42.足利直冬(2)
42.2.石見銀山
42.2.1.石見銀山
石見銀山(大森銀山とも呼ばれた)は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。
平成19年(2007年)6月28日に世界遺産(文化遺産)への登録が決まり、7月2日に正式登録された。
江戸時代に著された「石見銀山旧記」によると、銀山の発見は鎌倉時代末期、
「周防国守、大内弘幸が北辰星(北極星)のお告げに導かれて仙ノ山に登ると、自然銀が雪のように露出していた。
しかし露出した銀を取り尽くした後は放置された」
と記されているが、史実は不明で伝説とする説もある。
銀山として本格的に開発されたのは大永6年(1526年)の室町時代である。
博多の商人、神屋寿禎が仙ノ山の沖合いを航海中、山の相に鉱脈の精気を見つけ、後に博多から呼び寄せた宗旦・慶寿という2人の鉱山技師を伴い、山に間歩を拓いて採鉱し、灰吹法という技術で銀を精錬した、ことが始まりである。
それが天文2年(1533年)であり、以後飛躍的な増産が始まり、その技術は他の鉱山にも伝えられた。
<銀山の町並み模型:石見銀山世界遺産センター>
<龍源寺間歩>
龍源寺間歩は石見銀山遺跡の中で唯一、常時公開されている間歩で、入場料金は410円。
ここの坑道は大久保間歩の次に長く、全長は約600mで、通り抜けコースとなっている。
間歩:銀を採掘した坑道を「間歩(まぶ)」と呼ぶ。
石見銀山 龍源寺間歩
<大久保間歩>
1日4回各回20名限定(1日80名様限定)の人数制限完全予約制のツアー見学。
ツアー料金3700円(大人一人)
石見銀山と足利直冬
文和2年/正平8年(1353年)足利直冬が石見銀山の銀を採り尽くしてしまった、といわれている。
石見国を攻めた足利直冬が銀山を手に入れるが、採掘の技術を知らず、露出した自然銀のみを採っていたがやがて採り尽くしてしまった、という。
『石見国銀山旧記』には正平八年(1353年)足利直冬が、銀を採掘したことを次のように記している。
「建武、延元の大乱に足利右兵衛直冬、当国を攻めて四十八城を陥れ銀山を横領す。
このとき悉く銀を取り尽くしけり。
このときまでは地を掘り、間歩を開くことを知らざりし故、上鉉(うわづる)の鏈(くさり)を取り尽くし、この山衰えたり。」
つまり、
石見国を攻めた足利直冬は銀山を手に入れた。
しかし、その頃は採掘技術、銀の製錬法も知らず、露出した自然銀のみを採っており、やがて採り尽くしてしまい、地表の銀は無くなった。
ということである。
<採掘の方法:石見銀山世界遺産センター>
<露頭堀:石見銀山世界遺産センター>
<石見銀山付近模型:石見銀山世界遺産センター>
次は「石見銀山旧記」に沿って、石見銀山の発見から足利直冬の銀採掘までの経緯を見ていく。
<続く>