17.1.2. 藤原純友の乱
純友と海賊
藤原純友は寛平5年(893年)頃の生まれといわれている。藤原北家の流れを継ぐ中級貴族で祖父は藤原遠経(右大臣、従四位下)ある。
父の藤原良範は太宰府で任務(大宰少弐)をしている。
純友も同行しており、ここ太宰府で海賊退治をした経験があった。
父、藤原良範は早世する。
父の死により、出世に必要な人脈を失うことになる。
純友は中央での出世を諦めて、承平元年(931年)頃に地方官である伊予掾(国司の第三等官)の任についた。
その頃瀬戸内海では海賊が横行して大きな問題となっており、藤原純友は、海賊退治の経歴とその戦闘能力の高さを、買われて任命されたのである。
当初は瀬戸内海で強奪を働く海賊鎮圧の職務を見事にこなし、名声を得るようになる。
純友は承平4年(934年)伊予掾の任期が終わっても京に帰らず、その名声と知名度を生かして伊予国の三津(現在の松山市)に屋敷をかまえ定住することにした。
純友は承平6年(936年)頃になると伊予国日振島(現在の宇和島市)を根拠にして瀬戸内海沿岸の海賊や地方官を支配下におき、海賊行為を指揮するようになる。
純友が率いた海賊は、彼がかつて鎮圧した海賊だけではなく、その大半は武芸に通じた官人層で、中央の貴族社会から脱落し、朝廷のあり方に不満を抱いていた者たちであったといわれている。
同年6月、紀淑人が伊予守兼追捕海賊使に任じられ伊予に下向した。
紀淑人は、海賊集団約2,500人を、これまでの罪を問わないということを条件に、朝廷に帰順させた。
このとき、藤原純友が紀淑人の配下になってこれらの交渉に当たったと言われている。
純友は配下の海賊を一度捕らえたことにして、罪を認めた者には田畑を与えて解き放した。
しかし、この純友の功績を朝廷は認めなかったため、純友は朝廷や淑人に対して怨みを持ったといわれている。
純友叛く
ここに、藤原文元と三善文公という男達が登場する。
この男の詳細な素性は不明であるが、藤原氏の一族で、藤原文元は備前介として赴任し、その後て備前国に土着した。三善文公はその弟と言われている。
彼らは海賊的な行為も行っており、藤原純友の配下だったと思われる。
天慶2年(939年)の秋、備前国では受領の藤原子高が藤原文元と対立し、同様に、播磨国では受領の島田惟幹が三善文公と対立し、紛争化した。
純友は、文元等を支援するときめた。伊予守紀淑人はこれを制止するが、純友は聞かなかった。
「純友よく聞け、猛者のお前にとっては藤原子高など敵ではない、だけどな役人を打ち取るとお前が朝敵となって、全国に追われる身となる。悪いことを言わんから止めておけ」と紀淑人は言った。
しかし純友は「分かっておる。だけど藤原文元達は儂の仲間だ。聞けば今年は天候不順で不作らしい、それなのに、受領達は容赦なく税を取り立てていると言うではないか。今までもそうだった。
だけど今度は意を決して文元達は立ち上がったのだ。しかしこのままでは文元達は殺られてしまうのが見えている。
文元達は儂の仲間だ、ほっとくわけにはいかん。
見捨てる訳にはいかないのだ、そんなことをしたら、儂はもうここで生きていく事はできない。
だから儂が助太刀するのだ」と言った。表情は穏やかであった。
純友は配下に命じて備前介藤原子高、播磨介島田惟幹を襲ってこれらを捕らえる。
このことで、純友は朝敵として追われる身になるはずだった。
ところが、この頃平将門討伐で手一杯であった朝廷は、純友達に懐柔策を取る。
藤原元文に官職を与えたり、純友には過去の海賊退治に対する褒美として従五位下を与えて機嫌を取り、騒動が拡大するのを抑えようとした。
しかし一方で、小野好古を山陽道追捕使長官、源経基を次官、大蔵春実を主典に任じ、討伐の準備を進めていた。つまり懐柔策は時間稼ぎであった。
純友は与えられた官位を受けたが、朝廷の意を介さず海賊勢力と地方官を統率し、日振島を拠点に、瀬戸内海を制圧し続ける。
翌年2月に純友は淡路国、讃岐国の国府を襲い、さらに同年10月にはついに太宰府の兵を破って政庁を襲い、略奪した。
平将門を討伐した朝廷は、純友征伐に戦力を向ける。
天慶4年(941年)2月、朝廷軍は純友の本拠日振島を攻め、これを破り、反撃に転ずる。
この勝利は、元海賊幹部の藤原恒利が朝廷側に寝返ったためと言われている。
純友軍は西に逃れ、大宰府を攻撃して占領する。
しかし、柳川を攻撃した純友の弟の藤原純乗は、大宰権帥の橘公頼の軍に敗れる。
同年5月、小野好古率いる討伐軍が九州に到着する。
小野好古は陸路から、大蔵春実は海路から攻撃を始めた。
純友は大宰府を焼いて博多湾で大蔵春実率いる官軍を迎え撃つが、大敗し800余艘が討伐軍に奪われた。
純友は小舟に乗って伊予に逃れたが、同年6月、純友は潜伏しているところを捕らえられ、獄中で亡くなったとされている。
藤原純友の伝承・逸話
純友の出自や終焉の地について種々の説話がある。
愛媛県の亀井英希氏の「藤原純友伝承に関する一考察」より
<出自の伝承>
12世紀前半に成立した説話 集『今昔物語集』には、「今昔、朱雀院ノ御時二伊予掾藤原純友卜云者 有ケリ、筑前守良範ト云ケル人ノ子也」と紹介されている。
また14世紀後半に成立したとされる 『尊卑分脈』にも、良範の子として、 「西海道賊首、従五位下、伊予掾」として純友が記されているという。
一方、伊予の 地方豪族である伊予前司高橋友久の子とする説がある。
これは、 近世に編集された『大村家譜』の次の記述を根拠としている。
「 純友 従五位下、伊予介、 稚名源八郎、 実伊予河野高橋前司友久男、 伊予大洲館主」
しかしこの説は虚構であることが明らかにされている。
<終焉の地の伝承>
地域的には、伊予、備前、阿波等の諸国があり、次の6箇所の地域で終焉地に関する伝承を見出すことができるとある。
①新居浜 ②古三津(松山市)③宇和郡 ④大洲(愛媛県) ⑤備前釜島 ⑥阿波鳴門
<怪異説話>
将門の首の話ほど有名ではないが、純友にも首にまつわる説話がある。
・「大村家譜」に阿波鳴門で入水した純友の首を藤原魚成なる人物が、京都に待ち帰ったが、奇異な事がおこるので、祇園の祠に納め本浄院円郭純友大居士なる戒名を与えた、という。
・また「大乱記」には
純友の首を七条河原に晒そうとすると、急に空が暗くなり、雷雨混じりの大雨となり、純友の首は消えて亡くなった。
その後土佐国から当国津寺に首が落ちていた。純友をよく知る人は、純友の首と言う。
官軍の人も、そのようであるという・・・・
17.1.3. 承平天慶の乱の結果
結果として、抗議行動に出た者たちは反乱者として鎮圧された。そして、鎮圧した勲功者たちが勲功をもとに満足のいく恩賞を獲得することとなった。
このとき勲功を挙げた者を承平天慶勲功者と呼ぶ。彼らのほとんどは貴族に属してはいたが、低い官位の官人であった。
しかし、乱の反省から朝廷は彼らを五位・六位といった受領級の中級貴族に昇進させた。
そのため、10世紀後半の貴族社会において承平天慶勲功者とその子孫は軍事に特化した家系、すなわち兵の家(つわもののいえ)として認知されるようになり、この兵の家が軍事貴族ないし武士の母体となった。
<続く>