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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−180(尼子の阿用城攻め)

59.戦国の石見−2(続き)

59.2.尼子の阿用城(阿與城)攻め


出雲に帰国後、尼子経久は強敵大内義興が不在の間にと、弟の尼子久幸や嫡男尼子政久らを率いて、備後、美作、伯耆など各方面に攻め入り、数々の勝利を収めていった。

尼子経久の嫡男である尼子政久は、経久に負けず劣らずの智勇兼備の将と伝えられ、経久は政久がいたからこそ、勢力を拡大できたといわれている。

永正10年(1513年)尼子軍が桜井宗的が拠る阿用城(阿與城、磨石山城とも)(雲南市大東町東阿用(磨石山))を取り囲んだ。

戦いの時期については諸説ある。

「陰徳太平記」では永正15年(1518年)、「雲陽軍事記」では永正5年(1508年)、「佐々木系図」では尼子政久は永正10年(1513年)としている。

一方、阿用城由来記(阿用地区振興協議会)では、上記の資料から、永正10年頃に起こったものではないか、としている。

 


尼子軍は経久の嫡男・尼子政久を筆頭に攻め込むが攻めあぐみ、戦況は膠着していた。

そこで尼子政久は、兵の士気の低下を防ぐ為に、夜になると陣中で得意の笛を吹き、兵たちを鼓舞していた。

しかし、その噂を聞きつけた桜井勢は、夜陰に乗じて雅久の陣近くに忍び込み、笛の音のする方へ矢を放った。

するとその矢が見事政久に命中し、将来を有望視されていた若武者は敢え無く討たれてしまうのである。

このときの尼子経久の悲しみと怒りは尋常なものではなかった。

次男尼子国久らに命じて、阿與城を7000人の兵で取り囲み、完膚無きまでに桜井宗的の軍勢、一族郎党を討ち果たした。

​​有能な嫡男を失った尼子経久ですが、いつまでも悲しんでばかりはいられない。

経久は後継ぎを尼子政久の次男・詮久(後の尼子晴久)と定め、出雲とその周辺諸国の平定に奮戦をするのである。

しかし永正15年(1518年)、長年留守にしていた大内義興が帰国した。

この後、尼子氏と大内氏の争いが本格化していくことになるのである。


59.1.1.陰徳太平記より

巻四 尼子伊豫守経久攻雲州阿與城事

 

尼子伊予守経久は一昨年永正13年(1516年)、京都を逃げ下り本国雲州富田城に帰った。

これは、近江の佐々木との約束を果たすためである。

その約束とは出雲近国を切り従え勢力を増して、時節を以て京都へ攻め上がり、足利義晴(後の12代室町将軍)を世に出す陰謀であった。

この陰謀を考えると、尼子経久は日夜の寝食を楽しむこともできなかった。

経久は人馬の休息が終わると、近国の武力平定に乗り出した。

永正15年(1518年)には国の過半数を切り取った。

同年8月に、出雲の阿與城を取り囲み攻撃した。

守るは桜井氏の阿與入道宗的である。

阿與入道宗的は身命を惜しまず防戦し、容易く落城するようには見えなかった。

経久はこの城を力攻めしては、徒に人数を損失するばかりである。

労多くして功無きとして、先ず詰め所を構え付城(前線基地)を五箇所築き、遠攻めとした。

しかし、城中は堅固に守られており、寄せ手は攻め倦んで、徒に日数を送るだけであった。

寂然のなか、経久の嫡男民部大輔政久は夜な夜な向城の櫓に上がり、楊調(古典音楽の調子の一つ)を吹き鳴らし、更け行く月に心を澄まし

殘星幾點雁横塞 [残星幾点 雁は塞を横ぎり]
長笛一聲人倚樓 [長笛一声 人は楼に倚る]
(趙嘏(中国・唐の詩人)の詩)

と吟じると、林木も是がために揺落し山石も忽然として破裂せんとする。
聞く人開山の思いに凝らし胡客北走の悲しみを生じさせた。

「胡客北走」
故郷を懐かしむことのたとえ
「胡馬北風」の略
胡で生まれ育った馬は、他の地方に行っても、北風が吹くと風に身をまかせて、風が吹いてくる方角にある故郷を懐かしむという意味

阿與入道は城中で是を聞いて、

向城で優雅で心に響く笛の音は、政久が吹いているものであろう。

この人は先年上洛した時、兼ねてより笛が上手と云われていたので、禁裏仙洞(天皇、上皇などの住まい)にも召されて、管弦の御遊の際には笛の役を勤めた、と云われている。

哀れ究竟の事である。

我は射芸に於いては養由(​​中国、春秋時代、楚の弓の名人)、石勇(水滸伝の登場人物)の術を得ているものである。

鷺目、楊葉を射るのみか、例えば下げ針(小さな的のこと)などと云えども射外すことはない。

どうにかして政久を射取ろうと思うが、夜中なので何処に敵がいるのか見分けがつかない。

しかし、良く思い出すと、彼の向城の前に一群の竹が生えている。

白昼にこの中に紛れ入り、向城の狭間に矢を射入れると、十箭射れば十箭とも射込む事ができた。

それならばきっと、思う敵を射つことができると思った。

そこで、弓手(左手)を何れの竹の節に当てて、馬手(右手)をこの竹の刻み目と心標して、帰ってきた。

と云った。

<養由基>

  

<石勇>

 

笛の音がすると夜毎待つ所に、9月6日又笛の声が聞こえた。

すると、阿與宗的はまもなく、彼の藪の中へ忍び込んだ。

そして、兼ねてより心覚えした竹の節、刻み目に弓手(左手)、妻手(馬手:右手)を押し当てて矢を放った。

矢は向城の狭間に射込まれていった。

政久は楊調を無心で吹いて、傾く月の名残を惜しみしているところに、その矢は狙い違わずに政久に当たった。

政久は、笛を彼方に投げ捨てて、俯せとなった。

傍らにいた若党共はこれは何事かと狼狽し、急いで政久を抱き上げてみると、最早事切れていた。

このことを、経久に告げると、経久は大変驚き慌て惑った。

諸仏諸神にかけた願いも甲斐なく、針よ薬よと救急の治療を加えたが、大雁俣で喉の真ん中を射切られているので、蘇生するとは思えなかった。

今年二十六歳であった。

武芸に勝れたるのみならず、詩歌管弦にも長ぜており花実相応(花と実が過不足なく調和していること)の大将であった。

伝え聞くに、薩摩守忠度(平忠度:平安時代の平家一門の武将。平清盛の異母弟。歌人としても優れており、一ノ谷の戦いで、源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死した)なども、このような有様だったのであろうかと、世挙(世を挙げて、一人残らず)って感嘆した。

<平忠度>

 

かくある人をあえなく射殺された父経久の心中を思いやると、とても哀れである。

経久は落ちる涙を抑えて、今は大聖釈迦如来の再生し給いたらんことに祈りをかけ、耆婆(ぎば: 仏弟子で古代インドの名医)、扁鵲(へんじゃく:古代中国・春秋戦国時代の伝説的な医者)を与えるとも、どうして蘇生することができるだろうか。

<耆婆>

<扁鵲>

 

愛別離苦の悲しみ、いまさら驚くべきにあらず。

この上は、政久の孝養に阿與の城中に籠る者を、例え猫児、老鼠たりと云えども盡く討ち果たすべし、と翌7日七千騎を引率し、自ら真っ先に進むと、二男紀伊守国久、三男宮内大輔興久(後の塩冶興久)を先として、龜井能登守安綱、卯山飛騨守、牛尾遠江守幸清、横道、森脇、已下らが、阿與城を一時に攻め取らんと切岸(人口の崖)へ押し寄せた。

阿與宗的は門櫓に走り上がり政久の御弔い合戦であると覚悟をした。

前もって磨いて準備しておいた鏃を揃え、矢を次から次へと射ちだした。

宗的の甥阿與孫六、苗田久七、小山八郎などと云う兵共が、ここを先途(勝敗の分かれ目)と防いでいた。

そうしていると城外の尼子方の牛尾、山中、川副の者十八人が門前に射伏せられ、雑人原(身分の低い者や、武家で具足をつけずに武士に従った雑兵)数百人が手負となり、寄せ手の攻撃は進まなかった。

その時、伊予守経久「若き政久を射殺され、老いたる我が身、命生きて何かせん、唯同じ道にこそ或らんずれ」と怒れる目に紅の涙を流し真っ先に進んだ。

そうすると、誰も一人残らず皆我先にと、攻め登り、射たれても、切られても些かも屏格子を用いず、引き破り一度に城へ乗り込んだ。

阿與宗的は弓を投げ捨て十文字槍を取って突き伏せ、掛け倒し数十人に手負いをさせたが、終に討たれてしまった。

これを見て安與孫六、苗田久七、小山八郎等は宗的の妻子を刺殺し、甲の丸に火を付け、自分達も切腹した。

その外、一族若党共思い思いに切死する中、寄せ手に討ち取られた首は千参百余りと云われている。

 

「陰徳太平記」と同様に尼子と毛利が関係する軍記物語がある。

「雲陽軍実記」である。

この「雲陽軍実記」にも尼子氏の阿用城攻めに関する記述があり、「陰徳太平記」と内容が少し違っている。

次回は「雲陽軍実記」に書かれている「尼子氏の阿用城攻め」を見ていく。

 

<続く>

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