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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−188(高橋興光の滅亡)

戦国の石見−3(続き2)

60.3.高橋興光の滅亡

戦国時代における石見高橋氏の所領は、久光の時代に石見国邑智郡の阿須那・出羽、安芸国の北半分、山県郡の東部にまで及び、「三歳子牛の毛数ほど人数持ちたり」と称されるほど強大なものになっていた。

さらに高橋氏は近隣の諸勢力との間に婚姻政策を展開し、久光の娘は毛利興元(毛利元就の兄)に嫁いで幸松丸を生んだ。

しかし、巨大な勢力を誇っていた高橋氏も、戦国大名にはなれず没落していく。

永正12年(1515年)に当主の高橋元光が加井妻城(三次市粟屋町)を攻撃した時に討ち死にしてから、その勢力は秋の日暮れのように急速に衰えていった。

そして、終には、新興勢力の毛利元就に滅ぼされるのである。

高橋久光は、嫡男元光が戦死したため、次男重光(弘厚)の子で孫にあたる興光(通称大九郎)を後嗣とした。   

 注)高橋氏の惣領は歴代「大九郎」と名乗っていた。

久光は興光を本拠藤掛城(邑智郡邑南町阿須那)に入れ、重光を後見役として松尾城(安芸高田市美土里町)に拠らせた。

さらに興光の弟忠光を生田城主(安芸高田市美土里町)とし、毛利氏に対抗させていた。

高田郡横田の敬覚寺の由来記に「当山開基は当村松尾城主高橋大九郎為資二男二郎為安なり、当村より石州出羽へ遷城の後厭世の志深く終に薙髪して法名を乗道と改む、当舎を信造して為安千歳坊と称し禅法を苦修す云々」と記録されているが、この為資が重光であって田所 (上出羽)本城におり、為安の兄興光が当主として阿須那藤掛城にいたのである。

 

60.3.1.毛利元就の謀略

この時、 毛利の当主興元(元就の兄、妻は高橋興光の姉)は病中にあった。 

​​毛利興元が病死すると、その子幸松丸があとを継いだ。

高橋久光は興元のあとを継いだ幸松丸の外祖父としてその後見役に乗りだし、毛利家中に睨みをきかせるのである。

大永元年(1521年)の夏、隠居の身であった高橋久光は備後比叡尾山城主三吉隆亮の支城加井妻城攻めを行い、その攻撃中に戦死してしまい、高橋氏は毛利に対する発言権を失うのである。

大永3年7月、毛利幸松丸が病死し、毛利宗家の家督は元就が相続した。

元就の相続後、尼子経久が元就の弟元綱をたてようとする謀略を進めたが、元就は元綱とその与党を誅殺して事を未然に防いだ。

この一件に高橋氏も一枚噛んでいたようで、元就は家中の統制に成功すると、高橋一族の抹殺を考えるようになった。

元就は元綱の事件があったのち尼子氏から離れ、大内氏に属するようになった。

一方、高橋興光は佐波氏、出雲の赤穴氏らと連携しつつ尼子方に親近していた。

そして、元就が大内氏方に与すると、さらに尼子方に接近するようになった。

元就は高橋氏の姿勢を大内氏を裏切るものとして、享禄元年(1528年)、大内氏の命を受けることなく高橋重光の居城松尾城を攻撃した。

元就の松尾城攻撃は高橋氏に深刻な打撃を与え、一層、尼子方への傾斜を深めた。

その後も元就の攻勢は続き、享禄3年、生田(安芸高田市)に侵攻した元就は松尾城を攻めるとともに、高橋領の山県郡北方にも侵入した。

そして、大内氏の部将弘中隆兼、備後和智城主の和智豊郷らの助勢を得て、松尾城(安芸高田市美土里町)を落し、城主高橋重光(弘厚)を討ち取った。

ついで元就は、高橋氏の惣領である興光を調略によって葬り、生田城も攻略して高橋氏を滅亡に追い込んだのである。

毛利元就は戦国武将として、領地の拡大を企図し、高橋氏の隙あらば所領乗っ取りを目論んでいた。

ところが、興光は武将として優れたものをもっていたようで、高橋氏の領地と弱体化をねらう毛利元就としては、毛利氏発展のためにも謀略をもって興光を除く決心をしたようだ。

そして、興光の一族で鷲影城主の高橋弾正左衛門盛光に調略の手を伸ばした。

元就が謀略の手を伸ばしつつあるとき、興光は祖父の仇でもある備後三吉氏を攻略するため出陣、三吉方の入君城を落して凱旋した。

元就に唆された盛光はその途中を待ち伏せ、興光の軍が軍原(いくさばら)にさしかかったところを不意討ちし、興光を討ち取った。

興光を討ち取った盛光は、その首をもって生田に陣していた元就のところに出頭した。

これに対して、元就は盛光を不義者とののしり、その首をはねて討ち取ってしまった。

元就の謀略に乗った盛光は、元就に使い捨てられたのであった。

 

60.3.2.軍原(いくさばら)

高橋興光が盛光に襲われ、切腹したという場所が、現在の「軍腹キャンプ場」である。


ここに、腹切り岩と呼ばれる岩があり、興光はこの上に登り切腹して見せた、という。
      

キャンプ場入口に「伝承 軍原のこと」の案内板があり、興光、盛光、元就らの関係や行動が説明されている。
   

伝承 軍原のこと 

大永享禄のころ毛利元就は、当時この地方に一大勢力を有していた高橋氏を配下に入れようと考え虎視眈々として高橋氏の動静を伺っていた。

これを知ってか高橋興光は山陰の雄尼子氏に密かに意を通ぜんとす。これを察知した元就は、この際興光を滅亡しようと策謀をめぐらし、鷲影城主高橋弾正盛光に「高橋興光をよい手だてによってその首をとれば、高橋氏の所領を汝のものと認め末長く協力することを誓う」との密書を送った。

受け取った盛光は元就の謀略とは気づかず、興光謀殺を決意してその機を伺っていた。

時は享禄三年十二月四日、備後の入君城を攻めていた興光は、正月を故郷で迎えようと一部の者を従えて帰路につき、口羽から出羽川沿いに三三五五我が城藤掛城を仰ぎつつ軍原にさしかかった。

盛光は今こそ好機到来とばかり腕ききの部下達を軍原に森陰に伏せておいて息を殺して興光の到来を待つ程に、神ならぬ身興光は盛光の裏切りなど知る由もなく軍原につくや「ワッ」とばかりに盛光軍の伏兵が襲いかかった。 

不意をつかれて驚きながらも興光は疲労困憊の部下を激励して獅子奮迅の戦いも衆寡数せず全身創痍興光はもはやこれまでと、鎧甲を脱いでそばの松の枝に掛け大岩に上り悠然と腹かき切って果てた。

これを見て盛光大いに喜び「これで高橋の所領一切が我がものとなった」と興光の首を持って犬伏山に出陣していた毛利の武将に得意満面で「お約束の興光の首を持参しました。

この上はお約束の遺領安堵の誓約書を賜りますよう」と内心お賞もと期待していたが思いのほか「汝高橋本家相続人であり元就公の令兄夫人の令弟を謀殺するとは、武士にあるまじきこと。

かかる犬武士は生かしてはおけぬ、直ちに誅せよ」と言って誅し首を斬られ後犬伏山に葬たと言う。

現在も犬伏山の麓に盛光の墓と言われる墓石が苔むして建っている。

(邑南町教育委員会)

 

 

元就が高橋一族を滅ぼした理由は、高橋攻滅後、元就より大内義隆への報告書に明らかである。

高橋領知(領有して支配すること)のこと

上下の庄並びに阿須那のこと、これは凌雲院殿様(大内義興)門山より御下向候ひ、陶尾州(興房)これまた御供にて御下りて候て(大永五年)、はや備芸石のこと悉く雲州利運(尼子経久勝利)になりゆくべしと見かけ申候様、高橋伊予守弘厚 (重光)莫大の御恩を捨て置き、尼子一味候ひて、強敵致し候、然る間、我等として備後の和智相談ひ松尾要害責め崩し候、

この時、西条の弘中殿より御勢合力候、その後高橋大九郎(興光)阿須那藤根城に籠り候ひて、すでに塩谷衆(石見守護代塩冶興久)引出すべきの由催しに候処、此方武略を以ってこれまた仕果し候、高橋御重恩を捨て置き御敵致し候条、退治仕り候、上下の庄、阿須那仕取り候趣のこと

すなわち、大永五年、義興・興房ともに安芸大野の門山退陣後、 芸備石は全部尼子方の占領するところとなるだろうと察した高橋重光父子は、去る永正12年(1515年)元光討死の際義興の特別なはからいで、弟の家筋をもって本家元光の遺領を継承させてもらった「莫大な御恩を忘れ、尼子方に味方して大内家に強く反抗して来たので、これを討滅ぼした。

その後重光の子興光は藤掛城(藤根)に籠城し、尼子方の石見守護代塩谷興久(尼子経久の三男)の応援を得ようとしていたので、これまた「武略」をもって自滅させたというのである。

 

こうして高橋氏を滅ぼしたあと、元就は安芸・石見にまたがる広大な領地を手に入れて、石見・出雲進出への足掛かりとし、戦国大名への道を開くことができた。

高橋氏嫡流滅亡後は、庶流家が毛利氏の部将・出羽氏に属し、関ヶ原合戦後の毛利氏国替えにあたって、大林郷(邑智郡邑南町)に郷士として土着、江戸時代は大林の庄屋として続いたという。

最近の軍原
すっかり廻りはキャンプ場化されており、「腹切り岩」も荒れていた。

 

<続く>

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