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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−67(中世前期の石見の来住者−1)

27. 中世前期の石見の来住者

鎌倉時代の初めまでは、人々は遠くに移り住むことは少なかった。

有力な武家でも、分家した一族は惣領の近隣の地に住み、その地を開墾して惣領を支える、というのが一般的であった。

しかし、ある事件により、武家の移動、特に東国から西国への移動が活発になり、石見国にも各地から武家がやって来て住み着くようになる。

彼らの多くは、住み着いた土地の名をとって氏とした。

承久の乱と新補地頭

武家の移動が増えた時期の一つが承久の乱後である。

これは、現在の名字分布にまで影響が残るほどの大移動だったという。

承久の乱は、鎌倉に本拠を置く鎌倉幕府と、京都の朝廷を中心とした勢力が戦ったものである。

戦いは幕府方の圧勝に終わり、後鳥羽上皇ら3人の上皇が隠岐・佐渡・土佐に流されることになった。

承久の乱後、鎌倉幕府は朝廷側の所領約3000箇所を没収した。

これらの土地は西日本に所在しており、新しい地頭として多くの東国の御家人が西日本の没収領へ移住していった。

これを新補地頭といい、それ以前の地頭は本補地頭と呼ばれた。

当初は御家人たちは遠い西日本に赴任せず、代理を派遣して管理していた。

しかし、元寇に際して西日本の守りを固めるために、鎌倉幕府は新補地頭たちに自領に移住するように命じた。

こうして、彼らは一族郎党を率いて西日本の任地に移っていった。

こうした武士達は、東から西に移り住んだことから西遷御家人と呼ばれている。

主なものには、大友氏(相模→豊後)、相良氏(駿河→肥後)、伊東氏(伊豆→日向)、熊谷氏(武蔵→安芸)などがある。

西遷御家人には、やがて地元の有力一族に発展したものも多く、戦国大名の大友氏や伊東氏はこの末裔である。

 

石見へ移り住む武家

石見へ他の地域からの来住者が増加するのは、前述したように承久の変後、ついで元寇以後の二つの時期である。

またこの頃、地頭たちは自領を子女に分与してやる風習があり、所領の細分化が進み一部の地頭達の経済生活は次第に窮迫しつつあった。

そのため、新領を得れば、直ちに一族を移住させる逼迫した情況であったことも、この移動に拍車をかけた。

弘安の役 (1281年) 後から、北条氏滅亡の元弘3年(1333年)頃までのおよそ半世紀の間、石見国の政治勢力の変動は、激しいものであった。 

国司、郡司はほとんど有名無実となり、地頭としての豪族の勢力は守護職すら制圧しかねる情況であった。

この時期に、つぎの南北朝から戦国時代にかけて石見で活躍する諸豪族が殆ど顔をそろえた。

さらに承久の乱や蒙古襲来などの世の中の激動の影響を受け、既存の権威や権力に対する見方が変ってきていた。

このような状況下で、南北朝の動乱の影響を受けた、石見の豪族たちは石見各地で戦闘を繰り返すことになる。


以下、他国から石見に来住して、勢力を拡大していった、主な武家の各氏についての略歴を記述する。

 

<鎌倉末期の石見豪族達の大まかな分布図>

27.1. 吉見氏

吉見氏は源頼朝の弟範頼を祖とする。

範頼の子範国は武蔵国比企郡の比企能員の一族に育てられて、比企郡に隣接する比企禅尼の所領吉見庄にいた。

範国の子為頼の時に吉見庄を譲受けて吉見氏を称したという。

その後為頼は能登に下向し、その子頼国、ついで為忠を経て頼忠と続く。

頼忠は文永8年 (1271年) 京都警備にあたっており、 弘安の役には石見の海岸防備のため出兵した。

「石見誌」に、

弘安五年十月吉見三河守源頼行、石見三百町を賜はり鹿足郡木曾野に移る。永仁三年津和野三本松城を築いて居る。子孫十数世分れて高津氏、下瀬氏、上領氏、柳氏、長野氏と為る。

と記載されている。

「永仁三年(1295年)に三本松城を築き移る」とあるが、永仁三年は築城を開始した年であり、城の落成は正中元年 (1324年)である。
また、弘安5年に300町の地を得たとなっているが、これは永仁三年の誤りと見られている。


頼行の子頼直のとき元弘の乱に遭遇し、頼直は後醍醐天皇の綸旨を奉じて長門探題を攻め、建武の新政がなると、恩賞として阿武郡を賜った。
その後、足利尊氏の謀反によって新政が崩壊すると、頼直は尊氏に属する。

吉見頼行の八子、興次源長幸が、美濃郡高津町小山城主になり、高津氏と称す。

南北朝時代は一族が南北に分かれて相争う例が多かった。

吉見氏と境を接する益田氏の場合、惣領は武家方に三隅氏ら庶子家は南朝方に分裂して互いに相争った。

吉見氏も例外ではなく惣領の頼直は武家方に、弟といわれる八郎頼基や一族の高津入道道性長幸らは南朝方に属していた。

また、尊氏と弟の直義が争った観応の擾乱が起ると、頼直の二男という入道元智とその子元実らは直義方となり、直義が討たれたあとはその養子直冬に味方して活躍したことが知られている。

その後、吉見氏は大内氏や毛利氏の傘下となり、引き続き三本松城を居城としている。

関ケ原の戦い(慶長5年(1600年))で西軍が破れたため、吉見氏も津和野を退去して萩に移住した。

その1年後に、東軍に属した坂崎直盛が入城し、石垣を多用した近世城郭へと大改修を行った。

しかし、この坂崎直盛は元和2年(1616年)に千姫事件で自害し、坂崎氏は改易となった。

その後を継いだのが亀井氏である。

元和3年(1617年)因幡国鹿野藩(鳥取県鳥取市鹿野町)より亀井政矩が入城し、以後明治維新まで11代にわたり亀井氏の居城となった。

<津和野城跡地からの展望>

 


(参考)津和野領四万三千石 歴代領主

領地(慶安年中調):(鹿足郡五十八村(六十三の内)、邑智郡二村( 百十三の內)、那賀郡廿七村(百廿の內)、美濃郡四十八村(九十八の内)、合計百三十五村

 

<続く>

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