であった。
貞盛は下野の大豪族藤原秀郷を味方につけて、天慶3年(940年)2月に決戦に向かった。

決戦のとき、貞盛軍はおよそ4000人、これに対する将門軍は少なく1000人足らずであった。

実はこのとき、将門は自分の配下の豪族を関東八カ国の受領に任命しており、彼らは自領に帰っていた。

このため、将門のもとにいる兵力が少なかったのである。

しかも時期は村の1年の収穫を左右する田おこしの時期だったから、すぐに兵力を集結できなかった。(当時の兵の多くは農民をかねていた)

2月1日合戦となったが、多勢に無勢で数にまさる官軍に押され、将門は退却する。

敗れた将門軍は猿島郡北山まで引き返し、味方が集まるのを待って戦おうとするが、味方はなかなか集まらない。

将門は思った

「天は儂を王と認めなかったのか? それとも死力を尽くす先に天慶がまっているのか? まぁどちらであろうと前に進むしかないな」

将門は、四百余に減った兵力で最後の決戦に臨んだ。

将門は鬼神のごとく戦い、一時は十倍する敵を圧倒するが、風が変わって風下になったことで戦局が不利になり、後退を余儀なくされる。

その撤退戦の最中、敵の流れ矢に額を射貫かれ、将門は即死する。

将門が坂東王国を宣言してから2ヶ月後のことである。

 

将門の伝説

将門の死後、その首は平安京の七条河原に運ばれ、さらし首の刑になった。

何か月経っても、生きているかのように目を見開いて腐らず、夜な夜な「斬られた私の胴体はどこにあるのか。持って来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けていたそうな。

また、将門の首は、胴体から切り離された後も三ヶ月ほど生きて、自分を屠った者達に対する恨みを抱えたままの首は、あるとき故郷恋しさに天へ飛び去り、東国を目指して飛んだという。

そして力尽き墜落したのが、現在の東京大手町にある首塚の位置であるそうな。将門の首が地に落ちた時、大地は鳴動し、天は闇に閉ざされ、恐怖した土地の人が、将門の首を手厚く葬ったのが首塚の始まりだとされている。

無念の死となった将門は、崇徳天皇、菅原道真と並んで「日本三大怨霊」と呼ばれている。

 

成田山新勝寺

成田山新勝寺の開山は平将門征伐祈願のためであった。

東国の混乱を恐れた朱雀天皇は、将門調伏祈願を寺社に命じた。

天慶3年(940年)密勅をうけた真言宗の僧寛朝は京都高尾山護摩堂に安置されていた、開祖空海作の「不動明王像」を奉じて総国に下り、国公津ヶ原の地にて朝敵調伏を旨とする不動護摩供を奉修した。

しばらくすると、平将門は戦死したという知らせが届いた。

その後、朱雀天皇は、「寛朝が帰京しようとしたが、不動明王像が動こうとしない」との報告を受け、公津ヶ原にて東国鎮護の霊場を拓くべきとの考えのもと、寛朝に開山せしめ、神護新勝寺の寺号を下賜したという。

こうした由来から、平将門を祭神として祀る東京の神田明神や築土神社と、成田山の両方を参拝することを避ける人もいるという。

 

<続く>

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