21. 院政
藤原氏は天皇に娘を嫁がせ、生まれた子供を天皇にして自身は天皇が幼いときは摂政、天皇が成人したら関白という位になり、政治の実権を代々独占してきた。
これを摂関政治という。
摂関政治は、治承4年(1068年)後三条天皇 (在位1068〜73年) が、約170年ぶりに藤原氏出身の母を持たない天皇として即位すると衰退する。
後三条は譲位後まもなくして崩御したが、次代の白河天皇が本格的な院政を開始し、曽孫の崇徳にいたるまで三代の天皇の治世で権力をふるう。
白河法皇崩御後は、鳥羽法皇、後白河法皇が政治の実権を握り院政を行った。
一般的に、白河院政から平家滅亡までを院政時代と言う。
<第71代後三条天皇から第82代後鳥羽天皇までの天皇系図>
21.1. 院政の始まり
応徳3年(1086年)白河天皇は、善仁親王(堀河天皇)に位を譲り、上皇になって政治の実権を握り続けた。
これが「院政」の始まりである。
この院政、実は個人的な理由から始まった。
白河天皇の父、後三条天皇が決めた皇位継承順位では、白河の次の天皇は弟の実仁親王になっていた。
白河天皇は自分の子供を即位させるために天皇の位を譲ったのである。
院政とは、天皇家の家長である上皇が、子や孫である天皇にかわって政治を行う体制のことである。
上皇は天皇の上位に位置して、大きな権力を持つことになった。
院政のもとでは「院近臣」と呼ばれる上皇お気に入りの側近貴族や武士などが政治の実権を握った。
また、院直属の軍事力として、「北面の武士」がおかれた。
後に平氏や源氏がここから台頭してくるのである。
院の近臣や北面の武士の武力を利用しながら、上皇はさらに大きな力を蓄えていく。
上皇が出家してお坊さんになると「法皇」と呼ばれる。
21.2. 皇位継承をめぐる確執と謀略
21.2.1. 鳥羽上皇と崇徳天皇
鳥羽天皇は堀河天皇の皇子である。
永久5年(1117年)、白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内し、翌年に中宮となる。
藤原璋子は父親の藤原公実が亡くなり、従兄弟である白河法皇が引き取り育てた女性である。(白河法皇の母と藤原公実の父が兄弟)
鳥羽帝と待賢門院との間には5男2女が誕生した。
後の崇徳天皇、後白河天皇も鳥羽帝と待賢門院との子である。
崇徳天皇は保安4年(1123年)満4歳で皇太子となり、同年に天皇に即位した。
鳥羽天皇は太上皇帝(上皇)となったが、実権は祖父の白河法皇が握っていた。
鳥羽天皇は白河法皇崩御のあと院政を敷く。
院の要職を自身の側近で固め、伊勢平氏の平忠盛の内昇殿を許し政権に近づけた。
また白河法皇の後ろ盾を失った待賢門院璋子にかわり、長承2年(1133年)頃より藤原得子(美福門院)を寵愛するようになる。
保延5年(1139年)に鳥羽上皇と美福門院の間に躰仁親王(後の近衛天皇)が生まれた。
このときに鳥羽上皇と美福門院は陰謀を企てたとされている。
まだ、男子のいなかった崇徳天皇に、生後1ヶ月余りの躰仁親王(後の近衛天皇)を養子にするように勧めた。
崇徳天皇は、弟を養子にしておけば、弟が天皇になったあとでも、上皇として院政を行えると考え、受諾した。
翌年に崇徳天皇に男子重仁親王が生まれると、この重仁親王は美福門院の養子となる。
その理由は不明だが、恐らく重仁親王を皇太子にさせないためではないかと思われる。
そして、鳥羽上皇は永治元年(1141年)、23歳であった崇徳天皇を譲位させ、得子が生んだ躰仁親王(近衛天皇)を3歳で即位させた。
躰仁親王は崇徳天皇の養子であるので、「皇太子」のはずであったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた。
天皇が弟では将来の院政は不可能である。
崇徳上皇にとってこの譲位は大きな遺恨となった。
康治元年(1142年)、鳥羽上皇は東大寺戒壇院で受戒し、法皇となる。
久寿2年(1155年)、近衛天皇が早世すると、鳥羽天皇の第四皇子で崇徳上皇の同母弟である雅仁親王(後白河天皇)を即位させた。
雅仁親王が即位したのは、怨念渦巻く謀略によるものであった。
久寿2年(1155年)7月23日、近衛天皇は崩御する。
崇徳上皇は息子の重仁親王の即位を望んだ。
しかし後継天皇を決める会議(参列者は何れも美福門院と関係の深い公卿)で後継と決まったのは、守仁親王であった。
守仁親王は雅仁親王の子供であったが、生母の源懿子が出産直後に急死した。
守仁親王は祖父の鳥羽法皇に引き取られ、その后の美福門院に養育されていた。そのため、美福門院の全面的な支援を受けていた。
しかし守仁親王はまだ幼少(12歳)であり、また実父の雅仁親王を飛び越えて即位するのはいかがなものかとの声もあり、父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった。これが後白河天皇である。
雅仁親王はその頃流行っていた「今様」に夢中になり毎晩音楽の遊びをしていた。
その没頭ぶりは常軌を外していたといわれ、鳥羽上皇は「即位の器量ではない」とみなしていた、という。
しかし、鳥羽法皇の崇徳上皇憎しはそれを上回ったようである。
後白河天皇の即位により崇徳上皇が院政を敷く可能性は失われた。
この後白河天皇即位が保元の乱を誘発することになる。
古事談
崇徳院は何故このように鳥羽法皇に冷遇され、忌み嫌らわれていたのか?
鎌倉初期の説話集「古事談 2巻52節」にこの反目の原因を次のように記述している。
待賢門院は白院の娘として、入内した。白河法皇としばしば密通しており、人はみなそれを知っていた。
崇徳院は白河院の子云々と噂された。
鳥羽院もそのことを知っており「叔父子」と呼んで嫌っていた。
鳥羽院は亡くなる最後のときにも、藤原唯方を呼んで自分がなくなったら、新院(崇徳院)に死顔を見せないようにと遺言した。
案の定、新院が鳥羽院に会いに来ても遺言なのでと言って入室を拒んだ。
この伝説は「古事談」が唯一の出典である。
つまり古事談以前の資料には、このことを記述したしたものが見当たらないということである。
尚、近年ではこの説話は真実ではないと否定する意見もある。
<古事談、2巻54節>
21.2.2. 後白河天皇
第74代鳥羽天皇の第四皇子として生まれた。
異母弟の第75代近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、久寿2年(1155年)に第76代天皇に即位する。
保元3年(1158年)に二条天皇に譲位する。以後34年にわたり院政を行った。
その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲などとの対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。
公家社会から武家社会に変わる時代に、政治の舞台のど真ん中に座り、公卿や武家に大きな影響力を与えた。
21.3. 藤原氏の勢力の後退
21.3.1. 結婚形態の変化
平安時代の貴族の結婚の形態は変化していった。
平安時代の前期は、結婚しても夫婦は別居し、夫が妻を訪ねる 妻問婚が主流だった。
中期には夫が妻の家に同居する 婿入婚 に変化し、夫が妻の家に住むようになる。
生まれた子は、妻の実家で育つため、妻の父親の影響を大きく受けることになる。
これが天皇の外祖父になる藤原氏による摂関政治の権力の裏付けになった。
平安時代の後期以降になると、妻が夫の家に同居する 嫁入婚 が多く見られるようになった。
21.3.2. 藤原氏の力の衰え
第70代後冷泉天皇(在位:長元9年(1036年)〜寛徳2年(1045年))には藤原氏を外戚とする皇子がいなかった。
後冷泉天皇の皇后に藤原頼通、藤原教通らの娘が入内していたが、遂に皇子は生まれなかった。
第71代後三条天皇は後冷泉天皇の弟で、藤原氏を外戚に持たない天皇である。
後三条天皇の後にも藤原氏を外戚とする天皇が現れているが、上皇が天皇家の家長として直系の天皇を後見しながら、治天の君として法や慣例を超えて専制的な院政を行うようになっている。
このような院政や、結婚形態の変化の影響も受け、天皇の外戚の地位は、権力確保と直接に結びつかなくなってきて、藤原氏の権勢も衰えていったのである。
<続く>
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