文武両道だったとは
中学1年に成り立ての頃だったと思うが、教室の短い休み時間に、突如として 1 対 1 の殴り合いが始まった。教壇の脇のちょっとした広場で、K1さながらのシーンが繰り広げられた。二人は同室の者で、負けず劣らずの強面。どちらが先に手を出したかは解らないが、間違いなく勢力争いだ。その時、自分は二人を押しのけるように間に割り込んで仲裁に…なんてことはあり得なく、手に汗してちょっと身震いしながら、教室の後ろで観戦していた。先日、その勇ましいファイター伊藤さんが、奥さんと一緒に、突然わが家を訪ねて来た。当時の2倍はあろうかと思うほどのヘビー級で、あの素早い立ち回りを見せた彼とは思えない、恰幅の良い体型になっていた。「中学のとき一緒だった 伊藤幸一 だよ、オレのことわかる?」と言ってピンと来ない。少し話しをしていたら、目元の雰囲気から、50年以上も前のイメージが蘇ってきた。彼氏は親父さんの跡を継いで、板金屋さんをやってきたとのこと。その道に興味のある自分は、ほじくり出すように興味深く聴いた。帰り際に、彼はちょっと躊躇いながら、小さい茶封筒を私に手渡した。彼は、10年前に生死をさ迷う大病をしたが、その時に自分が生きていた証として何かを残さなくては…と書き綴った手記だと言う。それがここで紹介させてもらう「呑んべいのむかしの話」で、冊子の裏には確かに本人の名前があった。ページを捲るほど、あの時の荒っぽい彼からは想像もできない、細やかな文章に驚いた。第一、記憶量が凄い。自分の孫親もラヂオで広沢虎三を聴いていた。そして、自分は赤胴鈴の助や紅孔雀に胸をときめかせていたことを思い出した。老い支度のひとつとして、ビデオで自分史もどきを作ろうと、日々思いを巡らせていただけに、突然、この冊子で頭を叩かれた思いだ。彼からいきなり、「中学のとき一緒だった伊藤だけど、これからそっちへ行っていいかナ」なんてアポの電話をもらったら、怖くて電話を切ったかも知れない。板金屋さんをやって行くには、ちょうど良い強面だが、話をして、紳士でとても大きく見えた。自分だけがこの冊子に感激しているのは、とてももったいない。人脈もない自分が、この傑作を少しでも多くの人から感動してもらう方法として、ここに掲載することを思い付いた。伊藤さんはどんな形であっても公開することにためらったが、同期のよしみで無理やり頼み込んだ。勢いでここに掲載させてもらったは良いものの、お粗末なブログだけに、冊子のイメージを壊してしまわないかと心配している。原文のまま掲載させてもらったので、昔を想い出しながら、伊藤さん自筆の挿絵と一緒に楽しんで頂きたい。なお、掲載した記事の著作権はご本人にあります。無断で本文および挿絵の転用はご遠慮願います。(平成22年5月 中学の同級生 奇人凡人記)
呑んべいのむかしの話し(著 伊藤 幸一)
はじめに
六十の手習いで、子供の頃の思い出を、文章にしてみた。他人様が見たら、笑われそうな文章と誤字・脱字、句読点等がでたらめであるが、これも挑戦と思い、 恥を覚悟の上で、書き綴りました。最後まで、お付き合いの程よろしくお願いします。
歩兵三十連隊営門
あーい、だんだん! 寄ればいいねぇがなー。カカの奴、温泉につかりに行ってなー、一人でお茶を飲んでたがなー。 寄らしぇ、寄らしぇ。一人で退屈ほんだてばなー、今年はいっぺこと雪が降らのぉて、いいあんばいだでなー。いつもだば、別所の虚空蔵様のなー、祭りになると荒れて、寒―もなって、大雪ながんだどもなァ。へぇ、ここまでこいばやー、しめたもんだぃなァ。
別所虚空蔵様
俺らの子供の頃、今頃の季節は道端で、竹下駄で滑ったり、落とし穴掘ったりしてたがんになァ。道がキョロンキョロンの夕方れには、足袋はいたまんま、外に走り出て、真黒になった足袋で滑ると綺麗になったがんだでなー。あの頃は、今と違って雪がいっぺこと降ったし、寒ーめかったでな。いろぶちに薪物くべた位では、寒めぇのあたりまえだがなァ。ほんにさ、早よ、村松公園の桜が咲くころになればいいどもや。ん!ほんだわなー、まだ彼岸も来ねがんに。最後に彼岸という〈寒〉がくるがなァ。これからだわい、年寄りには、もう一歩だか。おめぇは、俺らよりも少し若ーけすけに。年を取ると、一つ二つ、って言わんねがなァ。やっぱり子めら時分の頃が一番だがなー。そうだわい。俺らぁが、小学四~五年の頃だがなァ。うん!昭和にせーば、三十一、二年頃だこて。まだ戦争に負けて、これからという頃だなぁー。学校もやっと落ち着いて、勉強ができるようになった時分だがなァ。 俺らァの先生は、女ご先生だったがなァ。先生はいつも、紺色のタイトスカートに、白いブラウス、薄いネズミ色のカーデガンに、長持ちするようチリチリにパーマネントかけた、サザエさんカットの頭に、腕には白墨で汚れねように、手刺しをしてたなァ。隣の組の男先生は、三か月位も床屋に行がねような、油気の無いボサボサで、フケの浮いた頭で、襟先は丸く、首根っこもすり減った、白だか黄色ッポイがんだかわからねぇ木綿のワイシャツに、糸屑がぶら下がった白茶気た手刺しをしてや、先生達、銭んが、いかったがんだろうどもなァ。物が無かったがんだわなァ。俺らァ、男めらも、誰が着たがんだか、何人が着回したがんだか、知らねぇども、上着はツッパ、ツッパ、袖は七分位の長さで、そこから黄色っぽく、こ汚たねげな大きめな丸首シャツの袖口が、手の甲辺りまで伸びている。そうだこてぇな。親ショ、二、三年着させようと思い、でっけがん買うんだがなァ。その袖口で、鼻を拭うすけに、テッカ、テッカに、光ってるがんだがなァ。うん!ズボンは、猿の尻みたいでなー。でっけ布でつぎ当てしてたいなァ。今思うと、面白ぇ格好だったがなー。靴は、ゴムの短靴で、足に汗をかくと、中でギョロ、ギョロって足が滑って、靴脱ぐと、汗で足が白っぽくふやけて、靴の淵は、墨で書いたように、黒く線がついたがんになァ。頭は、金持ちの子めらは、坊ちゃん刈りで、後ろ頭をバリカンで刈り上げ、頭のてっぺんを長くしてやァ。普通、貧乏人は、坊主頭でなァ。みんな家で頭を刈ったがんでなー。床屋でねぇすけに、バリカンが毛をくって涙が出るほど痛ってかったでなー。だすけ頭刈りは、でぇきれぇながんだァ。女ごは、茶っぽい赤の上っ張りに、首の辺りにボタン一つで留めて、胸のポケットに、ろくでもねぇー刺繍がしてあり、親衆は女ごだすけに、少しでも愛しげにしねと、嫁の貰い手がねぇと悪―れすけに、小せぇうちから、力をいれてたがんだわなぁー。そんげ事言うても、昔の親ショのツラは、化粧もしねすけに、ぶちゃらったようなツラしてるがんに、それも親心かなァ。女ごの頭は、襟周りをバリカンで刈り上げ、頭のテッペンの毛は耳のあたりで、平らに切り揃えて、オカッパ頭。うん!そうだいやなァ。頭の毛の長い女ご達は、二日に一回位、頭が真っ白になるほど、DDTの粉を振りかけられ、シラミ退治だったがなァ。気持ち悪ぁれかったがんでな。あの頃は、内風呂も無ぇ家がいっぺぇあったすけにや。だすけ、あの頃、家族で大勢して風呂屋に行くと、銭が掛ったろすけに、三日か四日に一回位しか、風呂へ入りに行かんねかったろすけになァ。手足は、屎搔き棒の垢だらけだったがなァ。女ごの格好はなァ、腰にゴム紐がはいって、尻は太っとく、裾は短か目の、もんぺ型のズボン、靴はズックかゴム靴でねかったかなァ。半数位の女ごめらのカバンは、今ならそこらに、ほげぶちゃってあるような、、ズタ袋に、木の取っ手が付いているのが、勉強道具を入れるカバンだったでなァ。それでやー、俺らァ小せ頃、今と違って、女ごに興味がねかったすけ、良ぉ見てねかったすけ、どんげだったやら覚えてねぇーわい。男めらは、勉強道具を風呂敷に入れて、背中に斜めにして、担いで学校に行ったがんが、大勢いたかなァ。今から見ると、半分位の野郎は、浮浪児みたいな格好だがなー。うーん、うん!春けー。春はなァ、柴山でねっぇ。山持ちの家から、山の木を買い、手鋸で切り倒しながら、山から運びだすがんだわなァ。一年中使う焚き物んだ!、釜戸で、まんま焚いたり、いろぶちで火焚いたりなァ。そいでもやァ、昔の衆は、「はつめ」って言うか、起用だったでー。柴を丸めて、、柔らかげな木で、くるっと回して、挟み込んで、縛るんだすけに。それを山から柴、棚木を積んでリヤカーで何回も何回も、家まで運んでたわなァ。
ほい!春欄漫!四月十九日。朝六時になると、半鐘が鳴り、消防演習だ!分かっているども、半鐘が鳴ると、火事だと思ってやー。おっかねーかった。俺らぁの家の近くによく火事があったすけになー。街中に消防のハッピを着た団員が、ポンプ車を先頭に、行進だがなァ。みんな緊張して、スマシた顔でやー。手もみポンプが、まだあったがやー。公園の池の端で、放水の準備。腕用ポンプの事、俺ら達、手もみポンプって言うったがなァ。 片側に四~五人ばかづつで、ウンセ、ウンセ揉んでたがなァ。水が七、八間位飛んだろっかなァ?演出出番にはなァ、エンジンポンプを前日に、寝ずに調整したがんだろうども、本番には、エンジンの回転が上がらず、「放水やめー!」。ラッパの鳴る頃に、やっとエンジンの回転が上がり、今まではチョロ、チョロ水だったがんが、、ホースの水を上下左右に、辛気焼きまぎれに、ハジキ付けてなァ。あたりはちかんばらこくたいで、見物客も水浸しだァ。エンジンポンプは、ラビットかトーハツのエンジンメーカーがほとんどを占めて、いたなァ。バイクも作っていて、トーハツは、憧れのバイクメーカーだったがなァ。いよいよ、消防自動車の番。紺色の半纏に、地下足袋で、池の上の足場板をとんとんと身軽に渡り、長い木の先に付いている滑車で、丸い五色の短冊が入ったかごを、ロープで引き上げて、的にする。さすが消防自動車だ。赤、青、黄色の色の入った水をはじくと同時に、カゴを弾き飛ばした。やっぱり、力があったでなァ。放水が終わると、団員が整列し、ラッパ隊が、軍隊の進軍ラッパを吹く!「トッテタッタ、トッテター」俺ら達、これを「なっちゃ、屁ふったー、サルマタ切れたー」と歌ったもんだがなァ。 深沢の車池の藪に、掘立小屋を建てて住んでいた「なっちゃ」と言う爺さがいたったがなァ。髪と髭が、白髪交じりで伸び放題。着物は、はだけ、中から茶色になった褌を出して、町のごみ箱をあさり、半分腐った物を拾って食べていた。乞食だわなァ。そのラッパに合わせ、行進だ。何かあると、「なっちゃ、屁ふったー、サルマタ切れたー」って歌うのが口癖だったがなァ。街中の店の前になァ、店の名をいれた宣伝の桃色のボンボリが立ち並んでなァ。賑やかだったがなァ。威勢の良い店屋では、でっかいボンボリの中に電気が入り。夜桜には綺麗だったがなァ。桜にはボンボリだわなァ。池の山側に、町の料理屋三―四軒位が茶屋掛けをしている。外から覗き見出来ないように、中二階建てで、中からは、粋な三味線の音色に合わせ、芸者の唄が聞こえていたがなー。銭もねぇがんに、芸者遊びで、優雅なもんだがなァ。ろくな仕事もしねがんに、昔のおやじ達は、一番威張っていて、今と違い、カカは小いそなっていたがなァ。
陰でカカ、子、青なって泣いていたがんだろうどもなァ。カカや子供に着物の一枚でも買うてやれば、泣いて喜ぶがんになァ。一般のショ達は、桜の木の下、ここは銭が掛らねすけに、一番いいがんだども。うん!兄にゃサ達、タンスから、ナフタリン臭っせ、一張羅を出して着てなァ。首には、紐のように細いネクタイをして、頭には、ポマードをビッチョリ塗りたくり、クシ目もスカーッと入った頭を、七三に分け、カカ貰う時のお見合い写真を一枚撮っておけや、と思う位の男前の仕上がりだ!兄んにゃ、片手に一升瓶ぶら下げ、小脇にゴザを挟み、仲間と連れ合い、ニコニコ顔で花見見物だ。酒なんかなァ、普段一か月の内に、一日、十五日位しか、飲まんねぇすけ、てずから顔が緩むわなァ。オー! これからだー。酒が飲める♪ 酒が飲める♫酒が飲めるどぉー♪四月は花見で、酒が飲めるどぉー♪てなもんだいなー。桜の木の下で、車座になり、大盛り上がりでやー。宴会には、演歌じゃのうて、軍歌だったでなァ。でっけ口を開けて、軍歌を、しゃなくっていたがなァ。軍歌は力強い唄い方だすけに、酒に似合う歌だわい。あっちでは、女ごの腰に手を廻しダンス!こんげ時でもねーば、酒の勢いでもねぇろが、顔赤らめてやァ。あっち、こっちで、大宴会で、何処も彼処もでも、メチャクチャだーい。消防のハッピ着たショ達も、あっち、こっちで飲み始め、酔っぱらって、大声で喧嘩する者、ふっくり返っている者、一年に一度の酒飲み大会だがなァ。俺らァ子めらは、大鳥居の脇にある水飲み場の前あたりの露天商の前で、 「へーい、らっしゃい、らっしゃい、何でも十円、何でも十円、選り取り見取り、何でも十円、二つで二十円、三つで三十円、何でもかんでも十円、持ってけ十円」渋いだみ声の香具師の口上だ。店の前に座っている俺の前に、「持って行け、ほれ」と、水鉄砲を投げた。俺らァ、今でも気が小さいどもなァ、顔を赤くし、蚊の鳴くような小さな声で「ありがとう」と受け取る。俺らァの隣の家の兄ゃさだ。それから、俺らァ達、店屋を色々回り、買い物もし、小使いも少のなったすけに、伸しイカをしゃぶりながら、家の向かう途中、ハッピ姿の消防団員二、三人が、肩を組みながら、酒に酔って、軍歌をしゃなぐり、左右にチョトラ、パタラと道幅一杯に、ジグザグ行進だ!片手にいくらも入ってねえ一升瓶をぶら下げた兄やさも、朝スカッと決めてきたのに。ザンバラ髪に、Yシャツはズボンからはみ出し、胸ははだけ、そこらへんにホゲ転んだのか、泥だらけのズボンだ。一張羅が台無しだがなァ。片一方では、若―け女ごが、ドーボコに、ツッタタルような格好をし、ゲェゲェだ、嫁の貰い手がねぇこてやなァ。酔っ払って、池に落ちて、ビショビショになった仲間を切なげに介抱してるガンもいた。 公園中に、スピーカーから流れる民謡と、酔っ払いの怒鳴り合う怒号で、騒然としていたがなァ。村松公園付近は、酔っ払いの巣となっていた。おう!。悪れ、悪れ、気が利かのぉてなァ。人の呑んだ話しばっかりで。 ほれ!これはやァ、正月に親類の、若け者んが持って来たんだ。「珍しい酒が手に入ったすけに、冷やで呑むといいでぇー」って置いてったがんだ。酒の良し悪しは、冷や酒が一番良―分かるこてやァ。親の小言と冷や酒は、後で効くって言うがんになァ。ほい!呑まっしぇ、何んにものぅてなァ。カカでもいれば、ほんにさなァ、鯛の刺身でも、買いにいかせるがんだどもやァ。コッコでも、かじりながら、空けらればいいねっけ。歯いいろげぇなァ。茶碗酒で悪れども、呑まっしぇー、呑まっしぇー。歯、目、チョンて、言うてなァ。年を取ると段々にあちこち悪ろなってなー。チョンが駄目になって、しばらくするとなァ、お迎えが来る段取りをしねばねぇし、年取ると小忙しい日が続くでぇ。 酒も遊びも、中途半端のショばっかだァ。いつまでも、ピクタラ、ピクタラしてるがんになァ。具合悪―ろなっても、若けぇショ、銭ん稼ぎが忙しいすけやー、年寄りの面倒なんか看らんねぇでぇー。ほんにさァなァ、年寄りの施設にブチ込まれるのが、関の山だこてやァ。体中、管だらけになって、物事が、分かるがんだが、分からねがんだか、目ん玉だけでっこして、アパーンと口開けて、よだれ流してなァ。天井とニラメッコしていてもなァ。始まらねぇしなァ。小便、糞、垂れ流して、考えただけでも、ゾーッとするわいなァ。 また、そうでねば、背中に酸素を担いで、酒の代わりに酸素呑んでか?好きな酒いっぺこと呑んで、好きなこといっぺ事して、お迎えが来たら、呑み残した酒を一気にあおり付けて、パタンと逝かれればいいがんだどもなァ。 うん!。だすけに、いっぺこと呑めてば!ほい、空ければいいがなァ。最近、年取って、一年が、早―えすけになァ。一年なんかアッ!という間だい。頭の半分ボケが入って、毎日朝から晩まで、ボケーと過ごしているすけになー。
旧村松小学校
だすけ、早ぇがんだろーかなァ。年取ると考える事ねぇすけなァ。うん。ま!まァ、がんばらねばなァ。うーん、学校けー。学校は、村松小学校だがなァ。学校は、遊びに行くところだと思い、勉強なんかしので、遊んでばっかしいたがなァ。時間中に背の低い女ご先生が、背伸びして、黒板に向かい、一生懸命何かを言いながら、黒板に棒を差しているが、俺らァ、何にも耳に入らねぇー。ただ黒板の脇にある時計と、窓の外を、交互に正気なく、ぼんやりとながめているだけで。早く終わりの鐘が、鳴らねかなァとばっかし思っていると、小使いの爺サが、「カランカラン」鐘を振ってきた。終わりだ!先生は、まだ黒板に向かって、何か言ってるが、隣の組はとっくの昔に終わり、廊下で騒いでいるがんに。俺らっての先生は、頭の悪れがんを少しでも良く覚えさせようと、一生懸命なのか、早よぉ、俺らァ、遊ばねばねぇすけなぁ。足がバタ、バタ動く。勉強道具をカバンに、ちゃっちゃと仕舞い終わりを待つ!すると、女ご先生が、顔の脇で、両手でパンパンと「終わります。宿題忘れた人、掃除が終わったら、居残って終わって行くように!」先生は、簡単に言うどもなァ、俺らァにも、都合があるがんになー。忘れたがんでねぇがなァ、遊びが忙しょうて、宿題する暇がねかったがんだがなァ。 放課後に、グランド脇の、大きな柳の木の横にある遊動円木か、三角ベースの野球か、ドッジボールで遊ぶつもりだったのになァ。今日は、遊動円木で、ガチャ掛けるつもりだったのになァ。ガチャってけぇー、遊動円木に、背中を丸め小んこなって、取っ手にしがみ付いている奴を、精一杯枠にぶつかるほど漕ぐと、ガッチンガッチャン言わせるがんだなァ。気の小いせい野郎めらや、女ごめらは、お怖っかのうて、傍で見てるだけだったがなァ。その遊びも出来ねかったしやー。学校は仲間がいっぺいて、遊ぶ事がいっぺあって面白しぇかったがなァ。うん!春はなぁー、楽しみな遠足だァ!前の日から、嬉しょうてなァ、眠ぇらんねかったがなァ。勉強をしのて、遊びに行くがんだすけになァ。家ショが、お椀山盛りに、御飯を入れ、真ん中に、梅干し二つ三つ入れ、釜の蓋をひっくり返し、そのうえで、くるくる廻し、丸くして、上下ベチャラッコした、でっけぇ握りまんまの出来上がりだ。それを二つに、夏ミカン1個、それに森永のキャラメルとガム1個を、リュックに入れて、今と違い、賞味期限なんか、ねぇ時代だすけに、キャラメルの紙が剥げのぉてやァ。紙ぐちら、ぼうばって、後で紙だけを、ほき出すすけになァ。 ガムも同じだったがなァ。それでも、歩いて疲れた後はうんめかったわなぁ。
水筒は、軍隊みたいな色で、蓋に方位磁石が付いていたが、使い方がよぉ分からねがんになァ。でっけぇ握りまんま一つで、腹くっちょになり、残った握りまんま一つと、皮が剥けのて食わんねかった夏ミカン一つ、帰り荷物だ、まぁお土産だこて。遠足に新しい靴買って貰ったが、マメを作って足を引きずってなァ、痛とうて歩かんねかったがなァ。いいとこのショのおカカめら、二~三人が良い着物に、羽織をしょって、真っ白い足袋に下駄をはいて、遠足に付いて来ていた。そのカカめら、校長先生に、べったりと、色目を使っていたなァ。カカめら相手に、先生達は、帰りに一杯ってところだ。俺らをダシにして。 うん!疲れ知らずのカカめらだわいなァ。自分とこの子供のために、一生懸命に校長先生や先生達に、愛想を振りまいていたんだがなァ。あの頃は、いいところのショは、先生方に付け届け、いっぺしたがんだろうども。それから、うん!夏は、一番、夏休みだがんになァ。夏休みには、魚釣りに、ドジョウおさいだァ。魚釣りには、城川と九十九曲がりが良く釣れたなァ。「大蛇池は、底なし沼だすけに、近付くとズブ、ズブと池にはまり、動かんのなって、引きづり込まれちゃうぞー。新潟の白山神社の池の底に続いているがんだてやァ」と、脅かされていたから、近くには行がねがったが、池の水は、はっけかった。だすけ、大蛇池は、お怖ねぇところだすけに、あんまり近づかなかった。ドジョウおさいは、俺らァ、下手くそで駄目だった!親ショが、金網のドジョウ網のざるや、ドジョウ入れる小さめの茶摘みカゴを、買ってもらったが、ざるの中に、ドジョウに混ざり、色々な虫がいっぺこと入るのが、気持ち悪ーろて駄目なんだァ。今でも同じで、犬や猫、生き物おっかのうて全部駄目なんだァ。蛭が足に吸い付くとなー、触ればヌルヌル、引っ張れば、伸びるしなァ。やっと取れたと思えば、血が出て、痒よぅてなァ。思い出しても、気持ち悪いがなァ。中学生位になると、いっぺことおさえて、学校町のドジョウ屋(木山屋)へ、売りに行ったがんだども。俺らぁは下手くそで、少ししかか獲れなかったすけに、家のショが、五十円位で、買うてくれたもんだがなァ。それから、夏休みは、水泳ぎだわやなァ。良いところの野郎めらは、親ショと、バスで川内の東光院へ行ったがなァ。
俺らァところは、東光院様と親類だすけに、親ショと行ったども、仲間が一緒でのぉてやァ。 親ショと遊んでても、面白しょねかったがなァ。やっぱり、仲間と矢津の早出川が一番いかったなァ。中学生と自転車に、二人乗りでなァ。 あの頃、一軒に一~二台しか、自転車がねかったがなァ。俺らァとこ、自転車屋もしてたすけに学生野郎めらが、自転車を目当てにして、俺らァを乗せて川へ行ったがんだ。水泳ぎの行きしなに、よその畑から、ジャガイモをかっぱらって持っていくがなァ。川に着くと、土手に自転車を転ばし、タイヤが熱ちょなってパンクしねえように、自転車のタイヤにモチ草を掛けてなァ。あの頃、道路は、まだ舗装してのぉて、砂利道ばっかだったすけに、よくタイヤがパンクし、俺らところみないな自転車屋は、今と違い儲かったんだわなァ。川に来るとき、かっぱらって来たジャガイモと、ヤスで突いたカジカを焼いたがんを貰い、ホウホウいいながら、食ったもんで、うんめかったがなー。中学生の野郎めらと、川の向こう岸から、土手によじ登ると、先に桑畑があり、桑の実の〈かんご〉取りだった。俺らァ、初めて食ったがんだども、かんごの実の小さいぶつぶつの先に、毛みたいなガンが出ていて、何か虫みたいで、ざま悪ろて、食わんねかった。一つ二つ食うたがんだども、どうも気味が悪ろうてなァ。 土手に座って見ていると、中学生の野郎めらが、でっけぇ葉っぱに、かんごを乗せて、持ってきてくれたもんだ。みんなが、口の周り、真っ赤にして、腹ふっとつ食っていたがなァ。俺らァ、炭みたいなジャガイモのほうが、よっぽど良うて、うんめかった。
何に使ったがんだか分からねども、ぼっこれた船が、あっちこっちに何艘かあったがなァ。うん!よっぱら泳いだ帰り道、清水が出ている爺々川、婆々川を越えて、矢津の八幡様の急な坂を登り下がると、佐藤りんご屋の前の家に、つるべ井戸があったなァ。ロープに四角い台形の桶を、天井にある木で出来た滑車に吊るし、井戸の水をく汲み上げるがんだ。俺らァが、しても、桶に水がいっぺこと入らねかったども、水がはっこて、うんめかったがなぁ。りんご屋のショは、俺らァ達のことを、うるさがり、怒られたがなァ。「水を飲まして下さい」って言うがんだどもやー。
あそこは、井戸ポンプで、いっぺこと汲まねぇと、ぬるまっけかったがなァ。あっちこっちで、道草食って帰ったが。家に着くと、疲れて、体がだーろうなってなァ。座布団の上に、ながまっていると、親が心配して、味噌を付けた握りまんまを作ったり、親戚付き合いの近藤菓子屋からパンを買ってきたり、大騒ぎしてたったわいなァ。 俺らァ、小せい頃、ビオタラ、ビオタラして、すぐに具合が悪くなるとすぐに親の知り合いの大手の金子医者が、往診に来たすけになァ。普段は、人一倍元気ながんだども。俺らァ、一人倅だったけなァ、大事にしてたがんだろう。あの頃、へぇ、漫画の月刊誌を毎月取ってくれたり、何でも買うてくれたがなァ。銭もねかったがんだろうどもやー。両親が、亡くなってから、つくづく大事にされてたがんだなァと、思ったが、後の祭りだ。 夏休みも、終わりに近づくと、宿題がなァ、なんにもしてのぉて、困ってしもた。夏休み帳は、隣の中学生の姉が、書いてくれたものを写したもんだ。日記は、そうはいかねぇすけになァ。だすけに、毎日同じ文句だ。「朝起きて、ラジオ体操に行き、朝のまんま食うて、いっぺこと遊び、疲かれたすけに、昼寝をして、夕飯食って、風呂へ入って、寝ました。」ってな書き方でなァ。毎日少しづつ二、三行変えて書いて終わりにしてたがなァ。漢字の書き取りを、帳面に一行づつ同じ文字を書きながら、覚えるようにって、言われてたが、書くだけでって言うよりも、写してるだけだったわなァ。うん!冷蔵庫もねぇ、扇風機もまだねぇ時代だすけなァ。代わりに渋団扇で、裏に店屋の宣伝がかいてあったなァ。店屋が、中元用にくばったがんだァ。手が疲れるほど仰いでも、ちいとも汗が引っ込まねかったがなァ。そげんげ訳で、あんま暑っちょてやァ、店の銭箱から、銭かっぱらって、蒲原鉄道の駅前にあるキャンデー屋で、ボンボンキャンデーを買いに走るがなァ。少し厚めのゴムの風船の中に、ジュースみたいな飲み物を入れて凍らしたキャンデーだ。
硬っとてなァ、氷の固まりだったがなァ。冷っこてなァ。下手すると、ゴムが切れて、落としてしまうと、チャッチャと、家に帰り、井戸水で洗ってなァ、茶碗に入れて、大事に食ったもんだがなぁ。夏休みが終わり、学校へ行くとなァ、男めらが、真黒く日焼けして、大人びた体つきになったようで、眩しく見えたがんになァ。女ごは、少し小奇麗になって、ませて女ごらしく、おしゃまに見えたいなァ。 うん!天高く、馬肥える秋!空が一番綺麗な季節だわいなァ。野には、ススキの穂が揺らぎ、山には、山桜の葉が薄らと色づき始め、田圃には、残り少ない稲がある頃、百姓やの裏のハデ場で、稲こきが始まってる。稲こき機に、発動機のベルトが掛けてなァ。
ポン、ポ、ポン、ボポポボォーって、今にも止まりそうなエンジンの音でなァ。エンジンの上にある冷却水が、沸騰し、浮きが、ピョコピョコ上下してるがなァ。よっぽどの、大百姓でねぇば、発動機は、銭んが高こぉて、買わんねかったがんだろう。こ汚ね手拭いで、ねじり鉢巻きに、キセルで咥え煙草、胸を張って、自慢げなとっつぁが、稲を扱いでいたがなァ。少し離れたハデ場の下で、腰の曲がった意地腐れ気な婆さが、落ち穂拾いをしていたり。そのそばに嫁が青白い顔の額の汗を拭い、姑婆サの顔色を窺いながら、ゴザに寝かしたおさな子に、乳を含ませていたがなァ。姑婆サに、グダ、グダと小言を言われても、とっつぁ知らん顔だがなァ。昔の嫁は、小いそなって、可哀そうだったがんになァ。だすけに、俺らァ、一人留守番して、カカを温泉にやって、大事にしてるでぇ。秋の日は、つるべ落としと言うが、百姓家も、一服なしで働いてるがんだぁ。俺らァ、子めらも、日が暮れるまで、泥だらけになりながら、一生懸命に遊んでいたわなァ。 街灯が、ちいとばかし、しか無ぇかったすけに、日が暮れると、町中真っ暗だがいなァ。おっ!秋は運動会だ。運動会が近付くと、勉強もしのて、毎日毎日練習だったなァ。五十メートル走に出たがんだどもやァ、俺らァ、走る前から心臓が、ドッキン、ドッキン、胸はバックンバックン、足はガクガク、心臓が口から出そうな程、緊張してたわなァ。だすけに、俺らァ、頭がパニくってしまい、スタートが、人より遅くなってなァ。せっかく、親ショが、お稲荷とノリ巻きの寿司に、蓮根と油揚げ、サトイモなど、いろいろ入った煮物や、蒲鉾等が、いっぺこと入った重箱をたがいて、応援にきたどもやァ。
俺らァ、決まりが悪―れかったがなァ。ゲッポのほうばっかりだったすけになァ。 俺らァ、お昼には、親ショが持ってきた重箱の御馳走を食ったがやァ。百姓家の親ショは、稲刈りが忙しょうて、運動会ずらねぇーすけに、子めらは、教室で、先生と一緒にお昼食ったみたいだったなァ。俺らァ、親に似ず走り競争は、遅せかったすけになァ。親は、青年会時代陸上選手で、賞状もあったどもなァ。俺らァ、気が小そうてなァ、駄目だった、走る前から負けていたすけになァ。教室に閉じ込められ、勉強をしんでいかったすけに、いかったども、走るのは遅ーそて、あんまり好きでねかったがなァ。祭りも秋だ!祭りだァ 祭りだァ 豊年祭りー八月二十四日は、横町にある、天神様こと、菅原道真公を祭る天満宮の、とうきび祭りだ。菅原道真公はなァ、頭の良い学者でなァ、醍醐天皇から左遷されて、道真が亡くなった後、平安京で雷などがあっちこっちに落ちたがんだてやァ。天変地異が相次ぎ、落雷で、大納言が無くなったことから、道真は、雷の神で、天神と同一視されるようになり、天神の神として祀られたがんだてやァ。町内の天神様の氏子の年寄り達によう聞かされたがなァ。 祭りの露天でスイカや、とうきびの焼いたガンを売ってるがんで、市でもねぇがんに、珍しいがんだわなァ。 続いては、お住吉様の、高砂を飾った、ちゃんちゃこ婆サ様。鉦に太鼓と笛で、謡い賑やでなァ。神社の前の池には、石亀がいっぺこといたでなァ。
やっぱり祭りは、村松の一宮、総鎮守のお山王様こと、日枝神社の祭りが一番だ。各六、七町内位から、樽神輿に、山車が二台ぐらいでていたかなァ。俺らぁ、横町の若い衆は、芸者の手踊りの山車と、樽神輿だがなァ。俺らァ、子めら男も女も、鼻筋を白く、頬を赤くし、口紅まで塗って、化粧をしてもらい、山車を引っ張ったがなァ。化粧をすると、大人にもなったようで、気分が良かったでぇ。 いろいろな露店は、下町と仲町、上町から寺町まで、ぐぅーっと並び、在からも人が、大勢詰めかけて、賑やかだったがなァ。神社境内には、射的場が並び、カウンターから身を乗り出して、的の人形や煙草を射るが、当たっても、なかなか下まで、落ちなかったがなァ。反対側には、直径四間、高さ三間位の円筒形の中を、バイクで遠心力を利用して、爆音を響かせ、ぐるぐると回る。両手を離したり、片足を上げたり、バイクの音に興奮し、上から身を乗り出して見ていたがなァ。 化け物小屋の前では、 「へーい、そこの坊っちゃんから、お爺ちゃん!お嬢ちゃんからお婆ちゃんまで、さァさァ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい!親の因果が子に報い、哀れにも出来た子どもが、蛇女・・・、今日は感謝の気持ちを込めて、お代はたったの百円ぽっち!百円で買えない価値があるものは・・・人の心とアタシの話し!さァさァ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい・・・」俺らァ、小屋見物よりも、香具師の口上を聞くのが面白しょって好きでなァ。・・・とある日曜日に、中学生のガキ大将、四~五人が話し合いながら、歩き始めたがんの後から、小学生の子めら五、六人位がくっ付いて行くが、袋町と曲川と根木町の十字路辺りに来るとやァ、ガキ大将が、「お前ら、子めら、帰れやァ!面倒見らんねぇぞー!」ゴン平石屋の脇から、学校町の道を渡って、鰐口屋と吉井お茶屋の間を抜けて、幡屋の加藤工場の裏にある、ちいさげなお今神様の脇から崖を、四つん這いでよじ登って、俺らァも野郎めらに、置いていかれると悪れすけに、必死でくっ付いて行ったがなァ。山に上がると、笹藪でなァ。赤土が剥き出しで、高さ四尺位のv字形の溝が、左右にうねっていたがなァ。そこへ来ると、ガキ大将が、「ここは、でっけ大蛇が通った後でなァ。お前ら小せがんなんか、一飲みだぞうー」と、言うてお怖ながらせたがいなァ。俺らァ、お怖ねぇすけに、安全な列の真ん中に、割り込んでなァ。すると、御愛宕様が見え、その脇から、御菊稲荷の前を通り抜け、また山に入ったがなァ。この辺に来ると疲れたが、置いていかれると、一人で家に帰らんねすけに、必死についてたわいや。また、笹藪をこざいて、愛宕山の裏側に廻ると、防空壕の跡があったがなァ。中に入ると、土を切って出来たベンチがあったがなァ。奥行き四間位かなァ。「戦争の時、防空警報が鳴り、敵の飛行機が爆弾を落とすと悪れすけに、ここに逃げ込んだがんだ」と、ガキ大将が、俺ら達に教えていたすけなァ。手で穴掘ったもんだろうなァ。 すると、ガキ大将が、その辺の雑木に絡んでいる、太さ一寸五分位のツルの木を、三、四本折りたたみナイフの肥後の守のナイフを起用に使って切るがなァ。俺らァのナイフより、一回り大きく、刃がピッカ、ピッカに磨いてあり、少し太い木でもスパッと切れたもんだ。あの頃の男めら皆が、ポケットにナイフを入れて歩いていたがなぁ。 そのツルをみんなで担ぎ、横町まで持ち帰って来たがんだ。停車場の近くにある江口お菓子屋の前から、蒲鉄の線路を渡り、建石サの前の小新保川にでるとなァ、洗濯場があったがなァ。
蒲原鉄道本社
横町の近くの女ごショが、子めらのズボンや、おしめを固形石鹸で、ゴシゴシこすくってたがなァ。あの頃は、まだ川が綺麗だったすけになぁ。そこから、すぐ上の辺り、山岸タクシーの裏辺りだろうっかなァ。幅二間半位の川幅だったとおもうが、川の向こう側まで伸びた、太って木の枝を、川の真ん中辺りまで枝によじ登って、担いで持ってきたツルを、木を剥いだ皮で、巻いて縛りつける。さすがガキ大将だわ!ナイフ使いも、何をしても上手でなァ、はつめだったがなァ。 ツルが川の真ん中に、ぶら下がり、ガキ大将が、大丈夫か力いっぱい引っ張ってみてから、ツルにぶら下がり川の反対岸まで飛ぶんだ。「ア~アア~、ターザンまんま食ったかーー」と言いながら、ツルに掴まりながら飛ぶがんだ。小学生二~三人の子めらが、飛べのて川に落ち、長靴からズボンまで、ビチョビチョにして、べそをかいていた。俺らァ、うんめかったでなァ、一発で飛んだすけになァ。勝って嬉しい花一匁♪負けて悔しい花一匁♪って歌が、夕暮れの空に響き渡り、今日一日の遊びも終わりが近付いている!女の子を、銀一匁で売り買いされ、値段を負けさせられて悔しい、安く買かって嬉しいとの歌で、哀れで、悲しい唄だどもなァ。子めらは、何も知らずに元気に、遊び唄っている。「そのまんま、そこに服とズボンみんな脱いで来いや」。長靴からズボン、上着まで、泥だらけだがなァ。「脱いだがん、タライに水汲んで、いれとけやァ。まだ、ぬーれかもしられども、先に風呂入れや」と言われ、傍にくっ付いて世話焼いているがなァ。下流しの端に、煙突がついた、木で出来たセェ風呂があってなァ。セェ風呂の釜はなァ、親ショ自慢の釜で、早よお湯が沸くがんだてやァ。板場を挟んで反対側に、タイルを張った釜戸があって、火口が二つで、真ん中に煙突が屋根の上まで伸びててなァ。毎日、毎日、薪物くべて、まんま焚いたり、風呂沸かした台所だったがんになぁ。そんげ訳で、俺らァが、風呂に入ると、まだぬーろて、尻がはっけねっかやァ!親ショが、自慢の風呂釜にワッツァイをくべると、すぐに熱ちょなってやァ。今度熱ちょなりすぎてなぁ、風呂に水をうめるのが大変だったすけになァ。 ガスはねぇ、水道もねぇ時代だすけになァ。井戸のガチャポンプで水を汲み、バケツで風呂に入れるどもなァ、力が無うてやァ、バケツ半分位しか、持たんねすけになァ。親ショがみかねてやァ、水をうめてくれたったがなァ。昔は何するがんでもやァ、面倒くっせかったがなァ。「よー温まれやー、風邪ひくと悪れーぞぉー」そんげいうたってなァ、熱ちょて、カラスの行水みたいにすぐにあがったがなァ。一段上がって、台所に行くと、いろぶちの火が、燃えのぉて、いぶっていて、煙とて、目はチカチカ、鼻はズルズルでるがなァ。すると、親ショが来て、いろぶちの側のゴザをめくり、付け木を出し、いぶっている火の傍らにやると、ボッと火が付き、付け木けぇー。ほんだなァ、薄せぇ木っぱの先に、燐が塗ってあってなァ、それを細かく割り、いぶっているおきに近付けると、火がボッと点いたもんだわなぁ。子めらが、イタズラしねように、親ショが座るゴザの下に入れといたがなァ。 俺らァ、いろぶちの傍が大好きだったすけになぁ。燃えている火を見ながら、ボケーと何も考えずに、物思いに耽るのが好きだがなァ。 その日も、いっぺこと遊んだし、いっぺこと怒られたどもなァ、毎日毎日がこんげもんだったわなァ。そんげ事いってる内に、みぞれ混じりのしぐれた日が続き、外へ遊びに出えらんのーてなァ。学校町にあった、青い鳥文庫の貸本屋から、借りてきた漫画本も二回も読み直してやァ。まだテレビも無かったしなァ。 雨や雪になると、退屈でだったでなァ。ラジオからは、浪花節の広沢虎蔵が、清水次郎長、石松代参をうなっていたが、俺らぁ子めらには、面白しょねぇてやァ。よっぱらで、よっぱらで、コタツの足にしがまり付いていると、親ショが、映画を見に連れてってくれたりしてなァ。仲町のなァ、角の木村菓子屋の名物のでっけ醤油飴に、三村菓子屋の黄金芋を買うて貰ってなァ。飴がでっこうてやァ、一つ頬張ると、口がふっとつで、何もしゃべらんねぇかった位だったなぁ。黄金芋には、ニッキが入ってポクポクして、うんめかったがなァ。今でも売ってるがんでねぇっか?映画は、大河内伝次郎の丹下左膳や、中村金之助、東千代の宮本武蔵だ。テレビが無かったすけに、いつも若けショと大人で、映画館はふっとつだったがなァ。又、たまに、駅前に加茂屋と言う、白玉粉を造る工場があり、工場の中を改造して舞台を造った芝居小屋があったがなァ。ある時、芝居を観に行った時になァ、千葉は下総の百姓一揆で、将軍に直訴し、張り付け獄門になった、桜惣五郎の芝居には、涙を流しながら観ていたがなァ。今でも鮮明に、頭の中に覚えてるがなァ。後は、人間ポンプって言うて、色のついたでっけぇガラス玉を何個も呑み、体を揺すると腹の中でガチャ、ガチャ音がする。それをお客が言った色から順番に、口から出したり、明りのついた電気の球を呑み、腹の中が、赤く明るくなったりしてなァ。俺らァ、たまげて観ていたがなァ。親が好きだっすけに、映画や芝居は、俺らァをダシにして連れていったがんだわなァ。 芝居小屋は長ーご続かのでなァ、すぐにダンスホールになったが、俺らァ子めらは、用が無かったすけになァ。 そんげことで、たまに雨が上がるとやァ、前の家の廂で、家の中でよっぱらがっていた男めらや、女ご達が集まってきてなぁ。男めらは、ラムネやパッチ、釘立て、女ごは、ジャッキ、手ん毬におはじき、ゴム飛び、外へ出らんねかった分、色々な遊びをしたわなァ。パッチの絵は、相撲取りか野球の選手で、力一杯投げるすけに、地面に手を擦すくり、指先が三倍位でっこなったみたいで、泣きそげに痛とてやァ、「手ぶったー、手ぶったー」って言われてなァ。また、女ご達は、手まり唄の、「あんたがたどこさー♪肥後さー♪肥後どこさー♪熊本さー♪熊本どこさー♪・・・まげちょん」と、唄いながら、股をくぐして、ケツで手まりをとるがんだどもなぁ。飽きもしのて、よう遊んだがなァ。 冬
雪が積もれば、玉こねだなァ。雪を長靴で、丸くこねてやァ。雪玉に上がり、ゲッツくれてやー、ガチン、ガチンに凍らして硬っとして、雪玉と雪玉をぶつけ合い、割れたほうが負けだがなァ。後は、道がキョロン、キョロンに凍ると、スケートを皮のバンドで、長靴に締め付け、道でスケート遊びをしたりなァ。車は、めったにしか、来ねがなァ。ソリを引いた馬が、木材を運んでる位だったがなァ。寒ァもて、寒じた日が、二、三日続くと、屋根の軒先から太っとて、長ぁげぇ、カリンコリンが、ぶら下がっている。その先っぽを折り、舐めりしてなぁ。畑や野原の、誰も歩かない、サラトコでシミ渡りもしたがなァ。まっすぐに何処までも、近道が出来たがなァ。中学生位になると、体が重となってて、ズブズブとぬがったりしたもんだ。うん!雪が降り、嫁取りがあるとなァ。俺らァとこやァ、駅の近くだったすけに、嫁が電車に乗って来ると、嫁に雪玉をぶつけたがんだどもやァ。仲人のカカが、番傘で嫁の頭や顔をかぼうてなァ。せっかく綺麗に化粧した顔だがんだども、婿の家に着く前に、汚されてわなァ。今まで目じり下げ、鼻の下伸ばしていたとっつぁが、青筋立てて、俺ら達子めらを、ぼったくったもんだ。雪玉ぶつけるがんは、祝いの縁起もんだったがんだろうなァ。それとも、若け者が、けなろがってかなァ。うん!ともかく、あの頃は、寒―もてやァ。ほんだこてなァ、部屋に石油ストーブなんか、まだなかったし、コタツが一つだけだがんになァ。戸の建てつけが悪ろてなァ。新聞を挟んだり、ガラスのヒビには、障子紙を張り付けたりしてやァ。 だども、隙間風が、何処からともなく入ってくるがなァ。寝る時でもなァ、煎餅布団に包まって瀬戸物のアンカを抱いて寝るがんだがなァ。俺らぁのがんは、後で蹴っとばすと悪れすけに、寝ると取られたりして、だすけに寒ーもてやァ。
村松駅停車場
今も昔も、この時季は、「春よ来い、早く来い!」ってなァ。春が来れば、花が咲くしなァ。春が一番だ、雪が降る所は。うん!おっ!へぇー、そんげ時間だかァ。日が長―ごなったがなァ。ほれ、へぇ、前の婿どんが、土方から上がって来たわい、婿どん一生懸命だがなァ。家に入る前に、そうでも、姑婆サに口説かってばっかりいるみたいだでぇ。意地腐れ婆サでなァ。爺サが、四、五年前に逝ったすけに、当たるところが無ぇすけに、婿どんに当たるがんだろうなァ。子どもでもあればなァ、良いがんだろもなァ。婆サ、四六時中、目光らせているすけに、子ども造る暇が無ぇこってや。「粉ヌカ三合」って言うたども、今は、来てくれるだけでも、婿は大事にされるがんだども!
うん!ほんだわなァ、暗ろなったなァ。少しくっついてるがん、開けて、終わりにしようかのぅー。ほれ開けらっしぇや、何も無ぉてなァ。茶碗酒で、かえって悪―れかったわなァ。今度また、カカがいる時にでも、呑もでぇー。鯛の刺身とは、いかねたって、何か酒の肴造らせるこてやァ。俺ら達も温泉で、若―け姐ちゃんの酌で、ご馳走ぉー食いに行こわいやぁー。おやおや、帰るってけぇ。うん!外は寒めでなァ。道がツルン、ツルンだねっけ。そこらで、滑って、ほげ転ばねばいいでぇー。気ぃ付けて、いがっしぇのぉー。アイ!休まっしぇやー。うん!帰ったか。ばか寒じるなァ。良いお月さまだ!お星さまが、いっぺことでてるなァ。明日は、天気がいいぞぉー。寒ァめ、寒ァめ、今日は風呂休むかなァ。カカが居ねがんに、呑んで、風呂の中で、中風が出て、のめっくって、浮いていると、具合悪れすけになァ。うん!呑み過ぎたなァ。冷や酒は、旨んめども、効くがなァ。呑んだ後、バラコクタイだども、明日片づけるか。よーし、ふんげさろーかなァ。寝れば、転ぶあず事無かれと言うすけになァ。まァ、休めやー。遠藤じゃねぇか?ENDだァ。やっぱり、邪馬台国民族はおわりだな。
若かりし頃
― あとがき ―
かすむ想いを早送りに、綴り月日が経ち時を得る事が出来たら再び角度を変え語りたいものである
最後の最後まで読みずらい文章に お付き合いいただきお疲れの事と思います誠にありがとうございました。
平成二十年二月
追記
数年前に、書き終えて温めていましたが、意を決し、活字にしてみました。
「呑んべいのむかしの話」
2010年1月1日
発行著者 伊藤 幸一