秋田市雄和町が生んだ石井露月は、俳人として正岡子規に学び「秋田に露月あり」といわれるほど、その才覚と人格を兼ね備えた故郷の偉人です。
明治32年に故郷「女米木」に帰ってからも活動は続けられ、中央からもたくさんの俳人が露月を訪ねてこの地を訪れています。
まさに雄和にとってかけがえのない偉人です。
しかし、私たちがここで考えなければならないことは、俳人としての石井露月は多くの人に知られ理解されていますが、地域教育や青年指導の面でも多くの功績を残していることも見逃すことはできません。
そこで、故郷の偉人「石井露月」の功績を、「郷土の石井露月(雄和町連合青年会発行)」から出典し青年指導の面に焦点を当てて研究してみたいと思います。
明治6年5月17日 常吉の次男として出生
明治26年10月 露月は20歳のとき、秋田中学を中退して文学者を志して上京した。
早稲田大学教授であった文学者坪内逍遥を訪問して教えを乞うたが断られ、浅草の沢医院の薬局生となり何とか三食を過ごすことができた。
明治27年4月 正岡子規に認められ「小日本」編集局に入ることができた。
「小日本」の記者として子規の指導を受けて、俳句の道に進んだ。
しかし、やがて露月は重い脚気にかかり、千葉の方へ転地療養したが、全快せず、病気を癒すことが先ず大切だと考え、せっかくの文学も断念して帰郷せざるを得なかった。
師の正岡子規は、露月の才能を惜しみ、思い留めようとしたが、露月はきかなかった。
明治32年12月1日 露月27歳のとき、医師となることを心がけ、前期、後期の試験に合格し女米木に石井医院を開業した。
明治37年1月 露月は村の経済環境を丹念に調査し、記録している。
当時の貧困している村から脱皮するためには、経済事情を根本から知らなければならないという考え方からであった。
調査書には、人口、土地、及び年間に消費する物品、冠婚葬祭、ありとあらゆるものを調査し数字に表している。
衰えた村の経済面を救うために「その日暮らしの生活」と題して将来を思う文を残している。
〇 今日あるを知りて明日あるを知らぬ者あり、明年あるを知らぬ者あり、十年あるを知らぬ者あり、百年知らぬ者あり。これを「その日暮らしの生活」という。
〇 明日あるを知らば明日の計を為すべし、明年あるを知らば明年の計を為すべし、十年あるを知らば十年の計を為すべし、百年あるを知らば百年の計を為すべし
〇 明日の計ありや?
明年の計ありや?
十年の計ありや?
百年の計ありや?
経済、文化の更生策を図るために村を精神的に統一させることをねらいとし、手始めに青年の教育が重要視されるのである。
露月の青年団活動は、大別して「露月文庫(女米木文庫)」と「夜学会」の二つに力を注いだようである。
明治36年9月 「露月文庫」の創立
校友会に河辺郡長から17部18冊の図書を贈られたのを機会に、女米木小学校長(当時)荒木房治先生と二人が中心となり設立した。
秋田県立図書館の創立が、明治32年で全国でも4番目と早いが、それから4年後「露月文庫」が誕生した。
「露月文庫」が青年団に果たした役割というものがどれくらいなものかはかり知れないが、この時代に図書館が皆無の河辺郡に一つの灯を灯した意義は大きい。
青少年育成のために図書活動の実践と、文庫創立の機運を盛り上げようとした露月の熱意と心境をうかがうことができる。
明治42年11月 「夜学会」の創立
青年団事業の中に夜学会を催し、自ら無報酬で指導にあたり、今でいう学校の補習教育のようなものであった。
正式な名称は「女米木青年団夜学会」という。
主な科目は、修身、国語、算術、実業科で、露月のほかに荒木房治校長や女米木小学校の先生たちも指導にあたった。
会期は11月1日より翌年の3月31日までで、毎月1と6の日を会日にしていた。
夜学会には常時35人はいたという。
露月が夜学会を催したことで、村の青年達に読書と勉学の機会を与えたことと、もう一つ「人間のあり方」「青年としての生き方」なるものを語ったことが挙げられる。その一つに「恥じよ 働け 怒るるな」ということばがある。これは後に露月の青年指導の最も重要な柱になっていくのである。
「恥じよ 働け 怒るるな」ということばは、青年団活動の基本的な理念として打ち出され修養上の指標とされた。
明治45年5月12日 団員のための会規ともいうべき「法三章」を定めた。
一、恥じよ
二、働け
三、怒るるな
一は、自己反省であろう。不正不義なことをしていないか、怠けていないか、天を仰いで、身にやましいことはないか、ということである。
二は、勤労賛美である。
三は、正しいことには、何人も恐れず前進せよとの励ましにちがいない。
「女米木文庫」においての読書、「夜学会」においての勉学、いずれも農村教育の原点は青年期にあることを露月は徹底的に教え、指導したのである。
そのことは、当時としては他に例を見ない新企画であり、まさに露月は農村文化運動の推進者、指導者であった。
子規が露月に宛てた手紙によると、「芋を君の村で初めて植えたという程なら君の村はまだ開けていない。恐らく小学校もないであろう。もし小学校があるなら、高等学校はないであろう。子供は学校に行かないで鼻たれているのが多いであろう。そこで僕の考えるには君には大責任がある。それは君は自ら率先して村を開かねばならぬ・・・」と続いている。露月の村の発展への努力は子規のこの手紙が大いに影響していることにちがいない。露月はただ有閑な趣味をもてあそび暮らす俳人ではなかった。真の文学者が持つ社会的理想と善意に燃え、ひそかにその郷土の向上に心をくだく実践家であり、指導者であったことを再確認したい。
昭和3年9月 逝去 享年56歳
出典:雄和町連合青年会刊「郷土の石井露月-ふるさと運動のおける露月の研究-」(昭和54年10月発行)
明治32年に故郷「女米木」に帰ってからも活動は続けられ、中央からもたくさんの俳人が露月を訪ねてこの地を訪れています。
まさに雄和にとってかけがえのない偉人です。
しかし、私たちがここで考えなければならないことは、俳人としての石井露月は多くの人に知られ理解されていますが、地域教育や青年指導の面でも多くの功績を残していることも見逃すことはできません。
そこで、故郷の偉人「石井露月」の功績を、「郷土の石井露月(雄和町連合青年会発行)」から出典し青年指導の面に焦点を当てて研究してみたいと思います。
明治6年5月17日 常吉の次男として出生
明治26年10月 露月は20歳のとき、秋田中学を中退して文学者を志して上京した。
早稲田大学教授であった文学者坪内逍遥を訪問して教えを乞うたが断られ、浅草の沢医院の薬局生となり何とか三食を過ごすことができた。
明治27年4月 正岡子規に認められ「小日本」編集局に入ることができた。
「小日本」の記者として子規の指導を受けて、俳句の道に進んだ。
しかし、やがて露月は重い脚気にかかり、千葉の方へ転地療養したが、全快せず、病気を癒すことが先ず大切だと考え、せっかくの文学も断念して帰郷せざるを得なかった。
師の正岡子規は、露月の才能を惜しみ、思い留めようとしたが、露月はきかなかった。
明治32年12月1日 露月27歳のとき、医師となることを心がけ、前期、後期の試験に合格し女米木に石井医院を開業した。
明治37年1月 露月は村の経済環境を丹念に調査し、記録している。
当時の貧困している村から脱皮するためには、経済事情を根本から知らなければならないという考え方からであった。
調査書には、人口、土地、及び年間に消費する物品、冠婚葬祭、ありとあらゆるものを調査し数字に表している。
衰えた村の経済面を救うために「その日暮らしの生活」と題して将来を思う文を残している。
〇 今日あるを知りて明日あるを知らぬ者あり、明年あるを知らぬ者あり、十年あるを知らぬ者あり、百年知らぬ者あり。これを「その日暮らしの生活」という。
〇 明日あるを知らば明日の計を為すべし、明年あるを知らば明年の計を為すべし、十年あるを知らば十年の計を為すべし、百年あるを知らば百年の計を為すべし
〇 明日の計ありや?
明年の計ありや?
十年の計ありや?
百年の計ありや?
経済、文化の更生策を図るために村を精神的に統一させることをねらいとし、手始めに青年の教育が重要視されるのである。
露月の青年団活動は、大別して「露月文庫(女米木文庫)」と「夜学会」の二つに力を注いだようである。
明治36年9月 「露月文庫」の創立
校友会に河辺郡長から17部18冊の図書を贈られたのを機会に、女米木小学校長(当時)荒木房治先生と二人が中心となり設立した。
秋田県立図書館の創立が、明治32年で全国でも4番目と早いが、それから4年後「露月文庫」が誕生した。
「露月文庫」が青年団に果たした役割というものがどれくらいなものかはかり知れないが、この時代に図書館が皆無の河辺郡に一つの灯を灯した意義は大きい。
青少年育成のために図書活動の実践と、文庫創立の機運を盛り上げようとした露月の熱意と心境をうかがうことができる。
明治42年11月 「夜学会」の創立
青年団事業の中に夜学会を催し、自ら無報酬で指導にあたり、今でいう学校の補習教育のようなものであった。
正式な名称は「女米木青年団夜学会」という。
主な科目は、修身、国語、算術、実業科で、露月のほかに荒木房治校長や女米木小学校の先生たちも指導にあたった。
会期は11月1日より翌年の3月31日までで、毎月1と6の日を会日にしていた。
夜学会には常時35人はいたという。
露月が夜学会を催したことで、村の青年達に読書と勉学の機会を与えたことと、もう一つ「人間のあり方」「青年としての生き方」なるものを語ったことが挙げられる。その一つに「恥じよ 働け 怒るるな」ということばがある。これは後に露月の青年指導の最も重要な柱になっていくのである。
「恥じよ 働け 怒るるな」ということばは、青年団活動の基本的な理念として打ち出され修養上の指標とされた。
明治45年5月12日 団員のための会規ともいうべき「法三章」を定めた。
一、恥じよ
二、働け
三、怒るるな
一は、自己反省であろう。不正不義なことをしていないか、怠けていないか、天を仰いで、身にやましいことはないか、ということである。
二は、勤労賛美である。
三は、正しいことには、何人も恐れず前進せよとの励ましにちがいない。
「女米木文庫」においての読書、「夜学会」においての勉学、いずれも農村教育の原点は青年期にあることを露月は徹底的に教え、指導したのである。
そのことは、当時としては他に例を見ない新企画であり、まさに露月は農村文化運動の推進者、指導者であった。
子規が露月に宛てた手紙によると、「芋を君の村で初めて植えたという程なら君の村はまだ開けていない。恐らく小学校もないであろう。もし小学校があるなら、高等学校はないであろう。子供は学校に行かないで鼻たれているのが多いであろう。そこで僕の考えるには君には大責任がある。それは君は自ら率先して村を開かねばならぬ・・・」と続いている。露月の村の発展への努力は子規のこの手紙が大いに影響していることにちがいない。露月はただ有閑な趣味をもてあそび暮らす俳人ではなかった。真の文学者が持つ社会的理想と善意に燃え、ひそかにその郷土の向上に心をくだく実践家であり、指導者であったことを再確認したい。
昭和3年9月 逝去 享年56歳
出典:雄和町連合青年会刊「郷土の石井露月-ふるさと運動のおける露月の研究-」(昭和54年10月発行)