キムカズの気まぐれブログ Part2

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おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~旧雄和町の風土地名考「種平地区」~

2020-06-14 18:11:30 | 日記
【中川(なかがわ)】
町村制実施当時、戸米川、種平の両村をもって強力な自治体の組織が計画され、村の中央に雄物川があることに因み「中川村」と村名を決定したのが、明治28年分村、戸米川、種平の両村となったものである。

【種平(たねひら)】
合併前の旧村名の種沢の「種」と平尾鳥の「平」を結合させたもので、町村制実施当時の考案村名として、合併村の頭字を結び合せても将来故障(物議)が念慮され、豊かな村を希求祈念して「豊田村」とすること、また雄物川の右岸の村として「川西村」(川が西にあることから)も考えられたという。

【種沢(たねざわ)】
開発当時、畑沢(焼畑開墾地)に真言宗の普門寺という寺があった。
永保3年6月 大降雪の折出火しこのため附近が消雪し秋に籾千升の収穫があり、これを種子として田植えができ生活に安堵を得たことから地名を種ヶ沢に、寺を種水院とし、後代種沢に改めたという。
康平5年 安倍貞任の残党が種沢太郎と称し、種沢城を築く、子孫の元亀年代に豊島玄蕃と相争い滅亡。

【平尾鳥(ひらおとり)】
ショドリ、ヒヨドリと通称、建久年間源義経の家臣熊谷太郎の四男乗秋がこの地に居住平尾鳥式部太夫と称し平尾鳥城を築いた。
六郡御絵図には誤記か「鵯村」とあり、この地の地勢が源平の戦の「鵯越」に似ていることに因む地名かとも連想される。
式部太夫の子孫は永禄年代豊島玄蕃のため亡ぼされた。住古から藩政時まで平尾鳥は雄勝から秋田間の交通の要所で、善知鳥の観音は有名。

【左手子(さでこ)】
佐手子、左出子等と書いたものもある。
サテは扠手で漁獲のヤス、水中で魚を取る道具で、同地の開発は日吉山王宮の縁記に大同元年とあり、当時雄物川河岸にあって扠手を使って漁獲したことに因むものと思料され、子は種沢からの分村を意味し、左に出した子村とも合考される。


出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)




おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~旧雄和町の風土地名考「戸米川地区」~

2020-06-13 17:42:29 | 日記
【戸米川(とめかわ)】
合併の旧村名の戸賀沢の「戸」、女米木の「米」、相川の「川」を結び合せた村名で、町村制実施当時の考案村名として戸賀沢、女米木、相川の各一字を結び戸米川村、女米木と相川を結合させた女米川村、高尾山麓に因み「高麓村」(たかふもと)とも考えられた。

【相川(あいかわ)】
雄物川も川添にある銅屋(どうや)と高埜(こうや)を併せ、合川、相川としたともみれるが、同地方の開拓者鳥海家の祖の前住は元雄勝郡須川村相川(現湯沢市)で故郷の地名をとって相川村としたとも伝承。

【女米木(めめき)】
住古高尾山(鷹雄山、鷹尾山、高雄山)を竜頭嶽と呼び山麓の里を竜頭村といったが、白石の善五郎の娘の米子を略奪した夜叉鬼に因んで米女鬼村となり、藩政時に女米木に改めたという。
なお、高尾山縁記には、宝亀年代(770年代)には龍頭村、大同2年(807年)女米「米女」鬼村に改め、更に慶長7年(1601年)に女米木村としたとある。

【戸賀沢(とかざわ)】
女米木の地域でこう荒撫地だった当時、雄物川河畔の河原を浜と見立てて外ヶ浜といい、その後開田に伴い一の集落を構成し外ヶ沢に改めたが、各戸の生活の富裕を希求祈念し「外ヶ」(とが)を「戸賀」の文字に改めたもの。
現住の先祖の土着は戦国時代ともいうが、片田の西方善知鳥坂の地名等から原住民が住んでいたでないかとの伝承もある。
藩政時代には18戸の集落で、これ以上戸数が増加すると村が衰微するとの言い伝えがあり極力増加を避けたという。
宝暦5年(1755年)の検地帳が現存していると伝えている。
藩政時代の「六郡郷村誌」とまた明治初年の「羽陰温故誌」に「此村より女米木に来る道傍に石あり長4尺丸9抱程中うつろなり其空中に名付け難き形の石あり花を立る穴二つ三つあり人呼んで神とし仰く元山沢に有りしを不思議として数人を以て此処に移し立つといへり色薄赤く又白き石なり奇なり雅石といふべし」とあるが、この奇石は詳かでないが、旧戸米川小学校敷地の道路向側の字金山沢17番1に所在している。


出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)


おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~旧雄和町の風土地名考「大正寺地区」~

2020-06-12 17:30:36 | 日記
【大正寺(だいしょうじ)】
鎮守の元郷社新波神社は住古荒波明神(または地主明神)といった。
仏教興隆時に大聖不動明王を合祀大正寺と改号、当地方の鎮守とし、教育及び宗教の中心とされ以来大正寺は当地方の象徴となり自然に地方的名称となった。
文治2年 陣代安東氏は大正寺太郎と、応仁年代新田氏は大正寺兵衛尉と名乗り、慶長年以降藩政時には大正寺郷(大正寺6ゕ村、下川大内1カ村、亀田6ゕ村、大沢郷3ゕ村、強首村1ゕ村、計17ゕ村)と呼称し(現在でも近郷近在では新波神社を大正寺の不動様と称している。)町村制実施によって、新波、向野、繋、神ヶ村、碇田、萱ケ沢の6ゕ村を合併して古代からの総称地名をとり大正寺村となったものである。

【新波(あらわ)】
新波、荒和、新和村と旧記にあるが、明治初年新波村となった。
鎮守を新波明神と称し、延暦の頃新波の玉岐という士族がおり、広徳年由利の八陣代に新波小太郎の名がある。
アイヌ語でアラパとは水によってものを運搬することから出た地名、新波神社を現地に遷宮するとき一天俄かにかきくもり大雨沛然、山川草木鳴動して新波磯に打ちくだくかごとくとも伝え、慶長の最上義光分限帳に大正寺郷新波村とある。

【向野(むかえの)】
川向の平野地帯の意からの地名で、延歴年代に開拓されたが度重なる雄物川の氾濫により荒撫地化したものを寛文初年に再び開拓したものである。
当時は新和新田と称したが享保16年向野村として独立したものである。
源藤太郎(げんどうたろう)…雄物川河岸の下流地域、藩政時代雄物川を大正寺川といい、関東の利根川の坂東太郎の異名になぞらえて地名としたもの。

【繋(つなぎ)】
秋田の古代駅路(由理の柵と秋田間)の白谷駅(繋字西の沢槽館)は奈良時代の天平宝字年代に水駅として交通の要所で水陸を結ぶ地点からの地名、稲城郷のなまり、神社縁記の通波(つなみ)の転訛等考えられる。
慶長の最上分限帳には大正寺郷繋村とある。

【神ケ村(じんがむら)】
神社縁記には、社前の川上の意から神上村とある。
地域に産土神と氏神が22社も奉祀され神ヶ村の名に応わしく、西方の高峯「神岳森」は住古山岳高山信仰時代に崇拝したと伝えその麓の里から地名となったものと推料され最上分限帳に大正寺郷神ヶ村とある。

【碇田(いかりだ)】
地域の中央部を迂曲する河川を堰堤でせき止め、灌漑水としている。
淀み水、碇り水によって耕作する田に由来するか、最上分限帳に大正寺郷猪狩田とあり、猪の狩場を連想するが稲刈田の当て字で、また碇田村とも書いているが後代碇田村と改めたものという。
明治9年 大台地区を萱ケ沢に分離編入した。
なお、クネソエに鎮座の釜大神社の正徳5年(1715年)の奉造棟札に「伷理郡亀田領飯田村」とあり、また文化3年(1806年)再建棟札には「碇田村」、「飯穫田村」等と書かれている。

【萱ケ沢(かやがさわ)】
開拓前、萱の繁茂したことから萱沢と称したもので地名的に大きな意味がない。
日吉山長円寺は延歴年代、鷲泉寺は康応年代の創建、最上分限帳に「萱沢」とあり一般も萱沢と通称しており、明治初年萱ケ沢としたもの。
中ノ沢は天正年代の開拓、元和9年の記録に中ノ沢の地名がある。


出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)


おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「旧雄和町商工会」の歴史~

2020-06-11 16:22:42 | 日記
本町の商工業の振興を図ることを目的とした商工組合の創設は、商工業者の最も多い大正寺地区の新波商工組合が昭和23年4月で、任意組織であった。
戦時中から終戦時にかけて物資の統制と中小企業整備のため転廃業等によって新波の商店街も単に店舗を持っているというに過ぎなかった状態だった。
設立当時の組合は、中元、歳暮の共同売出し、新波公園の整備、組合員の親睦等が主な事業であった。
昭和26年頃から生活関連諸物資の統制が撤廃され、自由販売が可能となったことから商品も徐々に増え、交通網の整備と共に産業経済圏の範囲も拡大、商店の経営規模も徐々に拡大された。
戸米川、種平、川添各地区の商店も新波商店界(大正寺村)と同様、商工業者の伸長がはかられていった。
昭和28年3月 国民金融公庫から運転資金を第二次、第三次と導入するようになって中小企業融資償還組合を併置した。
斯くして大正寺地域の商店が加入するようになったので大正寺商工会に改組、河辺地区でも大きい商工会組織となった。(創立以来会長佐藤利一郎)
昭和35年 商工会の組織等に関する法律に基づいて発展的に解消して、8月雄和村商工会を組織、設立認可12月15日、設立登記昭和36年1月26日、商工業者数243、小規模事業者数240、会員数210(商業147、工業12、サービスその他業51)事務所を石田字上大部(町役場)に置き、役員は正副会長、理事20名、監事2名、職員3名でもって運営されている。
事業内容は、「「地域商工団体としての総合的な経済団体」と「小規模事業者の指導団体」としての両面の性格を持っているが現在後者を主要事業に、小規模事業者の経営改善のため通産省の認定経営指導員を設置、金融、税務、経営、経理、労務等の経営の全般について相談、またこれに関連した各種講習、講演、研修会等を専門家を招いて随時開催。
町ぐるみ、地域ぐるみの振興をはかるための商店街診断、産地診断の実施。
商工業に関する情報の提供、商工会活動の連絡会報、各種資料の発行、消費の動向調査、経営調査を実施し経営の指針とする。
各種事務代行、珠算検定試験の実施(年3回)。
小規模共済制度加入の促進。
貯蓄共済制度の加入促進。
商店街活動と中元歳末大売出しの開催。
商工会の意見の公表と町、県等に対する具申、建議等である。

商工会の現況
本町の商工業者は220戸で、全戸数の11%を占めており業者は各に散在しているが、集落地帯の新波、椿川地区は各種業者の店舗によって小都市的な形態をなしている。
業種別では、食料品を筆頭に菓子、たばこ、呉服用品等の小売店となっているが、呉服用品店、自転車店を除いてはほとんどが各種の商品を取り扱っている。総売上高は推計年額9億円である。
町内の商工業者の総合的な改善発達をはかるための組織として35年8月1日商工会が設立され、当初は金融の斡旋を主とした事業であったが36年8月国、県の指導により経営改善指導員を設置、会員の経営診断、各種講習会を開催、経営指導にあたった。
更に従来の各店舗ごとの中元、歳末大売出し等は商工会が主体となり連合売り出しを実施し、過当競争を避け経営の合理化に努めている。
なお今後町の観光資源の開発にともなって商工業、サービス業の発展が期待されている。


出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)、及び秋田県商工会連合会発行「秋田県商工会史」(平成7年発行)


おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「雄和の産業(水産)」の歴史~

2020-06-10 22:18:22 | 日記
本町の漁業は雄物川、岩見川の鮭、鱒、鯉、八ツ目、ウグイ等で、鮎は岩見川で獲れた。
鮭は明治初頃までは盛んに獲れ、藩政当時は亀田藩に於ける名物の一つで、藩は役人を向野に派して移出を禁じ「子篭り」等の製法により連年幕府にも献上した。
維新後の明治10年代まで、漁獲千本祭の供養塔が4、5本も雄物川の河畔に建てられたが、その後鉱業が発達するに従い河川の汚濁によって漸減した。
大正11年、県営の岩見川孵化場を設け稚魚の放流を行ったが河川改修に伴って不漁となり漁業不振のため閉鎖された。
岩見川の鮒狩は、本田橋から下流の芝野橋までの区間が豊漁で、附近は勿論秋田市などから多数の釣漁家によって賑わったが、これも河川改修によって名物の鮎狩は昔物語となった。
大正末期から昭和の初期に向野に鮭の孵化場設置の企画等もあったが、放流と漁獲に適切な支流がなく単に計画に終わった。
各地区内の池沼等で養鯉が行われたが自家用程度のもので、従前の記録統計によれば僅少生産額となっている。

現況は、雄物川の中流部、下流部で僅かに八ツ目、ウグイ等、またまれに鮭も獲れているが専業者はなく、副業の種類にも入らない所詮趣味的な漁獲程度のものである。
各地区では池沼等の利用による養鯉が行われている。
また女米木の高尾山麓の自然冷水資源を活用して漁業生産による地区産業の開発を目的として昭和48年9月7日同地区玉竜寺住職三戸大恇ほか8名が、水産業協同組合法に基づいて県知事の認可を得、女米木冷水魚漁業生産組合を設立したのである。
この組合は組合員の共同出資と県および町補助金をもって、宇宝生口の玉竜寺裏側に養魚池と孵化場、調整水槽等を施設し、象潟町の同業組合から、ヤマメ、ニジマスを移入して49年度には孵化を実施、自己養殖を行うほか県内養殖業者に分譲している。

出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)