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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−82(後醍醐天皇−10 吉野城の戦い)

30.3.元弘の乱

30.3.9. 吉野城の戦い

元徳3年/元弘元年(1331年)の赤坂城の戦いで落ち延びた護良親王は吉野城で挙兵する。

吉野城は吉野山一帯をさしていう中世山城のことである。

護良親王は、蔵王堂を本営とする防御体制をつくった。

蔵王堂は、金峯山寺の本堂である。

金峯山寺は、以前「立石伝説」で記述したように、役小角の開基とされている。

天武天皇3年(674年)、役小角は大峯の山上ヶ岳山頂で山林修行を行った。

その時に蔵王権現を体得し、蔵王権現像を掘り上げ蔵王堂に祀った。

また中興の祖である、理源大師(聖宝)は、寛平七年(895年)に金峯山で如意輪観音・多聞天・金剛蔵王権現の像を造りそれぞれの像を安置するお堂を建てた。

<蔵王権現像>

 

護良親王

後醍醐天皇には子供が多く、諸説あるが36人いたと云われている。

一般に伝えられているのは8人の皇子と8人の皇女である。

護良(もりよし)親王は尊治親王(後醍醐天皇)の第三皇子として生まれる。

(第七皇子の義良(のりよし)親王が後の第97代後村上天皇である)

 

6歳の頃、尊雲法親王として、天台宗総本山「比叡山延暦寺」の別院「梶井門跡」(現在は京都市左京区にある三千院)に入る。

尊雲法親王は20歳になると、天台座主(延暦寺の住職で天台宗の最高位)の地位に就いた。

尊雲法親王は比叡山の大塔に入室していたことから「大塔宮」とも呼ばれていた。

 

元徳3年/元弘元年(1331年)尊雲法親王は後醍醐天皇が笠置山に入ったときに合流するが、笠置山陥落時に離れ離れになり、赤坂城に楠木正成と立て籠もる。

赤坂城の戦いで落ち延びた尊雲法親王は、般若寺(奈良市)を経由して十津川に向かった。

十津川で大塔宮・尊雲法親王は還俗し護良親王と名乗った。

やがて十津川にも探索の手がせまると、吉野に逃れる。

​​正慶2年/元弘3年(1333年)正月、護良親王は吉野の吉野城(金峯山城)を仮の本拠地として、3000の兵で千早城の楠木正成と呼応し同時に挙兵した。

<太平記 巻第七 吉野城軍事>

元弘三年正月十六日、二階堂出羽入道道蘊、六萬余騎の勢にて大塔宮の籠らせ給へる吉野の城へ押寄る。

菜摘河の川淀より、城の方を見上たれば、嶺には白旗・赤旗・錦の旗、深山下風に吹なびかされて、雲歟花歟(雲か花か)と怪まる。

麓には数千の官軍、冑の星を耀かし、鎧の袖を連ねて、錦繍しける地の如し。

峯高して道細く、山嶮して苔滑なり。

されば幾十萬騎の勢にて攻る共、輒(たやす)く落すべしとは見えざりけり。

昼夜七日間休む間もなく戦って、城中の兵三百余人が討たれ、寄せ手も八百余人が討たれた。

まして、矢に当たり石に当たって重傷を負う者は幾千万とも知れない。

血が草むらを染め、屍は道ばたに横たわっている。

しかし城の兵の様子は少しも衰えないので、寄せ手の者たちは疲れ果てて気力を失ったように見えた。

<宮方軍 配置図>

そこで幕府側は、作戦を練り直す。

考えてみると、この城を正面から攻めれば、人が討たれるばかりで、落とすことはできない。

思うに、城の後ろの金峰山には、山の険しさを頼りに敵はそれほど兵を置いていることはないだろうと思われる。

そこで、夜に紛れて金峰山から忍び込み、夜が明け果てた頃に鬨の声を上げ、城内の兵を慌てさせる。

その時に、正面や搦め手、三方から攻めることにしよう。

それではと、まず山の様子を知っている兵百五十人を選んで、金峰山へ回した。

岩を伝って谷を上ると、案の定、ただあちこちの木の梢に旗を結びつけてあるだけで、防ぐための兵はいない。

百余人の兵達は思い通りに忍び込んで、木の下や岩陰に弓矢を隠して兜を脱いで夜の明けるのを待った。

打ち合わせていた時刻になったので、正面の五万余騎が、三方から寄せて攻め上る。

吉野の僧達五百余人が攻め込んだところに下りて向き合い防ぎ戦う。

寄せ手も城内の兵士も互いに命を惜しまず追い上げ追い落として火花を散らして戦った。

こうしているところに、金峰山から回った搦め手の兵百五十人が愛染宝塔から下りてきて、あちらこちらに火を掛けて鬨の声を揚げた。

 

前後から攻められた親王軍の前線が崩壊した。

親王の陣地は幕府軍に囲まれ、徐々にその包囲の輪は狭くなってくる。

護良親王は討ち死にを覚悟する。

その時部下の一人である、村上義光が身代わりを申し出て、親王に逃げるよう進言した。

説得された護良親王は意を決して鎧と直垂を脱ぎ義光に渡し、親王は落ち延びていった。

親王を見送った村上義光は護良親王になりすまして叫んだ。

「天照太神の御子孫、神武天皇より95代の帝、後醍醐天皇の第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に滅ぼされ、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」

義光は、鎧を脱いで櫓から投げ下ろし、錦の鎧直垂と袴姿となり、練り絹の二重袖をはだけた。

そして、左の脇腹から右の脇腹まで一文字にかっ切り、自分の腸をつかみ出して、櫓の板に投げつけ、大刀を口に銜えたあとうつ伏せにして絶命した。

<幕府軍進路と宮方軍退路図>

  

  <歌川豊宣 作 宮吉野落図(一部)>

  

 

村上義光の墓

村上義光の墓が吉野駅の近くにある。

幕府軍は自害したのが本当に親王だったかを検分し、親王ではないと知るとその首をそこへ捨てた。

それを哀れんだ里人は弔って墓を建てたそうである。

護良親王一行は高野山へ落ち延びた。

護良親王の元に、吉野、十津川、宇陀の武士が七千騎集まる。

これらの兵士は、護良親王の命を受け、千早城(楠木正成が立て籠もる)を取り囲む幕府軍の兵糧を遮断する行動をする。

幕府軍の兵糧は底を尽き、人馬の飢え始まり、幕府軍の疲労が限界まで達するのである。

 

<続く>

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