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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−65(元寇−6 弘安の役)

26.7. 弘安の役

元は1279年(弘安2年)に南宋を滅ぼした。

フビライは弘安2年(1279年)杜世忠ら使節団が斬首に処されたことを知らないまま、周福を正史として8回目の使節団を日本へ派遣した。

同年6月、日本側は周福らが手渡した牒状が前回と同様、日本への服属要求であることを確認すると、博多において周福ら使節団一行を斬首に処した。

フビライは杜世忠ら使節団の帰還を待つ一方、出兵準備を開始する。

フビライは弘安2年に日本侵攻用の戦艦600隻の造船を命じた。
同年5月、さらにフビライは済州島から軍船建造の木材3,000隻分を供出させるとともに、6月には900艘の造船を高麗に命じた


弘安4年(1281年・至元18年)、元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000〜56,000人・軍船900隻と江南軍約100,000人・軍船3,500隻が日本に向けて出港することを決めた。

その数、約140,000〜156,000人、及び軍船4,400隻の世界史上最大規模の艦隊であった。

東路軍と江南軍は6月15日までに壱岐島で合流し両軍で大宰府を攻める計画を立てていた。

 

 

しかし、江南軍の総司令官が病気のため交代したことにより出港が遅れる。
東路軍と江南軍の合流は、7月末になってしまうのである

 


東路軍

5月3日 朝鮮半島の合浦を出港

東路軍の出発は、いかにも早すぎる。これは、当時朝鮮半島は深刻な食糧不足であったという。そこで、3ヶ月分の食料をもたせて、早めに出発させたといわれている。
食料が無くなる前に日本で調達させようとしたのである。

5月21日 対馬侵攻

5月26日 壱岐侵攻

6月6日

博多湾に侵入し、上陸しようとしたが、日本側はすでに防衛体制を整えて博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地を築いており、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念した。

また、博多の浜の水際には乱杭、逆茂木といった障害物が造られていたという。
<吉野ケ里の乱杭・逆茂木>


東路軍は、志賀島に上陸し、ここを占拠して軍船の停泊地とする。

この日の夜半、日本軍の一部の武士たちが東路軍の軍船に夜襲を行っている。

6月9日

度重なる日本軍の攻勢に、東路軍は志賀島を放棄して壱岐島へ後退して、江南軍の到着を待つことにした。

6月15日 

東路軍の一部が長門を襲来するが、長門国、石見国もこれを想定した防御態勢を取っていたため、この上陸作戦も潰される。

江南軍

江南軍は兵10万、軍船3500艘。兵の主力は元南宋兵であった。
彼らは、鋤や鍬それに脱穀機まで持ってきた。
日本を占領し屯田兵としてそこに住み着くつもりであったようだ。

6月18日頃 慶元(浙江省 寧波市)・定海(浙江省 舟山市)​​等から出港した。

6月下旬  江南軍の主力が平戸島と鷹島に到着した。


壱岐島の戦い

6月29日 

日本軍は壱岐島の東路軍に対して松浦党、彼杵、高木、龍造寺氏などの数万の軍勢で総攻撃を開始した。

7月2日 

肥前の御家人・龍造寺家清ら日本軍は壱岐島の瀬戸浦から上陸を開始。瀬戸浦において東路軍と激戦が展開された。

7月12日頃 

壱岐島の戦いの結果、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦と江南軍が平戸島に到着した知らせに接したことにより壱岐島を放棄して、江南軍と合流するため平戸島に向けて移動した。


東路軍・江南軍合流

7月27日頃 東路軍と江南軍が鷹島で合流した。伊万里湾は元軍の船団で覆い尽くされた。

  


鷹島沖海戦

7月27日

鷹島沖に停泊した元軍艦船隊に対して、集結した日本軍の軍船が攻撃を仕掛けて海戦となった。戦闘は日中から夜明けに掛けて長時間続き、夜明けとともに日本軍は引き揚げていった。

鷹島に留まった元軍は、鷹島に駐兵して土城を築くなどして塁を築いて日本軍の鷹島上陸に備えた。また、元軍艦船隊は船を縛って砦と成し守備した。


台風

7月30日

夜半、台風が襲来し、元軍の軍船の多くが沈没、損壊するなどして大損害を被った。
東路軍が日本を目指して出航してから約3か月、博多湾に侵入して戦闘が始まってから約2か月後のことであった。

元軍船団は密集した湾のなかで、暴風に流されないように錨を下ろしていた。

これが、災いする。

船同士が嵐の中で衝突を繰り返し、被害が甚大になったという。

一方、日本側は六波羅探題から派遣された後の引付衆・宇都宮貞綱率いる60,000余騎ともいわれる大軍が北九州の戦場に向けて進撃中であった。

なお、この軍勢の先陣が中国地方の長府に到着した頃には、元軍は壊滅していたため戦闘には間に合わなかった。


御厨海上合戦

閏7月5日

日本軍は伊万里湾海上の元軍に対して総攻撃を開始した。
日本軍は、この御厨海上合戦で元軍の軍船を伊万里湾からほぼ一掃した。

鷹島掃蕩戦

御厨海上合戦で元軍の軍船をほぼ殲滅した日本軍は、次に鷹島に籠る元軍10余万と鷹島に残る元軍の軍船の殲滅を目指した。
一方、台風の後、鷹島には日本軍の襲来に備えて塁を築いて防備を固めた元軍の兵士10余万が籠っていたが、 台風の襲来で既に大損害を被っていたため諸将らは、軍議を開き最終的に撤退に決する。
諸将は損傷していない船から兵卒を無理矢理下ろすと、乗船して兵卒を見捨て本国へと逃走した。その後鷹島では管軍百戸の張なる者を指揮官として、張総官と称してその命に従い、木を伐って船を建造して撤退することにした。

閏7月7日

日本軍は鷹島への総攻撃を開始した。

日本軍による鷹島総攻撃により10余万の元軍は壊滅し、日本軍は20,000〜30,000人の元の兵士を捕虜とした。
現在においても鷹島掃蕩戦の激しさを物語るものとして、鷹島には首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、遠矢の原、前生死岩、後生死岩、供養の元、伊野利(祈り)の浜などの地名が代々伝わっている。

戦闘はこの鷹島掃蕩戦をもって終了し、弘安の役は日本軍の勝利で幕を閉じた。

「蒙古襲来絵詞」文永の役
<季長が敵船に乗り込み、蒙古兵を討取る>

 


<季長、蒙古兵の首を提示して安達盛宗に軍功を報告>

 

 

鷹島の海底遺跡

松浦市鷹島町神崎免の沖合い海域が​​平成24年3月27日、日本初の海底遺跡「鷹島神崎遺跡」として国史跡に指定された。

 

この海域は、弘安の役(1281年)の際に、元軍の船団が暴風雨により沈没した地点として伝えられていた海域である。

 鷹島の南岸では以前から壺類や刀剣、碇石などが地元の漁師などによって水中から引き揚げられていた。
昭和55年から開始された発掘調査では、船体の一部や、陶磁器類、漆製品、矢束、刀剣、冑などの武器や武具類などが多量に出土し、これらの出土品を分析した結果、弘安の役で沈没した元軍のものである可能性が高まっていた。

また平成23年秋、鷹島海底遺跡を調査していた琉球大学の研究グループは、神崎免米ノ内鼻の沖合い約200m、水深20mから25mの海底を約1m掘り下げたところら元の軍船を発見した。

<続く>

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