30.3.元弘の乱
30.3.10. 千早城の戦い
千早城の戦いは、正慶2年/元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の倒幕運動に呼応した河内の武将である楠木正成と、鎌倉幕府軍との間で起こった包囲戦である。
千早城は上赤坂城・下赤坂城と並び、現在の大阪府千早赤阪村に位置する山城である。
楠木正成は丸太や大石を崖から落とすなどの奇策で約100日間も幕府軍を釘付けにし、最後まで落城しなかった。
<千早城を築く 歌川芳藤画>
鎌倉幕府軍は下赤坂城・上赤坂城を落城させた後、楠木正成の最後の拠点である千早城を包囲する。
太平記には、
千剣破(ちはや)城の寄手は、前の勢八十万騎に、又赤坂の勢吉野の勢馳加て、百万騎に余りければ、城の四方二三里が間は、見物相撲の場の如く打囲で、尺寸の地をも余さず充満たり。
旌旗の風に翻て靡く気色は、秋の野の尾花が末よりも繁く、剣戟の日に映じて耀ける有様は、暁の霜の枯草に布るが如く也。
大軍の近づく処には、山勢是が為に動き、時の声の震ふ中には、坤軸須臾に摧けたり。
此勢にも恐ずして、纔に千人に足ぬ小勢にて、誰を憑み何を待共なきに、城中にこらへて防ぎ戦ける楠が心の程こそ不敵なれ。
此城東西は谷深く切て人の上るべき様もなし。
南北は金剛山につゞきて而も峯絶たり。
<幕府軍は、100万騎に膨れ上がり、城の四方約2Km(当時の1里はおよそ650m)を相撲見物のように取り囲んだ。楠木軍は、わずか千人の小勢で、誰がいつ加勢に来るかと便りにして待つわけでもないのに、城中にいて、戦う楠の心の程は、なんとも不敵である。
この城は東西が谷が深く切れ込んで人は上れそうにない。南北は金剛山に続いていて、しかも峰がそばだっている。>
だが、太平記に記されている100万騎はいかにも盛り過ぎである。
仮に周囲2Kmを1m間隔で囲んだとすると、一回りで2000人で囲める。
この囲が、例えば20列あったとしても4万人程である。
従って直接戦闘員以外もいると思うので、多く見積もっても10万に程度ではなかったかと思われる。
最初、幕府軍は、楠木軍の陣容を見くびって無闇に攻撃をしかけたが、正成の奇策により、あっさりと撃退されてしまった。
そして、その被害は甚大であった。
幕府軍は長期戦で臨むことにする。
上赤坂で用いた水源を断つ作戦に出たが、城内には大木をくり抜き300もの木船が水もたたえており、食料も十分蓄えており、効果はなかった。
千早城を包囲していた幕府軍は、長い籠城戦の末に次第に気を緩ませはじめる。
楠木正成は、この機を見逃さずに一計を講じる。
まさに謀将の面目躍如である。
夜、甲冑(鎧兜)を着せ、楯を前に置いた藁人形を30体ほど並べ、その後ろに約300人の精鋭を配置した。
そして、夜明け前に幕府軍へと襲い掛かった。
城から兵が討って出たと思った幕府軍は、すぐさま我先にと攻め込んでいった。
楠木正成軍の精鋭達は、矢を射ながら退却するが、もちろん藁人形は退却しない。
この一歩も退かない人形めがけて突入した幕府軍の兵を目掛けて、数十という大石が落下し、幕府軍はこれによって多くの死傷者を出すことになった。
<藁人形を作っている画>
さらに幕府軍は、規律が乱れ同士討ちなどが始まり、200人ほどの死者を出すと言う事件が起こった。
この報せを受けた幕府は激怒し「戦いもせず同士討ちとは何事だ。早急に城を攻め落とせ」と総攻撃を命じた。
幕府軍は千早城の深い堀に渡す巨大な梯子を造らせた。
この梯子を滑車で城の断崖に倒しかけて、数千の兵が城に押し寄せてきた。
しかし、その時城から大量の松明が投げ落とされ、さらに水弾(水鉄砲のようなもの)からは多量の油が降り注がれた。
火は谷風にあおられて、梯子は瞬く間に炎上。
幕府軍は、楠木正成の見事な策に翻弄されて大勢の死傷者を出し、成すすべを失って敗走を喫するのである。
そうしているうちに、吉野、十津川、宇多、内郡の野武士たちが大塔宮の命を受けて集まってきた。
その数七千余人となり、その野武士たちは、あちこち峰、谷に隠れて、千早城を攻める幕府軍の行き来する道を塞ぐ行動をする。
これにより幕府軍の兵の兵糧がたちまちに尽き、人馬ともに疲れ果ててしまうのである。
後醍醐帝が閏2月24日に隠岐国の配所を脱出し、船上山に入った。
帝は討幕の綸旨を全国に発し、これに播磨国赤松則村、伊予国河野氏、肥後国菊池武時が蜂起すると、千早城を囲んでいた大名が相次いで帰国することになった。
新田義貞も千早城の戦いには河内金剛山の搦手の攻撃に参加していた。
しかし、元弘3年/正慶2年(1333年)3月に新田義貞は病気を理由に無断で新田荘に帰ってしまった。
義貞はその後、5月に倒幕の挙兵を行うのである。
5月8日午の刻(午後12時頃)、尊氏によって六波羅が陥落したという報せが千早城の籠城軍、そして包囲していた幕府軍にも伝わった。
幕府軍の諸将は相談し、撤退を決めた。
5月10日早朝、幕府軍の諸将は陣を撤収して、10万騎の軍勢は南都(奈良)へと引き上げた。
大勢の兵が退却にあたり死亡したが、包囲軍の主だった将は戦死せず、同日夜半に南都に到着した。
楠木正成の奮闘・健闘は全国各地に波のように伝わっていき、後醍醐帝方の武士に勇気を与え、その機を固唾を呑んで窺うことになる。
そして、後醍醐帝は隠岐脱島の決意をすることになるのである。
<続く>