切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

大専寺・文相寺・・・鳥羽伏見の戦い  京都市伏見区   2023.1.16 訪問

2023-01-21 23:03:56 | 撮影
大専寺



 大専寺は京阪本線淀駅の南方にある。近くには淀城址があり、周囲はごく一般的な住宅街だ。真宗大谷派の寺院であり、地域の信仰に支えられたお寺だと言える。
 立派な山門は鉄筋コンクリート製。そこをくぐるとすぐ目の前に本堂がそびえるが、これも近代的な鉄筋コンクリート製の比較的最近再建されたもののようだ。境内も特に古さを感じさせないような雰囲気であり墓地が広がる。
 こうしてみると一定の歴史はあるものの、建物などの劣化により全面的に建て替えられたお寺ではないかと思われる。

 

 しかしこのお寺には、一般的にはあまり知られていないが、「戊辰役東軍戦死者碑」と彫られた石柱が立っている。つまり戊辰戦争の最初の戦いとなった、「鳥羽伏見の戦い」の舞台となったこの地域で亡くなった東軍、すなわち旧幕府軍の人たちを弔うために、一部の遺体がこの寺に葬られ、その碑が立てられているということだ。山門前に駒札も何もなく、また境内にそのようなものがあるということも紹介されていないので、知らなければ普通のお寺だなということで終わってしまいそうだ。
 今から百数十年前の明治維新期の出来事であり、日本の歴史が大きく変わった転換点の事件だ。そういった意味では、歴史的にも極めて大きな意味を持つだけに、そこで亡くなった人達の碑があるということ自体が貴重なことであり、今現在も当時に立てられたままの状態で存続しているということを、もう少し知らしめても良いのではないかと思えた。

   (左から2番目の細い石柱が「戊辰役東軍戦死者碑」)



文相寺

 

 文相寺は京阪本線淀駅の南方にある。上記の大専寺からすぐ近くだ。このお寺も山門が鉄筋コンクリート製であり、山門をくぐると目の前の本堂も、やはり比較的新しく建て替えられた鉄筋コンクリート製の、近代的なものだ。境内は決して広くはないが、やはり古さをあまり感じさせない。そういった意味では近くの大専寺と似たような雰囲気を感じる。こちらにも墓地が広がり、地域のお寺として地域の人々の信仰を集め存続してきたお寺だと思われる。創建等の詳細については分からない。

 

 文相寺にも境内の一角に、「戊辰役東軍戦死者埋骨地」と彫られた碑が立っている。やはり戊辰戦争における最初の戦いである、鳥羽伏見の戦いで東軍である幕府軍の戦死者が多数出ており、その遺骨がこちらに埋められたということだ。ここの碑も百数十年前当時の碑がそのままの形で残されている。
 この寺も大専寺同様、この件についてはどこにも説明がない。教えられなければ見逃してしまいそうなただの石柱にしか見えない。やはり山門になんらかの説明があっても良いのではないかと思われた。
  


* 戊辰戦争


 江戸幕府の解体から明治新政府の成立に至る、明治維新期の様々な混乱の日々を通して、日本は幕藩体制から天皇を中心とする中央集権国家として、資本主義社会に移行していく。その過程の中で当然、旧幕府軍の勢力は抵抗を示し、新政府樹立派の薩摩・長州・土佐藩などの勢力との間に戦いが勃発する。これが京都の、「鳥羽伏見の戦い」であり、軍勢としては旧幕府軍が優勢であったにも関わらず、イギリスの援助を得た薩長側が少ない兵力でありながら旧幕府軍を倒した。その結果、京都のこの一帯においては大勢の戦死者が出て放置されることになる。見かねた各お寺の住職たちがその遺体を葬り墓石を立てて弔った。後世にそのことを伝えるべく、墓石や石柱にそのことが記された。
 この戦いをきっかけに戊辰戦争が起こる。江戸へ逃げ帰った徳川慶喜を追う形で、薩長側が江戸方面を攻撃し、さらには旧幕府軍の勢力であった東北地方にも戦いは広がっていく。こうして次第に旧幕府軍が各地で敗退し、最後は函館の地で果てることになる。これらの戦いを戊辰戦争と呼んでいる。
 こうして江戸城は陥落し、新政府が誕生して明治という時代になり、日本は天皇が統治する中央集権国家として、欧米の科学や文化を取り入れながら、新国家として近代国家として歩むことになっていく。


コメント (1)
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