切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

勝福寺・・・親鸞上人旧蹟   京都市上京区    2022.12.28 訪問

2023-01-07 21:38:36 | 撮影


『勝福寺 (親鸞聖人旧蹟)

 寺伝によれば、当寺はもと「清水庵」、「一條坊」と呼ばれ、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人(一一七三〜 一二六ニ)が一時期住居とした旧蹟である。親鸞聖人は布教のため関東にて約二十年を過ごしたが、故郷の京都に戻ってきたのは、六十歳を過ぎた頃といわれる。帰洛後は主に「教行信証」(親鸞の集大成的著作) の補筆完成に精進すると共に、都での教化活動にも 力を注いだ。帰洛後の住まいについては、洛中を転々としたが、嘉禎二年(一二三六)に一条附近にあった清水庵に居住したという。
 当寺に残る「御生骨縁起」によると、この寺で教化している時、親鸞聖人の歯が抜け落ち、
「秋はつる 落葉は冬ぞ いざさらば
  無量寿国の春ぞ なつかし」と一首詠んだ。
四季の移ろいの中に自らの老いを重ねるというその歌に感動した弟子の真仏房平太郎は、聖人に対し、形見に歯を所望したところ、聖人はその願いを聴きいれ、自ら彫った木像を共に与えた。それが当寺に伝わる「落葉の尊形(親鸞像)」であり、その由来である。
 永正十六年(一五一九)に本願寺第九世の実如上人は当時の一條坊善正に対し、「当寺が親鸞聖人の重要な旧蹟であること、また落葉の尊形を子々孫々大事に保管せよ」と書状を与えている。
 京都市』  (駒札より)



 勝福寺は京都御所の西側約1 km ほどのところに位置する。周囲は古くからの住宅街であり、全体的に低層の建物が並んでいる。

  その細い通りに沿って駒札があり、すぐにわかる。比較的立派な山門が構えていて、細い産道を境内に入る。しかし内部は全体的に狭い敷地の中に、小さな庭と本堂などの建物があり、かなりな由緒があるお寺だとは気づきにくい。

 境内の庭はかなり狭く、それでも綺麗に整備されていて雰囲気は非常に良い。本堂などの建物は比較的最近、再建されたような非常に綺麗なものだ。

 

 寺の創建については詳細は不明なものの、親鸞聖人が晩年の一時期をこの寺で過ごしているということによって、遅くとも鎌倉時代初期には創建されていたことになる。ずっと後年の応仁の乱や天明の大火等によって、おそらく被害を受けていると思われるが、移転したのかどうかは分からない。しかしこのお寺において、親鸞聖人自身が「教行信証」の仕上げを行っていると言うことは、かなり大きな意味があると言える。
 法然による浄土宗の起こりと、そこから親鸞達による浄土真宗の広がりというのは、当時の日本全国にも極めて大きな影響を与えた。専修念仏の行いは、特に忙しく無学で貧しい農民たちの間にたちまちのうちに広まり、後に日本全体に大きな影響を及ぼすことになる。その親鸞の教えが、この小さなお寺で深められていったということは、改めて勝福寺が果たした役割も評価されるべきだろう。

 

 なお本尊は阿弥陀如来立像。これは平安中期の作といわれ、恵心僧都が彫ったものだと伝わっている。だとすれば本来ならば、重要文化財でもいいのではないかと思われる。なぜか文化財指定は行われてはいない。

 

 画像の中に「惣門徒の墓」という石柱があるが、これは鎌倉期から室町期にかけて力をつけてきた農民たちが、各村落において団結して苦難を乗り切るために作られた、一種の自治組織が「惣」と言われるものだ。
 武士が実権を握り全国支配においては、各藩の大名、そして守護や地頭が置かれ、また荘園領主も隷属農民を使って年貢の取り立て、その他を行わされる土着農民はきわめて厳しい生活に追い込まれる。そんな中で一人一人が苦しんでいるのではなく、村落の中で一つの共同体組織を作り、今でいう一種の町内会のようなものを自分たちで運営し、田畑の管理、水の管理、その他生活共同体としての役割を持たせるようにした。時にはそれが徳政一揆や土一揆などにつながり、成果を上げるケースも見られるようになる。主に今の京都や大阪、奈良あたりで盛んになったものだ。
 しかし室町時代以降、南北朝にかけて武士の争いは激烈さを増し、農民は共同体すらつぶされていくことになる。そのうち「惣」という組織は有名無実化していくことになる。だが歴史上において、農民たち自身が自らこのような組織を立ち上げ、相談し合い団結し合って自らの生活を守り高めようとした活動というのは、極めて注目に値すべきことだったと言える。


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