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河辺雄和の偉人「石井露月」に学ぶ地域教育、青年指導

2020-06-23 12:45:11 | 日記
秋田市雄和町が生んだ石井露月は、俳人として正岡子規に学び「秋田に露月あり」といわれるほど、その才覚と人格を兼ね備えた故郷の偉人です。
明治32年に故郷「女米木」に帰ってからも活動は続けられ、中央からもたくさんの俳人が露月を訪ねてこの地を訪れています。
まさに雄和にとってかけがえのない偉人です。
しかし、私たちがここで考えなければならないことは、俳人としての石井露月は多くの人に知られ理解されていますが、地域教育や青年指導の面でも多くの功績を残していることも見逃すことはできません。

そこで、故郷の偉人「石井露月」の功績を、「郷土の石井露月(雄和町連合青年会発行)」から出典し青年指導の面に焦点を当てて研究してみたいと思います。

明治6年5月17日 常吉の次男として出生

明治26年10月 露月は20歳のとき、秋田中学を中退して文学者を志して上京した。
早稲田大学教授であった文学者坪内逍遥を訪問して教えを乞うたが断られ、浅草の沢医院の薬局生となり何とか三食を過ごすことができた。

明治27年4月 正岡子規に認められ「小日本」編集局に入ることができた。
「小日本」の記者として子規の指導を受けて、俳句の道に進んだ。

しかし、やがて露月は重い脚気にかかり、千葉の方へ転地療養したが、全快せず、病気を癒すことが先ず大切だと考え、せっかくの文学も断念して帰郷せざるを得なかった。
師の正岡子規は、露月の才能を惜しみ、思い留めようとしたが、露月はきかなかった。

明治32年12月1日 露月27歳のとき、医師となることを心がけ、前期、後期の試験に合格し女米木に石井医院を開業した。

明治37年1月 露月は村の経済環境を丹念に調査し、記録している。
当時の貧困している村から脱皮するためには、経済事情を根本から知らなければならないという考え方からであった。
調査書には、人口、土地、及び年間に消費する物品、冠婚葬祭、ありとあらゆるものを調査し数字に表している。
衰えた村の経済面を救うために「その日暮らしの生活」と題して将来を思う文を残している。
〇 今日あるを知りて明日あるを知らぬ者あり、明年あるを知らぬ者あり、十年あるを知らぬ者あり、百年知らぬ者あり。これを「その日暮らしの生活」という。
〇 明日あるを知らば明日の計を為すべし、明年あるを知らば明年の計を為すべし、十年あるを知らば十年の計を為すべし、百年あるを知らば百年の計を為すべし
〇 明日の計ありや?
 明年の計ありや?
 十年の計ありや?
 百年の計ありや?
経済、文化の更生策を図るために村を精神的に統一させることをねらいとし、手始めに青年の教育が重要視されるのである。

露月の青年団活動は、大別して「露月文庫(女米木文庫)」と「夜学会」の二つに力を注いだようである。

明治36年9月 「露月文庫」の創立
校友会に河辺郡長から17部18冊の図書を贈られたのを機会に、女米木小学校長(当時)荒木房治先生と二人が中心となり設立した。
秋田県立図書館の創立が、明治32年で全国でも4番目と早いが、それから4年後「露月文庫」が誕生した。
「露月文庫」が青年団に果たした役割というものがどれくらいなものかはかり知れないが、この時代に図書館が皆無の河辺郡に一つの灯を灯した意義は大きい。
青少年育成のために図書活動の実践と、文庫創立の機運を盛り上げようとした露月の熱意と心境をうかがうことができる。

明治42年11月 「夜学会」の創立
青年団事業の中に夜学会を催し、自ら無報酬で指導にあたり、今でいう学校の補習教育のようなものであった。
正式な名称は「女米木青年団夜学会」という。
主な科目は、修身、国語、算術、実業科で、露月のほかに荒木房治校長や女米木小学校の先生たちも指導にあたった。
会期は11月1日より翌年の3月31日までで、毎月1と6の日を会日にしていた。
夜学会には常時35人はいたという。

露月が夜学会を催したことで、村の青年達に読書と勉学の機会を与えたことと、もう一つ「人間のあり方」「青年としての生き方」なるものを語ったことが挙げられる。その一つに「恥じよ 働け 怒るるな」ということばがある。これは後に露月の青年指導の最も重要な柱になっていくのである。
「恥じよ 働け 怒るるな」ということばは、青年団活動の基本的な理念として打ち出され修養上の指標とされた。

明治45年5月12日 団員のための会規ともいうべき「法三章」を定めた。
一、恥じよ
二、働け
三、怒るるな
一は、自己反省であろう。不正不義なことをしていないか、怠けていないか、天を仰いで、身にやましいことはないか、ということである。
二は、勤労賛美である。
三は、正しいことには、何人も恐れず前進せよとの励ましにちがいない。

「女米木文庫」においての読書、「夜学会」においての勉学、いずれも農村教育の原点は青年期にあることを露月は徹底的に教え、指導したのである。
そのことは、当時としては他に例を見ない新企画であり、まさに露月は農村文化運動の推進者、指導者であった。
子規が露月に宛てた手紙によると、「芋を君の村で初めて植えたという程なら君の村はまだ開けていない。恐らく小学校もないであろう。もし小学校があるなら、高等学校はないであろう。子供は学校に行かないで鼻たれているのが多いであろう。そこで僕の考えるには君には大責任がある。それは君は自ら率先して村を開かねばならぬ・・・」と続いている。露月の村の発展への努力は子規のこの手紙が大いに影響していることにちがいない。露月はただ有閑な趣味をもてあそび暮らす俳人ではなかった。真の文学者が持つ社会的理想と善意に燃え、ひそかにその郷土の向上に心をくだく実践家であり、指導者であったことを再確認したい。

昭和3年9月 逝去 享年56歳



出典:雄和町連合青年会刊「郷土の石井露月-ふるさと運動のおける露月の研究-」(昭和54年10月発行)


おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「河辺の発電所の興亡」~

2020-06-18 17:41:40 | 日記
岩見川は急流で、水量が豊富である。
この豊富な水を利用して明治30年代から40年代にかけて4つの発電所が建設されている。
明治の後半から大正、昭和の初め頃までこれらの発電所が、河辺町地域に与えた影響はいろいろな面で少なくない。
三内川発電所以外は詳しい資料に乏しいが、発電所のなりたちなど沿革をひも解いてみることもわが町の歴史を知るために必要なことと思われる。

【三菱発電所】
明治30年4月15日 三菱合資会社が荒川鉱山に電気を供給するため、岩見川に発電所を設置することになった。
これに伴い岩見川の流水を使用することついて、岩見三内村に願い書が出され村会にはかられて、灌漑用水その他関係住民の使用に支障がないということで承認された。
この流水使用について三菱から村に対して年間100円の水利用のための料金を、使用が継続される期間中支払われることになった。
当時村の年間予算は2215円(明治31年当初)ほどであり、村の収入として相当の額であった。
岩見川最初の発電所は岩見字穴渕の附近に「三菱第二発電所」として明治30年に起工し、同34年に完成したのである。
注(三菱第一発電所は仙北郡荒川地区に、喇沢発電所として明治30年に完成している。)
当時はまだ秋田市にも電灯が点灯されていないころであり、風が吹いても消えないランプとして評判が高く、見学者が多数訪ねて来たという。
第二発電所は荒川鉱山が休山になる昭和15年まで創業した。

【第3発電所】
明治37年 岩見字小平岱に「三菱第三発電所」が建設された。
水の取水口から発電所まで、板(栗材、桧材)で作った水路が延々と続き、発電機は一本の圧力管により回転していた。
この発電所は岩見三内にある三つの三菱発電所の中での最も最後まで使用され、荒川鉱山の休山後は畑鉱山へ売電し、更に昭和21年には岩見電気協同組合(鵜飼、新川、小平岱、福田、東の五加入)が買収し、組合直営の発電所になった。
戦後間もない電力事情が悪化するなかにあって、当時これらのでは安い電力を豊富に使い、東北でも最も電化が進んだ文化的地域として名声を博したものである。
しかし年を経るに従い設備が老朽化し、加えて水路の破損、機械修理費の増大、更に電力料金の延滞などから経営困難となり、昭和36年に廃業するに至った。

【第四発電所】
明治45年 鵜飼の大又川に設置された。
この発電所は昭和21年畑鉱山への送電が中止されるに及んで閉鎖されるに至った。
岩見三内から荒川鉱山への送電線は、第二、第四発電所は協和町船岡の庄内を通り、第三発電所は船岡の猫の沢近くを経由して荒川鉱山へ送電されていた。
当時の送電線に使用される電柱はほとんど木柱で、峠や深い谷を越える部分のみ鉄塔であった。
発電所が廃止されてからすでに40年が経過し、往時この谷深い山里にエネルギーの先端をゆく発電事業という華やかな文化をもたらした三菱発電所の跡地は、その場所すらもわからぬ過疎の草深い空地となっていることは往時を知っている人々にとって一抹の寂しさを感じさせるものがある。

【三内川発電所】
明治41年 帝国鉄道院が土崎に鉄道工場を開設するにあたり、その動力源として三内川に水力を利用した発電所を作ることを計画した。
この計画に基づいて明治37年頃より、鉄道作業局において発電所建設予定地の調査が進められていた。
最初測量隊が調査したのでは、いまの発電所跡の位置より奥地約6キロメートル上流で、深渕沢に設置し、さらにその上流約4キロメートル、黒渕(井出舞沢と本流の分岐点)に堰堤を設置することに決定していた。
ところが明治40年 富士能農技師一行が再度来村して調査をした結果、藩政時代に萱森野開拓のため灌漑用水路としてこのあたりを計画し、地理的な困難から放置したという経緯なども参考にして、最終的には現在農林漁業資料館のある旧発電所の位置に決定し、帝国鉄道院土崎工場三内川発電所として認可を受け、明治41年4月から工事に着工したのである。
発電所の建設では特に水路工事が困難を極め、第一期工事は熊谷組(熊谷貞之助-関東の人)が、工費15万円程度で落札し、約1か年間工事を担当し、堰堤より俗称鳥沢までの区間、2600メートル附近まで進めた。第二期工事は大島組(大島養蔵-福島県の人)が、工費約13面円で落札して工事を継続して施工したのである。こうして2カ年の日数を費やし、延長3300メートルの水路が完成したわけである。
この間、水圧管や発電室等の建設も進められ、当時水車と発電機2台が設置された。
この発電機はドイツのシーメン・シュケルト社の製品で、水車はスイスのイッシャー・ウイッシュ社製のものであり、当時は舶来品といわれ、人々の目をみはらせたものだという。
こうして明治44年4月16日、3年5ヶ月の工期と、総額45万円にのぼる工費を費やし、東部鉄道管理局三内川発電所として創業したのである。
その後土崎工場の規模が漸時拡大され、設備も増加したため電力需要も伸び、大正11年7月3日水車と発電機各一台が増設され、この機会は水車が東京電業社より、発電機は芝浦製作所と国産のものが使用されている。
そして昭和10年以降から土崎工場の規模がさらに拡張され、作業量も著しく増加するようになったため、昭和13年3月31日、東京電業社と芝浦製作所の水車と発電機各一台が増設されて総出力800KVAの電力が、土崎工場はもとより、秋田駅構内にも送電したのである。
こうして明治44年以来、国鉄三内発電所として親しまれ、電力供給はもとより、地元河辺町にも大きな役割を果たしてきた発電所も、電力需要の変動や、国鉄経営合理化のため、昭和46年3月31日に廃止され、その六十有余年の歴史を閉じたのである。

発電所が廃止されるとともにその跡地と建物はまちに払い下げられ、発電機は寄贈された。
町では三内川発電所の操業を物語る発電機の保存と歴史を伝えるため、機械を中心に古い民具や農林作業用具を集め、旧発電所跡地に「農林漁業資料館」を建設し、かつての職員官舎の一部を改装して、現在「老人福祉センター」に利用しているのである。

【岩見ダムと県営岩見発電所】
県の岩見ダム建設計画のスタートは、昭和43年から始められていた。
「洪水と干ばつ、この二つを防ぐのが岩見ダムのねらいである。」岩見川流域の水田2960ヘクタールは、たび重なる洪水で荒れ、その一方、水田面積が広いため干ばつ時には水争いを繰り返してきた。
これを解消するとともに、国土の保全、灌漑用水の確保と産業発展のため、ダムを利用して発電を行うという、多目的に設計されたのがこの岩見ダムである。
ダムの造られた地点は、役場から約20キロ、旧三内川発電所の取水用堰堤より上流約300メートル、筑紫森山麓の岩盤をせきとめ、堤高(ダムの高さ)66.5メートルの重力式コンクリートダムで、県内では北秋早口ダムに次いで8番目にできる。
このダムに水を貯めるとその湛水面積95万平方メートルは、県営球場(17000平方メートル)の53倍の広さで、1930万平方メートルの総貯水量は、秋田市上下水道量の約200日分に当たるといわれている。
昭和54年 竣工式を施工。
岩見ダム建設は、予備調査以来10年の歳月と、総額110億円の巨費を投じて完成した。

ダムはすべて最新の近代的な施設、設備によって管理され、ダムの水源となる財の神国有林、73平方キロメートルの集水地内に設置された雨量計は、常時自動的に記録され平常時の流水量は勿論、洪水の際刻々に増大される流水量も、コンピュータによって計算され、応急の対策が講じられるシステムになっている。
そのほか、ダムの周辺はもとより、下流沿岸の状況もテレビカメラによってとらえられ、水の放流や緊急の場合における指示や伝達が、対岸数カ所に設置された警報装置を通して行われているのである。



出典:河辺町発行「河辺町史」(昭和60年10月発行)




おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「旧河辺町商工会(商工業)」の歴史~

2020-06-17 22:44:29 | 日記
藩政時代から大正の末ころまでは岩見川を利用した、川舟での人や物資の輸送が盛んだった。
特に豊富な森林資源を原料とした木炭・いかだによる秋田杉の丸太・まき・平野部の米などが大量に運ばれていた。
大正13年からは国有林で伐採された秋田杉を運搬するため、岩見三内・和田間に森林軌道(トロッコ)が運航されこれら物資の輸送の主役となった。
また、岩見川は急流で水量が豊富でこの水を利用して明治30年代から40年代にかけ4つの発電所が建設され、明治の後半から大正・昭和の初めごろまではこれらの発電所が河辺町全域に与えた影響はもとより、秋田県工業の発展にも大きな力となった。(「河辺町史」による)

昭和10年1月1日秋田県和田村町制施行記念紙(昭和9年12月31日付魁紙)には、和田商工会の広告が載っている。
今野喜栄堂、伊藤寅松商店、石井商店、細谷天真堂、大川薬舗、鎌田喜三郎商店、加賀谷商店、竹屋呉服店、高橋自転車店、高源組、熊谷農具店、松田金松堂、金喜左衛門商店電話三番、佐々木菓子舗、三福酒店、進藤精米所、高津時計店、太平堂の18店の名が見える。
いつ頃からいつ頃まで存在したのか、岩見三内や現雄和、川添の一部を含んだ「在」が広くあったはずだし、商業組合や業種組織などは今後調査にまつこととしたい。

町の商業が活発な活動を始めるようになったのは戦後の経済復興が軌道に乗った昭和26年以後で、商工会組織の第一号は同30年5月岩見三内村中央部の商店が中心となり、消費者の拡大とサービスの向上を目的に任意加入による「商栄会」の創設。
これと前後して和田に「和田商工会」、豊島村に「商盛会」ができその目的の主たるものは岩見三内の商栄会と同じで、お盆や歳末の共同売出し、会員の研修・親睦などであった。

こうして戦後の経済統制の撤廃や、交通機関の発達にともない経済圏も徐々に拡がり、一方では各自商店の経営規模もひろがり、やがて大きく商工会組織へと伸展していった。

昭和33年3月に和田町・岩見三内・豊島村が合併し河辺町の誕生により、商工業の振興に力が注がれ、各商店の経営規模も広がり商工会組織へと伸展した。

昭和35年に商工会法が制定され、同36年に各地区の商工会組織を発展的に解消し、同年8月に「河辺町商工会」が新しく発足(会員263名)し初代会長に岡部正徳(酒類販売)を選出した。
その目的は、町内における商工業の総合的な改善発達を図り、あわせて社会一般の福祉の増進に努めるとともに、国民経済の健全なる発展に寄与することを目的とする。とうたわれている。



出典:秋田県商工会連合会発行「秋田県商工会史」(平成7年発行)、河辺町発行「河辺町史」(昭和60年10月発行)

おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「旧雄和町商工会」の歴史(その2)~

2020-06-16 21:53:24 | 日記
河辺郡川添商業組合総会7月19日(大正14年)椿川事務所で通常総会を開催した。
本稿は大正14年7月19日魁紙の総会記事であるが、何回目かの総会なのかこの稿だけからは不明である。

また藤細工研究会、産業経済研究会などつまり、前述した川添の商業組合と二本立てで動いてきた模様である。

大正7年新波神社を中心として「講中」が設立されたという記録もある。

新波は雄物川の舟運によって、大正寺、戸米川地方は亀田(岩城町)をしのぐ程の町勢だったというし、上・下大川・大内・岩谷の一部、淀川の一部、この大正寺・戸米川つまり新波で経済をまかなっていたという、交通の要衝であった。
明治から大正中頃までは商家軒を並べ、一つの小都市形態を呈していたともいう。
明治初年から10年代にかけて、牛馬商、旅人宿、30年代に行商、理髪業、新波、椿川に開業、大正に入り戸米川、種平に提灯、煙管(きせる)の羅宇の取替え屋が、大正初年薬種商が大正寺に創業したという。

木材の集散地で木挽業、駄菓子、木綿、雑貨、酒、米屋、人力車、理髪業など明治末から大正にかけて、開創業、大正末羽越線の全面開通によってこれまで大内町からの物資は総て岩谷、本荘に搬出され大正寺の商業は急激に不振となった。

戦時中の統制・企業整備によって商家は激減したが、現在は活気を新しく呈し、昔日をしのぐ状況となった。

戦中には、商業組合があったはずだし(配給などの実施機関として)戦後は昭和23年の新波商工会の組織化であろうから大方はこういう流れであろう。

雄和町史年表には、昭和28年大正寺商工会組織、昭和23年新波商工会組織とあるが、県立図書館の資料では大正寺地区新波商工組合昭和23年4月任意で出発、中元や年末大売出し、新波公園の整備や親睦など昭和28年になると国民金融公庫の償還組合など、その後大正寺商工会に改組、更に雄和村商工会にと記述されている。

昭和31年11月15日付、秋発商第196号に係る全県市町村長あての照会文書によれば、
「雄和村大正寺商工会(河辺郡雄和村新坂-事務所の所在地)会長佐藤利一郎。会員数61名、創立年月日昭和30年4月21日、なお、対象事業所数257となっている。

昭和35年、商工会法の制定に伴い、同年8月31日、雄和村商工会を設立(加入会員158名)。初代会長には佐藤茂一郎(発起人代表)を選んだ。


出典:秋田県商工会連合会発行「秋田県商工会史」(平成7年発行)




おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~旧雄和町の風土地名考「川添地区」~

2020-06-15 18:37:57 | 日記
【川添(かわそえ)】
町村制実施当時、合併の旧村(椿川、田草川、芝野新田、下黒瀬、平沢、石田、妙法)は雄物川、岩見川の川添に立地していたことから「川添村」としたものである。)
どこの町村でも新町村名の選定には住民の意見が多く、当局者も慎重で、また頭の痛い問題でなかったろうか。
当時旧村の椿川、田草川、芝野新田、下黒瀬、平沢(石田、妙法を含む)の各代表者が昼食持参によって熟議を重ねること一週間、第一次案は各代表が自村名を新村名としたいと主張して譲らなかった。
次案は、抽籤によって各村名の一字を結合させてはとの意見となったが「椿田新瀬平村」という長い珍名となり、これも対外的にどうかとの異論が出てまとまらない。
そこで更に明日改めて参集の動議に川向の下黒瀬の代表から、夜間渡舟の困難に加え徒らに日時を空費するものとして苦情が出されたことからいささか会議も感情的となり、下黒瀬の分離論に及ぶ始末、いやこれまでの7ゕ村合併の支持論等でかなり緊張した場面に、代表の一人が立って7ゕ村とも雄物川と岩見川の川添の村々であり、この際「川添村」としてはとの発言に、最終はいと簡単に僅か三分で満場一致新村名が採択されたものだったと物語が残されている。

【椿川(つばきがわ)】
ツバキは植物の椿と崖(ツバケレは崩る意)の二義がある。
ここの場合は後者で、南方の小河川に添うた集落から椿川の地名としたもので現在河川名は安養寺川という。
昔は「津波岐」と書いている。
永正年代白華城主豊巻備中守の支砦として津波岐館を築き石塚美濃守を配備南の警固としたが永禄年代亡ぶ。

【田草川(たくさがわ)】
タは土地、クサは草原、採草地で、藩政時までは芝野新田とともに雄物川の流路で、河状の付替から川原草原地となり、開田、河川の改修により、地名にそぐわない現状である。

【芝野新田(しばのしんでん)】
シバは芝草、ノは原野、採草地、新田は文字どおり新開田で、田草川と同じく昔は雄物川の流路、藩政時下流の河川の付替により開田が行われ、また河川の改修から今は地名にそぐわない現状で、シバは新発田の新発にも通ずる地名。
なお、開拓地の地名には古代、中世、近世名があって、ここ芝野新田は近世の開拓地名とされている。

【下黒瀬(しもくろせ)】
上黒瀬、楢田は下浜に下黒瀬は川添村にと(地名辞書)ある、クロはフルと同言語で二語化したもの、クロは畔で小高い所の意で、瀬(セ)は早瀬、セセラギ、下黒瀬は雄物川の河岸の段丘でかつては砂、砂利等の川原、平水時は川床が露出し、増水時に浅瀬をなしたが去る昭和22年の大洪水後河床が変動してその面影は見られない。
元和8年 領地交換により亀田藩領となり、当時の交通は境界の山嶺だった。
下黒瀬は亀田藩の内越の黒瀬村との区分説もあり、明治4年亀田県に編入後秋田県の区域となり、旧に復し川添地区となったものである。
なお小字の黒瀬沢に因む集落の総称地名のようであり、「瀬」は「谷」の書替か、雄物川は、藩政時の改修前は対岸(右岸)の芝野新田付近で右折して、東北方小阿地下に曲流していたもので、曲流部の迫るところからの「迫」(せ)=鹿児島県の黒の瀬戸は昔時薩摩の迫門(せと)とある=でないかとも想像され、現状は藩政時に至って小山、石名板間に雄物川の新川を開墾して直流をはかり、急流となったもので、文字どおりの「瀬」であり、課題地名である。

【平沢(ひらさわ)】
ヒラは一般に平坦地、傾斜地で、サワ(沢)はここの場合雄物川に流入する小河川の意ともいうが、耕地の区分整理後の現状では沢とみることは至難であり、対岸にある字水沢の沢との結合地名との連想される今である。
永正年間白樺城主豊巻備中守が対岸水沢の筋脇に館を築き白根七郎昌吉を配備し警固させた。
永禄年代落城、清水館を後日白根の氏姓をもって白根館としたという。

【石田(いしだ)】
イシは礫でタは一般に土地または耕地をいう。
雄物川の右岸沿に現在は立派に水田化されているが、地下2~3米で水があり、地質は砂利層という。
かつては雄物川の流路であったとも推定されている。

【妙法(みょうほう)】
六郡郷村誌、羽陰温故誌に妙法地村とある。
享保年代に日蓮宗の妙法等(尼寺とも伝える。)字槐下の山腹に庵寺の跡地が伝えられており、この妙法寺に因む地名も廃寺に伴い「寺」を省略し妙法としたものである。
の氏姓は全部金家で宗家は水戸から佐竹藩主移封年代に移住を伝え、兄は銅屋に土着。



出典:雄和町発行「雄和町史」(昭和51年6月発行)