26.8. 元寇後
26.8.1. フビライの三次日本侵攻計画
フビライは日本侵攻を諦めきれず再度日本侵攻を計画した。
弘安5年(1282年・至元19年)7月、フビライの再侵攻の意向を知った高麗国王・忠烈王は、150艘の軍船を建造して日本侵攻を助けたい旨をフビライに上奏する。
同年9月、第二次日本侵攻(弘安の役)で大半の軍船を失っていた元は、平灤、高麗、耽羅、揚州、隆興、泉州において新たに大小3,000艘の軍船の建造を開始する。
弘安6年(1283年・至元20年)5月、フビライは国内の状況から日本侵攻計画を一旦取り止める。
しかし、諦めきれないフビライは、8月頃再び出兵を計画する。
第九回使節
フビライは第三次日本侵攻計画を推進する一方で、九回目となる使節団を日本に派遣する。
弘安6年(1283年・至元20年)8月、フビライの命を受けた提挙・王君治と補陀禅寺の長老・如智は日本に向けて出航した。ところが、黒水洋を経たところで台風に遭遇し、結局、使節団は日本に辿り着くことはできなかった。
第十回使節
フビライは前回の使節団派遣から1年後の弘安7年(1284年)10月再び日本に服属を迫る使節団を派遣した。
ところが、使節団が対馬に至った際に、日本に向かうことを恐れた水夫らが船中において王積翁を殺害してしまったため、今回の使節団も日本側と接触する前に失敗した。
日本侵攻を諦めきれないフビライが次の第11回目の使節を送るのは約8年後である。
これは、元国内の内乱とベトナム侵攻の影響である。
もし、これらが無かったら、三度目の日本侵攻が本当に起こっていたかもしれない。
ベトナム侵攻については、後で述べる。
第十一回使節
正応5年(1292年・至元29年)7月、フビライの重臣であった江淮行中書省参知政事・燕公楠が、交易により来航した日本の商船に日本宛の書状を託し、その日本船によって日本側に書状がもたらされた。なお、書状の内容は史料として残っておらず、またフビライの命によるものかは詳らかではない。
第十二回使節
正応5年(1292年・至元29年)、フビライから漂着した日本人の護送を機に日本側に服属を迫る国書を渡すよう命じられた高麗国王・忠烈王は、高麗人の太僕尹・金有成を正使に書状官・郭鱗らを日本へ派遣した。
日本に到着した金有成らは日本側によって鎌倉へ連行されたが、その後の様子は詳らかではない。
1294年(永仁2年・至元31年)1月、大元朝初代皇帝・フビライが没する。
第十三回使節
正安元年(1299年・大徳3年)、フビライの後を継いだ大元朝第2代皇帝・テムルは、補陀禅寺の僧・一山一寧を正使として国書を託して日本へ派遣する。
この一団が元が日本へ派遣した最後の使節団となった。
国書の趣旨は、先帝フビライの遺志によって、是非とも日本と交誼を結びたい、ということで、文章もかなり穏やかになっていたという。
一山一寧らが博多に至ると鎌倉幕府9代執権・北条貞時の命により、一山一寧らは鎌倉に連行され伊豆の修禅寺に幽閉される。
その後、一山一寧は徳の高い高僧であったことなどが分かり、建長寺に入れた。
その名声を聞いて集まるものが非常に多かったという。
正和2年(1313年)後宇多上皇の招きにより京都の南禅寺に入り、南禅寺三世となった。
文保元年(1317年・延祐4年)に日本で死去した。
26.8.2. 北条時宗その後
弘安の役後も元の脅威から開放されることはなかった。
日本側は元側の動向を察知し、元の造船を担った江南地方に間者を送り込み、情報収集に努めていた。
1282年(弘安5年)9月に江南地方で日本側の間者が捕らえられたことが元側の史料『元史』に記述されている。
元寇による戦没者を敵味方なく弔うために弘安5年(1282年)円覚寺を開いた。
時宗は弘安の役(1281年)の3年後に34歳(満32歳)で逝去し、円覚寺に葬られた。
二度の元軍の襲来を撃退したが、鎌倉幕府は戦後に今度は御家人などに対する恩賞問題などが発生し、財政難のなかで3度目の元軍襲来に備えて改めて国防を強化しなければならないなど、難題がいくつも抱えることになる。
恩賞問題は鎌倉幕府に対する御家人の信頼を失墜させていった。
この2つの戦いの代償はあまりにも大きかった。
2つの国の政権の体力をすり減らした。
鎌倉幕府は52年後の元弘3年/正慶2年(1333年)に滅亡する。
また、元は鎌倉幕府滅亡から35年後の1368年に明によって滅ぼされることになった。
26.9. 余談
26.9.1.ベトナムと中国
べトナム人は今から3000年ほど前に揚子江の南の地域から移ってきたと言われている。
中国との地理的な近さもあってベトナムは常に中国からの支配を受けていたが、10世紀に中国の政治が弱体化した隙に独立を果たした。
その後9世紀に渡ってベトナムは独立を保ち、中部ベトナムのチャム族を支配下に入れ、さらにメコンデルタをカンボジアから奪い、ラオスの大部分も傘下に入れた。
19世紀初め阮(グエン)王朝が全土を統一、「越南」と称した。
ベトナムのベトは「越」、ナムは「南」の意味で、合わせて「越国南方の地」を意味する。
ベトナムは19世紀にフランスが出てくるまで独立を維持している。
この間、ベトナムは中国と15回戦いを交えており、その都度中国を追い返すのに成功している。
かつて、ベトナムでハロン湾観光した時にガイドさんは、私が日本人だとわかると、
「中国とは隣接しているため多くの観光客も来るが、度々戦争をしています。
今でも戦争の準備は怠っていない、戦争の準備をしていないと必ず戦争になる。
中国は弱みを見せたら攻めてくるからです。でも私達は一度も中国に負けていません」
と話し、胸を張った。
26.9.2. 白藤江の戦い
歴史上、「白藤江の戦い」としては3回の記録がある。
①白藤江の戦い (938年) - 南漢軍との戦い
②白藤江の戦い (981年) - 北宋軍との戦い
③白藤江の戦い (1288年) - 元軍との戦い
モンゴル帝国は3度にわたりベトナムに遠征している。
第4代モンケ・ハンの時に1回、第5代フビライ・ハンの時に2回である。
フビライ・ハンの時は日本遠征からベトナム遠征に主力を切り替え、大規模な遠征を2回強行したが、いずれも北ベトナム大越国の陳朝によって撃退され、失敗している。
1284年元はチャンパ(ベトナム中部から南部でチャム人が2世紀末に建設した国家)を討つために陳朝にも出兵を要求する。
しかし、陳朝はそれを拒否した。
同年、チャンパ遠征軍は暴風に遭い大損害を被った。フビライは陸路チャンパを攻撃するため、陳朝に出兵、ハノイを占領した。
元の将軍烏馬児はベトナム軍捕虜を大量に殺害したが、将軍陳国峻に率いられたベトナム軍の抵抗をうけ、撤退した。
1287年フビライは前回の失敗に烈火のごとく怒り、日本遠征の計画を中止して、大軍を派遣して陸上海上からベトナムの陳朝を攻撃した。
ハノイは陥落し陳王仁宗は逃亡したが、ベトナム軍は元の糧食輸送船を狙ってその輸送路を断ったため、元軍は持ちこたえることができず翌年、撤退した。
フビライはベトナム征服をあきらめず、1292年にジャワに遠征軍を送った後、翌年ベトナム再征を計画したが、1294年に没したため実行されなかった。
1288年4月の白藤江の戦い
陳朝ベトナム軍は1288年4月、白藤江の戦いで、杭をバックダン川(ハロン湾に流れ込む川)に埋めて、満潮時にモンゴル軍の船を誘った。
干潮になると、元の船団は川底の杭に退路を阻まれ、多くの船は船底を損傷させ、動けなくなった。
そこに陳朝軍は小舟で攻め込んだ。
さらに陳軍は火をつけた筏を潮に乗せて流し、船団を炎上させた。
艦船100隻を沈め、400隻を捕獲、元軍兵士多数が水死し、大勢の将軍、士官たちが捕虜となったという。
<ホーチミン市の歴史博物館に展示されている絵画と杭>
26.9.3. マルコ・ポーロの東方見聞録
余談をもう一つ
東方見聞録の著者で有名な、マルコ・ポーロは1274年から1291年まで元に滞在している。
マルコ・ポーロはフビライに気に入られていたらしい。
東方見聞録には、マルコ・ポーロが伝聞として聞いた弘安の役に関する記述がある。
その一部を要約して記述する。
凄まじい北風によって、元の船団は破壊され、一部の軍隊は帰国したが、大部分は滅び、わずかに3万人ほどが生き残った。
日本の王はこれを知ると、ジパング中の船をこぞって小島に赴くと四方八方から攻め寄せた。
しかし、戦いに慣れていないジパングの人々が船に警戒の兵を残さず、みな上陸してしまったのを見た。
これを見た、タタール人(モンゴル人)たちは逃げると見せかけて敵の船に殺到すると、すぐさま乗り込んでしまった。
<小島に取り残されたモンゴル軍の敗残兵たちをサパング軍が包囲しているのに対し、敗残兵たちがこっそりと抜け出してサパング軍の軍船を奪おうとしている場面>
タタール人たちは船を奪うと、すぐさま本島に向けて出立した。
彼らは上陸し、ジパング王の旗をなびかせて進んだ。
このため、首都を守る人々はタタール人たちを味方だと思って入場させた。
タタール人は入城すると、すぐさま城郭を占領し、住民たちをすべて外に追い払った。
これを知ったジパングの王と軍隊とは大いに悲しみ、残された何艘かの船に乗って本島に戻ると、兵を集めて首都を囲んだ。
中に籠もったタタール人たちは7か月の間持ちこたえた。
もはや持ちこたえられなくなって、命を助けるかわりに一生ジパングの島から出ないという条件で降伏した。
このように、フビライ・ハーンの軍が京都まで攻め上った等の空想的で荒唐無稽な記述をしている。
ジパング
ついでに、マルコポーロの日本についての記述を、次に載せる。
(日本は)東方の島である。大陸から1500マイル離れた大きな島で、住民は、肌が白く礼儀正しい。
また偶像崇拝者である。
(以下はマルコ・ポーロ『世界の記述』における「ジパング」著者:片山幹生より)
そして量ることができはないほど大量の金をこの島の住民は持っていることを言っておきます。
これまでこの島から金を持ち出そうとするものはいませんでした。
というのも大陸から遠く離れた場所にあったため、この島に行った大陸の商人はほとんどいなかったからです。
この島には非常に大きな宮殿があり、その宮殿は、我々の国の教会が鉛で覆われているようなやり方で、純金で覆われていることを、お知りおき下さい。
それだけではありません。この宮殿の床とあらゆる部屋は大きな純金の板でできていて、その金の厚さは指二本分ほどもあるのです。
島の住民は宝石を大量に持っていますし、真珠もたくさん持っています。
赤い真珠で非常に貴重で、その価値は白い真珠に匹敵します。
<続く>