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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−181(雲陽軍事記)

59.戦国の石見−2

59.1.尼子の阿用城(阿與城)攻め(続き)

59.1.2.雲陽軍実記

「陰徳太平記」と同様に尼子と毛利が関係する軍記物語がある。

「雲陽軍実記」である。

陰徳太平記は室町第12代将軍足利義稙の時代から慶長3年頃までを既述しており、

陰徳太平記は、香川正矩(岩国藩の家老)によって編纂され、その次男である景継(宣阿)が著したものであり、正徳2年(1712年)に木版本が刊行された。

一方雲陽軍実記は、戦国尼子晴久の臣である河本大八隆政の遺書を元に作られた戦記文であり、尼子経久が富田月山城を奪還したときから始まり、経久の曾孫勝久が播州上月城に生害するまでを描いており、昭和48年(1973年)に刊行された。

陰徳太平記は、史実の改竄や虚飾が過剰であると言われており、史料としては信頼性がないとされている。

一方、雲陽軍実記は、尼子の盛衰を理解するには好個の資料とされている。

 

雲陽軍実記序

往昔当時の軍記を観るに、 漢朝の記録は日本詞に和解し、本朝の軍記は元来手爾於葉(てにをは)の仮名文を加え、編するに風雅の語を以てす。 
起源の事儀疎にして唯編者の才学を顕わさん為、種々の景物を以って増補し、文花月詞の筆翰に任す。 
故に其の興廃を看るに一害を成し、その存亡を聞くに一失を成す。
夫れ文字は道を貫くの器なり。
器無くしては万物顕れず、茲に某青年の時、芸州吉田の戦場に於て組討して当敵は討留め乍ら深疵を蒙り、五体不具となる。 
此の故に職を避け仕官を止め、隠林の寂にありて、前に雲水山月を望み、其の余暇に在りて、雲陽一国の軍事を最も眼前に見る所に於て誌す。
亦予の其の戦場に至らざるの旨趣は、親族、知音、盟友より、その軍中の興廃存亡の実跡を書記して之を送らしむ。
則ち虚妄浮説を省き、作為文花を禁じ、唯正跡を以って拙墨を染め、雲陽軍実記と日いて、凡そ五巻を著わす。
然れども備・芸・石・因・伯・作・播州等の戦少々載すと雖も、これ雲州戦に緒有るに依り拠無く之を記すものなり。
経久富田月山城を切り返せしより始め、勝久播州上月城に生害するに至って終る。
凡そ年暦六十歳の間、治乱盛衰の事儀、全く実録と為す可き也。
時に天正八年庚辰三月、隠子藤原静楽軒編者行年八十七歳老筆を試む。

 

以下この「雲陽軍事記」に描かれている、尼子氏の阿用城攻めに関する記述を見ていくことにする。

雲陽軍事記では「阿用合戦 並びに尼子民部少輔政久落命之事」の項に記述されている。

合戦の大筋に於いては、「陰徳太平記」と大きな違いはないが、事件の背景などには違いが見受けられる。

これは、「陰徳太平記」は毛利側に立った記述であり、「雲陽軍事記」は尼子側の記述であるための違いであろうと思う、

 

「雲陽軍事記」は昭和48年に刊行されているためか、「陰徳太平記」に比べ読みやすい。

その原文は次の通りである。

阿用合戦 並びに尼子民部少輔政久落命之事

尼子経久公、月山の城を夜討して大利を得、所々の地頭、旗本の面々へ使者を以て申し入らるるは、此の度富田を切り返し、祖父の積憤を散らし、直ちに入城せしむる者なり。

尤も各々旧好に候へば富田攻めの砌(みぎ)り、出陣給はり候様に先達て申し入るるべきの所、此の思ひ立ち不意に起こり、事急に候故、其の義なく候。

然れば祖父子相変はらず馴染を思ひ、以来も経久が幕下となり、二心なく参勤これあるべきや。 

または異変に及ぶべきや、有無を具(つぶ)さに承はるべしと触れられければ自国隣国の大小名、菜地、食地の地頭、御家人に至るまで、月山に降礼を述べ、君臣の誓約を堅め、珍宝稀財を捧げ父祖の本領を切り返し給ふ賀儀をぞ演べられけるに、伯州羽衣石の城主南条豊前守宗勝入道、並びに尾高泉山の城主行松入道等、経久の命に応せず。

仍つて山名家を退治せずんば因伯の地頭等我に随ふまじとて、弟下野守義勝を大将として差し向けらる。

(尼子経久は富田城を奪還すると、

このたび富田城を取り返して入城したが、このことは急に思い立って行ったため、旧誼​​​ある方々に連絡しなかった。
そういう事で今後も、祖先から続く関係どおりに経久の家臣となり忠義を尽くして欲しい。

と、あちこちの地頭や旗本に使者を出して、参上するよう伝えた。

すると、近くの大小の名田の所有者や地頭、御家人らは富田城に参り、君臣の誓約をし、珍宝稀財を捧げ先祖伝来の本領を安堵してもらった。

しかし、伯州の羽衣石(うえいし:鳥取県東伯郡湯梨浜町)の城主南条豊前守宗勝入道、尾高泉山(米子市尾高)の城主行松入道等は経久の命に応じなかった。

尼子経久は、伯耆・因幡国の守護である山名家を倒さない限り、因伯の地頭等は尼子に従わないだろうと思った。

そこで尼子経久は弟の下野守義勝(尼子久幸)を大将として征討軍を差し向けた。)

 

然るに阿用の桜井入道宗的は一族郎等を集めて申しけるは、我数代当城を領し、子孫安楽に住する事は佐々木、京極の不世の大恩なり。

偶々(たまたま)京極家の代官として、尼子上野介持久、当国守護となり、下向以後は何ぞ我が家を譜代の家の子同然に思ひ、万端に付きて不礼のみ多し。

仮令籏下なりとも他家の礼儀は思ふべき筈なり。

今、経久不慮に富田を方便一戦に乗っ取って父祖遺職を穢さんと欲す。 

一戦の利につきて多年の恩を忘れ、逆臣経久に膝行せんや、運を天に任せ当城に立て籠り、義を塩治殿の廟陵に尽くさん。

(また、阿用城(島根県雲南市大東町)に居する桜井宗的も、尼子に反旗を翻した。

桜井一族は代々、佐々木・京極家のおかげで城をもち領地を得ている。

尼子はたまたま京極家の代官として当国を治めているだけである。

それなのに、どうして、我が家を尼子譜代の家のように扱うのは無礼この上ない。

仮に、支配下の者であろうと、礼儀は尽くすべきである。

多年の恩を忘れ経久に跪くことはできない。

かくては、たとえ敗北しようとも城に立て籠もって抵抗し、塩冶(経久が富田城を奪還した戦いで戦死した前の富田城主)に義を尽くそう。)

 

<以下は原文のみ>

汝等早く木戸、逆茂木を引き懸け、経久が勢の寄せ来るを防ぐ用意せよ。 

幸ひ此の節伯州の敵を退治せんとて多勢東に出向出陣せしと聞き及ぶ。

さもあらば此の所へ攻め来たる勢は定めて纔(わづ)かならん。

敵おびき出すとも卒(には)かに城外へ出る事なかれ。

怯む折を見澄まし、風雨の夜討など変に応じ、機に臨み戦はば、仮令(たとへ)経久猛虎が勢あるとも何ぞ恐るるに足らんとて、終に月山へ降参せず、籠城の用意ありければ、此の旨経久公具(つぶ)さに聞きて、退治延引せば、国内の異変多かるべし。 

速やかに討ち果たすべしとて、嫡子民部少輔政久を大将として、永正五年七月下旬より阿用の城を攻め給へども、嶮城に猛将鉄兵籠り居て兵糧多く貯へ入れければ、なかなか力攻めには成り難く、寛兵の謀を以て敵を窮らし、逸を以て労を討つべしとて、在家数十間打ち破り、二重に高楼を作り、城を一片に見渡し、また歩卒を城外八方に遣わし、稲を刈り取り兵糧を妨げ、折々は高楼に近習の若者を集め、管絃を稽古させらる。

大将政久は天王寺浅間某が弟子に笛の上手ありければ、夜の更くるまで毎夜吹き遊び給へば、なかなか城を攻め給はん事思ひも寄らず、軍務に怠り給ふやうに見せ掛け給へども、宗的入道も軍慮に利しき老功なれば、此の謀にも迷はず、昼夜軍令を厳しくし居ける処に、一夜急度思ひ付き、唯一人城を忍び出で、三人張に十四束三ッ伏せの大箭十六筋さして、かの高楼の向城篠藪の中に隠れ入り、時分を伺ひ居りける処に、高灯籠の下に当たつて常ならざる笛の音あり。

思ふに政久は当代の笛の妙手、極めて今の笛は政久なるべしと聞き澄まし、それを目当てに大雁股を引いて放せば、運の極みにや、政久の喉射通され、二言も云ひ給はず事絶え給へば、有り合ふ近習騒ぎ立ち、諸軍勢の愁傷語るに詞なかりけり。

舎弟国久、同興久大いに怒り、仮令(たとえ)我々を始め七千余騎の者一人も残らず此の城にて討死すればとて、最早延び延びには 差し置き難し。

いざや四方より一時に攻めのぼり、運を天に任すべしと、血眼に成りて怒り給へば亀井、川副等諌めて申しけるは、先づ政久公の死去を隠し、陣中静まり太守経久公の御賢慮次第に合戦をば仕るべしとて、頓(やが)て経久公へ注進頻りなれば、鬼神の如き経久公も大いに憤り、も、強敵なれば遺恨の積もる儘に率雨の戦ひをなし、再び敗亡を招かん事も武略に疎き故と、後代に嘲弄せられんもまた恥辱なり、此の上は力及ばず、謀を以て一戦に城を乗り落とすべしとて、それより亀井安綱、 宇山飛騨守、牛尾遠江守、横道、森脇、川副等に一千余騎を差し添へ夜討に出で立たせ、城の大手より密かに寄せ給へば、すはや夜討掛かりたりとて、阿用孫六兵衛、小山八郎、鍋田久太など追手の城戸へ出向かひ防ぎ戦ひ、射矢は雷の如く、逆矢に飛ぶ。

然れども元来夜討なれば敵に懸け合はせ、死生を争ふまでもなく、楯を女鳥羽に突き寄せ 中拒み合ふばかりなり。
斯様に討たする事三夜まで打ち詰めて寄りけれども、木戸より内へは終に一人も入る事なし。 

宗的思ふ様、大将政久落命の上は夥しく一合戦有るべしと思ふ処に、諸軍勢勇気を屈しけるや、今四、五日も此の城を持ち堪へる程ならば、富田勢は引き去るべしと云ひける故、城兵皆心怠り、其の後は守りも堅からず、少し油断の体に見へければ、経久諸勢を手配りして、先づ三男興久に二、三千余騎を相副へ、高さ三丈ばかりの竿に大灯籠を結びつけ、数百挺追手の麓に輝かさせ、また手々に松明を燃し、数度鯨波(とき)の声を揚げて城に向かひ、厳しく攻め入る勢をなし、攻鼓を打ち、乱調に貝鉦を鳴らしければ、大山も崩れ、江海 も岳となるかと夥し。

城兵大いに驚き、これは此の間三夜の夜討に利を得ざる故、今宵は理不尽に此の城を焼き落 とさんと歯噛みして寄せたりと覚えたり。

四方の護りを大手一所に集め、木戸、逆茂木を敵に破らるる事勿れ、戦ひを好まず、会釈ふて敵を労らしめよと下知しければ、城の四方を護り居たる諸軍勢、我が受口を打ち捨て、皆々大手に集まり、矢を放ち防ぎけれども、大勢次第に城近く寄せければ、箭(や)は此の間毎夜の夜討に射捨て、今は箭種も尽き、打物にて戦はんも敵はさのみ近づかず、これより討ちて出るべき事もなり難ければ、城内敷石などを取りて投げ出すばかりなり。 

此の時を見澄まし二男国久に三千余騎をつけて思ひよらざる後ろなる山の尾より忍び入り、虚なる所へ無用捨に切り入りければ、城兵どもは大手ばかりに心を掛け、後ろに敵ありとも知らざる事なれば、不意を討たれ、途方に暮れける所に、また横道、森脇等一千余騎を二手に分け、城の左右より切り上り、小屋々々へ火を掛けければ、猛火一片に立ち上りける故、宗的も予ねて獲者の十文字鎗を突き廻り、勇を振るひ、雑兵四、五人突き伏せ、終に其の身も討死せり。

之に依り城兵一千余人炎の中に駆け込み、刺し違ひ刺し違ひ討死しければ、さながら屠所の如くなり。

経久も政久の怨みを一戦に計略の鋒先に敢てし給ひ、喜悦斜めならず帰陣し給ひ、やがて富田家中譜代の郎等を集め、嫡子政久不慮の討死是非なき次第なり。 

我老年に及んで未だ幼稚の晴久に家督相続させん事、今戦国の時なれば覚束なく思ふなり。また二男国久猛勇は和漢に恥ずと云へども、文才疎き故また当たらず、所詮義勝嫡家を継ぎ、怨敵を静め、国家を太平せらるべしと宣へば、下野守承り、晴久若歳なりと云へども、惣領政久の嫡子なり。

是を太守として文なる時は某心身を砕き、武なる時は国久是を退け、内外の後見仕るべく、周公旦遠からず先蹤(せんしょう:先例)なり。

周公旦は、中国周王朝の政治家。

周の武王の死により、武王の少子(年少の子)の成王が位に就いた。成王は未だ幼少であったため、旦は燕の召公と共に摂政となって建国直後の周を安定させた。

 

尊兄天性堅剛なれば御存命の内、晴久も成人に随ひ、父祖の遺跡を継ぐべき器量も顕はれ申すべしと、義を細やかに正して宣へば、経久もいと感心浅からず、家中も皆々領掌せられけり。 

 

 

そして

尼子経久は、宗的を攻略すると伯耆や石見へ侵攻を始めるのである。

安芸にも攻め入り、毛利を使って大内の鏡山城を落城させた。

しかし、この毛利は数年後には大内傘下に入り、尼子を裏切るのである。

 

<以下略>

 

 

<続く>

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