切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

妙光寺・村上天皇村上陵拝礼所・・・非公開   京都市右京区   2023.1.17 訪問

2023-01-22 22:51:14 | 撮影
妙光寺



『妙光寺

 妙光寺花山院師継が長子忠季の夭折を悼み、別業を寺となし、弘安八年(一二八五)法燈国師を開山に迎えた。国師は入宋して無門彗開禅師の法を継ぎ、味噌醤油の醸法をもたらした。また、本朝普化宗の祖でもある。
 建武、嘉吉の二度、三種の神器が奉安され、神器の間がある。亀山、後醍醐、後村上の三朝勅願の寺で南朝と縁が深い。至徳三年(一三八六)十刹の一つとなる。応仁の乱後は荒廃したが、臨済宗建仁寺派となり、寛永十六年(一六三九)中輿開山三江紹益和尚の下で豪商打它公軌が再興した。万冶三年(一六六〇)には後水尾院の御幸があった。内壁に印金を総貼りした歌聖堂は世に印金堂として知られ、与謝蕪村が句を残している。
 維新の際に勤皇の志士の密議の場所となり、天章和尚の工作が明治政府成立の原動力となった。俵屋宗達の「風神・雷神図屏風」はもと当寺にあり、文政期に建仁寺に移された。山内には陶工野々村仁清の墓がある。
   京都市』  (駒札より)

 

 妙光寺は宇多野地域の北山の裾にある。すぐ隣が宇多野小学校。臨済宗建仁寺派のお寺であり禅寺ということになる。したがって基本的には観光寺院という位置づけではなく、修行僧たちの学習や修行の場となるのが筋だろう。普段は非公開であり、何らかの機会に特別公開されることがあるようだ。

 

 創建は鎌倉初期であり、かなり長い歴史を誇る。一時はかなりの勢いで栄えたが、後年応仁の乱で荒廃する。このお寺で最も有名なものは、「風神雷神図屏風。」もちろん俵屋宗達の筆による。国宝に指定されているこの屏風図は今現在は、建仁寺にあるが、かつて建仁寺を訪れた時に、この屏風を拝観したことがある。しかし特別拝観であっても、そこに展示されていたのはレリプリカだった。歴史的にもあまりにも貴重なために、本物は厳重に管理されており、特別公開といえども本物を見ることはできない。教科書にも例外なく掲載されているので、誰もが一度は写真などで見たことがあるはずだ。レプリカと言えども、公開された実物大の屏風図は見事としか言いようのないものであり、本来これは妙光寺が保管していたものだ。

 

 また重要文化財として、黄地花入菱花鳥文唐綾九条袈裟を所有しており、建物も方丈が京都市の指定文化財になっている。
 訪れたこの日は予想通り閉門で、内部には一切入れず。したがって塀の上から、あるいは門の入口の所から見える範囲を写真に収めるのが精一杯。方丈の屋根などが少し見えた。方丈庭園も素晴らしいと言われるが、無論一切見ることはできない。境内そのものも極めて風情のある歴史を感じさせるものだと言われるが、これもほとんど見えずじまいだった。
 何らかの特別公開の機会があれば、是非とも訪れてみたいお寺の一つだ。

  


村上天皇村上陵拝礼所



 平安時代中頃の第62代天皇である村上天皇の墓所とされている。村上天皇が歴史の舞台の上で大きな役割を果たしたというものは、一般的には聞かない。醍醐天皇の皇子であり、母親は藤原氏の出身だ。平安時代と言えば当然、貴族の藤原氏が実権を握っており、天皇もその中で安泰の地位についていた。

 

 しかし奈良時代から平安時代に移り、奈良時代初期に制定された律令制度も、平安時代になると貴族の上層部は堕落しきって遊び呆けており、下級貴族だけが忙しい思いをしていたそんな時代だ。そのために藤原氏による治世も緩みはじめ、あちこちでほころびが見え始める。同時に疫病の流行や災害等も重なり、藤原氏共々天皇の政治も行き詰まりを見せていた。そんな中での天皇に即位するというのは、ある意味極めて困難な立場に立たされることにもなる。やはり比較的若くして即位した村上天皇においては、政治の立て直しは極めて難しく、以降平安時代後期には、野武士があちこちに出現し、世の中の治安も悪くなる一方であった。そんな中に武装農民から野武士となった一団が様々な争いを始め、次第に世の中は物騒になっていく。

 こうして後に武士団があちこちで結成され、藤原氏は滅亡への道をたどり、鎌倉幕府の成立へ至るということになるのだが、村上天皇に限らず、平安時代中期以降の天皇たちにとってみれば、厳しい時代であったということは言うまでもない。
 

 村上天皇は若くして亡くなったが、その後、陵墓が作られ、ずっと後年になってそれがどこにあるのかがわからなくなったと言う。そのあたりの事情の詳細についてはわからないが、江戸時代に幕府が調査を行ったものの、やはり分からなかったということのようだ。明治時代に今現在の村上陵が村上天皇の墓ということにされている。

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