56.応仁の乱と石見周辺勢の動向(続き)
56.2.尼子清定(刑部少輔)
56.2.1.尼子氏
尼子氏は、室町時代中期に京極氏の分流京極高久が所領の近江国犬上郡尼子郷から尼子を称したのに始まる。
元中9年/明徳3年(1392年)足利義満は山名討伐に功績があった京極高詮(たかのり)に出雲・隠岐を与えた。
同年5月、高詮は出雲富田城に入り、尼子持久を出雲守護代に任命した。
尼子持久は700貫を領して富田城に留まる。
<月山富田城跡>
これが尼子氏が出雲に根を下ろした最初である。
<尼子氏 略系図>
以後京極氏の守護代として出雲にて勢力を拡大する。
尼子清定は応永17年(1410年)、尼子持久の子として誕生。
主君・京極持清より偏諱を受けて清定と名乗る。
父から出雲守護代を引き継いだのは応仁元年(1467年)頃とみられる。
応仁の乱勃発により守護・京極氏の支配が急速に衰退、松田氏や三沢氏ら国人領主に反京極氏の気運が巻き起こったが清定はこれを鎮圧、山名氏の出雲侵入を撃退した。
この勲功により持清から能義郡奉行職や幕府御料所である美保関代官職を与えられる。
文明元年(1469年)から3年(1471年)にかけて出雲国大原郡、美保関、伊難波城で争う。
56.2.2.尼子清定の留守居役
尼子清定は応仁の乱にあたり、京極氏の領国である、出雲・隠岐を守護代として管轄しその留守居の任を盡くした。
京極持清から尼子清定に宛てた文書がある。
於國色々雜說之由其開候、如何樣之子細候哉、京都仁無存知之儀候、殊完道九郎國可致成敗之旨風聞由候、事實候哉、入道一向無存知候上者、無覺悟次第候、於以後自然雖申人體候、不可有許容之儀候、每事國時儀可然樣各被仰合敵退治候樣ニ計略候者公私可爲祝着候、委細尙多賀豊後守可申下候也、恐々謹言、
十一月廿二日 生観 花押
尼子刑部少輔殿
(意訳:敵軍間者が味方の一致を破らんが為に領地没収などと言い触すとも、さる者は無きこと、併せて出雲國内諸相一致して敵を討滅せんことを申し下す)
この命に対して清定以下在国諸将が奮闘して敵軍を破り、その軍功を清定より持清に申し建てた。
これに対して持清は感状を下している。
今度國之時儀無注進候之間、無心元之由候、去八日狀到來候、委細令披見候、仍合戰之時儀忠節無極候、別紙ニ進狀候、隨而面々威狀事、任注文遣候、能々可有保美候、猶々當城事可然樣可有成敗候、佐波高橋御暇申時分候、風度下向候者可被申談候、憐國奉公方々可有力之由被成御奉書候、定不可有如在候、返々在庄之時儀心安候、一向憑入候、恐々謹言、
五月廿二日 生 觀 花押
尼子形部少輔殿
(今度国の儀注進無く候ひし間、心もとなき由に候ひしが、去る八日状到来候ひて委細披見せしめ候、
仍ち合戦の時儀忠節極まりなく候、別紙に状進らせ候に随って面々感状のこと、注文に任せ遣はし候、
よくよく褒美あるべく候、猶々当城の事然るべきよう成敗あるべく候、
佐波・高橋御暇申す時分に候、きっと下向候はば申談せらるべく候、
隣国奉公の方々、あるべきの由御教書なされ候、全く加在あるべからず候、返すがえす在庄の時儀心安く候、
一向に憑み入り候)
この書状で
領国の様子を心配していたが、8日に書状が届き事情を理解したことが書かれており、領内紛争鎮定に尽力したことへの感謝し別紙感状を遣わす、としている。
また、佐波・高橋も京都勤務が終るので帰国したら、よく 相談して万事手落ちのないよう領国を固めてくれ、と下している。
また隣国の同志の者たちと協力援助するよう将軍からのお言葉もあった。
と告げている。
56.2.3.清定以後
清定の子経久の代に守護京極政高を追放して戦国大名となり、出雲を中心に山陰地方の国人を従え安芸国、石見国において大内氏と中国地方の覇を争った。
やがて大内氏を滅ぼした毛利氏に圧迫され、義久の代に居城月山富田城が落城する。
以降義久とその子孫は毛利氏の家臣となり、江戸時代には佐佐木に復姓して長州藩士家として続き、維新後士族となった。
尼子経久が戦国大名となったこと、北条早雲と共に下剋上の典型といわれている。
この尼子経久が戦国大名となる経緯については、後で述べることにする。
56.3.赤穴幸清
応仁の乱にて、出雲守護京極氏に付き従った佐波一族の赤穴幸清に関する記録がある。
以下、赤穴氏と赤穴幸清に関することを、少し記述してみたい。
56.3.1.赤穴氏
赤穴氏の祖は佐波備中守常連に始まり、領地の赤穴(現飯石郡飯南町の一部)の地名をとって赤穴氏と称した。
常連は佐波隼人正実連の次男である。
佐波氏はもと三善氏で、常陸国矢飼城より石見国邑智郡佐波郷地頭に入部し、佐波あるいは沢ととなえ、附近に領主制を展開していった。
元来、石見には平安時代末から豪族益田氏がおり、その庶家三隅・福屋・周布などの一族を惣領制的に統率しつつ、守護代的地位にあって石見大半をおさえていた。
しかしながら、東西両端の鹿足・邑智両郡には、比較的その勢力が浸透せず、その間隙をぬって他国からの地頭入部が可能であった。
鹿足郡への吉見氏、邑智・ 安濃郡への佐波・小笠原氏の入部がそれである。
佐波氏の入国時期は詳かでないが、鎌倉末期であったと思われる。
観応の擾乱に際し、高師泰の軍勢と戦って死んだ佐波善四郎顕連は、常連の祖父だといわれている。
赤穴荘地頭職は、元弘の変までは紀三郎太郎季実がもっていたが、北条方についたため、近江番場で破れて逐電してしまった。
その後赤穴地頭職は季実の二人の子によって二分されて継承されたが、間もなく兄弟の争いを起こしために隣国佐波実連が介入して地頭職を手に入れた。
彼が紛争に介入して地頭職を得たのは、母伴氏女が紀氏と何らかの血縁関係にあったからである。
実連は永和3年(1377年) 赤穴地頭職と佐波郷内の一部を、二男である常連に譲与した。
常連は本拠を赤穴瀬戸山城におき、出雲と石見にまたがった地域を領知するという、複雑な立場に立つことになった。
赤穴氏と山名氏との関係は全くわからないが、明徳の乱後補任された京極氏との間に、ゆるやかな被官関係が成長すると共に、石見の佐波惣領家との惣領制的結合も、依然強く存続していた。
「さはの本領ハ惣領さはの下として領知す、赤穴は京極殿へしたかいもつへし」といった状態であった。
明徳の乱
明徳2年/元中8年(1391年)に山名氏清、山名満幸ら山名氏が室町幕府に対して起こした反乱である。
山名氏は破れ、山名満幸の領地であった出雲は京極高詮に与えられた。
応永の乱に際し、赤穴常連は京極氏の被官として大内討伐に参加して、感状を得ているが、この時、大内氏の守護領国制下にあったはずの石見佐波惣領家も、赤穴氏と共に京極高詮の麾下にあって感状をもらっている。
応永の乱
応永6年(1399年)に、守護大名の大内家10代当主大内義弘が室町幕府(足利義満)に対して和泉国堺で起こした反乱である。
結果は幕府が勝利し、大内義弘は戦死した。
大内義弘は周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の守護だったが、敗戦で石見・豊前・和泉・紀伊を没収された。
大内氏はいったん没落しかけたが、大内盛見(義弘の弟で第11代当主)、大内持世(第12代大内氏当主)、大内教弘(第13代大内氏当主)、大内政弘(第14代大内氏当主)らが勢力を盛り返していった。
大内政弘の代には周防・長門・筑前・豊前・肥前の守護となり、石見や安芸にも勢力を伸ばしていた。
56.3.2.赤穴幸清の活躍
赤穴幸清は、「佐波家の紛争」項の「神領横領事件」で述べた赤穴幸重の子である。
神領横領事件
文安5年(1448年)10月ごろ佐波元連が飯石郡赤名にある、京都石清水八幡社赤穴別宮領を横領するという事件が起こった。
これに対し幕府は出雲守護京極持清に命じて討伐させた。
<赤穴八幡宮 飯石郡飯南町上赤名>
この合戦にあたって、佐波氏の分家である赤穴幸重は、本家を守るのではなく、守護方となって惣領元連を攻めている。
この後佐波家と赤穴家両者の間で争いが始まったが、数年後幕府の口入によって、和解している。
応仁元年(1467年)7月11日中御門東洞院の激戦に於て「勇戦して疵を受け一族従者皆創を蒙らざるなし、」として京極持清(出雲守護)より赤穴幸清が次の感状を受けている。
ことに、勝屋右京亮が討死したことについて功労大なりと述べている。
・今度合戰之時、於度々自身被疵、其外親類被官被疵候、殊勝屋右京亮討死事、神妙至忠饰無極 候、仍於恩賞之地者追而可相計候也、恐々謹言、
應仁元七月十二日 生 歡(持清の戒名) 花押
赤穴四郎右衛門尉殿
・去月十一日、於中御門東洞院合戰時、若黨討死神妙至無他者也、彌可被致戰忠,依其淺深可有 恩賞狀如件、
應仁元年八月十五日 判
赤名善四郎殿
以上の戦功により翌年六月幸清は出雲國神門郡多岐次郎左衛門尉跡及切符式拾貫文替地として恩賞を受けている。
出雲國神門郡多岐次郎左衛門尉跡事、今度於京都度々忠窗、外切符貳拾貫交爲替地所相計也、 任先例知行不可有相之狀如件、
應仁二年六月十二日 判
赤名四郎右衛門尉殿
また、その翌年文明元年に至り更に又近江國西庄年貢内参拾石給恩地として授けられている。
近江國西庄年貢内参拾石事、爲給恩所相計也、知行不可有相違之狀如件、
文明元年十月十三日 判
赤名四郎右衛門尉殿
赤穴幸清は文明2年(1470年)に帰国し、守護代の尼子清定に従って、出雲の神西湊合戦に参加した。
出雲は京極氏の持国(所領)で、細川派であったが、応仁の乱が始まると山名派は密使を出雲へ潜入させ出雲の国に騒ぎを起こさせたのである。
そのため国内のいたる所で合戦が起こった。
神西湊へ押し寄せた石見の軍勢は大内の配下で、山名派であった。
石見の軍勢が神西湊に押し寄せたとあるが、押し寄せたのは現在の神西湖ではなく、神西湖の西方の日本海の西村海岸か久村海岸辺りと考えられている。
これらの合戦は文明2年に鎮定された。
<続く>